日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

愛の広さ、長さ、高さ、深さ

2010-11-30 | Weblog
    エフェソの手紙第3章 
 
   18~19節「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるようにと祈る」(口語訳)

   1節「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……」。「キリストの囚人」(デスミオス)とは縛られた者である。「キリストの奴隷」(デュウロス=ローマ1章1節)より一層強調される。パウロはローマ獄中にあるが、カイザルの囚人ではないことを明確に示した。4章1節にもある。その縄目は「あなたがたの栄光なのだ」(14節)という。
ここで彼は「神から賜わった恵みの務め」(口語訳)について語る(2節)
   それは「秘められた計画=1章9節see」である。ムステーリオンは口語訳「奥義」のほうが適訳である。3、4、5、9節に出てくる。この「奥義」は、キリスト以前には知らされていなかったが、今や使徒たちや預言者によって啓示された(5節)。
   6節「…異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」。「一緒に受け継ぐ」とは、共同の相続者になることである(1章11節)。それは福音に仕える者として下さったことである(7節)。
   8節「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより…異邦人に福音を告げ知らせている」。「最もつまらない者」(エラキストレロー)とは、ミクロス(小さい)に最上級と語尾に比較級がついた言葉で永井訳は「最(いと)小(ちい)さき者よりも小さき者なる我」としている(第Ⅰコリント15章9節)。これこそがキリストによって実現された永遠の計画に従うことである(9、11節)。
   14節「こういうわけで、わたしはひざをかがめて、 天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る」(口語訳)。前者の『父』は家族や同族が呼ぶ『父』のこと、後者は唯一の創造者なる「御父」である。
 16~21節は長い祈りの言葉。
  (1)あなたがたに聖霊を与えられ、キリストがあなた方相互の心のうちに住むように(16節)。
  (2)キリストの愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となるように、その愛の広さ、長さ、高さ、深さがどんなものか理解するように(17~18節)。
  (3)この人知を遥かに超える愛が、すべてを満たしておられる神の教会に豊かに満ちあふれますように(19節)。キリストの教会はそのような処だから(1章23節see)。

 20~21節 頌栄

同じ国籍の者、神の家族

2010-11-29 | Weblog
   エフェソの手紙第2章
  
   19節「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(口語訳)

  1~10節 絶大な普遍的なキリストの支配とその御業は、個々人の過去と現在を対照にして示される。
  1~3節は救いに至る以前のわたしたちが描き出される。
  2節「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」。それは肉の欲望の赴くまま、肉の心の欲するままに行動し、生れながら神の怒りを受けるべき者であった(3節)。しかし(大いなる否定)、憐れみ豊な神の愛がイエス・キリストによって与えられ、罪過によって死んでいた者を、十字架と復活によって新しく生かされたのである(4~5節)。
  8節「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。行いによるのでないから誰も誇ることは出来ない(9節)。わたしたちは「神の作品」(口語訳)である(10節)。
  11~22節 個々人ではなく、ユダヤ人と異邦人の過去と現在
  過去においては、手による割礼の有無と、約束の契約に関わっていたか否か、神との関係についての有無が問われた(11~12節)。しかし今はそれらに関わることなくキリスト・イエスに於いて十字架の贖いにより、近い者になったのである(13節)。「近い者となった」とは、神と人の断絶した関係が、キリストの十字架の罪の贖いにより、回復したことを指している。この出来事は、個々人においても、異邦人ユダヤ人においても新しい関係がつくられたこととなる。
   14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊した」。ここにキリストの平和宣言がなされる(イザヤ57章17節)。「敵意という隔ての壁」 エルサレムの壁に「異教徒が入れば死刑という字が刻まれていた。ユダヤ教徒の憎悪は激しかった。異邦人は地獄の火を燃やす焚き木だとも言った。かつてパウロはこの「敵意」を持ち、ステファノの石打ち刑の時も(使徒言行録8章1節)、ダマスコ行きを願った時(同9章1節)も抱いたが、回心によって、その間違いを正した(ガラテヤ1章13節)。
   十字架は双方を一人の新しい人に造り上げて平和を実現したのである(15節)。キリストにより、聖霊の一致に結ばれて、御父に近づくことが出来るのである。三位一体の神が証しされる(18節)。
  19節「 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」。
 かくして、新しいキリストの共同体が描かれる。
  神の契約から言えば、旧約に表わされた預言者と新約に証言された使徒たちを建物の土台として、その上にキリストがかなめ石となって積み上げられた神の神殿である。建物全体は麗しく組み合わされて更に素晴しくされていく。そこでキリストに結ばれたすべての民が礼拝を捧げることとなる。
  丘の上からエフェソの街を見おろす巨大なアルテミス神殿(アテネのパルテノン神殿の約四倍)があり、世界の各国から祭りを祝いに集まった。パウロはここで大胆に福音を語ったのである(使徒言行録19章21~40節)。

  キリストによって建設される神の神殿は、それに遥かに超えた宇宙的なものであり、麗しいものであることは言うまでもない(1章22~23節、3章17~18節see)。

天上の諸々の祝福

2010-11-28 | Weblog
   エフェソ手紙第1章

   3節「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し」(口語訳)

