日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

主は大いなる方

2020-07-24 | Weblog
詩48篇 

 2節「主は大いなる方 我らの神の都、聖なる山で大いに賛美させる方」聖書協会共同訳

 1節「歌。賛歌。コラの子の詩」
 2節「主は大いなる方 我らの神の都、聖なる山で大いに賛美させる方」本詩は13節にある通り神殿内を行進する出発を促す言葉ととり、全体を祭儀に関連づけて解釈されることが多い。2~4節はその導入、5~9節は過去を回想、10~12節神を二人称で記し、13~15節は命令形で指示を与える四段落に分けられる。2~4節はシオンの麗しさを歌う。それは全地の喜びである。これは47篇で力は神に属すると述べているが、本詩では13~15節にある城壁、城郭、砦、塔など力の語彙を配して同様の指摘ができよう。
 3節「シオンの山は高く、美しく、全治の喜び 北の果ての、大いなる王の町」
この「北の果て」はイザヤ14章13節では異教の神々の居場所であるが、ここではエルサレム北端のシオン原語「ツアフォーン」(北)を指している。
 4節「神はその城郭にあって原語「宮殿の中で(ベアルメノテーハ)」砦としてご自分を示される。
 5節「見よ、王たちは時を定め、共に進んで来たが」。「~時を定め」原語は「相会して(ノアドゥー)」申し合わせるという意味。
 6節「彼らはこれを見てひるみ 恐怖に陥って逃げ去った。」列王記下19章see
 7節「そのとき、彼らを襲ったのは、震え子を産む女のような苦しみ」。陣痛の比喩(イザヤ13章8節)。「あなたは東風でタルシシユの船を砕かれた」8節。「東風は、終末時の神の審判を予表する(イザヤ27章8節)。
 9節「万軍の主の都、我らの主の都、我らの神の都で 私たちは聞いていた通りのことを見た。神はこの都をとこしえまで固く据えられる」。「神よ、私たちは宮の中であなたの慈しみを思い描きます。」(10節)神殿境内の詩である。「慈しみ」(はスデーは)と11節「神よ、御名のようにあなたへの賛美は地に果てにまで及びます。右の手には義が満ち溢れている。」の「義」(ツエデク)は42~49篇の「コラの子の歌」に対応するキーワードであるが、本詩13~15節にその役割を果たしてないことから、後代の挿入句とされている。
 12節「あなたの裁きのゆえに、シオンの山は喜び ユダの娘は喜び躍る」
 13節「シオンの周りを一巡りし櫓を数え」
14節「城壁に心を向け、城郭に分け入ってみよ 後の世に語り伝えるために。」
15節「この方こそ神、代々とこしえに我らの神。神は死を超えて、私たちを導かれる」。因みに13~15節を岩波訳では次のようになっている。
「13シオンを巡って回り歩き、その塔を数えよ。14その防塁に心を留め、その城を見回れ、後の代に述べ伝えるために。15まことに、この神こそ 我らの神、とこしえにまた永久に。この方こそ我らを導いてくださる、アルムツト」(原文=死の上に・死ぬまでという意味)。



 静まれ、私こそが神であることを知れ

2020-06-27 | Weblog
詩46篇 

 11節「静まれ、私こそが神であることを知れ、国々に崇められ、全地において崇められる」聖書協会共同訳

 1節「指揮者によって、コラの子の詩。アラモト調。歌。
 2節「神は我らの逃れ場、我らの力、苦難の時の傍らの助け」力強い神への信頼を言い表す。本誌の背景にはBC702年アッスリア軍が攻めてきてエルサレムを包囲した時、一夜にして神の使いにより敗退したことが考えられている(列王記下18章13~19章35節see)。原文「非常に(メオッド)見いだされる(ニムツア―)苦難の時に(ヴェツアロット)助け(エズラー)」。容易に見出される助けということである。口語訳「悩めるときのいと近き助け」。がなじみ深く、名訳である。
 3節「それゆえ私たちは恐れない。値が揺らぎ、山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。海の波の横揺れを外敵からの勢力に例えている。聖書ではこれを「混沌の状態の表われとしている(創世記1章1節)。水が湧き上がる有様に山々が震えているという(4節)
 5節「川とその流れは神の都に、いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。」4節と対照的である。「川」(新共同訳)「大河」とは神の欠くことが出来ない生命線であり、神の愛と摂理を象徴する(65篇10節)。
 6節「神はその中におられ、都が揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」直訳「夜明け前に」(リフノット ボケル)苦難と失望の夜が明けて救いの朝が来る。上述の出来事が想定される(列王記下19章35節)。神の宮かは揺らぐことが無いからである(6節)。民は騒ぎ、国々は揺らぐからだ(7節)。直訳「どよめく」(ハムー)「諸国民は」(ゴイーム」「揺れる」(マートウ)対照的な出来事である。敵の軍隊が起こす雑音であり、不信仰者の右往左往する有様である。
 8節「万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦」。12節と同じで、本詩の竪線的な信仰を表す。「万軍の主」とは全宇宙の支配者であり(6章3節)、「ヤコブの神」はイスラエル民族、南王国ユダの歴史を導かれる神を表している。
 9節「来て、主の業を仰ぎ見よ。主は驚くべきことをこの地に行われる。」直訳「さあ来て(れふー)、見よ(はズー)、業を(ミフアろット)、主の(アドナイ)、」彼が地に置いた荒廃を(シャモット」である。岩波訳「~この地に驚愕を置かれた」となっている。れふーは、相手の動作を促す言葉である。
 10節「地の果てまで、戦いを止めさせ、弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。」人間が準備する一切の戦争を破る神の勝利を歌う。
 11節「静まれ、私こそが神であることを知れ。国々に崇められ、全地において崇められる」。直訳「お前たちは止めよ(ハルプー)、そして知れ(ウデウー-)、ことを(キ-)」諸国民の中で(パグイーム)、私は高められる(アルム)」。ハルプーは(武器を)「置け」「考えを捨てよ」という意味もある。
 12節「万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦。」
 本詩の基調となる信仰は、全能の主に対する全き信頼である。主を避け所とする時に平安(2~4節)、喜び(5~7節)勝利(8~10節)が与えられるのである。




