マサの雑記帳

海、山、庭、音楽、物語、歴史、温泉、経営、たまに税について。

何を求める?

2019-04-13 20:58:34 | 日記

 家族を巻き込んだ父の水彩画展は存外遠方からの客も多く
癌治療以来、一回りも二回りも小さくなったような体を少し伸ばし、
旧交を温めている。
 
 子供の頃、我々兄弟に「絵描きになりたかった」
と言いつつ片道2時間通勤の会社員をしていた父は
「独立したかったけどしなかった。結果的にしなくてよかった」
ということもたまに言っていた。
 当然、若者は彼を尊敬しなかった。

 そもそも絵を描くというのは悠長に思える。

 いくら精密に描いたところで写実において写真に敵うまい。
詩情の伝達であれば映画に敵うまい。

 私も中年となり、二人で飲んで興が乗れば、構図、色彩、モチーフといった
具体的な側面について話すことはある。
 ただ絵画を他者伝達のメディアの一種ととらえた場合には、
それは目的に対してあまりに非効率である。

 それを言っちゃあおしまいよ、なのかもしれない。
ゆえに彼が何に執着して描くのか、という動機については
あまり話したことはない。
 
 ともあれ齢八十を前にささやかな個展を開いた父を
片田舎の小さな家族が応援し、思いのほかの
彼の付き合いの広さに驚いたことは確かである。

 馬鹿の一つ覚え、と言っては身も蓋もないが
己が何を求めているのかを知り、それを実現しようと
地味なスケッチ、彩色を繰り返してきた父を勤勉だな、と思う。

 一社会人として「求めているものが明確であればそこにたどり着ける」
とは生産的な真実であることもわかる一方、
ゆえに自己啓発書のような辟易とする気持ちもある。

 自由に生きたいと思う。
 
 今日のようなうららかな春の日に
庭先で鶯の声を聞きながら好きな本を読む。
経済的な交換価値のない、小さな経験価値。

 移動も道具も金も要らない。
せいぜい、何もない沼と川を散歩するくらい。
何もないゆえに、季節が見える。花鳥風月の営みが匂う。

 「何もない」とは経済的な交換価値が無い、ということと最近理解した。

「何もない」場所では穏やかであると同時に切実な生の刹那を肌身に感じる。
その感覚を保ちつつ、理性ある生物として本を読み、たまに散歩する。
 
 それが欲しい。

 本当に経済合理性を「もっと求めなければいけない」のだろうか?
私は弱い人間である。信じ込まされることもあれば、信じたふりを
することもある。

 あれこれいじらずに私の小さな世界をそっとしておいてほしい。

 個展に来た客が、また無様な道路の計画のあることを
伝え嘆じて行ったという。

 数十年前の計画に基づき、維持も管理も責任も負えない人工物が満ち、
さらに増えていく。

 国破れただけじゃ物足りないかい?山河もなしにしたいのかね?