    1~2節 挨拶
  3節「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し」(口語訳)。頭に「ほむべきかな」(エウロゲートス)がくる。「祝福する」(エウロゲオ)が天と地で交わされる礼拝の定式である。
4~5節 神の輝かしい恵みとしてキリストが賛美される。キリストは天地創造の時から私たちを選び、計画して神の子の身分(養子フィオセシア)として下さった。 それは、御子なるキリストの恵みをほめたたえる(エウロゲオ)ためである(6節)。養子になったのは、御子の血による贖いで罪赦されたからである(7節)。
  8~11節 「神の秘められた計画」口語訳(御旨の奥義)が私たちに知らされた。これは4~5節を宇宙論的に展開したものである。
10節「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが頭なるキリストのもとに一つにまとめられる」。キリストの受肉、十字架復活の救い、そしてキリストの体なる教会が言い表わされている。
  11節は4節を言い換え、わたしたちは神の約束の相続者であるという。それは創造者なる神が御子によって計画して下さる天の資産である。
  「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(13節)。神の計画された奥義が、キリストの福音と約束の聖霊によってエフェソの教会に示されているのである。地上にあっては、聖霊は御国を受け継ぐ保証として与えられている。
  15~19節 パウロの祈り
  聖霊なる神(14節)に続いて、御子イエスにある愛(15節)、栄光の源である御父(17節)が示される。更に15節で信仰と愛、18節で希望が述べられる。
  祈りの内容で第一に「…知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」(17~18節)。神を「深く知る」(エピグノーシス)はグノーシスにエピが付き、神の秘められた計画(奥義)を知ることである。聖霊の働きに依っている。
  第二の祈りは「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてください」(18節)。「受け継ぐもの」(クレーロノマイ)は「相続財産」という意味で、TEVではwonderful blessingsとある。11節に「約束の相続者」とあった。これは「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」(第Ⅰペトロ1章4節)を示す。
  第三は「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるかを知る」。神の絶大な力の働きが20~22節に記される。
  壮大なキリスト論として展開される。先ず空間としては「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置く」。この四つは超人間的な存在でグノーシスが口にする天使である。時間的には「今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれた」(21節)。神の国と栄光の豊かさを天上から見る。22節はこれらの結論である。
  この祈りから宇宙論的なキリスト論が示される(23節)。

十字架以外に誇りは無い

2010-11-27 | Weblog
 ガラテヤの手紙第6章

 14節「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。…」(口語訳)

   1節「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら…そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい~」。「罪」(パラプトーマ)とは道に外れることである。霊に導かれて歩む者は柔和な心で立ち帰らせることが出来るのである(5章22、25節)。決して優越感でするのではない。自らも同じ罪に陥らないよう霊の導きを頂かねばならない。それは「共に重荷を担う」ことになる(2節、マタイ11章28~19節)。これは律法ではなく、信仰が働いて生れる相互の愛(5章13節)で、キリストの律法(掟)と言える(ヨハネ15章12節)。
 ここで陥る危険がある。それは自分が見えていない事である。各自に個別的な罪の解決が求められる。他者と比較して善し悪しを知るのではなく、「自分の行いを吟味してみる」ことである(3~4節)。「互いに重荷を担う」ことと、「めいめい自分の重荷を担う」(5節)のとは違う。前者の「重荷」(ホルティオン)は悲しみ苦しみの重圧を指しているが、後者の「重荷」(バロス)は個々に負うべき責務を示す。自らの重荷を人に代わって負わせることは出来ない。
   重荷には経済的な労苦があるが、これは負い合う。特に巡回伝道者に対してはそうすべきである(6節)。口語訳「すべてのよい物を分かち合いなさい」とある。この「よい物」(アガソス)は「明らかな、気前よく、正当な、善なる」など二十通りに訳される言葉。福音の宣教は神の愛に押し出されてする働きであるので、喜んで分かち合う奉仕であり、これを軽視することは、神を侮ることになる(7節)。
   8~9節では、蒔いたものを刈り取るという労働と報酬を例に取り上げて「肉に蒔く者と霊に蒔く者」とを比較する。自分の肉に蒔く者は滅びを刈り取り、霊に蒔く者は霊から永遠の命を刈り取るという。つまり前者は自分自身の安逸に財を費やす者で、自分の命と共に滅びる(ルカ12章15~21節)。然し後者は神の業に献げる者で、永遠の御国の奉仕になるのである。この刈り取りの時が近づいているのだから、たゆまず信仰の家族になった福音を伝える人に善(アガソス)を行おうと勧める。
   11~16節は手紙の結びである。ここから口述でなく、自ら筆をとる(11節)。これはパウロが重ねて強調するメッセージである。
ユダヤ教から回心して教会の教師になった者(本書の論敵)たちが、ガラテヤの信徒に割礼を強要しているのは、恰好よく見せようと願って、キリストの十字架を鮮明に打ち出すことで受ける迫害を逃れようとしている連中である(11節)。
13節「割礼を受けている者自身(論敵)、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」。彼らはガラテヤの信徒が割礼を受けたのだと、その功績を人々に誇りたい為に割礼を強要しているので、実は律法を守っていない。
   しかしこのわたしは違う。「十字架のほかに誇るものが断じてあってはならない」(口語訳)。何故ならキリストの十字架と共にわたしは処刑され、この世も十字架によって断罪されている(14節)。十字架以外に何を誇るのか。
15節「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。十字架に死に、復活に生かされるというボーン・アゲインである(2章19~20節)。
   パウロは最後に厳しい一言を付け加えた。わたしは十字架の誇りとして、焼き印(スティグマ)をこの身に受けていると言った。これは家畜に所有者のしるしを刻むことだが、彼にとってはイエスの僕として宣教した時に、様々な迫害や災難にあって体に残された傷の跡を指している(第Ⅱコリント12章7、10節see)。