私の心に湧き立つ美しい言葉

2020-06-20 | Weblog
詩45篇 

 2節「私の心に湧き立つ美しい言葉 私の詩を王のために歌おう。私の舌は巧みに物書く人の筆」聖書協会共同訳

 1~2節「指揮者によって「百合」に合わせて、コラの子の詩。マスキール。愛の歌。私の心に湧き立つ美しい言葉 私の詩を王のために歌おう。私の舌は巧みに物書く人の筆」10節まで王に対する語りかけである。「愛の歌」とは宮廷の詩人が王の結婚に対して捧げた歌である。「イエデイドット」はヘセドではない。これを比喩的に解釈して王をメシア、花嫁をイスラエルと見なした。同じ比喩的解釈は雅歌にも見られる。「心に湧き出る美しい言葉」とは動きが止まらないことで、自分の舌が書記の筆のように流暢に動くのである。
 3節「あなたは人の子の誰よりも美しく その唇は優雅に語り出す。それ故神はあなたをとこしえに祝福された」。第一に王が人として優雅で魅力的である。第二に勇士としての能力を賞賛する(4~6節)。腰の剣は栄えと輝き、矢は鋭く敵陣で諸国の民を倒す。「栄えと輝き」、口語訳は「威光と尊厳」である。第三は王の安定した支配の保証を示す(7~8節)。王を神と呼ぶところからメシア予言としてヘブライ人の手紙1章7~8節に引用されている。「あなたの王権の笏は公平の笏」(7節)は口語訳「王の杖は公平の杖」。王は笏を右手に持って審判を下すのである(エステル記4章11節see)。
 8節「あなたは義を愛し、悪を憎む。それゆえ、神、あなたの神はあなたに喜びの油を注がれた あなたの仲間から選び出して」。新共同訳は「神に従うことを愛し、逆らうことを憎む」となっている。ヘブライ語対訳では「愛する(アハヴタ)義を(ツエデク)」「そして憎む(ヴアテイスナー)悪を(レシャア)」。王なる神の本質を表している。
 9節「あなたの衣はどれもみな、没薬、沈香、シナモンの香りを放つ。象牙の宮殿から響く弦の調べはあなたを喜ばせる。没薬は「ミラル」でアラビヤ産の樹脂。沈香は「アロエ」で、インド産であり芳香を放つ。王の着衣と宮殿に響く弦の調べを詠う。
 10節「諸国の王女らはあなたの高貴な飾りを、あなたの右に立つ王妃はオフイルの金をその身につける」。「オフイルの金」とは列王記上9章27~28節、ヨブ記22章24節、28章16節see
11節「娘よ、心して聞け。よく見て、耳を傾けよ。あなたの民と父の家を忘れよ。」新しい女王に対する勧めである。外国の出身であろうと思われる。その民と父を忘れて夫に対して全き献身を勧める。この失敗例がある。ソロモン、アハブ etc
13節「テイルスの娘よ、民の富める者は贈り物を携えあなたの好意を願い求めている」。「テイルスの娘よ」は口語訳「ツロの娘よ」フェネキヤの都市国家で、富み栄えていたイスラエルの隣国。これは花嫁が王宮に輿入れする有様を描いている。最も美しい高価な衣装で王妃が侍女を連れて、歓喜のうちに、王の宮殿に行進するのである)14~15節)侍女らは喜び喜んで導かれ、宮殿に入る(16節)。
 17~18節「あなたの子らは先祖に代って立つ。あなたは彼らを全地の長とする。私はあなたの名を代々に覚えさせる。それゆえ、もろもろの民は、あなたに感謝を献げる、代々とこしえに」。詩人は今や未来の祝福、父の栄誉をもたらす名声の高い息子たちを予期し、その名が諸国の中で、代々限りなく語り伝えられるであろうと賛美する(18節)
 この詩篇は、王と王妃との婚宴の祝いの歌であるが、王妃は王を褒め称える側に置かれる。その威光はと賛美を捧げるという点で。キリストの教会も「花婿」としてその使命を与えられている(第二コリントへの手紙11章2~3節see).

心に隠していることを神は知っておられます

2020-06-13 | Weblog
詩44篇 

 22節「神はそれを探り出さないでしょうか。心に隠していることを神は知っておられます。」聖書協会共同

 1節「指揮者によって」。コラの子の歌。アスキール。神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを。先祖の時代、いにしえの日々にあなたのされた業について」。本詩の時代背景は、バビロン捕囚後の近い頃と考察される。その状況は民の苦難と恥辱の中で、神による解放と勝利を願っている内容となっている。ここから国を憂い執りなす祈りの姿勢を学ことができる。
「先祖が私たちに語り伝えたこと」(2節)とは出エジプトの出来事を指し、それは信仰の原点でもあった。過去の出来事を根拠にして、現在の苦境からの解放を願うのである。
 4節「彼らは自分の剣によって土地を得たのでも自分の腕で勝利を得たのでもありません。あなたの右の手、あなたの腕、あなたの顔の光によるものでした。あなたが彼らを望まれたのです」。カナンの地に侵入して嗣業の地を得たのも
 自分たちではなく、あなたが、あなたの手、あなたの腕で勝利して得たことである。だから今こそ勝利を得させて下さいと嘆願する(5節)。「立ち向かってくる敵をあなたの名によって踏みつけてください。自分の弓や剣では救われない。彼らを恥辱させるのはただあなただけです」(6~8節)。 そうすれば彼らは絶えず神を賛美し、感謝を捧げることになる(9節)
10節「 しかしあなたは私たちを拒み、辱め私たちの軍勢と共に出陣されませんでした。」しかし何故 神は私たちを見放されるのですかと問い掛ける。ここでバビロン捕囚という苦境の現実に目を向ける時、住み慣れた地から敗走して恥辱と略奪と嘲りの的となり、ののしりの声が降りかかっていると訴える(11~17節)。
 18節「これらのことがことごとく降りかかりましたが、それでも私たちはあなたを忘れず契やくに背かず」。裏切る(原語=退く)ことをせず、あなたの道(原語=小道)からそれなかった(19節)。神の聖名を忘れて異教の神に向かって手を延べることは無いが、尚あなたはそれを探りだされる(21~22節)。
 23節「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ屠られる羊と見なされる」。ローマの信徒の手紙8章36節に引用されている。 
 24節「われらの主よ、目覚めてください。なぜ、眠っておられるのですか、私たちを永遠に捨て置かず起き上がってください」。「捨て置かず」新協同訳」(突き放しておく)。「目覚めてください」と繰り返している。見離さないでくださいという切望である。十字架上の主イエスの祈りに共通している(マタイ福音書27章46節、詩59;5~6節にもある。
 キリスト者として困難のどん底からの叫びを神に向けることが出来るだろうかが示される。

