日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

安否を問う

2006-06-30 | Weblog
 4章手紙の最後は消息欄になっている。ここに目に留まる人物がいる。
 先ず10節バルナバのいとこマルコである。彼は第二伝道旅行の時パウロから非難されて一緒に連れて行かれなかった若者?である(使徒言行録15章)。しかしその後の経緯は判らないが一緒に捕らわれの身になっている。和解があり生死を共にする協力者となった。
 12節キリストの僕エパフラスはコロサイ教会の創立者だが、信徒をいつも覚えて信仰が完成するよう熱心に祈っている牧会者である。
 14節医者ルカがパウロと一緒である。彼は福音書と使徒言行録の執筆者と伝えられている。「医者」の肩書きを記すのは珍しい。医療伝道者だったのか。

 「あなたがたによろしくといっています」(10、11、12、14節)だが、改訳は「安否を問う」である。「よろしく」は軽い。危険にさらされた境遇に身を置く同志であれば、通り一遍の挨拶でないように思える。
 そのことを深く示されるのが、18節である。
 「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように」
 安否を問いあう者でありたい。
 (写真 ベト・シャン 競技場跡)

完全な結びの帯

2006-06-29 | Weblog
 3章で示されるのは、「脱ぎ捨て」9節、「身に着けなさい」12節とあることだ。
 捨て去り、脱ぎ捨てるものが5節、8節にはっきり示される。そして新しく身に着けるものは12節「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」である。
 そのモデルがある。
 10節「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされ」る。
 「日々新たにされる」というのは、清潔で衛生的な日常生活を送るのと同じである。キリスト者として日々清潔を与えられることであり、新生(入信)のことではない。
 そこで、衣裳を身に着ける時に肝心なのは何かだ。それが7節「愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです」である。新共同訳はよくない。
 文脈からみて、新改訳「愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」は適訳である。口語訳も「愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」となっている。女性が帯を締めないで和服を着ることは考えられない。男性の場合はバンドを締めないと様にならない。
 ここは「きずな」ではなく「帯」と訳す必要がある。
 (写真 ヨルダン川に沿って北上 旧跡ベトシャン) 

キリストに根をおろす

2006-06-28 | Weblog
 パウロのどの手紙にも論敵が出てくる。2章では8節「言い伝えに過ぎない哲学つまり、虚しいだまし事」16「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者」23節「独り善がりの礼拝」などである。
 これは似非キリスト教ということであり、今日では、ものみの塔、モルモン教、統一協会などがそれである。その他に聖書を引用して説く擬似宗教もある。運勢や干支、方角、占いに囚われている者は多い。某テレビ番組に占い女性がタレントのように顔を出している。
 真偽の区別は、知恵と知識の宝なるキリスト(2節)にしっかり結ばれることである。
 7節「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」
 (写真 各所の洞窟から聖書の写本が発見された)

福音の希望

2006-06-27 | Weblog
聖書通読は今朝からコロサイの信徒への手紙である。
 1章13~20節には「キリスト告白」が出ている。特に16、17節は創造に関わる御子で、ヨハネ福音書1章1~3節と合わせて読むと理解が深まる。
 7節から、コロサイはエパフラスの伝道によって出来た教会であることがわかる。
 しかしパウロはコロサイの教会形成に心を用いている。
 23節「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」
 福音の希望とあるが、それは三つの祈り(10~12節)に示されている。つまり「神をますます深く知り」「根気強く耐え忍び」「御父に感謝する」ことである。
 そして、この福音の希望は「栄光の希望」(27節)なのである。
 いつでも、福音の希望を脅かす悪しき力が入ってきて、信仰を揺さぶっていることに気をつけたい。
 (写真 死海に面した丘陵地帯 クムラン)

しなやかに生きる

2006-06-26 | Weblog
 4章11節「自分の置かれた境遇に満足することを習い思えたのです」とある。更に12節「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」という。
 これは厳しい生活環境の中で、臨機応変うまく立ち回る処世術ではない。
 これを解く鍵は二つある。ひとつは「キリスト・イエスによって…必要なものをすべて満たして下さいます」(19節)ということ、そして次に「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(5節)である。
その具体的な証が、フィリピからの豊かな贈り物であった。
「しなやかに生きる」という表現があるが、これがあらゆる境遇に対処するということであろう 
 (写真 マサダ要塞の一部)
 