愛として働く信仰

2010-11-26 | Weblog
  ガラテヤの手紙第5章 

   6節「まことにキリスト・イエスにあっては、割礼も無割礼も問題ではなく、愛として働く信仰のみが意味を持つのである」(ATD訳)

  1節「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。…奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。4章後半にある通り信仰による自由の身にされているのだから、二度と律法の元にある奴隷となるな、しっかりせよと態度表明を促す。
3節「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います」。既に2章4~5節でテトスの場合を取り上げ、割礼を強制して福音の自由を奪おうとしている偽兄弟らに決して妥協しないことを告げている。割礼を求めるなら律法全体を行う義務がある。そこではキリストの恵みは失われ、義とされる希望もない(4~5節)。
   6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。割礼の有無は問題でない。愛を通して働く信仰のみが意味があり効力を持つ(NTD訳)。
誰が邪魔をして真理に従わなくしているのか。あなた方を惑わす者は裁きを受ける(7~10節)。かき乱す者は自ら去勢してしまえばよい(12節)。
   今一つ注意したい。キリストが自由の身にして下さったが、それを「肉に罪を犯させる機会とせずに愛によって互いに仕える」ことである(13節)。つまりキリストの自由は、誤った自由主義に陥る。罪を犯させる「機会」(アホルメー)とは軍事用語で「根拠地、前進基地」を指している。つまり自由が無律法に陥り、罪を犯す根拠となる。これを否定し、自由を得させて下さるキリストの愛をもって仕える信仰である。「互いに仕え合う」とは、キリストに対して互いに仕えることである。
   これは「愛を通して働く信仰」(6節)である。律法の本質はイエスが説かれたマルコ12章29~31節にある通り、神の愛に応答し、「自分を愛するように隣人を愛する」ことである(14節)。これは愛を条件とする信仰では無ない。「隣人を愛さなければ信仰ではない」と言っているのではない。私たちを愛するキリストヘの信仰が働いて、お互いが愛し合うのであり、これを混同すると再び律法主義に落ちてしまう。これは危険である。パウロはこれを「共食いし、互いに滅ぼされる」といった(15節)。
   この明確な愛の実践を促すのが、「霊の導きに従って歩みなさい」(16節)である。「歩みなさい」は現在命令形で継続性を示す。そして「霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」という結論になる。

   19~21節にある15項目が「罪の目録」(カタログ)である。律法の下では肉の働く罪を滅ぼすことは出来ない。性的不道徳(姦淫、わいせつ、好色)、非信仰(偶像礼拝、魔術)、人間関係の破綻(敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ)、過度の飲酒(泥酔、酒宴)。26節に具体的行為が示される。
   22~23節の九項目は霊に従って歩む者(16節)に結ぶ実である。「…愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」。留意すべきことは、「肉の業」は複数形であるが、これは全て単数形である。次に最初に結ぶのは「愛」(アガペー)である。つまり最高の賜物である(第Ⅰコリント12章32節)。そしてこの徳目がすべて他者に向けられるものである。最後の「節制」(口語訳「自制」)も他者に向けられる自己抑制である。これが可能なのは「肉の欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」からである(24節)。


 キリストの形ができるまで

2010-11-25 | Weblog
ガラテヤの手紙第4章 

  19節「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」(口語訳)。

   1節「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく…」。ここで今一度未成年を取りあげるのは、3章24節の「養育係」と関連している。未成年と相続に関する例話はユダヤ人の論証に依っている。父親が定める時まで彼は後見人や管理者の監督のもとに置かれ全財産でも相続は出来ない(2節)。これと同じことが、信仰の場合にも言える。
  3節「…未成年であった時は世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた」。「諸霊」(ストイケイア)とは、無力で無知な宗教的初歩段階の知識で、水、空気、火、星、太陽などが人の運命を支配し、吉凶禍福をもたらすと考える類である(10節see)。
   しかし「時が、満ちると」(マルコ1章15節、第Ⅱコリント6章2節)神は御子を女から律法の下に生まれさせ、律法の支配下にある者を贖い出し神の子として下さった(4~5節)。
    6節「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」。だからあなたがたは奴隷ではなく、相続人である(7節)。
   今神を知っているのに、あなたがたはあの無力な諸霊(ストイケイア)に逆戻りして奴隷として仕えようとしている(9~10節)。