あなたの光とまことを遣わしてください。

2020-05-26 | Weblog
詩43篇 

 3節「あなたの光とまことを遣わしてください。それらは私を導き聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう」聖書協会共同訳

  本詩は42篇に続く内容的同一のものとされている。小見出しはなく、呼び掛けが「神よ」(エろヒーム)と同じであり、42~49篇を「コラ詩篇」とされ、詠唱者(管理者)を担当した。
1節「神よ、私を裁き 私のために争ってください。神に忠実ではない国民から、欺きと不正の者から私を救い出してください」。直訳「また争い給え(ヴエリヴア-)、わが訴えを(リヴイ―)」
2節「あなたこそ、わが砦なる神。なぜ私を拒まれたのですか。なぜ私は敵の虐げの中を嘆きながら歩むのですか。直訳「なぜ私を見放されたのか(ゼナふターニ)岩波訳「なにゆえ私を突き放したのですか」。
3節「あなたの光とまことを遣わしてください。それらは私を導き、聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう」。本詩は水でなく「光と眞」である。
4節「私は神の祭壇へと、私が喜びなる神へと近づき、琴を奏でて、あなたをたたえます。神よ、わが神よ。」背景は。エルサレム巡礼の行列と音楽を奏でる者らが伺われる。これは捕囚により異国の地よりエルサレムを待望している。神の慈しみも知らず、欺きとよこしまな異邦の民に囲まれているこの境遇から救い出してくださいと切望する。
5節「私の魂よ、なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる『御顔こそ、わが救い』と。わが神よ」。42篇12節と同じで賛美の中のリレインで、自問自答である。魂は空になる程に思いを集中するのである。直訳「なお、私は彼に感謝する」(オッド オデンヌ)。ヘブライ語対訳聖書では「わたしはなお、告白しよう」と訳している。



私は喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。

2020-05-22 | Weblog
 詩42篇 

 5節「私は祭りに集う人の群れと共に進み、喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。それを思い起こして、私の魂を注ぎ出す。」聖書協会共同訳

1節「指揮者によって、マスキール、コラ」の子の詩。43篇に表題がないことと、6節、12節と、43篇5節に同じ繰り返しがあるところから、この二つは連続した詩と見なされる。
2節「鹿が谷川で水をあえぎ求めるように 神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」かつてはエルサレム巡礼の行列を導いた音楽を奏でる者であったが(43篇4節)、今は捕囚により、エルサレムと神殿から追放され、異教徒に苦しめられ激しい嘆きの中にある。干上がった川床で鹿が水を求めて喘ぐように、私の魂はあなたを慕い喘いでいるという。
3節「神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか」。エルサレムの神殿に詣でて主を賛美する日を待ち望む私には涙は昼も夜もパンのようであり、「お前の神はどこにいるのか」と人々の嘲笑が聞こえてくる(4節)。
5節「私は祭りに集う人の群れと共に進み、喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと、導いた。喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。それらをも思い起こして、私の魂を注ぎ出す」。「魂を注ぎ出す」とは心が空っぽになる程に思いを集中することである。
6節「私の魂よ、何故うち沈むのか。何故呻くのか。神を待ち望め私はなお、神をほめたたえる『御顔こそ、わが救い』と。」前述の通り12節、43章5節で繰り返されている。原文「うなだれる(テイシュットはひ-)岩波訳「くずおれる」文語訳「思い乱れる」。しかしなお神の御顔の救いを仰ぐ。
7節「わが神よ、私の内で魂は打ち沈み、あなたを思い起こす ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から」。山頂から雪溶けの水が激流となって流れ下るのである。
8節「あなたの激流のとどろきに答えて深淵は深淵を呼び込み 砕け散るあなたの波頭は私を越えて行く」その流れ下る轟きは神から声である。それは苦難の象徴であるが同時に神の慈愛を読み取ろうとするのである。
9節「昼に、主は命じて慈しみを私に送り、夜にはするm主の歌が私と共にある。わが生ける神への祈りが」
10節「わが岩なる神にこう祈ろう。『なぜ、私をお忘れになったのか。なぜ私は敵の虐げの中を嘆きながら歩くのか』と。
11節「私を苦しめる者は私の骨という骨を砕き、日夜、私を嘲って言う『あなたの神はどこにいるのか』と。」
12節「私の魂よなぜ打ち沈む、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神を褒めたたえる。『御顔こそ、わが救い』と。わが神よ。
 本詩から神への切なる待望と信仰の祈りが示される。


