日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

神の前にへりくだって衣を裂き

2012-09-29 | Weblog
  歴代誌下34章 

  27節「あなたはこの所とその住民についての主の言葉を聞いて心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって衣を裂き…」(新共同訳)

  1節「ヨシヤは八歳で王となり、三十一年間エルサレムで王位にあった」。彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道を歩み、その治世八年に、聖なる高台、偶像を取り除き、バアルの祭壇を壊し、アシェラの彫像を粉々に打ち砕いた(2~4節)。南ユダの政権は、まるで海岸に打ち寄せる波のようであった。悪王は異教の神々を取り入れ偶像に溺れるが、善王が登場すると、主なる神の審判に遭って背信行為を悔い改めて、その様々な祭壇を打ち壊して捨て去り真の神礼拝が行われる。しかしまた悪王が登場して異教の神々を拝むこの悪王と善王の治世とが繰り返されている歴史である。善王ヨシャファトの後に、悪王ヨラムとアハズヤ(1年)。ヨアシュは祭司ヨヤダで善政を敷いたが、アマツヤは悪王。ウジヤ(掟を破り、病を患う)、ヨタム善王。アハズ悪王、ヒゼキヤ善王。悪王マナセとアモン、そして善王ヨシヤが登場し31年間エルサレムで王位につき、宗教改革を行ったのである。並行記事は列王記下22~23章である。
  8節「その治世の第十八年に、その地と神殿を清めた後、王は自分の神、主の神殿を修理するため、アツァルヤの子シャファン、町の長マアセヤ、補佐官ヨアハズの子ヨアを遣わした」。26歳の時であるが、神殿の修理を始め、工事担当者、建築作業員、荷役労働者らが働いた。その作業中に壁の中から大祭司ヒルキヤが「モーセによる主の律法の書」を発見した(9~14節)。ヒルキヤはこれを書記官シャファンに渡して王のもとに届け、読み上げた時、王は神の律法に応えていないことを知り、衣を裂き、この書の言葉について、書かれている通りすべてのことを行わなかった為に主の怒りが激しく注がれていると語った(19~21節)。
  22節「ヒルキヤと王が指名した者たちは、女預言者フルダのもとに行った。彼女はハスラの孫でトクハトの子である衣装係シャルムの妻で、エルサレムのミシュネ地区に住んでいた。彼らがその話を彼女に聞かせると~」。フルダは王が神の前にへりくだり、衣を裂いて泣いて悔い改めたので、主はその願いを聞き入れられ、災いを下すことはないと告げた(23~28節)。
  29節「そこで王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を集めた」。更に王は、ユダのすべての人々、エルサレムの住民、祭司とレビ人、老いた者から若い者までが神殿に上り、見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。それから王は、主の御前で契約を結び、主に従って歩み心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、契約の言葉を実行することを誓った。またエルサレムとベニヤミンにいるすべての者に誓わせ、住民はその神の契約に従って行動したのである(30~32節)。彼が生きている間、彼らは先祖の神、主に従う道からはずれることはなかった(33節)。
  この発見された巻物は申命記であったといわれる。ここでは申命記6章4~5節が示される。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。


苦悩の中で自分の神、主に願い

2012-09-28 | Weblog
  歴代誌下33章 

  12節「彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり」(新共同訳)

  マナセは55年という長期の在位であった(前696~642年)が、しかしその生涯の出来事は2~11節と12~18節の二つに見ることができる。彼は主の目に悪とされること数々行って主の怒りを招いた(2節)。彼が父ヒゼキヤとは正反対の治世を行い、取り壊したバアルの祭壇を築き、アシュラ像を造りこれにひれ伏し、神殿の中に異教の祭壇を築き、魔術や口寄せ、霊媒を用いたのである(3~5節)。それは祖父アハズの時のようにアッシリアの祭儀を取り入れて国の安定を計ったからである。主の目に悪とされる事を数々行ったと繰り返し記されている(6節)。並行記事の列王記下21章では、もっと詳細に記され、預言者の警告を聞かなかった。
  11節「そこで主は、アッシリアの王の将軍たちに彼らを攻めさせられた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、一対の青銅の足枷につないでバビロンに引いて行った」。マナセの生涯の前半は、厳しい主の審判によって裁かれることになったのである。
  12節「彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり~」。祈り求めた時、神はその祈りを聞き入れ再びエルサレムに帰国した。そして異国のすべての偶像を投げ捨て、主の祭壇を築いて酬恩祭および感謝の犠牲をささげ、ユダの人々にイスラエルの神、主に仕えるよう命じたのである(13~16節)。しかし聖なる高台でいけにえは、献げていたとある(17節)。マナセの治世55年は、アッシリアに取り入って安定を計っても崩れることを思い知り、へりくだって神に立ち帰る時に真の平和があることを悟った生涯だったと見ることが出来よう。まるで放蕩息子のようである(ルカ福音書15章11~24節)
  21節「アモンは二十二歳で王となり、二年間エルサレムで王位にあった」。彼の治世は僅か二年であった。しかし父マナセと同じ轍を踏んで主の目に悪とされることを行って偶像礼拝に陥ったが、マナセが謙って主に立ち帰ったようなことはなく、罪に罪を重ねた(22~23節)。そして家臣の謀反に遭い、宮殿で殺害された。しかし、「国の民」(アムハーレツ=地の民と呼ばれる)によって、この謀反を起こした者は粛清されている(25節)。