   ここでパウロは個人的な訴えをする(12~20)。
   パウロは体が弱くなっていたにも拘らず、福音を伝えたが、あなた方はこの試練をさけずんだり、忌み嫌ったりしないで受け入れて神の使いかキリストのように思って下さった(14節)。これが何であるか定かでないが、第Ⅱコリント12章7節以下に「一つのとげ」とあるが、そのことを指していると思われる。「自分の目をえぐり出しても~」(15節)」からそれは眼疾患であろうとも言われる。
ところがその深い信頼関係は今どうなったのか。あなた方の善意からくる熱心をあの者たち(パウロ批判者)は誤った熱心で引き離そうとしているのではないか(17節)。
   19節「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。逆戻りしているガラテヤの人々の為再び産みの苦しみをする。どのように話したらよいかわたしは途方に暮れている(20節)。

  22~26節は創世記16、17、21章の独特な比喩的解釈である。律法的立場を打ちくだくには、その精神的支柱であるアブラハムに関わる例証が、最も説得力があった。それは次の二つの系譜にまとめられる。
   奴隷ハガル―イシマエル=律法に拘束された人、律法主義者
自由の女サラ―イサク=約束により生れた自由な人、キリストを信じる者。「天のエルサレム」(26節)はキリスト教会を指している。
27節は、イザヤ54章1節の引用で「多くの子を産む」は、ユダヤ人のみでなく多くの異邦人の救いを予表している。
29~30節の比喩は、律法に拘束されているキリスト者に対する厳しい結論である。

信仰によって…義と認められた

2010-11-24 | Weblog
  ガラテヤの手紙第3章 

 6節「このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである」(口語訳)

   1節「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」
   十字架による信仰を明確に示したパウロは(2章20節)、律法による救いに惑わされているガラテヤの人々に警告しる。「惑わす」(バスカイノー)は「誑(たぶら)かす」で、十字架のキリストを注視しないために言葉の魔術にかかるのである。「はっきり示された」口語訳「目の前に描き出された」。十字架のキリストは「今、あなたにとって何か」と問い掛ける。「聖霊を受けたのは律法か、福音に依るのか」と今一つだけ確かめたい(2節)。 聖霊によって始めたのに、肉によって完成しようとするのか(3節)。あの恵みの経験は無駄であった筈はない。それは聖霊の様々な賜物を想起すれば判る(4~5節)。
   6節「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです」。信仰による約束の担い手アブラハムに実証される。信仰に基づく人々のことを知っている筈だ(7節)。異邦人が信仰により義とされることを神は予め知ってアブラハムに福音を示し、「信仰に生きる人々は…アブラハムと共に祝福されている」と語られたのである(8~9節)。これは創世記12章3節にある。

   逆に「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」10節)という言葉で、祝福か呪いかが対比する。ここでもパウロは旧約から引用した。申命記27章26節である。続いて律法を完全に遵守すれば生きるという(レビ記18章5節)。この為彼らは律法(創世記~申命記)、更に613の細則、248の命令、365の禁令を遵守しようとした。しかし律法の呪いから免れることが出来ない。
今イエスが律法違反の呪いから贖い出すために十字架に架けられ、祝福へと変えられたのだと告げる(13~14節)。これも申命記21章23節で論証した。

   15節から神の契約の有効性を述べる。アブラハムに対する契約はそのようなものである(15節)。そこで「あなたの子孫たち(複数)」でなく「あなたの子孫(単数)」と言われたのはキリストを指す(16節)。アブラハムの約束は430年後のモーセ律法契約を反故にするものではない(17節)。キリストが来られる時まで、律法は違反を明らかにするために付け加えられたのである(19節)。
    律法はすべての人を罪の支配下に閉じ込めた。それは神の約束がキリストの信への信仰によって与えられる時までである(22、23節)。律法はキリストのもとに導く「養育係」(パイダゴーゴス=schoolmaster、trainer)で、信仰による義が現われたらもういらない(26節)。
どうして起きたか。それは「バプテスマを受けてキリストに結ばれた神の子となった」からだ(26~27節)。「そこでもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」。人種、民族、社会的身分、男女の差別を否定した(28節)。そして「キリスト・イエスにおいて一つ」であり、「アブラハムの子孫」「約束の相続人」であると告げた(29節)。