主は彼が病の床にあっても支えてくださる 

2020-05-16 | Weblog
 詩41篇 

 4節「主は彼が病の床にあっても支えても支えてくださる。その人が病気の時あなたはその床を新たにしてくださる」聖書協会共同訳 
  
 1節指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。この小見出しは40篇と同じである。文頭に「幸いなるかな」(アシュレー)が来る。それは「弱い者を思いやる人は。災いの日に、主はその人を救い出してくださる(2節)。原文「弱い者」(ダる)は3~4節に言及している弱く貧しい者である。聖書は一貫して主なる神への信頼と、同胞への愛の働きかけを連動して説く。つまり愛の業のなかで神の聖意が働くのである。箴言14章31節、マタイ福音書25章31~36節を参照したい。「主が守り、生かし 彼はその地で幸いな人と呼ばれる。その人を敵の思いのままにさせないでください」と。「主は彼が病の床にあっても支えてくださる。その人が病気にとき、あなたはその床を新たに変えてくださる」(3~4節)原文「あなたはひっくりかした」(ハフアふタ)「彼の寝床を」(ミシュカヴオ)=「寝返りを打たせた」。文語訳「床を敷き更(か)へ給わん」。ヘブライ語対訳では「立ち直らせてください」とあり、5節とつながる。
 5節「私は言いました『主よ、私を憐れみ、魂を癒してください。私はあなたに罪を犯しました』と」。主語が変わる。ここでは罪と病気とを結びつける伝統的な旧約の理解がある。「罪の病」とは何か。先天的な疾患と、自業自得の罪過とが明確にされていない。イエスの福音は罪と病を止揚するものである(ヨハネ福音書9章3節、ローマの手紙6章22~23節see)。
 6節「敵は私に悪意を持って言います『いつ彼は死に、その名は滅びるか』と」。そして、早く死んでその名も消えうせるがよいという。見舞いに来ても、その者の心は空しいことを語り、悪事を集め、外に出ては言い触らし、私を憎む者は皆、私のことでささやき合い私に悪をたくらみます(7~8節)。
 9節「『不吉なことが彼に起こっている。彼は倒れ伏してもう立ち上がることは出来ない』と」。私が信頼していた友さえも私のパンを食べながら威張って私を足蹴にします(10節)。ヨハネ福音書13章18節でユダの裏切りとして引用されている。
 11節「しかし主よ、あなたは私を憐れみ立ち上がらせてください。私は彼らに報います」。人間の信頼関係に限界があることを教え、それ故に神への信頼によって回復が求められる」。その根拠として
①主の御旨にかなうこと(12節)直訳「あなたが私を愛する事」(はフアツタ)
②反対者(敵)私に向って勝ち誇らない(直訳)凱歌を上げないよう(同)
③このことで、私は知りました あなたが私を喜びとされていることを。敵は私に勝ち誇れないことを」。
 13節「あなたは私を、全き者としてヘブライ語対訳「無垢なわたしを(ベトウミ)支え、とこしえまでもあなたの前にわたしを直訳「直立させた、確率させた」(ヴアタツイヴエ―ニ)
 14節「イスラエルの神、主をたたえよ いにしえからとこしえまで。アーメン、アーメン」。

これは詩篇第一巻(1~41節)の纏めである。
第二巻(42~72篇)、第三巻(73~89篇)、第四巻(90~106篇)
第五巻(107~150篇)。



私の耳を開いて下さった 

2020-05-13 | Weblog
  詩40篇 

 7節「生け贄の供え物も、あなたは喜ばれず私の耳を開いて下さった。焼き尽くすいけにえも、清めのいけにえも、あなたは求められなかった」聖書協会共同訳 
  
1節 指揮者によって。賛歌。
2節 「私は耐えて主に望みを置いた。すると主は私に向って身を乗り出し私の叫びを聞いてくださった」神への嘆願。2~12節は破滅から救われた感謝。後半13~17節は敵の攻撃より神の救助を求める祈りである。「身を乗り出し~」は意訳で「望みに(カヴオー)」「私は待ち望んだ(キヴイーティ)」。
3節「主は私を滅びの穴,泥沼から引き上げて、私の足を岩の上に立たせ歩みを確かなものとし」。私の口に新しい歌を我らの神への賛美を授けてくださった。多くの人はこれを畏れ,主に信頼する(4節)。
 5節「幸いな者 主を頼みとする人、ラハブにも、偽りの神に迷う者にも顔を向けない人。」 我が神、主よ、あなたは多くのことを奇しき業と計らいを私たちのために成し遂げられた。あなたに並ぶ者はありません。私がそれを語り伝えようにもおびただしくて数えきれません(6節)。ここで「ラハブ」(複数レハビーム)は「頑固な者、おごる者」を意味し、エジプトの別名である(87篇)4節89篇11節、イザヤ30章7節。岩波訳「暴君」。
 7節「いけにえも供え物も、あなたは喜ばれず、私の耳を開いて下さった。焼き尽くすいけにえ(潘祭)も清めのいけにえ(罪祭)もあなたは求められなかった」。形骸化した礼拝でなく、真の礼拝こそ神は求められるということである。「耳を開いてくださった」は直訳「耳を(オズナイム)あなたは掘った(ヴァはター)私のために(りー)」。出エジプト記21章5節see自主的に主人に仕える徴として行う儀式であった。
 9~12節は6~7節を受けて眞の礼拝を告げる。
 ①あなたの律法は私の胸の内にあります(9節)。直訳「の中に(べとふ)わが腸(メアイ)」
 ②私は義を告げ知らせました。決して唇を閉じません(10節)
 ③正義、直訳「あなたの義」(ツイドウはー)を心の中に秘め置かず…真実(エムナトウはー)と救いを語る(11節)。
④…慈しみ(はスデはー)と眞(まこと)(ヴァアミテはー)を隠しませんでした」(12節)。
  13節「数え切れないほどの災いが私に絡みつき、見ることが出来ないほどの過ちが私に迫りました。それらは私の髪の毛より多く、ここで私の心さえ私を見捨てました(二律背反状態)」。状況は変わるのである。私にからみつく罪からの救いと、命を奪おうと狙っている者と、災いに遭わせようと企む者が退けられるように祈る(14~15節)。詩70編1~6節は14~18節が殆ど同じである。
 16節「私を「あはは、あはは」とはやす者が自ら恥を受け、うろたえますように」。直訳「うろたえますように、彼らの恥のポショタム 結末(エケヴ)」(「あはは、あはは」(はアへ はアへ)=やった、うまくいったゾ。
 18節「私は苦しむ者、貧しい者。わが主が顧みて下さるように。あなたこそわが助け、わが救い、わが神よ、ためらわないでください」。直訳「遅れ給うな」(ルはアテ)わが神よ(イハろエ )」。
極貧の貧しさ(アニー)が強調されている。それは心打ち砕かれた態度表明である。しかし耳は開かれ(7節)真の礼拝がなされる時、恵みの御業を心に秘めることなく、集会で真実と救いを語り証しするということである(11節)。

