紀野一義生誕100年を記念して
宮本正男
はじめに
それでも私たちはやはり、生涯、愛する人の名を呼び、お念仏し、お題目して生きてゆくしかないのですね。 「ええなあ!という人生」
学者でもなく、僧侶でもない、市井に生きたひとこそ法華経について学び、書かなければならないと思い続けてきた。法華経を読むとはなにも膨大な知識を理解することではない、市井に生きる人は生活しなければならない、家族を養わなければならない、社会に参画して生きなければならない、だから必要十分な少しの知識でよい、それでこそ本当に法華経を読んだことになると思い続けてきました。
紀野一義(気持ちの上からは紀野一義先生と書きたいのだが、著作の慣習として紀野一義と記すことをお許しください)は寺の息子に生まれて僧籍を持ちながら、東大印哲を卒業するも学者にも僧侶にもならず仏教伝道者としての生涯を送りました。
紀野一義の東大印哲時代の指導教官であり共著もある中村元は、法華経は世俗の生活のままで究極の境地に達し得ると次のように述べています。
「ここには世俗の生活のままで究極の境地に達し得るという思想が表明されている。おそらく伝統的な教義学者たちには、こういう思想を表明したくなかったであろう。しかし、こういう思想の存在したことを隠すことはできなかったのである」中村元 釈尊
2008年のある日にわたしは電車のつり革広告を眺めていて映画「ハートロッカー」が眼に入り、爆弾処理に従事する男が主人公だとの解説でにわかに懐かしい紀野一義を思いだした。
20代にさまざまな人の講演を聞いた。升田幸三、紀野一義、加藤登紀子、中根千恵、吉田健一郎、糸川秀夫、幸田文、西堀栄三郎、田中聡子各氏の話は面白くて50年以上経った今でも記憶に残り、話を聞いた場所まで一体となって脳裏に浮かぶ。そのなかで紀野一義の講演はひときわ印象に残りその後の人生を励まし続けてくれました。
1968年にNTTの学園(当時電電公社中央学園 調布市入間町)の講堂で紀野一義の講演を聴いたのが最初で最後、一期一会の出会いだった。氏は当時46歳、暖かい人柄を感じさせる語り口で20代前半のわたしたちに話し、受講生は非常に大きな感銘を受けた。講演を終え講堂を出るときには一人の(そんなタイプではない)先輩が眼を赤くしていたのが印象に残っています。
その講演で氏は戦中の台湾で爆弾処理をしたこと、船酔いに打ち勝つにはゲロを再度飲み込む荒業、戦後ようやく帰国すると家族は広島の原爆で全滅していたこと、帰国後に姉の嫁いだ寺で幽霊を見たこと、お題目を唱えて不発弾の信管処理をしたところ不思議に事故がなく部下も真似してお題目を唱えながら信管処理に従事したことなど悲惨な体験を明るい透明な声で語りました。
日本にはたおやめぶりとますらおぶりがあると。そしてたおやめぶりが優れているといった。「たおやめ」とは、若い女房のしなやかな腕に自分の赤子を長時間抱く強さで賀茂真淵が「たおやめぶり」と評した。一見か細く弱々しく見えるものに、実は天地を動かすほどの力がある、「ますらおぶり」は負けると折れてしまうが「たおやめぶり」は一挙に崩れることはない。そんな話が50年経った今でも鮮明に記憶に残っています。
氏の本を書こうと思い立った動機をお話しておきます。わたしは氏のように寺の息子ではないが中学生のときから母親と一所に方便品や如来寿量品を訳も分からなく読み、法華経の話も断片的に耳にしていた。その後社会人になりその習慣は止んだ。
しかし21歳のときに紀野一義の講演を聞いて深い感動を覚え、その後は折に触れ氏の著作を読んでは来たが多くの人がそうであるように関心は家族を養い生活すること、生きのびること、そのためには仕事に全精力を向けてきた。
しかしどこか心の奥底ではそういう世俗の人生を送っている人こそが法華経を真に読むということだとの考えが深く根づき、離れることはなかった、そして今でもその考えは変わらない。
70歳を過ぎて紀野一義の著作と講演録音を集中的に学ぶ時間と機会を得て約二年、氏の法華経に対する思いがわたしの胸を再び打った。氏は偏狭なき宗教を志しキリスト教まで幅広く学び、鎌倉の祖師達を崇め一生を仏教伝道に捧げたが一貫してその信仰の中心は法華経でありお題目でした。神でもほとけでもよい、一生を通じて信じることを貫けばそれでよいとの言葉は素晴らしい。
氏はインテリを嫌い、世俗の凡人がそのままでほとけになる道を、大東亜戦争の地獄の体験を通して一般人の生活のままで(こそ)究極の境地に達し得るという道を91歳で亡くなるまで説き続けた。このことを改めて身に沁みました。
自己が自己を自己する、自己との戦い、これは氏の講演でたびたび登場する言葉ですが少年時代にぼんやりと考えていた自分の人生の目標のようなものがこの言葉で再認識でき、今74歳で振り返ると「ああ、これが自己が自己を自己するということか」と見えてくるものがあります。(それが何かは本書のテーマからは外れるので述べることはしないが)