キリストがわたしの内に生きている

2010-11-23 | Weblog
   ガラテヤの手紙第2章

   21節「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである…」(口語訳)。

 1節「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました」。この14年間のパウロの活動については使徒行伝に詳らかにされていない。1章終りの記述からすると使徒会議(使徒言行録15章)以降を指している様に思われる。14年というのは、第Ⅱコリント12章2節にもあり、アラビア、ダマスコ時代、三年後第Ⅰ回のペトロと会った時も含めた年数のように思われる。
   2節「…わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、…おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか…と意見を求めました」。パウロの異邦人伝道が無駄だったのか。使徒会議の取り決めの確認を求める。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者問題である。彼はテトスに割礼を強要している偽使徒にきっぱり反対した(3節)。ところが彼らは、ガラテヤの諸教会にこっそり入り込んで来てキリストにより得た自由を奪おうとしている(4節)。
   5節「福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように…片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした」。これはエルサレムの使徒たちも承認していることである(6節)。
   8節「割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです」。エルサレム教会の柱と目されるヤコブとペトロ、ヨハネと、パウロとバルナバとの間に恵みを認める握手をした(9節)
   ペロトがアンティオキアに来た時異邦人キリスト者とユダヤ人キリストが一緒の食事(愛餐会と聖餐式)をしていた。ところがヤコブの周辺にいる一行が来たら、ペトロは態度を変え一緒の食事に尻ごみしたのである(12節)。バルナバまで同調してしまった(13節)。
14節「…彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かって…『あなたは…ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。ペトロの態度は福音の真理に添わないと非難したのである。
   パウロは、ペトロと同じ生来のユダヤ人という同じ立場であったという(15節)。しかし神に義と認められるのは、律法を守ることではない。キリストへの信仰によって義とされる。誰ひとり律法の実行では義とされない(16節)。
アンティオキアで皆が一緒に食事をすることで律法の違反となで罪人と見なされるなら、キリストは罪に仕えることになるではないか(17節)。
    律法に立ち返ることは、自分で打ち壊したものを再び建てることで、律法の違反を証明することになる。キリストと共に律法に死んだのでだから、最早キリストに結ばれて生きる以外にないと語る(18~19節)。
   21節「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(口語訳)。
  最後に律法にあともどりすることは、十字架における神の比類なき恵みを無駄にすることだと主張した(21節)。

キリストの啓示による福音

2010-11-22 | Weblog
   ガラテヤの手紙第1章 

  12節「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(新共同訳)

   1節「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神によって使徒とされたパウロ」。パウロの手紙のなかで冒頭の挨拶文としては、これは異例であり挑戦的である。
   「使徒」(アポストロス)とされたのは人々から選任されたのでも、誰かから推薦されたのでもないという。その挨拶の中でイエス・キリストを明確に述べる(4節)。それは「この悪の世から救い出そうとして、御自身を罪の為に献げて下さった方」である。つまりこの世の諸霊の奴隷(4章3節・律法)からの解放を指している。
彼を挑戦的にしているのは何故か。
   6節「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」。口語訳「…違った福音に落ちていくことが~」。キリストの恵みの福音から異なる福音に落ちて行ったことに驚き呆れている。別な福音などある筈がない。ある人々が福音を曲げようと企んでいるのだ(7節)。それが誰であろうと、それを宣べ伝えている人は「呪われるがよい」(8~9節)。
   「呪われる」(アナセマ)とは、神の裁きに決定つけられること。
  10節「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。…もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」。わたしは誰からも歓心を買うとしてはいない。
ここでパウロは使徒として選ばれた次第を語る。
   12節「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」。
この啓示を受ける前のユダヤ教徒として自分がどうであったかを13~14節で述べる。徹底的にキリストの教会を迫害し滅ぼそうとしていた(13節)。
  14節「また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。
キリスト者を迫害するための権限をおびてダマスコへ行く途上でキリストの啓示を受けたのであった。この出来事は、パウロにとっては母の胎内にある時から選ばれ、御心のままに御子を啓示されて、異邦人にこの福音を伝えるようにと召された経験だったのである(15~16節a)。
これがパウロの使徒として召命であり、この後血肉に相談せず、エルサレムに行って先に使徒となった人々とも会うようなことをせず、アラビアに退き、そこからダマスコに戻った。使徒として誰からも推薦されたのではないと説明している(16b~17節)。
三年後エルサレムに上り、ケファ(ペトロ)のもとに15日間滞在し、ヤコブにも会ったがダマスコに帰り、やがてバルナバと共にシリア、キリキア地方の伝道をしたこと(使徒言行録9章、13~14章)を述べている(18~24節)。
   23節「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」。これがパウロのイエスの福音を伝える使徒としての客観的証明であるとしている。

神の愛とイエス・キリストの恵みと聖霊の交わり

2010-11-21 | Weblog
 第Ⅱコリントの手紙第13章


   13節「 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(新共同訳)