天に助けを求めて叫んだ

2012-09-27 | Weblog
  歴代誌下32章 

  20節「ヒゼキヤ王と預言者、アモツの子イザヤはこの事のために祈り、天に助けを求めて叫んだ」(新共同訳)

  1節「ヒゼキヤがこれらの真実な事を行った後、アッシリアの王センナケリブが攻めて来た。彼はユダに侵入し、その砦の町々に対して陣を張り、町々を攻め取ろうとした。」。小見出しにある通り、センナケリブの攻撃とその対応が記され、この並行記事は列王記下18章13~19章37節にある。列王記はより詳しく書かれているので、併せて読むとよい。列王記では、ヒゼキヤ王の治世三年に、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ(紀元前721年)、支配されて八年が経過していることが判る。この間、南ユダはその属国として、多くの財宝を貢ぎ物としてアッシリアに贈った記事が伺われる(列王記下18章14~16節see)。本章は先のアッスリアの属国となって支配された事柄は省略している。これは第二回目のエルサレム攻撃をしようとしたと思われる。その為に、ヒゼキヤは先ず敵軍の水の補給を遮断し、町の外の泉の水をせき止め、城内の水を確保することにした(2~4節)。更に壊れた城壁を修理して、防備を固め、武器を調達し、軍事組織を整備したのである(5~6節)。
  7節「強く雄々しくあれ。アッシリアの王とその全軍団を見ても、恐れてはならない。おじけてはならない。我々と共においでになる方は、敵と共にいる者より力強い」。ヒゼキヤは民に向かってこのような励ましの言葉をおくり、民は力付けられた。アッシリアは使者を派遣して、ヒゼキヤの神信頼を偽りと批判し、アッシリアに対して諸国の神々のどの神が救うことが出来たかと問い掛けた。そしてヒゼキヤに欺かれ、唆されてはならない。どの民、どの国モアッシリアから救い出すことはできないと通告した(8~15)。列王記下18章16節以下には民のこころを煽情し、わたしの手から諸国の神々も救い得ないと繰り返し強調している(16~17節)。新改訳では「語り続けた」(16節)を「逆らって弁舌をふるった」と訳している。
  18節「彼らは城壁の上にいたエルサレムの民に、ユダの言葉を使って大声で呼びかけ、恐れと戸惑いを起こさせ、町を占領しようとした」。彼らはエルサレムの神を人の手で作った神々と同じと考えた。
20節「ヒゼキヤ王と預言者、アモツの子イザヤはこの事のために祈り、天に助けを求めて叫んだ」。列王記下19章では、イザヤが王に告げた言葉(6~7節)、王の祈り(15~19節)、そしてアッシリアに対する予言の言葉(21~34節)が出ている。併せて読む必要があろう。
  21節「主は御使いを遣わして…全滅させられた」。一夜にして18万8千人が死んだ出来事である(列王記下19章35節、イザヤ37章36節see)。24~25節ではヒゼキヤが病にかかり、死にそうになったことである。
26節「ヒゼキヤは受けた恩恵にふさわしくこたえず、思い上がり、自分とユダ、エルサレムの上に主に怒りを招いた」。ヒゼキヤは思い上がりを捨ててへりくだったので、祈りに応えられその時代に彼らが主の怒りに襲われることはなかったとある。列王記下20章1~11に詳しく出ている。
  27~30節は列王記には記述がない。バビロンから病気見舞いの使者が来た時、ヒゼキヤが取った態度にイザヤが王の軽率な対応を非難した言葉(20章19節参照)が、ここでは「神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた(31節)となっている。彼の葬送は、民に評価されたことが、敬意を表したという言葉で伺える(33節)。