氏は膨大な著作と講演テープを残しているので氏について学ぶには直接著作を読み、講演録音を聴くのが一番だが、一方で氏に感銘を受けた人のレポートも別の意義があるのではないか、氏はなにより「馬鹿まる出し」がお好きではないか、仏教を専門に学んだものでもなく自らが感じた思いをそのまま書けばそれでよいと思い定めて書いてみました。
親鸞上人の場合だったら、「念仏申させられる」という形にきちんと定められていたわけですよ。しかし、いまの人たちはそうですかねえ。今日では、親鸞が本来持っていたもの、道元が本来持っていたものから、だんだんはずれていっているんじゃないかと思いますよ。
だんだんはずれていっている宗教界、仏教界への氏の警告だがわたしも同じことを感じている。これも書く大きな動機になっているのだが掘り下げて書く機会もあるのではないかと思います。
紀野一義氏について他人が著作として書いたものはわたしが知る限り無いのではないか。氏から大きな影響を受けたものが書いたものも有ってよい。正法眼蔵随聞記や歎異抄の例もあるではないか、いやそんな大それたことは書けないが氏はなにより「馬鹿まる出し」がお好きだ、自ら感じた思いをそのまま書けばよい。
書き終わってわたしの少年期からのぼんやりとした仏教や法華経に対する思いを紀野一義の言葉を借りて深めた気がしています。
紀野一義は仏教を旧態に復したのではなく、新しい時代に即応した人類救済のプログラムを提起した宗教改革者だというのが書き終えての結論です。
紀野一義生誕100年74歳の夏に記しました
戦争体験を語る
紀野一義は大東亜戦争を体験して生死のはざまで法華経を読んでいる。学者や僧侶のなせる業ではない。
紀野一義は広島で育った少年の頃を次のように語っている。
私が少年の頃は日中戦争の真っ最中で、広島にあった実家の近くの宇品という港に日本中の部隊が集結して送られていく。毎晩夜中の12時頃からザッザッザッザッという音が遠くから響いてきて、うちの前を通って、港のほうへずーっと行く。
その時、母親は何をしていてもちゃんと正座して、じっと目を据えて見ている。そして
「一ちゃん、あの兵隊さんたちは生きて帰らないんだよ。あんたもいつかは、ああやって出て行くんだけど、お母さんはあなたを送りたくない」
とよく言っていました。
いまの人が心の中だけで「今日しか生きられない」と思うのと、彼らとは違うんです。彼らは具体的に現実的に今日しか生きられないという境遇にいたんです。
ツイていた
氏は旧制広島高校を出て1943年、東京帝国大学文学部印度哲学科2年在学中に学徒出陣で応召され、陸軍第五師団工兵連隊に入隊し、後工兵将校となる。
氏は戦争に行き修羅の体験をする。戦争にいった人は二通りに意見が分かれる、行ってよかったと思う人と損したと思う人で、氏は損したと思ったことがないという。俺は情けない、毎日土方みたいなことをすると否定するよりは体を鍛えればいいじゃないかと肯定的に考えて生き抜いたという。
戦場に送られて戦死するものは圧倒的に否定派が多い、インテリの部下は殆ど死んでしまう、生死の場では教養が邪魔をすることがあると述べています。
氏は軍隊で裸になって肛門まで検査され、それ以降人間が変わったとも述べています。
わたしは二十一歳で絶望的な戦況のフィリピンのレイテ戦場に送られ、何十回も死にかけたが、ついに死なないで終戦を迎えた。死ななかった最大の理由は、私自身がツイていたからです。どうしてツイていたかというと、どんな絶望的な状態の時にも、「私が死ぬはずがない、仏さまが守っていて下さる。」と信じて疑わなかったからです。ツキは、陽気で、楽天的で、絶対肯定して生きている人間に来るのだと今でも信じています。
サマラン丸
「沈められても助けは来ないから、そのつもりでいろ」1945年1月、激戦地であるレイテ戦線行きの輸送船団に乗船しレイテ島に送られる予定であったが、その途中に輸送船団は敵の攻撃に遭い紀野一義が乗船したサマラン丸を除く輸送船や護衛艦、駆逐艦はいずれも海の藻屑と消えてしまい、多くの戦友を失う。
サマラン丸は進路をレイテ島から台湾に変更し、基隆港にたどり着いたとき氏は次のように述べています。
私は昭和二十年一月早々に、レイテに向かう師団の兵とともに輸送船に乗せられ、暴風雨の東シナ海を渡って上海沖に向かった。10メートルを超す大波の中で翻弄され激浪のなかで船は15メートルも上下し、上甲板は滝を横にしたような波に洗われ、毎日のように対潜監視の兵が波にさらわれて行方不明になった。