   本章は手紙の結びである。
  1節「…これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです」。これは申命記19章15~17節にある裁判規程である(マタイ18章16節)。12章20節以下にある事柄が未解決であるなら、わたしは容赦しません(2節)。なぜならキリストがわたしによって語っている証拠を求めているからだ(3節)。わたしたちはキリストに結ばれた者として弱い者だが、キリストは神の力によってあなた方の間で強い方である(4節)。パウロの悔改めない人々に向かってとる態度は人間的な強靭さからではないと告げている。
   5節「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが…」。口語訳「…にせものとして見捨てられる」。
「吟味しなさい」(ドキマゾー)は「試験する、受け入れる」で、「偽もの・失格者」(ハドキモス)か、7節「本当のもの・適格者」(ドキモス)かを見分けることである。
    8節「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます」。口語訳「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある」。「真理」(アレーセイア)は、真理の啓示者イエスを示す(ヨハネ1章14節、14章6節)。パウロは「福音の真理」(ガラテヤ2章5節)と言った。真理に従う力は、キリストにある強さである(3節)。従ってわたしは弱くてもあなた方が強くなるなら、わたしは喜ぶ。そしてあなたがたが完全に良くなってくれるよう祈る(9節)。
    10節「…このようなことを書き送るのは、…そちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです」。
   11~13節は最後の挨拶である。
  先ず「喜びなさい」。悲しみを喜びに変るのは信頼関係からである(7章4、13節) 次に「完全な者となりなさい」(カタルティゾー)。破れを繕いなさいということである。そして「励まし合いなさい」(パラカレオー)慰め合いなさい。「思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」。キリストにある一致と連帯である。
  この結果「愛と平和の神が共にいて下さる」こととなる。
   12節「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい…」当時のユダヤ教から受け継がれた形式で、額や手の甲に口づけする挨拶である。
   13節「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。「主イエス・キリストの恵み」とは、受肉、十字架、復活に表わされた救いの業が無条件で賦与され、報酬でなく賜物である。「神の愛」は厳しく裁く義なる神が福音によって愛なる神となった宣言である。そして「聖霊の交わり」は、神の共同体に向けられた言葉である(フィリピ2章1節)。それは「聖徒の交わり」であり、愛と一致を約束するものである。神とキリストと聖霊の三位一体による祝福として主の礼拝で告げられている。

わが恵みなんじに足れり

2010-11-20 | Weblog
第Ⅱコリントへの手紙第12章 

   9節「言ひたまふ『わが恩恵(めぐみ)なんじに足(た)れり、わが能力(ちから)は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力(ちから)の我を庇(おう)はんために、寧(むし)ろ大に喜びて我が微弱(よわき)を誇らん」(文語訳)

  11章16節以下でパウロは「愚かになって誇る」として、彼を批判する偽使徒たちの誇り(22節)だけでなく、キリストに仕える者として想像を絶するような数々の苦難と艱難と危機体験を述べたが(23~33節)、これらはすべて肉の弱さに関わる誇りであった。
1節「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」。そこで最後に霊的な神からの啓示について誇りを語る。
  この場合彼は「ある人」の経験として三人称で、14年前に第三の天にまで引き上げられたことを語る(2~4節)。14年前は回心経験からダマスコ、アラビヤ宣教の時代で、11章の様々な体験と重なっている。「第三の天」とは4節「楽園」(パラダイス)を指す。「パラダイス」はペルシャ語で壁に囲まれた庭園、王が賓客に名誉を与る時、その人を招待し、王との散歩を許したという由来がある。彼はこの幻の内容や状況について詳しく語らない。様々な疑問や質問を避けるためだった。
  5節「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と言った。この幻を見たり聞いたりしたことで論敵と張り合うことをしないとパウロは告げる(6節)。
  そして、この素晴らしい幻体験で思い上がらせないために、わたしの身を痛みつける一つのとげが与えられた。それはサタンからの使いである(7節)。この「とげ」(スコロプス)は先の尖った木の棒で、「痛みつける」とは打ち叩くことである。
  実際に彼の「とげ」が何であったか諸説がある。第一伝道旅行の時東地中海海岸地帯を襲ったマラリヤ熱にかかり、周期的な激しい頭痛があったという説、ガラテヤ4章13~14節に使徒的な働きを妨げるような疾患(眼病)があったという説もある。そして三度(繰り返し)主に取り去って下さるようにと願った(8節)。
   9節「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました…」。だからキリストの力が宿るよう…大いに喜んで自分の弱さを誇るといった。
  弱さの中でとは、「侮辱、危機、迫害、行き詰りの状態」である。土の器で言えば、ひび割れ、壊されるような目に出合う経験である。しかし「キリストの力がわたしに宿る」ので、わたし達はこの弱さの中で強いのである(9~10節)。
  11節からパウロに向けられた非難の弁明が語られる。わたしが愚かになって弱さを誇ったのは、大使徒たちに決して劣らないことを、様々なしるしや奇蹟を忍耐してあなた方の間に表わしたからだ(12節)。報酬を貰わなかったことが不当な振る舞いなら赦して欲しい(13節)。これは皮肉である。
  三度目の訪問を準備しているが負担をかけるつもりはない(14節)。募金のことでは悪質な批判を受けたくない(16~17節)。あなた方と再会した時、罪の悔改めをしない為面目を失わせるようなことを神はされないだろうと告げる(19~21節)。

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2010-11-19 | Weblog
 第Ⅱコリントの手紙第11章 

  23節「彼らはキリストの奉仕者なのか。私は気がふれた様になって言う。私は[彼ら]以上に[そう]である」(岩波訳)