御前に良い事、正しい事、真実な事

2012-09-26 | Weblog
歴代誌下31章 

 20節「ヒゼキヤはユダの全土にこのように行い、自分の神、主の御前に良い事、正しい事、真実な事を行った」(新共同訳)

  1節「このようなことがすべて終わると、そこにいたすべてのイスラエル人はユダの町々に出かけて、石柱を砕き、アシェラ像を切り倒し、聖なる高台と祭壇を破壊し、ユダ全土、ベニヤミン、エフライム、マナセからそれらを徹底的に除き去った。こうしてイスラエルの人々は皆、それぞれ自分の町、自分の所有地に帰って行った」。既に29章15~16節、30章14~15節でエルサレム神殿と聖域にあるもの、またエルサレム市中にあった祭壇をすべて取り壊してキデロンに投げ捨てて過越祭がなされたが、そこに集まった人々はユダの町々に帰って行き、ユダの全土、ベニヤミン、エフライム、マナセからアシェラ像と石柱を徹底的に除き去ったのである。そして祭司、レビ人はそれぞれの任務に従って燔祭と酬恩祭を献げ、感謝と賛美とをもって律法のことに専念することが求められた。そのためヒゼキヤ王は自らの財産から燔祭のため応分の献げ物をした(2~3節)。更にエルサレムの住民には祭司とレビ人の受けるべき分を提共するように命じた(4節)。律法に定められたことで、民が献げた物で生活する事になる(民数記18章8節~12節・祭司、26~12節・レビ人)。
  6節「ユダの町々に住むイスラエルとユダの人々も、牛と羊の十分の一と、自分たちの神、主のために聖別された物の十分の一を運んで来て、次々と積み上げた」。第三の月(初穂の刈り入れの月)から第七の月(収穫祭)まで続き、食べ物が残ってしまう程の量となった(7~10節)。ヒゼキヤは神殿の中に祭司室を設けさせ、彼らは献納物、十分の一の献げ物、聖別した献げ物を運び入れた。レビ人の指導者コナヤンがその責任を負い、その兄弟シムイが補佐役となった(11~13節)。分配の責任はレビ人イムナの子コレを任命し、その指揮下で組ごとに、老若の別なく登録された三歳以上の男子と、神殿で日々奉仕に当たる者すべてに分配された(14~16節)。
  17節「祭司はその家系に従って、レビ人は二十歳以上の者が、その組ごとの任務に従って登録されていた」。その登録は、そのすべての幼児、妻、息子、娘ら全会衆を含み、聖別されていたとある(18節)。町の牧草地にいる祭司たちの為には、それぞれに指名された者がいて祭司のすべての男子、登録されているレビ人に分配することになっていた(19節)。
  20節「ヒゼキヤはユダの全土にこのように行い、自分の神、主の御前に良い事、正しい事、真実な事を行った」。口語訳「良い事、正しい事、忠実な事をその神の前に行った」。ヒゼキヤ王の改革が成功裡に進められたことが示されている。それはヒゼキヤが神殿における奉仕と、律法と戒めについて、すべての事業を、心を尽くして進め、成し遂げたことである(21節)。



その声は聞き届けられ

2012-09-25 | Weblog
  歴代誌下30章 

  27節「祭司たちとレビ人は立ち上がって、民を祝福した。その声は聞き届けられ、その祈りは主の聖なる住まい、天にまで達した」(新共同訳)