その暴風雨の中でアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、船は次々に激浪の中に沈んでいった。私の乗船のサマラン丸は二千7百五十トンの小船ながら外洋船として設計された船で、その暴風雨の中を十五ノットで走り、危地を脱した。九死に一生を得たのだ。この時から私は自分を「決して死なぬ者」と思い定めたのである。「日蓮の世界」
そのとき心が定まっていて慌てるのでもなければ落ち着いているのでもない、非常に不思議な気持ちになった、そのときはほとけさまに命をあずける心境になり観世音菩薩普門品の言葉が氏には聞こえていたと言います。
若し是の観世音菩薩の名を持つことあらん者は、設い大火に入るとも火も焼くこと能わじ、是の菩薩の威神力に由るが故に、若し大水に漂わされんに、其の名号を称せば即ち浅き処を得ん。
「嘔吐の一関透る」という不思議な言葉を紀野一義が電電公社中央学園で行った講演で直接聞き、その後もずっとわたしの耳に残っていた。しかし氏の著作では「嘔吐の一関透る」と言う言葉に出会う事はなかった。しかし次の著作の中でようやく「一関透れば百関透る」と言う言葉を見つけ、この意味だったのかと分かったのです。
たまりかねて「ゲッ」とあげかけたとき、船の機関長がわたしのそばに寄ってきた。あんた吐いたらおしまいだよ。酔わない秘訣はね、あげたものをまた食べるんだ。あんたも将校だろ、やってみな」。禅宗では「一関透れば百関透る」などという。わたしの心の中のなにかが吹っ切れる最初だったようである。「仏との出会い」
信管外し
台湾に上陸した紀野一義は、父母の郷里である金沢の第九師団部隊工兵連隊に配属され、宜蘭の特攻基地の近くにあった台湾人集落の中心地に駐屯した。宜蘭は空襲による莫大な数の不発弾が至る所にあり「台湾人の農民の庭といわず、畑といわず、田圃といわず、座敷の中にまで転がっていて、民心の動揺はその極に達していた」と紀野一義は述懐している。
この時、日本軍将兵は不発弾には触れてはいけないという布告が出ていたが紀野一義は台湾人から頼まれると身の危険を省みず不発弾処理をはじめ「不発弾処理の名人」として知られるようになる。
紀野一義は台湾人から頼まれるとスパナ1本を手に現場へ駆けつけ、たった一人で処理した。不発弾は250キロから500キロ、さらには1トンの大型爆弾もあり、その作業は常に死と隣り合わせで終戦までに処理した数は1,753発分にもなります。
紀野一義は心や体が極限状態まで追いつめられる状況を次のように述べている。
そういう世界がひらけてくる前には、いつも、心や体が極限状態まで追いつめられるということがある。私の場合それは、沈没寸前の輸送船の地獄であり、グラマン戦闘機12機による低空銃撃であり、250キロ爆弾や500キロ、1トンという巨大な爆弾や時限爆弾との対決であった。そのときの心もしいんとなるような恐ろしい経験を、私は、餓死寸前の良寛の中にみた。 名僧列伝(二)
台湾人の部屋の中や庭、田んぼ、畑なんかに不発弾が落ちていて彼らはいつも脅えていた。軍命令に違反して少し薄暗くなってから外して歩いた、爆弾の側で座り込んでじーっと考え込み、かつて広島の国泰寺派の寺でやっていた坐禅と同じだと気づいた氏はその覚悟で1,753発の処理をこなした。
中には特殊な爆弾もあり一発一発の爆弾の処理はまさに命がけで、三度ばかりは爆弾の信管をぬいた瞬間にグサリと信管の針が紀野一義の指に突きささったことがあったと述べています。
そのうち三発は、信管を抜いてわたしの手の平においたら、とたんに撃針が飛び出した。ほんの二秒か三秒の違いであった。そのときわたしは不思議なことに、生きることとか死ぬなどということはあまり考えていなかった。その状態の中でボコボコと信管が外れていくのである。生きながら死人となり果てるという気持ちについては、わたしなりに理解がいったのである。「仏との出会い」
不発弾処理を部下と一緒にお題目を上げながら行ったところ奇跡的に爆死を免れ、部下から尋ねられた。
「なにかぶつぶつおっしゃっていましたがあれはなんですか」
「お題目だ。これを唱えていると弾があたらないんだ」
「わたしも唱えてあたらなくなりますか」
「題目でなくても真宗だったら念仏でもいいんだよ」
「でもなんまんだぶだとあっちに行きそうです」
「じゃあ題目をあげろ」
そんな極限のユーモアともいうべき会話を命の瀬戸際でした、それ以来氏の部下も爆撃されるなどの危険な局面ではお題目を唱えるようになったと語っています。
侍の肝っ玉
後に紀野一義が宜蘭を再訪した際に案内役を務めた李英茂は命をかけて一人で不発弾を処理した紀野一義を「侍」と呼ぶ。紀野一義は不発弾処理の技術と侍の肝っ玉を持っていたと語っている。