主よ、私の祈りをお聞きください

2020-05-09 | Weblog
詩39篇 主よ、私の祈りをお聞きください 

 13節「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください」聖書協会共同訳 
  
1節 指揮者によって。エドトンの詩、賛歌。ダビデの詩。
2節 私は言った。『舌で罪を犯さないように。わたしの道を守ろう。悪しき者がわたしの前にいるうちは、口に轡をはめておこう』と。神への嘆願。38篇と同じ重い皮膚病を担っているかに思われる。何故口に轡をはめておくのか。それは悩ませている苦難のゆえに人生の空しさつぶやき「神に逆らう者」(口語訳=愚かな者)からのそしりを受けることがないためである。岩波訳「不法者の冒涜と曲解をうけさせぬように言葉を慎む」。ここでは悪意を抱いている者で9~⒑節で繰り返されている。
3節「私は黙り込み、口を閉ざし善いことついても沈黙した。だが、わが私の苦痛は募り」。私の内で心が熱くたぎった。私の呻きで火は燃え上がり、私の舌で私は語った。(4節)忍耐の限界を覚え、沈黙を破って神に呼びかけずにおれないのである。
5節「主よ、そこで知らせてください、私の終わりを。私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。私は知りたい。如何に私が儚いかを」。
6節「そうです あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。私の寿命など、あなたの前では無にひとしい。確かに立っているようでも人間は皆等しい」。「手の幅」とは四本指の幅で距離(場所―旅路)の表現で僅か10センチにも満たないのである。
7節「人は影のように歩き回り、空しいことであくせくしている。積み上げはするが、誰が集めるか知らない」。「空しいことであくせくする」直訳「虚しく(ヘヴェる)彼らは騒ぐ(イエへマユン)」。地上で積んだ富は、誰の手に渡るのか判らないが、知らぬ間に消えてしまう。「影の中」(ベツェれム)は暗黒の中のことである。
8節「今、私は何に望みを置きましょう。わが主よ、私が待ち望むのはあなただけです」。背きの罪のすべてから私を助け出してください。愚かな者のそしりを受けることのないようにしてください(9節)。「愚かな者のそしりを受けること」直訳=「恥としてヘるパット 愚か者のナヴアる 私を 置き給うな アるテスイメーニ」,岩波訳「愚かな者の笑い草として置かないでください」
10節「私は、黙り込み口を開きません。あなたがそうなさったからです。」これは3節にもある。私は御手に撃たれて衰え果てています。私をさいなむその御手を放してくださいと訴える(11節)。「御手に撃たれて」は意訳で「あなたの手の(ヤデウは-)打撃によって(ミティグラット)」。肉体的苦痛を指す。岩波訳では「あなたの鞭を私から離して下さい」となっている。
12節「あなたは過ちを責めて人を懲らしめ、人の欲望を、虫が食うように溶かしてしまいます。まことに、人間は皆空しい」。新共同訳は「虫けら」であるが直訳は「しみが食い尽くす」で漢字では「衣魚、紙魚」で「しみ虫」と呼ばれるので間違いでは無いが、ヨブ記4章19節、エフェソ5章28節など出てくる。
13節「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないで下さい。私はあなたに身を寄せる者、すべての先祖と同じ宿り人」。しかし結語では、苦難の中で虚しさを覚えながら唯一残されたことは主への祈りである。私の祈りを聞き、叫びに耳を傾け、涙に沈黙しないで下さいと訴える。影の中にうつろう日々では無く(7節)、あなたと伴う寄留者、居住者としてくださいと祈る。私が去って行く前に、私を立ち直らせてくださいと心から嘆願する祈りである。
14節「私から目を離して下さい。そうすれば、私は安らぎます。私が去って、いなくなる前に」。「目を離して」は直訳「目をそらせ給え(ハシャは)」で立ち直る為である。別訳は「解放する」(ヨブ記22章7節、イザヤ22章4節)である。空しい人生が転換する信仰を、ここで読み取ることができる。




私の望みはすべてあなたの前に

2020-05-05 | Weblog
  詩38篇  

 10節「わが主よ、私の望みはすべてあなたの前にあります」聖書協会共同訳 
  
1節 賛歌、ダビデの詩。記念のために。2節「主よ、怒って私を責めず、憤って私を懲らしめないでください」見出しの「記念」とは素祭(レビ記2章1節)の中で火祭として献げる感謝を表している。
本詩は七つの悔い改め(6,32、38,51,102.130,143各編)の一つ。先ず神の怒りから解放されることを嘆願する。わたしは「矢で射抜かれ、押さえつけられた獲物」のようだと訴えている(3節)。あなたの矢がわたしの中に突き刺さったという。痛みが全身に走るのである。矢を射られた獲物が暴れて逃げる有り様を想定している。
 4節「あなたの憤りのために私の肉体は健やかなところはなく 私の罪のために骨に安らぎはありません」。「私の過ちは頭を越えるほどにもなり、罪が耐えがたい重圧となって押しつぶされるほどだと告白する」(5節)。
①骨は痛む(4節) ②負った傷は膿んで悪臭を放つ(6節)
③身をかがめてうなだれて歩く(7節) ④腰はただれ(8節)
⑤体は健やかなところはない(8節) ⑥力は失せて立てないほどである(9節)それは重い皮膚病に罹っている有り様である。
 10節「わが主よ、私の望みはすべてあなたの前にあります。嘆きもあなたから隠されていません」。願いと嘆きはすべて御前にあるという。そして取り巻かれている孤独な状況を告白する(11節)。その時、愛する者も。友も、身近な者も避けて離れていくのである。ここに孤独の苦悩がある。そして彼は何一つ反駁しないのである(12節)。命を狙う者、禍を望む者らは一日中欺き罠を仕掛けて「欺こう」「破滅させよう」となえている(13節)。私の耳は聞こえず、口は開くことも出来ない状態になっている(14~15節)。
 16節「主よ、私はあなたを待ち望んでいました。わが主よ、わが神よ、あなたは答えて下さいます」 私は言いました『私のことで彼らが喜ばないように』と。私の足が揺らぐと、彼らは私に尊大に振舞いました(17節)。
 18節「私は今にも倒れそうです。常に痛みが私の前にあります」。これは94篇18節にもある。解決は自分の過ちと罪過を言い表して主に祈ることだと言う(19節)。「私の敵は意気盛んで(原文「生き生きとして(はイーム)強くなる(アツェーム-)」、数を増し、私を憎む偽り者が増えています。善に悪をもって報いる者が善を求める私を訴えています」(20~21節)。
 22節「主よ、私を見捨てないで下さい。我が神よ、私から遠ざからないでください。」急いで私を助けに来てください。わが主、わが救いよ。(23節)」
苦悩と悔恨の情念が溢れている詩篇である。苦悩は彼らになした善に、悪で報いるという不条理である(35篇12~13節see)。
 キリスト者には苦難を受容する信仰がある。イエス・キリストの十字架と復活を通して、すべての罪と死との支配から解放される。そしてその恩寵は苦しみと病を受け入れることとなる。「世に勝つ信仰」(ヨハネ福音書16章33節)、であり、正に「恩寵無限」である。

