山本周五郎「虚空遍歴」を読み返してみたらなんと我が故郷の箕面の滝がしっかりと描写されていた。今でもこの描写のままだ。山本周五郎もこの小説の取材でこの滝を訪れたに違いない。
滝は16丈の高さだと、立札に書いてあった。滝の上には底しれぬ深い淵があって竜穴と呼び、昔、役小角が竜王にあったという伝説も記してあった。水の少ない季節だろうのに、滝は見事な飛沫を散らしながら、滝壺を打って轟き、そのため崖に生えた小松や枯れ草や、こちらの台地の木々まで、飛沫に濡れながら震えているのが認められた。
冲也は理想の中也節を模索しながら果てしない虚しさの中を遍歴する。虚しさの中に悟りを得る男の遍歴は西行や山頭火、芭蕉に通じるのだろうか。
日本人の類型分類に禅型、密教型、遍歴型があるという。
禅型は精進料理を好み、侘び寂びを好む。水墨画を好み茶道でも侘茶を好む。利休、一茶が思い浮かぶ。
密教型は中華料理などのコッテリした食べ物を好み、絵なら狩野派の金箔を貼った屏風絵が好みで書院における豪華な茶の湯を好む。当然色好みでもある。光源氏、秀吉などが思い浮かぶ。
遍歴型は妻子を捨てて漂白の旅をする今ならとんでもない人間タイプだ。仏陀も妻子を捨てて成道した後はインド各地を遍歴して説いて回った。西行もある女性を追慕して漂泊する。山頭火も、檀一雄もそうかな。
遍歴型が日本でも受け入れられたのは大変興味深い。
類型だから一人の人間がこのいずれの型をも併せ持つのが自然であり、光の三原色のどの色が強めに出ているかとなる。どちらが優れているとかの問題ではなく好きかどうかの違いだ。鎌倉の祖師をあえて分類すれば日蓮上人は密教型、親鸞上人は遍歴型、道元禅師は禅の型と言えるだろう。
現代の経営者や政治家はどの類型に分けられるだろうか。孫さんは差し詰め密教型、稲盛さんは禅型、スティーブ・ジョブスやzozoの前沢さんは漂泊型と言えるだろうか。
いずれにしても作家は虚しさの奥にある悟りを描きたいためにこの長編を紡いだ。
冲也が江戸に帰る途中につつもたせに会い、その後につつもたせに加担したかに見える女が実はそうではないというどんでん返しがあり、冲也に抱いて欲しいとせがむところは一際印象に残る。
京都に出てきた冲也はとある居酒屋で下手くそな流しの老婆に同情して三味線を借り受けて唄い老婆の稼ぎを手伝う。病気の娘夫婦と孫を養う老婆に同情したためだが結末には思わぬどんでん返しが。
この作家はプロットにアッと驚く展開が容易されている。