氏は台湾で終戦を迎え、連隊の安全な居場所をもうけるために台湾やくざの親分のところに赴く。氏は死ぬときは死ぬし助かるときはたすかる、そう思い定めて覚悟を決めて親分のところに軍刀をぶら下げて行った。台湾やくざの親分はものすごい眼で氏をみていたが連隊の安全と食料などの確約をしてくれ、5000名ほどの連隊がそれで救われた。
氏には王さんがついて行き、親分に氏を紹介してくれ、不発弾が王さんのばあさんの家の上に落ちたときに氏が王さんのばあさんの命を救ってくれたと言ってくれた。氏はその話を知らなかったのだがそこではじめて王さんが婆さんの子供だと気が付いたと言います。
氏は後にこの当時の侍の肝っ玉を振り返り、いまの日本人は足軽で、この隊長さんについていけば儲かるとか、命が助かるとか、うまいものを食えるとか、そういう根性は足軽で本当に優秀な民族じやないと語る。
昔の日本人には、そういうことはなかった、一人ひとりが侍だったから「自分のできることは何ですか。自分に何をやらせてくれますか。やらせてくれるなら責任を持ってやります」というような人が多かったと氏は語ります。
戦争中の怪異現象
紀野一義は戦争中にたびたび怪異現象を体験していて、それを控えめに語る。寺の息子に生まれた氏はそうした怪異を普段から見聞きしてきたが一方ではそういうことをむやみに語ってはいけないとも教えられてきた。後に「私の周囲にも、怪異はいくらでも起きている。口を噤んで語らないだけのことである。」と語っています。
氏はかつて中国戦線にあった時、ある病兵から聞いた話として、討伐に出た連隊の兵全員が深夜に帰隊した時の、身の毛もよ立つような話を紹介している。
血と泥にまみれて帰隊した深夜に広場でボロボロの軍旗に捧げ銃の礼をした瞬間に軍旗は突如燃え落ち、整列した兵全員が、形容しがたい呻き声をあげて一斉に大地にメラメラと吸い込まれてしまったという怪異をある病兵が語ったとの伝聞を紹介しています。
この怪異を目撃した病兵は、翌日すぐに地獄のガナルカナル島に転属させられ一人も生きては帰らなかった、軍の幹部が彼らの口をふさいだと氏は述べている。しかしくだんの病兵だけはなんらかの理由でガナルカナル島送りを免れ、ビルマ戦線に連行され、この怪異を語ってまもなく僧侶である彼の師に彼らの供養を依頼して死んだと氏は語っています。
死なないようになっている
紀野一義はサマラン丸で九死に一生を得た。不発弾では3度死にかけた、撃針が指に刺さったのは3度、一度死んだ者は二度と死なぬと受け取った。龍ノ口で死んだ日蓮上人が佐渡でもう一度死ぬはずはない。その想いを戦時中輸送船に乗せられて一度死にかけた事件にあてはめてみています。こりゃ死なないようになっている。生かしていただいている、もうけものと思うようになりました。
私は運の強い人間ですから、ついていない人は私から運をもらって行きなさい、きっといいことがあるからね、と聴衆に語る。この話は聴衆にとって最高の言葉のプレゼントではなかろうか。悲惨な戦争体験が紀野一義にとって見事に慈悲に転じています。
終戦を迎え、国民党政府軍の捕虜となった紀野一義は、1946年3月に解放され帰国する。しかし両親や姉妹4人は広島に投下された原爆によって犠牲となり孤独で一文無し貧の身となりました。
帰国の船の中で瀬戸内の海が黄金色、それに銀の色が加わって親父もおふくろも死んでるなあと思ったと語っています。
三月一日に大竹港に上陸し、大竹から広島まで列車で運ばれ夕方広島駅に降り立った。帰還軍人なのでもの凄い格好をして改札口に出て来たら柱のかげから警官が挙動不審と思ったのかじっと氏を見ている。どこへ行きますかと訊ねられ、家のあとがどうなっているかたずねて行ってみたいと答えると夜になると強盗が出るから行くのよしなさいといわれる。
別に盗られるものもなく恐くもないから行くと言いますと、この警官は氏の頭の先から足の先までじろじろ見廻して見たところ強盗みたいな風態だから大丈夫と言われる。夕方おそく氏は家のあとを見つけたが瓦礫ばかりで雨に打たれた塔婆が一本斜めに立っているだけであったと述べています。
駅に戻って来るとさっきの警官が立っていて氏が無事に帰って来るかを見ていた。「どうでした」「どうもこうもない。なんにもありゃしません」すると「あなた、今晩どこへ泊りますか」「どこにも泊るあてはない」「それじゃ、わたしについていらっしゃい」と氏を交通公社の職員の寝泊りしている部屋に連れて行ってくれたと語ります。
若い二人の職員がご飯を炊いて食べさせてくれ、泊めてくれた上にご飯まで炊いて食べさせてくれたその親切がひどくこたえたと氏は述懐しています。見ず知らずの若い二人の青年の無償の親切が生涯ずっと氏の心を支配します。大勢の他人が氏を支えてくれると感じたのです。