主の前に沈黙し、主を待ち望め

2020-04-30 | Weblog
 詩37篇  

 7節「主の前に沈黙し、主を待ち望め成功の道を行く者 謀を遂げる者に怒りを燃やすな」聖書協会共同訳 
  
1節(アルファベットによる詩)ダビデによる詩 悪をなす者に怒りを燃やすな 不正を働く者に怒りを燃やすな。」アルファベット詩は34同じである。一人の長老(わたし25、35節)が神に逆らう者のむくいについて若者に忠告を与える形の箴言に近い詩である。同じテーマは49、73編にある。全体を1~11節静かな信頼、12~22節神に従う者と逆らう者にたいする反省、23~40節祝福と裁きの三つに区分される。1節の悪事をなす者が繁栄しているように見えるが心悩ますな、心熱くなるなと勧める。彼らは若草に見えるが、それは一時に過ぎない。彼らは草のように瞬く間に枯れ 若草のようにしおれる(2節)
 3節「主に信頼し、善を行え 地に住み、真実を育め。」解決は主を「依り頼め」(ベタは)。「善を行え」(る。 
 4節「主を喜びとせよ。主はあなたの願いをかなえてくださる。」「主を喜びとせよ」は直訳「そして深く喜べ(ヴェヒトウアナグ)主によって(アる アドナイ)」信頼はよろこんで委ねる時にこそ結果があらわれる。さらに信頼は、あゆむ道を主にまかせることである(5節)。直訳「転がせ」(ゴル)「によって」(アル)「主」(アドナイ)」。「ゴロゴロ」という転がす擬音からきた言葉であり、ヨシュア記5章9節に転用され、道の邪魔な大石を除くことである。「私は道である」と告げて下さる主に信頼し、導かれることである(ヨハネ福音書14章6節)。導かれる道の光は義(ツエドウク)であり、公正(ミシュパテーは)を真昼のように輝かすのである(6節)。
 7節「主の前に沈黙し、主を待ち望め。成功の道を行く者、謀を遂げる者に怒りを燃やすな。」原語「成功の道を行く者」とは「栄える人のこと(ベマツりアハ)」で悪巧みを遂げる者を指している。この手の人物は8~10節の「悪しき者」として示されるが、暫くすれば探してもいなくなるので、怒りを解き、憤りを捨て燃やすなと勧められる。「悪をなす者は絶たれ、主に望を置く人こそ地を受け継ぐ。」(9節)
 11節「苦しむ人が地を受け継ぐ。彼らは豊かな平和を楽しくむ。」「新共同訳」は「貧しい人」と訳しているが、原語「柔和な者たち」(アナヴィーム)」でマタイ福音書5章5節(改訳~柔和なる者、その人は地を嗣がん)に引用されている。3節、9節、22節、29節の文脈から何れの訳にも理解されよう。
 23節「人の歩みは主によって確かなものとされその人の道を主は喜ばれる」。ここから40節は主題が祝福と裁きになる。5節にある通り、主に信頼して歩む者は、歩みのすべてにご干渉なさる訳である。これは不自由のように思われるが、これほど安全なことはない。危険に満ちた人生の旅路であればあるほど、これは豊かな励ましとなる。正しい人が見放されているようでも、わたし(長老)が若かった時も、年をとった今も、生涯を顧みると、必ず報われていると説く。
 26節「日毎憐れみ、貸し与える人、その子孫は祝福にあずかる。」これが結論である。そこで具体的な事例を述べる。
 27~29節 善を行い主の慈しみに生きる人は地を継ぐが逆らう者は絶たれる。
 30~31節 知人は知恵を口ずさみ、心に教えを抱くので、よろめく事はない。
 32~34節 悪しき者は義人を殺そうと待ち構えるが、主は彼を見捨てない。裁かれる時、罪に定められない。悪しき者を滅ぼされる。
 35~36節 悪しき者が勢いよく茂っていても、跡形もなく消えてしまう。
     岩波訳「青々と繁る原生樹ではびこるが、どうだろう彼はいない」
 37~38節 全き人を守り、まっすぐな人を見よ。後の繁栄は平和の人にある。
      悪しき者の後の繁栄は絶たれる。
 39~40節 正しき者の救いは主から来る。主は悪しき者から助け出し、救って下さる。

     


主よ あなたの慈しみは天にあり 

2020-04-28 | Weblog
詩36篇    

 6節「主よ あなたの慈しみは天にあり あなたのまことは雲にまで及びます」聖書協会共同訳 
  
  1節「指揮者によって、主の僕の詩。ダビデの詩(小見出し)。「背きの罪が悪しき者にささやくのが 私の心に聞こえてくる。彼の目には神への恐れがない」本詩も三十五編と同じ内容から三つに区分される。
 ①1~5節 悪しき者について述べる。
 ②6~10節 一変して神への祈りと賛美となる。
 ③11~13節 主の慈しみに生きる者と悪事を働く者の対比された祈り。
  2節「主の僕の詩」は詩18篇と同じで罪中心の生き方を止めて神の愛に生きることである。「私の心に聞こえてくる」直訳「わが心の奥に悪しき者への咎(ペシャ)のささやきである。わたし(ダビデ)は悪しき者に罪がささやかれていることが判る」という、鋭い洞察力が示される。
 3節「彼は自分の過ちを認め、憎むはずが、自分の目で自らにへつらった」。色眼鏡をかけることで、善悪の識別が転倒している。
 4節「その口の言葉は悪事と欺き、悟りを得ること、善を行うことをやめた」。直訳「彼は止める(はダる)賢くなることと(れハスキィーる)善を行うことを(れヘティーヴ)」。これはアダムの原罪を思わせる。
 5節「彼は床の上で悪事をたくらみ善からぬ道に立ち、悪を拒まない」。祈りの床が、悪事を謀ることになっているというのである。
 6節「主よ、あなたの慈しみは天にあり、あなたのまことは、雲にまで及びます」。6~10節は一変して神への祈りと賛美である。神の慈愛(ハシェド)と真実(エムナー)は暗い大地を照らす大空の太陽と光のようだと賛美する。神の正義(ツェドュク)は神の山々、裁き=公正(ミシュパート)は大きな淵のようであり、人と獣を主よ、あなたは救われると歌う(7節)。創世記1章エデンの園が描かれている世界。神の正義、公正は神の働きである。慈しみに覆われている天は如何に尊いことか。それは雌鶏の翼の影に身を寄せる雛のようである(8節)。
 9節「彼らはあなたの家の豊かさによって満ち足りあなたの喜びの川に渇きを癒します。」それは豊かな食卓でご馳走にあずかり満腹するようである。原文「彼らは満ち溢れる(イルヴェユン)「脂肪で( ミデシェン)」「あなたの家の(ベテーは)」
 10節「命の泉はあなたのもとにあり、あなたの光によって、私たちは光を見ます。」光源は神にあり、その光に照らされて総べてを見ることが出来る。眞の光こそ命の泉である。創世記1章3節、ヨハネ福音書1章4~5節が示される。
 11~13節主の慈しみに生きる者と悪事を働く者とが対比される祈り。
 11節「あなたを知る人にあなたの慈しみを、心のまっすぐな人にあなたの正義を絶えず注いでください。」10節と同じ原理で、神より知らされて初めて神を知るのである。直訳「続け給え(メショふ)」「あなたの慈しみを(はスデはー)あなたを知る者達に(レヨデエーは)」
 12節「高ぶる者の足がわたしに向うことがありませんように悪しき者の手が私を路頭に迷わす事がありませんように。」岩波訳「わたしに来るな、傲った足は。不法者らの手は私をさまよわすな」。追い立てる、追放する、彷徨するというのはダビデの生涯で、思い浮かばせる経験であったろう。「高ぶる者」「おごる者」「悪事を働く者」(12~13節)は11節と対照的である。