  1節「ヒゼキヤはすべてのイスラエルとユダに使者を遣わし、またエフライムとマナセには書簡を送り、エルサレムの主の神殿に来てイスラエルの神、主のために過越祭を行うように呼びかけた」。29章と本章の間には、アッシリアによる北イスラエルが滅ぼされる出来事が並行記事の列王記下17章に出ている。アハズ王12年にホシェアが北イスラエルの王となり、在位7年目に三年間サマリアをアッシリアが包囲しイスラエルは滅ぼされたのである(同18章9節)。ヒゼキヤはホシェア治世三年の時王に就き29年間在位している(同18章1節)。ここですべてのイスラエルとユダに使者を遣わして過越祭を行う呼び掛けをしたのは、その年を確定することは難しいが、滅ぼされた北イスラエルの民に対してなされた状況が伺える。通常は第一の月であるが、祭司の数が充分でないという状況が続き(29章34節see)、更にエルサレムに民が集まっていなかった為に、第二の月に過越祭をおこなうことになった(2~3節)。これは律法で認められていた(民数記9章10~11節)。
  6節「急使は王と高官が託した書簡を持ってすべてのイスラエルとユダを巡り、王の命令どおりこう言った。『イスラエルの人々よ。アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち帰れ。そうすれば主は、アッシリアの王の手を免れて生き残った人々、あなたたちに帰ってくださる』」。書簡をもって、急使が改めてイスラエルとユダを行き巡り、エルサレムで行う過越祭を守るよう呼びかけた。アッシリアの王の手を免れて生き残った人々に立ち帰るように主が求めていると伝えた。そうするなら主は捕らわれて行った者たちを憐れみ、この地に帰って来ることが出来ると告げた(7~9節)。この時急使に対して冷笑し、嘲る部族があったが、謙虚になってエルサレムに来た部族もあったと記されている(10~11節)。
  13節「第二の月に、多くの民がエルサレムに集まり、除酵祭を行った。それは極めて大きな会衆となった」。祭司とレビ人は自らを聖別し、十四日に過越のいけにえを屠り、燔祭の献げ物を神殿に携えて来た(14~15節)。ところがこの時北イスラエルから来た、エフライム、マナセ、イサカル、ゼブルンの多くの者が身を清めないで過越のいけにえを食べていたことが判った(17~18節)。これは掟に違反することであった(出エジプト12章43節以下)。それを知ったヒゼキヤ王は、「恵み深い主よ、彼らを赦し下さい。彼らは聖所の清めの規定には従いませんでしたが、先祖の神、主を求めようと決意しているのです」と訴えた(19節)。
   20節「主はヒゼキヤの祈りを聞き入れ、民をいやされた」。そして続く7日間の徐酵祭が行われ、レビ人と祭司たちは、毎日主を讃える強力な楽器を鳴らして、主を賛美した(21節)。またユダの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者、ユダに住む者が共に喜び祝った(25節)。
  26節「エルサレムに大きな喜びがあった。イスラエルの王ダビデの子ソロモンの時代以来、このようなことがエルサレムで行われたことはなかった」。これはソロモンの時代以来、初めてのことであったと記す(27節)。
 ここでは、亡国の民イスラエルに呼びかけて南ユダの民と共に過越祭を祝ったヒゼキヤの偉業が示される。特に王としての主に対する信仰と服従が伺えよう。


今、自分を聖別せよ

2012-09-24 | Weblog
  歴代誌下29章 
  
  5節「レビ人よ、聞け。今、自分を聖別し、先祖の神、主の神殿を聖別せよ。聖所から汚れを取り去れ」(新共同訳)

  1節「ヒゼキヤは二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。その母は名をアビヤといい、ゼカルヤの娘であった」。ヒゼキヤ王在位(BC728~700年)の記事は29~32章まで出てくる。本章に記されている彼が王になって先ずしたことは、並行記事の列王記下18章ではわずか数行(2~4節)だが、ここでは詳しく記るされる。先ず治世第一年第一の月、神殿の扉を開き修理し、祭司とレビ人を東の広場に集めた(3~4節)。
  5節「レビ人よ、聞け。今、自分を聖別し、先祖の神、主の神殿を聖別せよ。聖所から汚れを取り去れ」。ヒゼキヤは、彼らに向かって、わたしたちは先祖の神に不忠実で、主の目に悪とされることを行い、幕屋に背を向けた。そして前廊の扉を閉じてともし火を消し、燔祭を献げる事をしなかったと告げた(6~7節)。主は怒り、エルサレムを人々の驚きと嘲りの的とされ、民は剣に倒れ、息子、娘、妻は捕虜にされたのだと語った(8~9節)。
  11節「わが子らよ、今このとき怠けていてはならない。主があなたたちをお選びになったのは、あなたたちが御前に出て主に仕え、主に仕える者として香をたくためである」。そこでレビ人たちは立ち上がり、自らを聖別し、王の命令により主の神殿を清め、アハズが持ち込んだすべての偶像を破壊し、不浄なものを神殿から運び出してキデロンの谷に捨てた。それは十六日間で完了した(15~17節)。そして主に背いて取り除いた祭壇、祭具を聖別したと王に報告した(18~19節)。翌朝、王は町の責任者らを贖罪の献げを持って神殿に集め、アロンの祭司によって罪の贖いの燔祭をささげた(20~24節)。
 25節「彼はダビデと王の先見者ガド、預言者ナタンの戒めに従ってシンバル、竪琴、琴を持つレビ人を神殿に配置した。この戒めは主が預言者たちによってお授けになったものである」。ヒゼキヤは祭壇に燔祭を献げるように命じ、レビ人が主の賛歌とラッパの演奏を始めると、会衆は皆ひれ伏し、賛歌がうたわれ、燔祭(焼き尽す献げ物)が終わるまで続いた(26~30節)。
  31節「ヒゼキヤは言った。『今、あなたたちは主に身をささげた。感謝の献げ物を携えて主の神殿に近づけ』。そこで会衆は感謝の献げ物を携え、また進んでささげようとする者は皆、焼き尽くす献げ物を携えて来た」。燔祭に続いて、感謝祭(感謝の献げ物)を携えて来たのである。会衆が携えて来た燔祭の雄牛は七十頭、雄羊百匹、小羊二百匹であった。また奉納物の牛は六百頭、羊三千匹だったが祭司の数が少なくて、動物の皮をはぐ作業をレビ人が彼らを助けたという(32~34節)。
  35節「また、多くの焼き尽くす献げ物、それに和解の献げ物の脂肪や焼き尽くす献げ物に注ぐぶどう酒もあった。こうして主の神殿における奉仕が復活した」。ここでは酬恩祭(和解の献が物)のものもあった。アハズ王が残した悪しき神々の礼拝は、祭壇と祭具をすべて排除し、新しく祭壇が聖別されて、燔祭、感謝祭、酬恩祭が復活するという出来事がここで明確にされたのであった。