それから氏は岡山県の津山に嫁いでいた姉を頼って行きます。姉は氏が沖縄の戦場で死んだと思っていたので玄関に棒立ちになって幽霊でも見るように上から下まで見た、そして台所へ飛んで行って泣き出したと語ります。氏は仏間に入り過去帳を覚悟を持って一枚ずつめくって行く。眼をつぶって、思いきって8月6日のところを開くと見たこともない戒名が四つ並んでいて衝撃を受けます。氏はしばらく身動きもできず、それからのろのろと立ち上がり、法華経をよみました。
氏はその晩は客殿で寝て時計が遠くでポーン、ポーンと二つ鳴ったとき眼を覚ましました。なにかに胸をぐっと押えつけられたような気がしてびっくりして布団を刎ね返して飛び起きたら背中のあたりから全身の力が抜け落ちて腑抜けのようになって、恐ろしいほどさびしくなって、二時間ばかり獣のように泣いたと言います。
四時になって時計が四つ鳴ると憑き物が落ちるようになにかが抜け落ちた。それを境にしてさびしくもかなしくもなくなり、父も母も姉も妹も、死んだという感じがまるでしなくなりました。体の中からなにかが抜け落ちた。死んだんじゃない、仏のいのちに帰ったのだという確信がぐんぐん胸の中にひろがって来た。
死んだ父親の教えてくれたことばを思い出す。「人間というものは死んだら仏のいのちに帰る。死ぬんじゃない、仏のいのちに帰るんだ」。
そのとき以来知人朋友を亡くしてもさびしさ、かなしさ、せつなさには堪えられぬが仏のいのちに帰したという安らかさがいつも氏の底に横たわっていると言います。
戦争が終わって山口県津山でやることがないので毎日山に上って昼寝をしていました。結構な身分でしたね。あるとき婆さんが「あんた、毎日山で昼寝をしてるんだろう。山がしろくなったら教えてくれんかな。しろくなるとそのうち雪が降るんでね」と。この婆さん何でも知っていると思いましたね。
そういわれて毎日山をながめていたら、あるときに鳥がやまやまの向こうに飛んでいく風景が目に入り強く印象づけられたのを覚えています。広島の原爆で家族や仲良くしていた人みんな死んだんですから雪をかぶった山がほとけさまに見えたんですね。そのあとでこの句に出会ったんです。
遠く遠く鳥わたる山々の雪
戦争によって何もかもを失った紀野一義が、戦後仏教伝道者の道を歩むことになるのはある意味必然です。こうした体験が「こき使われて終わるサラリーマンに自らはなりたくない」と言わせる。
戦争中のことを語るが過去の今を語っているとも言う。思い出しているそれぞれが今である。今生で菩薩になるのは前生で立派な修行をしていたからだ。これを本行菩薩道と道元禅師は言う。安詳三昧なり、これは小僧さんでも知っている方便品の一節からの引用で羅什の名訳だ、梵語では「過去の出来事をひとつひとつ思い出して説く」、本行菩薩道という言葉の本質を自らの戦争体験と結びつけて説きます。
氏は戦争体験を経て変わった人生観を次のように記す。人間の一生は旅のごとし誰でもそのことは感じている。しかし、人は、一日一日の忙しさ、面白さ、かなしさ、おかしさにかまけて、そのことを忘れ去る、この一日一日をなし崩しに生きる生き方に溺れてしまうと、人はその魂を失う、永遠なるものに生かされているという自覚をすり減らしぼろ雑巾のようになってその生を終わるのであると。
次の文は今の忙しく働くサラリーマン、ビジネスマン、経営者にはカンに触るところかもしれない、なんと浮世離れした人だと。しかし地獄を見、素晴らしい出会いをいくつも持った全く束縛のない氏のような人にとってはごく自然な思いとなる。
けちな組織に体を拘束され、給料で飼い殺しにされることを随喜するような生き方などしたくない。旅に出たければさっさと旅に出、大自然と語りたいと思うときは、大自然に心も体もあずけていきたい、日本人の魂の底に眠る「旅の心」をなくしたくないと述べています。
氏は「これから何十年生きるか知りませんが商売がうまくいったところで金が動いていくだけのこと終わってしまえばまあむなしいもんじゃ無いでしょうか。法華経が哲学を生み、詩を生み、そして商売の根底にあればそれはすばらしいものになる」と70歳の頃に述懐しています。
紀野一義は戦後、”渡す人”の人生をおくり多くの講演や著作で人々の心にあたたかい灯をともして歩きました。
渡す人を語る
紀野一義らしいエピソードをネットサイトで見つけたので紹介しておきます。http://new22nozawa.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/nozawa22-new--4.html
刑務所へ教戒師として、受刑者に教えを諭す人が何人か来る。そして、「出所したら相談に来なさい」と、対面して相手をしてくれ、その時は、優しくしてくれるが、出所した受刑者が、教戒師の方を訪ねて実際に面会にいくと、冷たくあしらわれるか、面会をしてくれない場合がほとんどだったという。