ただこの一事を

2006-06-26 | Weblog
  3章を読むと、フィリピにも論敵がいたことが判る。2節「あの犬どもに注意しなさい」とある。それは5~6節と7~14節のパウロの信仰体験を通して明確に対比している。回心前と後といってもよい。
 キリストに捕らえられている今は、過去の一切の誇りは8節「塵あくたと見なしています」という。口語訳は「ふん土のように思っている」である。
 ここで大切なことは12節である。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
 これは体験して判ることだが、母親が眠っている幼児を背負うのと、覚めている幼児を背負うのと大きく違うのに似ている。子守が眠らせる為に背負うのは論外だが。
 仏教には自力信仰、他力信仰という表現があるが、キリスト教がこのように明確に区別できないのは、信仰がダイナミックなキリストとの人格関係だからである。
 13節が強く響いてくる。口語訳「ただこの一事を努めている。」 the one thing I do (TEV)

イエスの心を心とせよ

2006-06-24 | Weblog
 2章で響くのは6~11節のキリスト告白である。受肉、十字架、復活、昇天が明確に示される。これを生きるベースにして、愛の慰めや慈しみと憐れみの心が互いに通い合い、交わりや一致を作りだす。
 2節「 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
 また主の礼拝で共に献身し、共に喜ぶ(17節)ことができる。
 奉仕者、協力者、戦友エパフロディトの健康回復と帰任再会の喜び(29節)も同じである。
 ここに喜びのハーモニーがある。主旋律は、5節にある。
 改訳「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」新共同訳では判り難い。この聖句が消えたのは、まことに残念である。
 (写真 伝書鳩に使われた鳩小屋跡)

福音にあずかる

2006-06-23 | Weblog
 フィリピ1章を読むと軟禁(7、13節)、獄中(17節)の言葉から執筆の状況が伺われる。そして20節「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」とある。厳しい状況で生命を賭してパウロは福音を伝えている。
 苦難や試練は避けたいし無いことを願うが、キリストの生命を証しするのに利益であるなら甘んじるという。苦しみを受容する信仰であり、判っていても容易ではない。しかし神の約束がある。それは
 5~6節「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」
 「福音にあずかっている」とは意味深いことである。7節に同じような言葉がある。英訳ではfellowship、原語はコイノーニアだ。
 これは、時と処を越えて福音に結ばれた交わりである。
(写真 マサダ要塞から北渓谷)

根気よく祈る

2006-06-22 | Weblog
 6章1~4節と5章21~33節は聖書の家庭像であろう。夫婦や家庭の問題を時代や環境が悪いせいにするが、エフェソのことを思うと言い訳できない。聖書の標準に立つことである。
 現実をしっかり見据えることである。11節「悪魔の策略」とか13節「邪悪な日」とある。これに対抗する神の武具で武装するのである。雄姿を想像するが、ゴリアテに対抗した少年ダビデと同じである。サムエル記上17章にある。「この戦いは主のものだ」。そこで示されるのが 
 18節「どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」
 共同の祈り、執成しの祈り、密室の祈りを絶やさないのである。
 悪戯児が玄関のベルを押して逃げるような祈りでは駄目である。
 (写真 海抜450mのマサダ要塞から)  

唇の実

2006-06-21 | Weblog
 5章で示されるのは、語る言葉である。日常会話で差別発言とか性的嫌がらせ発言が問題になるが、ここでも3~4節、6節で明確に指摘している。汚れた、愚かな、卑猥な言葉などなど。
 主イエスは口から出て来るものは心から出て来るので、これが人を汚すとして悪意、殺意…悪口を上げている(マタイ15章19節)。
 そこで心の暗闇を追い出して頂かなければならない。それは「光にさらされる」(13節)ことである。
 8節「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」
 言葉をきよめていただく。塩で味付けした言葉を語る。
 19節「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
 自慢することではないが、聖歌と賛美歌合せて200曲以上歌えるキリスト者は少なくないだろう。
 いつも唇の実を神に献げたい。
 (写真 マサダ要塞の模型)

体の成長

2006-06-20 | Weblog
 4章では「一つの体」4節として建てられた信仰共同体は一つの洗礼、一つの信仰ではあるが、構成する各部分は様々な賜物を与えられていることが判る。コリント第1の手紙にも記されていた。
 初代教会で既に11節「使徒、預言者、福音宣教者(伝道者)、牧者、教師」と区分された。これは働き分野の違いを示している。 何故か。
 12節「キリストの体を造り上げる」為である。各々が分に応じて働くときに体は成長するのである。「成長する」が三回出てくる(13、15、16節)。
 これは成長しない未熟な者がいるということだ。
 17~31節を読むとそれが判る。「情欲に迷わされ」とか「怒る」「盗みを働いていた」「悪い言葉」「無慈悲」などが問題になるのは驚きである。
 そこで次の聖句が一層強く響く。
 23~24節「心の底から新たにされて神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るように」
 27節「悪魔にすきを与えてはなりません。」
 30節「神の聖霊を悲しませてはいけません。」
 いつまでも未熟ではなく、早く成熟した大人の教会にしていただきたい(13節)。
 (写真 ケーブルでマサダ要塞に登る)