 ここで「聖別」(罪の清算)、「罪の贖い」、「神への賛美」という神礼拝の基本が示される(使徒言行録2章36~42節)

援助を求めて…使者を送った

2012-09-23 | Weblog
  歴代誌下28章 

 16節「そのころ、アハズ王は援助を求めてアッシリアの王に使者を送った」(新共同訳)

   1節「アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった。彼は父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わなかった」。彼が何故ヨタムの歩んだ道からそれたのか判らない。イスラエルの王たちの道とは、北イスラエルが陥った神への背信で「アハブの家の罪」(21章13節、22章3節)を指す。彼はバアルの神々の像を鋳造し、諸国の民の忌むべき慣習に倣い、ベン・ヒノムの谷で香をたき、自分の子らに火の中を通らせ、聖なる高台、丘の上、茂った木の下で犠牲をささげ、香をたいたのである(2~4節)。
   5節「それゆえ、その神、主はアハズをアラムの王の手に渡された。アラム軍は彼を打ち、多くの者を捕虜にしてダマスコに連れ去った。アハズはイスラエルの王の手にも渡され、大きな損害を被った」。このような背信行為に対する神の裁定は、アラム軍と北イスラエルの同盟軍の攻撃となる。この時、ユダの勇士十二万人が打たれ、王子、侍従長が殺され、婦女子二十万人を捕虜とし、大量の戦利品奪ってサマリアに運び去ったという(6~8節)。この時、預言者イザヤはアハズに会い「気をつけて、静かにし、恐れてはならない」と忠告した(口語訳7章4節)。そして「もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない」(同9節)と告げたが、アハズは聞く耳を持たなかったのである。北イスラエルに捕虜として連れられた民に対して、預言者オデドはサマリアの民に向かって「主がユダに対して怒りに燃え、あなたたちの手に渡されたのだ。あなたたちは…自分たちの男女の奴隷にしようと思っている。…連れてきた奴隷を帰しなさい」と告げている(10~13節)。
  14節「そこで兵士たちは、将軍たちとすべての会衆の前で、捕虜と戦利品を放棄した」。奪った戦利品から捕虜に衣服を着せ、履物を与え、飲食させ、弱った者はろばに乗せてエリコの町まで送り届けた(15節)。預言者イザヤの忠告にも関わらず、アハズは援助をアッシリアに求めた(16節)。並行記事の列王記下16章7~8節を読むと、ティグラト・ピレセルに使者を遣わして「わたしはあなたの僕、あなたはわたしの子です」と言って救援を求め、神殿と王宮の宝物を贈物としている。アッスリアはダマスコを攻撃して落とした。
   22節「このアハズ王は、災難のさなかでも、なお主に背いた」。その時アハズはダマスコにいたアッシリアの王ティグラト・ピレセルに会いに行く。何故かアハズはそこで見た祭壇に心奪われ、祭司ウリヤにダマスコの神々の祭壇の見取り図と詳しい作り方の説明書を送らせた。そしてエルサレムの神殿の祭具を粉々に壊し、神殿の扉を閉じ、エルサレムの街角に祭壇を築いた。そして香を焚き、神々を拝んだのである(23~25節)。「災難の中でもなお、主に背いた」というのが、生前のアハズの評価である。彼は死んでその遺体は王の墓に入れられなかった(27節)。