教戒師だった人だから、出所後に助けてあげようという心の人だと思って近づくと、意外と、所内で相談に乗ってくれたときとは、雰囲気が違うのだという。
唯一、紀野一義先生は、訪ねたとき、
「さあ、さあ、お上がり」と、暖かく接してもてなしてくださった。帰り際には、お金を包んで持たせようとした。訪ねた方は、お金をもらいに来たのではないと固辞して帰ってきたという。その後も、先生の(台東区全生庵の)集会にも呼んでくださって、その後の相談にも乗って頂いたとエピソードを語っています。
鎌倉仏教の祖師
諸々の衆生に於いて憐敃の心を生じ
一切の法に於いて勇健の想いを得ん
壮んなる力士の、諸有の重き者を能く担い持つが如く
是の持経の人も亦復是の如し
能く無上菩提の重き宝を荷ない、衆生を担負して生死の道を出す
未だ自ら度すること能わざれども、すでによく彼を度せん
紀野一義 「法華経」
ヘルマンヘッセの「シッタルーダ」はバラモンのシッタルーダが渡し守をみているうちに発心し、渡し守の助手をしながら渡し守になる物語で自分が渡る前に人を渡せ」をテーマに小説にしている。
氏は丁寧に「シッタルーダ」を紹介して”渡す人”が最も大事な生き方だと説く。つまり川の渡し守となったシッダールタが究極の行為でありシッダールタは最後には川の渡し守で解脱する。これは無量義経の「まず人を渡せ」が表現された作品だと読み取れます。
氏の30代に発表した論文「法華経安楽行品に対する一視点」には次のように記されている。
仏教は今、大きな曲がり角に来ていると思う。新興宗教の異常な躍進に対して、仏教はなんら答えるべきものを持っていないように見える。しかも若い世代は仏教になにかを期待し求めている。
仏教学はいつまでも訓詰注釈に終始することなく、なにか新しい生命を持つたものを生み出して行かなければならぬと思う。縁起についても、空についても、涅槃についても、その他の多くの重要な教義についても。
また、鎌倉仏教の祖師たちの言行についても、新しい視点から見直して行くということがなければならぬと思う。
この論文で氏は当時の仏教界の在り方に対する物足りなさと、氏自らが”渡す人”になろうとする決意を感じ取ることができる。
「鎌倉仏教の祖師たちの言行についても、新しい視点から見直して行く」その新しい視点とはなにか。氏は梅原猛との対談でつぎのように話す。
紀野 祖師はそれを持っていたけれども、祖師に続く人たちは、それを半分しか持たない、その次になれば三分の一というふうにだんだん減っていくから、これはたいへん危険なことですね。
氏は道元禅師、親鸞上人、日蓮上人について”渡す人”であったと述べ、だんだん減っていくことをたいへん危険なことと危惧しています。
道元禅師は1200年に生まれた。法然が選択本願念仏集を1年前に著し念仏だけせよと唱えて流罪になり、親鸞上人も流罪になるが法然が死んだので関東を放浪する、そして熱が下がらないときに夢の中で浄土三部経の文字がきらきら光って出てくる体験をする。
道元禅師は1227年に宋から帰るが1237年には干ばつで淀川の川の水が無くなり不穏な時代が続くがこうした乱世に偉大な宗教者がでる。
日蓮が鎌倉に出てきたとき道元が1251年に死ぬといった、まるでバトンタッチするかのような連なりがあり、日蓮上人は立正安国論を著し流罪死罪で死にかける。
こうした困難は”渡す人”である宗教家の大きな条件で、この宗教家たちは深い悲しみをもっている。
これだけではない、祖師たちの出現にはほとけの意思が働いていた、出さずにはおかないという力が働いていたと氏はいいます。
最近ほとけさまは休んでいられると思いますね。現代において、もうぼつぼつ偉大な宗教家が出ていただきたいものですね。
この言葉の意味は深い。氏はもうぼつぼつ偉大な宗教家が出て来ると言うそんな気配を感じているに違いない。”渡す人”があらわれるまで氏が人々を渡す努力を続けようと。
しかしもう少し深く読むと紀野一義が現代の大乗菩薩団であり、既に”渡す人”であり、この世に出てきていますよということかもしれない、わたしにはそう感じられます。
「自分の頭のハエもおえないのに人のハエは追えるのかよ」と云われるかもしれない。「人のハエなら追える。自分が渡る前に人を渡せ」と答えればよい。氏が大学の教師の前に私立高校で国語の教師をしていたことがあり「なんにもわかっちゃいなかったんですが教えることで教えられるということを学びました」と自らの体験を語り、無量義経で「未だ自ら度すること能わざれども、すでによく彼を度せん」を氏は繰り返し繰り返し述べています。
道元禅師は人が発心する、菩提心を発すということはまず人を助けたい、まず人を幸せにしたいと願うことだという。そういう心をおこしたことによって大きな功徳が得られたら、それをさらに他人の幸せを願う方に向けてゆく。氏は回向というのは方向をそちらに向けることだと述べる。