  1節「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています」。誇りは主イエスにあることを前の章で確認したパウロはここで少々愚かなようだが、我慢して聞いてほしいという。
   「あなたがたを純潔な処女としキリストと婚約させた」が、その後エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなた方が「キリストに対する真心と純潔」を失いはしないか心配であるからだ(2~3節)。
  それはわたしが宣べ伝えたのと異なるイエスを教え、受け入れたことのない違った福音をうける事態になっても、我慢しているからである(4節)。
  パウロの使徒職を問題にして『エルサレムから来た大使徒たちとは見劣りがして、素人っぽい話し振りをしている』と言われても、わたしは我慢する(5~6節)。
  更に大使徒のように福音を告げて報酬を受けるようなことなく、自らの手で働き、無報酬で告げ知らせるからといって罪を犯したことになるのかと反論する(7節)。
  生活に不自由した時に誰にも負担をかけて来なかった。支えてくれたのはマケドニア州からの兄弟たちであった(9節)。
 パウロを批判する人々はずる賢い働き手で、キリストの使徒を装い誇っているが、これは驚くに足りない。何故ならサタンさえ光の天使を装うからである(13~14節)。
  ここで愚かさを誇るとパウロは言う。何故かと言えば「多くの者が肉に従って誇っているからで…」(18節)、「賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう」(19節)。「愚か」が新約に37回あるが、このコリントの手紙に20回も出てくる。パウロはコリントの人々と同じ「愚かさ」の土俵で語り合うという。実際にコリント教会は偽使徒らによって奴隷にされ、食い物にされ、横柄な態度に出られても愚か者になって我慢している(20節)。
   パウロは22~29節で「わたしも愚か者になって誇る」として身分や経験を縷々述べている。
偽使徒らがヘブライ人だ、イスラエル人だ、アブラハムの子孫だと誇っているが、わたしもそれ以上だ(22節)。キリストに仕えている者だというが、わたしは気が狂ったように彼ら以上にそうだ(23節)。
  「気が変になっていう」(パラフロノーン)とは理性を超えるで、「愚かになる」(ハフロナ)の理性がないと似ている言葉である。キリストに「仕える者」(ディコニア=Minister)としての彼の本心がここに示される。

  この点では誰もが経験しない数多くの事柄を羅列して告白する。投獄、鞭打ち刑、石打ち刑(23~25節)。難船、漂流、水難、盗賊、裏切り、路上の難(26節)。眠らず、飢え、渇き、寒さ、裸でいる(27節)。働きに関する重荷と心配事(28節)。
   使徒言行録では、石打ち、鞭打ちと海難しか出ていない。これはガラテヤ2章1節の「14年間」のことではないかと言われている。
   苦難の中で弱さに関わる誇りを一つ取り上げるなら、ダマスコでの出来事を述べようとして32~33節に記している。これは使徒言行録9章23~25節のことと思われる。

主を誇れ

2010-11-18 | Weblog
 第Ⅱコリントの手紙第10章 
 
 17節「誇る者は、主を誇れ」(新共同訳)。

 1節「さて、『あなたがたの間にいて面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる』このパウロが、キリストの優しさ、寛大さをもって、あなたがたに勧める」(口語訳)。「さて~」とある通り10~12章は「涙の手紙」と呼ばれるパウロ批判に対する弁明の文書とされている。かっこの言葉は彼に対する批判である。
 コリント教会は彼が第二伝道旅行の時に、一年六ヶ月開拓伝道して出来た教会であるから「生みの親」とも言える立場である。第一の手紙で、様々な質問に丁寧に答えまた鋭く注意し勧告したが、これに反感を抱く一部の人々、特にグノーシスの影響を受けた指導者から批判が出たのである。
その批判に「キリストの」で対応する。「優しさ」(プトタートス)は「わたしは柔和で心の謙った者である」(マタイ11章29節)の「柔和」と同じ語である。「優しさと寛大さ」は、聖霊の結ぶ実である(ガラテヤ5章22~23節)。
 2節「わたしたちのことを肉に従って歩んでいるとみなしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。…そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています」。
 ここでパウロを「肉に従って歩んでいる」と批判している。そこで「肉において歩く」のと「肉に従って戦う」とは違うと反論する(3節)。前者はこの地上の人々の中に生きることで、この現実を逃避して歩くことは出来ない。然し後者はそこに様々な罪の働きや不義不正があり、それに立ち向かって戦うのは世の人々と異なり、「神に由来する力であって要塞も破壊するに足る」武器によるのである(4節)。これはあらゆる高慢を打ち倒し、神への従順を完全なものとする武器である(5節)。
  うわべのことだけ見て、「弱腰」(1節)とか「弱々しい」(10節)と言っているが、それは当たらない(7節)。
すべての高慢や不従順を罰することができるという権威は、「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった」もので「…いささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう」(8節)。
 「手紙は重々しいが、会ってみると…弱々しく話もつまらない」とは痛切な批判である(9節)。
  ここでコリント教会内部にあった問題は、「仲間同志で批評し、比較し合っている」ことである(12節)。口語訳「測り合ったり、比べ合ったり~」。この世の「測り合い」(メトロン=物差し)を使用しているのである。
しかし「限度を超えて誇らない」(直訳・わたしたちの物差(限度)では誇らない)。そうではなく「神が割り当ててくださった範囲内で誇る」(直訳・神から与えられた尺度(カノン)による物差しで誇る)。
  「限度を超えて誇る」ことの注意を、14節、15節に繰り返している。そして同時に神からわたしたちに「定められた働きの範囲」(尺度・カノン)が拡大することを願い誇るのであるという。しかし他の人々の領域で成し遂げられた活動は誇らない。「誇る者は主を誇れ」と釘を刺す(16~17節)。