御前をたゆまず歩き続けた

2012-09-22 | Weblog
 歴代誌下27章
 
   6節「ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた」(新共同訳)。
  
  1節「ヨタムは二十五歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった。その母は名をエルシャといい、ツァドクの娘であった」。この並行記事は列王記下15章32~38節である。ウジヤが死んだ年預言者イザヤが召命を受けたことは知る必要がある(イザヤ6章1節)。ウジヤが重い皮膚病で実際に王の務ができなかった期間は不明だが、その晩年の約14年間、北イスラエルは激しく政権が変わっている(列王記下15章 ゼカルヤ・シャルム・メナヒム・ペカフヤ・ペカ)。そして二度のアッシリヤ攻撃を受けている。この時、南ユダが堅固な国政を取り得たのは「神の驚くべき助け」があったからだ(26章15節see)。ヨタムは「父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。ただ主の神殿に入ることだけはしなかった。民は依然として堕落していた」とある(2節)。主の神殿に入らなかった理由はウジヤと同じ轍を踏まないことを心掛けたからであろう。彼は主の神殿の上の門を建て、オフェルの城壁に多くの工事を施し、ユダの山地に町を築き、森の中に城砦や塔を築いた。アンモン人との戦いで勝利し、貢ぎ物を納めさせた(3~5節)。
  6節「ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた」。列王記下の並行記事にある北のペカがアラムと同盟を組んでユダを攻めてきた出来事は、アハズ王の時代になっている(28章5~8節)。ヨタムの時代、表面問題がなかったように見えるが、実際は決してそうでなかったことは、イザヤ1章~5章を読むと判る。
  特にイザヤ5章1~7節「ぶどう畑の歌」が示される。主は公平と正義の実を待っておられた方である。


神の驚くべき助け

2012-09-20 | Weblog
  歴代誌下26章 

  15節「彼はまたエルサレムで技術者により考案された装置を造り、塔や城壁の角の上に置いて、矢や大きな石を放てるようにした。ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ」(新共同訳)

  1節「ユダのすべての民は、当時十六歳であったウジヤを選び、父アマツヤの代わりに王とした」。アマツヤの後、ウジヤ(別名アザルヤ)は16歳で王位に就き、五二年間の治世であった(2節)。並行記事は列王記下14章21~22節、15章1~7節である。父アマツヤが行ったように、神を畏れ敬うことを諭したゼカルヤが生きている間は、主を求めた。そして主は彼を繁栄させられた(5節)。
  6節「彼は出て行ってペリシテ人と戦い、ガトの城壁、ヤブネの城壁、アシュドドの城壁を破壊し、アシュドドをはじめペリシテ人の地方に幾つかの町を建てた」。更にアラブ人やメウニム人、アンモン人は彼に貢ぎ物を献げた。王の勢いは増大し、名声はエジプト近くまで届いた(7~8節)。エルサレムの城壁の角に塔を築き補強した。荒れ野に塔を築き、井戸を掘った(9~10節)。
  11節「ウジヤは戦いに備えて訓練された軍隊を持っていた。それは書記官エイエル、官吏マアセヤによる名簿に従って部隊に配属され、王の高官ハナンヤの指揮下に置かれていた」。勇士である家長の総数は二千六百人、配下の軍隊は三十万七千五百人、全軍に武具を準備した。ウジヤは神の驚くべき助けを得て勢力ある者となった(12~15節)。
  16節「ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした」。祭司アザルヤは主の勇敢な祭司八十人と共に、ウジヤ王の前に立ちはだかって、「ウジヤよ、あなたは主に香をたくことができない。」…この聖所から出て行きなさい。あなたは主に背いたのだ。主なる神からそのような栄誉を受ける資格はあなたにはないと警告した(17~18節)。神殿の祭儀は出エジプト記29~30章、民数記18章1~6節等に不変の定めとして示された律法であった。香炉を手にしていたウジヤに重い皮膚病が発症した(19節)。同じような事例が民数記12章10~13節にあるミリアムや、列王記下5章27節のゲハジの事件を思い浮かべさせる。「重い皮膚病」は新改訳ではツァラアト、現代ではハンセン氏病のことである。ウジヤ王は死ぬ日までその重い皮膚病に悩まされ、神殿に近づくことを禁じられ、隔離された家に住んだ。その子ヨタムが王宮を取りしきり、国の民を治めたとある(20~21節)。神の驚くべき助けを与えられ(7、15節)、国の繁栄を得たウジヤ王は重い病の中で、自らの高慢さを痛く感じただろうか。