私は大いなる集会であなたに感謝をささげ

2020-04-25 | Weblog
詩35篇    

 18節「私は大いなる集会であなたに感謝をささげ強力な民の中で、あなたを賛美します」聖書協会共同訳 
  
 1節「ダビデの詩。主よ、私と争う者と争い私と戦う者と戦ってください」。
盾と大盾を手にし、私を助けるために立ち上がってください2節。本詩は三つの詩が纏められている(1~⒑節、11~17節、18~28節)。10節までは主の助けを呼び求める祈りである。争いに勝ち、立ち上がって助けてくださいと祈る。
 3節「槍と投げ槍を構えて私に迫り来る者に立ち向かい私の魂に言ってください『あなたの救いはわたしだ』と。直訳「私に向って追い攻める者達を、槍を抜いて閉じ込めてください。そして「私こそお前の救いだ」と言ってください。
 4節「私の命を狙う者が恥じと屈辱を受け、私に悪をたくらむ者が、退き、辱められますように。」そして恥をかき後退して辱めを受けますようにと願う。
 5節「彼らが風の前のもみ殻のようになり、主の使いが彼らを吹き倒しますように」。そして「風に飛ばされるもみ殻となり(子孫が無い)、道は暗闇にふさがれ、滅ぼそうと仕掛けた罠に自ら掛かるようにして下さいと祈る(6~8節)。
 9節「私の魂は主によって喜び踊りその救いによって喜び勇む」。私の骨も助け出されたことを喜び踊り、10節「『主よ、誰があなたのようであり得ましょうか。苦しむ人を強い者から苦しむ人と貧しい人を奪い取る者から助け出される「方よ』と私の骨がこぞって言います。」「骨」を人格化して称することは旧約では珍しいことではない(創世記2章23節、列王記下13章21節、詩6篇2、エゼキエル37章1~11節。)
 11節「悪意のある証人が立ち上がり身に覚えのないことばかりを問い詰める」。神の法廷での証言は21節まで続く。原語「悪意のある証人」「極貧の人を(ヴエエヴヨン)」「彼を強奪する者ら」(ミゴゼろ-)彼らは私の善に悪をもって報い私の魂を不毛なものとした。「彼らが病の時、私は粗布をまとって断食し、自らを苦しめ胸の内に祈りを繰り返した(12~13節)。私は親友か兄弟のように歩き回り、母の死の喪に服す子のようにうなだれて歩いた(14節)。原語「そして私がびっこをひく時(ウベツァるイ)、彼らは私を知らない者らと一緒に押し寄せて打ち、鎮まらなかった(15節)。
 16節「彼らは私を試し、ひどく嘲笑い、私に向って歯ぎしりをした。」わが主よ、あなたはどのように御覧でしょうか。彼らのたくらむ破滅から私の魂を、肉を裂く多くの若獅子から私のただ一つのものを取り戻して下さい(17節)。「ただ一つのもの」とは「わが魂」である。11~17節は不法な証人による冤罪が語られたのである。
 18節「私は大いなる集会であなたに感謝を献げ強力な民の中で、あなたを賛美します。」本詩の第三部として18~28節に纏められ、18節を反復語として示し、敵対者への報復を願う。
彼らの偽りの言葉で喜ぶことを止めさせ、欺きの言葉で穏やかに暮らす者を惑わさないようにする(19~21節)。
神の介入を求め、沈黙なされず、目覚めて奮起してください。(22~23節)。主よ、あなたの正しさにより裁き、彼らが私のことで「あはは、上手く行った」とか「一呑みにした」とか言わず、尊大に振舞う者が恥と辱めを受けますように(24~26節)。
 27節「私の義を喜ぶ人たちが楽しみ、喜び、絶えることなく言いますように『主は大いなる哉、その平和を望む方は』と」。感謝と賛美の誓願で終わる(28節)。