 あらゆる恵みに満ちあふれさせ

2010-11-17 | Weblog
  第Ⅱコリント信徒への手紙第9章 

   8節「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(新共同訳)

  8章に続き救援募金について述べる。
 2節「わたしは…アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです」。コリント教会の募金活動に示した熱意を誇ったという。この誇りが無意味にならないよう、準備してほしいと要請する。もしそうでないなら恥をかくことになるという(3~4節)。
 「…贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました」(5節)。「贈り物」(ユーロギア)は「賛美、祝福、恵み」、英語blessingである。財を捧げることが祝福であるとするなら、渋ったり、惜んだりして差し出すことはないのである。
 6節「…惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。蒔いたものを刈り取るという原則。然し能力格差の事柄ではなく、問われるのは「惜しむ心と、惜しまない心」である。これが明確でなければならない。「豊かに~、豊かな」はユーロギアイスである。
 7節「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。義務や強制でなく、「自ら心で決めた通り」自発的な恵みへの応答として献げるのである。ここで、マケドニア州の諸教会が示した態度が示されよう(8章2~3節see)。
 9節「『彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです」。詩112篇9節の引用。彼とは、主を畏れ、信頼する人である。
種を蒔く者と、これを刈り取る者に対する神の祝福の共有が示される(10節)。そこでは神の対する感謝が湧いてくる。それは支援を受けた側だけでなく、援助側も感謝するのである。そして神への奉仕(レイトゥルギアservice)の働きは一層豊かにされる(11~12節)。
 13節(口語訳)「…この援助を行った結果として、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であることや、彼らにも、すべての人にも、惜しみなく施しをしていることがわかってきて、彼らは神に栄光を帰し~」。これは福音の証となり、神に感謝し、栄光を帰すこととなる。
これこそ神に喜ばれる供え物である(ヘブライ13章16節)

人の前でも公明正大にふるまう

2010-11-16 | Weblog
  第Ⅱコリントの手紙第8章 

  21節「わたしたちは、主のみまえばかりではなく、人の前でも公正であるように、気を配っているのである」(口語訳)

  1節「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」これは自発的な募金についてである。パウロは既にエルサレム周辺に起きた飢饉に対する救援募金を勧めている(第Ⅰ・16章1~4節)。
  マケドニア州が「激しい試練」を受けたとは、ローマ支配下で鉱物や農産物が搾取されたこと、それにもかかわらず「満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」という(2節)。「惜しまず施す」(アプロテートス)は「単純な、純情な」と「物惜しみしない」と意味で、エフェソ6章5節では「真心を込めて」となっている。喜びに満ちた心と極度の貧しさは本来一致しないが、それを結びつけるものは何か。
  「…わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」(5節)。それは神の御心にそったアプロテートス(真心)である。自発的に、力以上に財を捧げて慈善(恵み=カリス)を表わした(3~4節)。
 「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから~」(7節)。これらの点でコリントの教会は豊かなのだから、恵みの業にも豊かな者となって欲しい。何故なら、豊かであった主イエスが貧しくなられたのは、あなたがたが豊かになる為だったからである(9節)。そこで、一層進んで実行して頂きたいと勧める(10~11節)。
 「他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく…」(13節)。この様な反対論があったと思われる。これに対して出エジプト記16章18節(七十人訳)を引用して、多く集めた者も少ししか集められなかった者も過不足が無かったことを実例として諭した(14~15節)。

  16節「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します」。テトスがこの募金で諸教会に働きかけてよい協力者が与えられていることを、ここで紹介している。一人は福音のことで評判の高い人で、テトスに同伴させると伝える。彼は主の栄光を表わす熱意をもってこの恵みの業に加わっている(18~19節)。もう一人同伴させる人物も熱心で、コリント教会に厚い信頼を寄せている(22節)。
   23節「テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています」。
  このようにパウロが募金活動に際して細心の注意を払うのは何故なのか。それは批判や消極的な人々に対する明確な態度を表わす為だったと言えよう。その言葉が20~21節に出ている。
  「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」。「公明正大に」(カロス)は「立派な、良い、公正な、見事な、尊敬に値する」という言葉、岩波訳「潔白であることを心がけている」、英訳「~providing honorable things,」である。
いつでも、金銭トラブルは憑き物である。キリストの共同体はそうであってはならない。