  箴言3章34節には「主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜わる」とある。これはヤコブの手紙4章6節に引用されている。

全き心をもって

2012-09-19 | Weblog
  歴代誌下25章 

  2節「アマジヤは主の良しと見られることを行ったが、全き心をもってではなかった。」(口語訳)

  1節「アマツヤは二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。その母は名をヨアダンといい、エルサレムの出身であった」。彼は主の目にかなう正しいことを行ったが、心からではなかったという。国を掌握した時先ずしたのは父ヨアシュを殺害した家臣たちに対する報復行為であった(2~3節)。但し父の罪を子は負わないという律法(申命記24章16節)に従った(4節)。並行記事は列王記下14章1~20節であるが、そこに「聖なる高台は取り除かず、民は依然として…いけにえを屠り、香を焚いていた」とある。この確信の無い態度は、対エドム戦に表われている。ユダ族とベニヤミン族から兵を召集し、その数は20歳以上槍と盾を携える戦闘員30万人であったが、戦力の不足を覚えて、銀百キカルで、北イスラエルの勇士十万を雇った(5~6節)。この時、神の人が来てイスラエルの軍隊を同行させてはならないと忠告した。
  8節「もし行くなら単独で行って勇敢に戦いなさい。そうでなければ、神は敵の前であなたを挫かれます。神には力があって、助けることも、挫くこともおできになります。勇敢に戦いなさい。神には力があって、助けることも、挫くこともおできになります」。アマツヤ王は銀百キカルに未練を抱いたが、預言者の忠告通り傭兵を帰国させた。彼らは激しく憤り、怒りに燃えながら帰った。王は、勇気を奮い起こし、自分の軍隊を率いてセイル兵を打ち倒したのである(11~12節)。ところが、この合間に同行しないで送り返されたイスラエル傭兵がユダの町々を荒し回り略奪をほしいままにしたとある(13節)。
  14節「アマツヤはエドム人の討伐から帰った後、セイル人の神々を導入し、これを自分の神とし、その前にひれ伏して香をたいた」。こともあろうに討伐から帰国後、セイル人の神々を導入して、その前にひれ伏して香をたいたのである。主は怒りに燃え、預言者を遣わして警告したが、耳を傾けなかった。それゆえ神はアマツヤを滅ぼそうと決められたのである(15~16節)。アマツヤは協議してイスラエルに挑戦の使者を送ったが、イスラエルはその不遜な態度に譬で答え、ユダは惨敗する。エルサレムの城壁は崩され、神殿の金、銀、祭具と王宮の宝物は奪われた(17~24節)。20節に「それは神の計らいによる」とある。
   25節「ユダの王、ヨアシュの子アマツヤは、イスラエルの王、ヨアハズの子ヨアシュの死後、なお十五年生き永らえた」。アマツヤ治世の最後について、主に背を向けた時から、彼に対する謀反がエルサレムで企てられた為ラキシュに逃れたが、追っ手によって殺された(26~27節)。
  2節、8節、15~16節、20節、27節から、神がアマツヤの背後におられたことが示される。神は決して、不義と背信を見逃されないで、すべてを見抜くお方である。

著しい貢献をした

2012-09-18 | Weblog
歴代誌下24章 

16節「その遺体はダビデの町に諸王と共に葬られた。彼はイスラエルにおいて神とその神殿のために著しい貢献をしたからである」(新共同訳)