主は心の打ち砕かれた者に寄り添い

2020-04-22 | Weblog
詩34篇   

 19節「主は心の打ち砕かれた者に寄り添い、霊の砕かれた者を救い出す」聖書協会共同訳   
 1節「小見出し ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で気がふれたように装い、逃れて去ったとき。
 2節「私はどのような時も主をたたえよう。私の口には絶え間なく主の賛美がある」。前半11節までが苦難からの救いの喜びと賛美であり、後半12節以下は教訓的な教えである。すべての時に主を賛美し、口に賛美が絶えないのである。
 3節「私の魂は主を誇り 苦しむ人は 聞いて喜ぶ」。私と共に主を崇めよう。共に御名を崇めよう(4節)。原文「へりくだる者達は(アナヴイ―ム)聞くように(イシュメウー)そして喜ぶように(ヴェイスマーフー)。苦難は心貧しく、謙遜な態度にされる(マタイ福音書5章3節)
 4節「私と共に主を崇めよ。共に御名を崇めよう」。私が主を尋ね求めると、主は私に答え、あらゆる恐怖から助け出してくださった(5節)。
 6節「主を仰ぎ見る人は輝き、辱めに顔を伏せることはない。」原文「彼らが見つめる (ウミコる)」「彼を(エらヴ)」「すると彼らは輝く(ヴェナハールー)」そして「彼らの顔を(ウフェネヘム)」伏せることはない。岩波訳「決して恥じ入らない」。
 7節「苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き、あらゆる苦難から救ってくださった」。主の使いは主を畏れる者の廻りに陣を敷き彼らを助け出した(8節)。歴史的出来事としては列王記下6章14~19節、イザヤ書37章36~38節を参照したい。32篇7,⒑節にも囲んでくださる主を賛美している。
 9節「味わい、見よ、主の恵み深さを。幸いな者、主に逃れる人は」。主の聖なる人よ、主を畏れよ。主を畏れる人は乏しいことがない10節。口語訳「主の恵み深きことを味わい知れ」ヘブライ語の語順は聖書共同訳に近い。
 11節「若い獅子は獲物がなくて飢えるが、主を尋ね求める人は如何なる良いものも欠けることがない」。すべての善(トーブ)に欠乏しないのである(10~11節)。
 12節「子らよ、来て私に聞き従え。主を畏れることを教えよう」。12節から後半は教訓的な詩となる。それは「主を畏れ敬うこと」(10節)である。
1 3~15節は第一ペテロ3章11~13節に引用されている。「命を慕い日々を愛して恵みにまみえる人は誰か」(13節)。原文冒頭に「誰か(ミー)その人は(ハイーシュ)と言う呼び掛けがある。「舌を悪から、唇を欺きの言葉から遠ざけ(14節)、悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、原語「かつそれを追い求めよ」(ヴェロドヘエーフ)(15節)。
 16節「主の目は正しき人に注がれ その耳は彼らの叫びを聞く」。16~23節は「正しき者」と「悪しき者」とが対比して記されている。主の御顔は悪を行う者に向きからの記憶を地から絶つ(17節)。正しき者が叫ぶと、主は聞き、あらゆる苦難から助け出される(18節)。心が砕かれ、霊の砕かれた者に寄り添う(19節)。災いは多いがすべてから助け出され、その骨は1本も砕かれることはない(20~21節)。
 22節「災いは悪しき者を死に陥れる」。ヘブライ語対訳は「(「殺す」(テモテート)「悪しき者を」(ラシャア)「悪は」(ラアー)。である。

 「悪を行う者」(17節)「主に逆らう者」(22節)に対しては主の審判にあう。然し主に信頼を寄せ、主を求める者は大きく違うことが示されている(23節)。



幸いな者 主に過ちをとがめられず 

2020-04-19 | Weblog
 詩33篇   

 1節「正しき人よ、主によって喜び歌え」聖書協会共同訳   

 1節「正しき人よ、主によって喜び歌え。賛美はまっすぐな人にふさわしい」。1~3節は賛美への招きであるが、1節は32篇11節と同じであり、原文「義人たちよ(ツアデイキーム)」喜び歌え。「正しい者達 (らイエシヤリーム)喜びの声をあげよ、力強く賛美することが出来る。琴と十弦を奏でて主に感謝をささげ、ほめ歌うのである(2節)。
 3節「新しい歌を主に歌え、喜びの叫びと共に麗しく奏でよ」。本詩は新年祭の詩篇とされている。
 4節「主の言葉はまっすぐ 主の業はすべて真実」。ここら神の創造の業とその秩序を賛美する。主は正義と公正を愛し、主の慈しみに地は満ちる(5節)。主の言葉により、その息吹によって天の万象は造られた(6節)。主は大海の水を革袋に入れるように集め、深淵の水を倉に納められた(7節)。原文「集める(コネス)」「堰のように(カネッド)」「水を(メー)」「海の(ハヤム)」。
 8節「全地は主を畏れる。世界に住む者は皆、主の前におののく」。主が語ると、その様になり、主が命じると、そのように立った(9節)
 ⒑節「主は国々の思いを挫き、もろもろの民の計らいを絶たれた」。主は国々(原文)「異邦人達」(ゴイーム)の計画を無効にし「諸民族」(アミーム)の考えを妨げる。主の思いはとこしえにその心の計らいは代々に立つ(11節)。それは比較すべくもない。
 12節「幸いな者 主を神とする国民 主がご自分のものとして選んだ民」。「幸いだ」(アシュレー!)32篇1節と同じ。13節「主は天から見つめすべての人の子らを御覧になった」。創造主の神が天の御座から選ばれた嗣業の民を御覧になることが13~17節に以下の通り記されている。
 ①13節「天から見つめる」(ヒビート)
 ②13節「すべての子ら一人一人を見る」(ラアー)
 ③14節「目を注ぐ」原語(観察するヒシュギアは) 
 ④15節「すべてを見分ける方」(ハメヴィン)
 ⑤16、17節「王が兵の数(原語ベロブ)で勝利しない。
 ⑥18節「見よ、主の目は主を畏れる人に、主の慈しみを待ち望む人に向けられる。」原語「見よ、主の目は向って」(ヒネー エン アドナイ エる)「畏れる者達(イエレアヴ)。これは19節につづく。

 アブラハムがイサクを祭壇に献げようとした時、主が見つめられた出来事を思い出す。そこは「アドナイ・イエラエ」(神は見られる)と呼ばれる場所であった(創世記22章14節)。これまで「エホバ・エレ」文語訳「主備え給う」として翻訳されていたが、その場所をアブラハムが見た13節の文脈を些少してはならない。主はそこに慈愛の眼差しを向けているのである。(詩84篇8節see)。
今一つの事例がある。主イエスが捉えられて裁判の法廷に引かれていく途中大祭司の屋敷の中庭にいたペトロとすれ違った場面があり、その時「主イエスが振り向いてペトロを見つめられた。彼はその眼差しに激しい悔恨の念に打たれた。(この慈愛の眼差しが賛美歌21:197番「ああ主のひとみ」として歌われる。

 19節「彼らの魂を死から粋な助け出し飢饉のとき彼らを生き長らえさせるたに」。厳しい審判の眼差しを向けられると、人は誰も立ちえない(32篇1~2節、53篇3節see)。
 20節「私たちの魂は主を待つ。この方こそ我らの助け、我らの盾。主語が「我ら」となり聖なる御名に依り頼む者の喜びと賛美である(21節)。これは馬車や兵士に頼る者と比較される(17節)。
 22節「主よ、あなたの慈しみが 私たちの上にありますように。私たちはあなたを待ち望みます」