氏は回向するひとに対して「それはさとりの人だからだ。ははーなりましたなとわかる。自分のことしか考えなかった人があの人のことを考えることになる。もうさとりのひとなのだからあれこれわずらうことはない」そういうことができるようになると大地は黄金になり大海は甘露(アムリタ 不死のこと)となるのだといいます。
氏は戦争中に焼夷弾を田んぼで処理中に米軍から機銃攻撃を受けたことがある。そのとき部下の下士官が音が遠くで聞こえるやいなや猛スピードで走ってきて氏を突き飛ばし、氏は事なきを得たことがある。このとき下士官は自分の命のことなど少しも考えなかったが、それが”渡す人”だという。
母親はいつでも子供に対してほとけになれるとも付け加える。救うというのは浄土経で渡すという意味ですと付け加えて。
渡す人 紀野一義
「俺がやらなきゃ誰がやる」と生きなければいけない、誰か覚えていますよ、たったひとり覚えてくれている人がいればよいと氏は語る。面倒を見てもらう側から面倒を見る側に変わっていく、愛されてばかりいる人が愛する側に変わっていく。教えてもらう側から教える側に変わっていく、救ってもらうばかりのひとが救う立場に変わっていく。
使命感をもっているひとが大事な人だと。日蓮、親鸞、道元、宮沢賢治など、みんな現れるべくして現れてきた人、そういう特別な人ってのは確かにいます。自分がやらなきゃどうする、こういう気持ちは大切だろうと思う、その誇りというものを忘れちゃいけない。
自分の救済しか考えていないものは一生懸命努力はするが道心というものがない、慈悲心というものがない。
道心とはいかされているという感謝の念で聡明にして知恵をもたないといかされている感謝の念が持てないと氏は語ります。
息子や嫁に冷たくされて死にたいという母の兄の嫁に息子以上に頼りにされる。写真を仏壇に置き紀野一義大師と書いた手紙を送ってくる。家族に冷たくされ、息子や嫁に大事にされずに夫に先立たれて死にたいと言って薬を飲んだりして死のうとしたりしていた。この婆さんも大事にされたいという気持ちを捨てると楽になりました。
ある日鎌倉のお寺(奥様の実家)にある人に紹介された寺の娘さんがやってきた。ワンダーフォーゲルで足に異常をきたし、小児麻痺のような症状でまともに歩けなくなり、さらに今風にいえばうつ状態だという。控室で講演時間を待っている氏のもとに暗い顔の娘さんがやってきた。
氏は「ははんこの前に相談のあった娘さんだな」と思い、娘さんに対して「ばか、さっさとお茶を出すなど手伝いなさい」と氏は意図せずに思わずそんな言葉が出た。自分でも知り合いから相談を受けたときにはそんな言葉を出そうとは思わなかった。
すると娘さんは泣き出すかと思ったが意外な展開になる。娘さんは最初驚いたようだったがやがて笑い出した。そして「ハイ」と返事してお手伝いを始めた。そのとき不思議なことに足を引きずっていなかった。
その後娘さんはお寺に帰り、苦手な親父にもにこにこ笑って元気に対応するようになる。
紀野一義が体験したばあさまのガンが治った話も心に残る。どこかの法座の一こまの話だがばあさまが氏に言います。「わたしゃガンになりましてな。仏の計らいでガンになったと思うとガンに感謝したくなりました。そしたらな体がみるみる回復してどこかに消えてしまいましたわ」
「自分は強運なのでそれを持って帰りなさい」と講演参加者に言います。
昭和39年春のある日紀野一義が”渡す人”になる。全生庵において誰にも分かる仏教入門の連続講義をしてほしいとの依頼があった。深く決意してたとえ病気であろうと、この講座だけは休むまいと通いつめたと言います。
人間の暗さ、絶望、憂うつ、空しさ、あるいは、不遇・冷遇にうちひしがれている状態から救い出すことばは人の口からいわれたとしても、実は天から来た。天から、仏から来る。
講話で氏の言葉に感銘を受けたとの手紙を受け取ったが、その言葉は実は仏さまから来たものだった。この天来の声に呼ばれて人は立つと述べています。
ある日学生が東大のインド哲学の先生に紀野先生を紹介されたといって電話してきた。
「僕死にたいんですけど」と学生。
「こういう人は死にませんよ」と紀野一義は返す。本当に死にたい人は電話なんかしてきませんよ、こうして電話してくる人は心の底では生きたいんですと言います。
氏がいろいろ話しているうちに
「僕は生きていたくなりました」と学生は電話を切った。氏にはこういう渡し方もあります。
アッシジの聖フランチェスコ
バリの風ほど気持ちの良いものはなく、この風を楽しむためにわたしはバリに6年住んでいた。
暑さで仕事をする気がおきないとき、読書の集中力に欠けるとき、好きな音楽に心がはいっていかないとき、そんなときは高台の風を浴びる。吹き抜ける風にあたるだけで気持ちが引き締まり、一挙に集中力がたかまる。