愛の共同体

2006-06-19 | Weblog
 1章にあったが3章で再び「神がキリストによって実現された永遠の計画」(4節、11節)を伝えている。
 それは異邦人もユダヤ人もない、すべての人がキリストを要石として建てられた聖なる神殿、神の住まい(2章20~22節)となるということである。
 言い換えれば「霊の共同体」ということになる。この麗しい表現を6節に見る。
 「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」
 知人が教会をアガペー共同体としきりに言っていたのを思い出す。それは間違いではない。16節から19節に充分伺える。
 一人一人が愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者にされ、そしてそのキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが人知を超えているという訳である。
 霊的アガペー共同体の壮大な神殿を思い描く。
 それは世界七不思議の一つ、エフェソの丘の異様な建造物、巨大な女神アルテミス(ダイアナ)神殿とは、比較にならない。
 教会建築の理念は、この手紙から得られる。
 (写真 なつめ椰子)

敵意という壁

2006-06-18 | Weblog
永遠のご計画の中に定められたことを1章で示されたが、2章では地上での過去と現在の明暗が明らかにされる。
 過去では、この世に支配されて心の欲するままに行動し、自分の罪と過ちのために死んでいた(1~3節)。しかし現在は
 4節「憐れみ豊かな神のこの上ない愛」でキリストの十字架と復活によって救い出してくださった。この事実をこのように証する。
 8節「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」

 2章後半では、神が表わされた恵みの事実をその様に思わない人々、ここではユダヤ教徒から敵意や反目を抱かれていることが扱われる。それは11、12節のようなことであろう。
 キリストは「敵意という隔ての壁を取り壊す」(14節)とあるが、それはどうしてか。
 16節「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
 21世紀の難題であるイスラエル・パレスチナ問題が浮かんでくる。昨年イスラエル旅行をしてコンクリートの壁が延々と続いている光景を見てきた。
 一つの霊に結ばれた神の家族(19節)はいつ実現するのだろうか。深く祈らされる。 
 (写真 ユダの荒れ野を南下オアシス)
 

前もって定められ

2006-06-17 | Weblog
エフェソ1章は忘れらないところである。二男誕生の時メレナという腸から出血する症状があり一週間保育器に入っていた。命名に際して祈りのうちに示されたのが、5節「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(口語訳)であった。
 “主の御旨に従って生きる”から名前を付けた。
 その後元気に育ったが、親として息子たちの中で一番気に入った名前になった。当人はそうでもなかったようだ。
 天地創造の前に選び、「神の子としようと、御心のままに前もってお定めになった」とは何と有り難いことであろう。これは11節にもある。
 神の決定的な選びでる。
 「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」
 これを13節では「約束された聖霊で証印を押された」といっている。
 キリストを信じる者は、神が人の襟首をむんずとつかんで、持ち運んで下さる生涯である。
 きのう死刑囚島 秋人33年の生涯(~1967)を知って、blog「落穂ひろい」に載せたが、今朝はその感を一層強くした。
 (写真 城壁南石垣修復中 高さ15m×長さ70m)

互いに重荷を負う

2006-06-16 | Weblog
 愛をフイルターにした信仰といったが、その一つに6章1節「不注意に何かの罪に陥った人」を立ち帰らせよと勧めている。さらに2節「互いに重荷を担いなさい」とある。
 5節「めいめい自分の重荷を担うべき」と、どう結びつくか。それは、もたれ合いではないということである。
 手紙の最初からあった緊張感は終わりまで続いている。
 12節「キリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなた方に無理やり割礼を受けさせようとしている」者がいるという。そこで再度割礼の有無・律法主義を否定する。
 同時に牧会者の優しさも出ている。
 10節「今、時のある間に(機会あるごとに=口語訳)、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」
 ここに新しくキリストの愛に結ばれた神の家族、重荷を負い合う教会が伺える。
 (写真 黄金のモスク 聖書時代は異邦人の庭、マホメット昇天場所という)