辻堂にあった断食道場で2週間の断食を経験したことがある、今から48年も前のことだが記憶に留まっている。
とにかく考えることは食べることばかりで、会話も何が食べたいかに終始する。新宿綱八の天ぷらが食いたいとか、新鮮なミルクが飲みたいとか、辻堂の駅前までを散歩しながら喫茶店のショーウィンドウに目が釘付けになるなどいい年をした青年が食い物のことに執心する。体調を整えることや精神的な何かを得ることが断食の動機だった、未熟な若者特有の悩みがあったのだ。
この断食道場で山中さんに出会った。彼は睡眠薬中毒を断つために来ていた。若いときに結核で肋骨摘除手術をしていて術後に不眠で睡眠薬に頼るうちに中毒になったのだ。睡眠薬中毒は危険なのだ、気が大きくなりとんでもないことをしでかす恐れがあるという、自分で睡眠薬中毒の自分を持て余してしまうのだ、睡眠薬が支配している間は街でヤクザと肩を触れ合っても平気で立ち向かうのだという。
二回りも年上の山中さんとはよく話をした。なにせ時間はたっぷりとあるのだ、時間をやり過ごすのが日課なのだ。
山中さんは同和運動にもかかわっていた、同和の発祥が差別とは全く関係のないところから始まっていることを私に教えてくれる。彼はその活動のために時々東京に出てくるので、東京のうまいものを知っている、たとえば新宿の綱八の天ぷらの味を話してくれる、それも私の食欲を刺激することを密かに楽しむいたずらっ子のように。
この断食道場で二人の女性と知り合いになった。最初に話しかけてきた女性とはそのうちに疎遠になった。二番目に知り合った女性との時間が増えだすに連れて引いてしまったようだ。私は二人の女性と話をすることが楽しかったのだがうまくいかないものだ。このお年頃は嫉妬がからんだ交友になってしまい等距離交際は不可能なのだと知った。
山中さんにそのことを相談すると「君はなんにもしらないのだな、そんなことは当たり前だよ」と笑いながら教えてくれた。
山中さんとはその後に二番目に知り合った女性との新婚旅行で数泊させて頂き、旨いものをふんだんに食べさせて頂いた。そのときに山中さんは二番目に知り合った女性と結婚すると予感したという。空海の弟子の末裔たちは予知能力に優れているのだ。どうしてだと理由を聞いたら二番目に知り合った女性の作った俳句が気に入ったからだという。「現世(うつしよ)を しばし灯さん 能の舞」この句で山中さんがころりとこの女性の虜になった、だから私と結婚すると予感までそう結びつくのか、要は山中さんは二人を気にいってくれていたということなのだ。
仮に最初に話しかけてきた女性とつきあっていたらどのような人生を送っていたのだろうとふと空想に遊んでみると、パラレルワールドへの好奇心は人間の好奇心のなかで最も強く、これが物語の根源かもしれないなと山中さんに出会えたことを感謝しながら思う。