古今の聖人たちが山中や海岸あるいは川岸、草原の木の下で瞑想したのも肯けます。
山中といえばアッシジの聖フランチェスカ、空海が明星が身に入る体験をした土佐の海岸の洞窟、隅田川沿いに庵を構えた芭蕉、菩提樹の下で悟った釈尊、いずれも風の吹き抜ける気持ちのよい場所に違いないと思います。その聖フランシスコがつくったと伝えられている祈りの言葉がある。
アッシジの聖フランシスコは与えることによって、与えられると言っています。聖フランシスコも”渡す人”ではないでしょうか。
神よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに、愛を、
罪のあるところに、許しを、
争いのあるところに、平和を、
疑いのあるところに、信仰を、
絶望のあるところに、希望を、
暗闇のあるところに、光を、
悲しみのあるところに、喜びを、
蒔かせてください。
おお、神よ、
慰められるよりも、慰めることが、
理解されるよりも、理解することが、
愛されるよりも、愛することができますように。
なぜならば、与えることによって、与えられ、
許すことによって、許され、
死ぬことによって、永遠の命を与えられるからです。
この聖句は渡すことの大切さを述べています。
偏狭を排す
偏狭な信仰は一時的に大きな力を与えてくれるが、歴史の眼、長い目でみると衰亡する。創価学会も氏は昔話としてしかもさらりと批判しています。
寛容
修行したとかの意識を取り払うことが重要で、えらい坊さんでもどこで修業したとか言われる方がいる、おまえも修行したらどうかといいたいのでしょうが、そういう枠を取り外さないと元政上人や良寛上人はわからない。
氏は偏狭な仏教伝道者ではない、法華宗系からは謗法、念仏系からは異安心と双方から非難がおこりそうなことをそうした批判は十分に予見したうえで言ってのける。それでいて双方から尊敬されている。
紀野一義は天理教の総本部へも講演に行っている。広島の極道に請われてキャバレーの女性たちに講演するなど驚くべき寛容性で偏狭から遠い伝道者でその点にこそ氏を最大限尊敬する理由があります。
氏は南無妙法蓮華経で、曽我量深先生は南無阿弥陀仏だがそれでいいのだと言います。
紀野一義氏は「真言は真言宗の専売ではない」といいお題目も念仏もマントラととらえる。宗派や宗祖の優劣を論じることなく話すところが氏の真骨頂です。
お題目もよし、お念仏もよし
念と口が合わさって祈りとなる。念仏を心の中だけで唱えるより、声高々と唱えるのがよい。お題目も小さい声で唱えると効果が薄い。大声で南無妙法蓮華経ととなえるのがよいと氏はいいます。
紀野一義は歎異抄も道元の正法眼蔵も大好きだと言い、禅の柴山全慶師や朝比奈師を師と仰ぎ、両氏を唯仏与仏と称え、日蓮上人一辺倒ではない、それでいて「日蓮は生涯私と共にあると思われる。」
日蓮よりも親鸞がよい親鸞よりも道元がよいなどという人は信心がわかっていない、好き嫌いはあってよいが優劣を論じるべきではない、そうめんと太麺の差だ、まったく違う考え方も大事にしなければいけない、お念仏の信者は日蓮上人をもっと大事にしなければいけない、お題目の信者は親鸞上人をもっと大事にしなければいけないと氏は語ります。
子どもの時紀野一義は念仏の本を読んでいたら親父にこっぴどく怒られたというエピソードを話しながら、なんといっても法華経が一番好きで肯定肯定絶対肯定する精神がこの人生を生き抜く最高の力だという。
宗派にこだわりのない寛容さで禅の柴山師との出会いをかたる、氏には宗派や宗教団体などはどうでもよいのです。
長崎出身の美輪明宏も寛大な信仰心と金儲けに執着する宗派を憎む点で紀野一義と重なる。
美輪明宏は当時10歳で原爆を被爆しその後白血病と診断された。ところが、「しばらくして白血病だと言われて。原爆の放射能でそうなったんだと。その時も何もしないで治っちゃったの」「神様ってちゃんといらっしゃるんだなと思いますよ。ちゃんとした心掛けの人にはね」「真言宗も日蓮宗も、霊界では壁がないんですね。宗派も無いのね。」この宗派の人が聞いたらぶっ飛びそうなことを平気で言う。美輪明宏はアベマリアも南無妙法蓮華経も念彼観音力も、とにかく祈ることで困難を乗り越えてきたと言います。
宗教は企業と同じなんですって。日々これ努めていって、反省して、心を練り上げていくのが信仰の作業だと。そしてそれを手助けするために宗教がある。宗教はただそれを商売にしているだけなの。 美輪明宏
紀野一義はよくお題目もよし、お念仏もよし、あるいはクリスチャンでもよし、一つを大事にしてシンプルに迷いなく一生をおくれば信仰と祈りはそれでよしという。氏自身も法華経を最高としながら題目と念仏のいずれも唱え、禅の修行も朝比奈宗玄を師としてそれを生涯変えないのです。
続