1節「ヨアシュは七歳で王となり、四十年間エルサレムで王位にあった。その母は名をツィブヤといい、ベエル・シェバの出身であった」。四十年間の治世はヨラム八年、アハズヤ一年、アタルヤ六年と、めまぐるしく変わったのに比較して長い期間であった。問題となるのは、祭司ヨヤダの生きている間、主の目にかなう正しいことを行ったことである。ヨアシュの後見人ヨヤダの存在が如何に大であったかが明らかとなる。
  5節「祭司とレビ人を集めて言った。『ユダの町々に出かけて行って、あなたたちの神の神殿を毎年修理するため、すべてのイスラエル人から資金を集めよ。速やかに取りかかれ』。しかし、レビ人たちは速やかに取りかからなかった」。ヨアシュは主の神殿の修復に意欲を示し、祭司とレビ人に毎年修理するためすべての民から資金を集めるよう命じたが、取りかかることが遅れてしまう。この理由が並行記事の列王記下12章5~9節に出ている。治世23年になっても出来なかった。それは民の献金が祭司たちの必要に当てられていたからであった。そこで祭司ヨヤダに理由を質し、神殿破損修理という目的を明確にすることにした。それが神殿の門の外に箱を置くことであった(6~7節)。
  8節「王は命令を出して一つの箱を作らせ、主の神殿の門の外に置かせた」。その結果、高官も民も皆喜んで持ってきて献げた。そして献金は箱に溢れるまでになった(10~11節)。やがて神殿は元の状態に修築でき、余剰金は祭具や燔祭の献げ物に供された(12~13節)。ヨヤダの生きている間神殿では燔祭が献げられたのである(14節)。これは2節の言葉を裏付けるものである。
  15節「ヨヤダは年老い、長寿を全うして死んだ。死んだとき、彼は百三十歳であった」。ヨヤダの死後、ユダの高官たちが王の前に来てひれ伏し、先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えたのである(17~18節)。王は高官たちの言いなりになってしまい誘惑に陥った。祭司ヨヤダの死が惜しまれる。この後、主に立ち帰らせる為に預言者が遣わされたが、王は耳を貸さなかった。祭司ヨヤダの子ゼカルヤが神の霊に充たされ、民に向って立ち語った(19節)。
  20節「…なぜ主の戒めをやぶるのか。あなたたちは主を捨てたので、主はあなたたちを捨てる」。ヨアシュは、このゼカルヤの厳しい忠告が、ヨヤダの代弁であることを悟れず、長官らと共謀し、神殿の庭でゼカルヤを石で殺した。ゼカルヤの最期の祈りは「責任を追及してください」ということであり、その通りアラム軍の襲来で、主はアラム軍の手に渡して、ヨアシュに裁きを行ったのである(22~24節)。彼が重傷を負い臥せっている時、家臣たちは共に謀って寝床で襲い殺した。そしてゼカルヤの願いが実現する(25節)。

  ここで祭司ヨヤダの存在を思う。ヨアシュ誕生の時に彼は既に80歳を超えていたことになる。後見人として知略と誠実に富む祭司として生涯を賭けていたことが知られる。彼は王の墓に葬られた。彼の評価が16節にある。これは歴史の教訓として覚えたいものである。
 

『王万歳』と叫んだ

2012-09-13 | Weblog
  歴代誌下23章
 
  11節「そこで彼らは王子を連れて現れ、彼に冠をかぶらせ、掟の書を渡して、彼を王とした。ヨヤダとその息子たちは彼に油を注いで、『王万歳』と叫んだ」(新共同訳)

  1節「七年目に、ヨヤダは決意を固め、百人隊の長たちエロハムの子アザルヤ、ヨハナンの子イシュマエル、オベドの子アザルヤ、アダヤの子マアセヤ、ジクリの子エリシャファトを連れて来て、彼らと契約を結んだ」。アタリヤがバアル神殿で賑々しく祭りを行っていた間、祭司ヨヤダはエルサレム神殿の中に幼児ヨアシュを匿い続けた。そして七年目、ヨヤダは決意を固めた。クーデターの実行である。彼は五人の百人隊長たちと契約を結ぶ。そしてユダを行き巡り、すべての町からレビ人とイスラエルの氏族の長を集めた(2節)。この並行記事は列王記下11章4~12節にある。
  3節「全会衆が神殿の中で王と契約を結ぶと、ヨヤダは彼らに言った。『見よ、王の子を。主がダビデの子孫について言われた言葉に従って、彼が王となる…』」。ヨヤダは祭司とレビ人を三等分して、安息日に、主の神殿と王宮と礎の門を防備して、民には神殿の庭に留まり、神殿に入ってはならないと命じた。この戒めを守らない者は武器を持つレビ人によって殺さなければならない、レビ人は王と行動を共にせよと告げた(4~7節)。ヨアダは神殿に納めてあったダビデの槍と大盾、小盾を百人隊長に渡し、槍を持つすべての民とともに神殿周囲を固め、王子を警護して神殿に連れて現われた(9~10節)。
  11節「そこで彼らは…彼に冠をかぶらせ、掟の書を渡して、彼を王とした。ヨヤダとその息子たちは彼に油を注いで、『王万歳』と叫んだ」。列王記下11章では、全会衆が拍手して「万歳!」と叫んでいる。漢民族から来た言葉で日本だけでなく、韓国でも万歳と叫ぶ。ヘブライ語は「ハーヤー」で命を表す語である。TEVは“Long live the King!”で、王の生涯に対する祈りが込められた言葉である。アタルヤは民が王を讃えている声を聞いて神殿の傍に近寄って見た。すると神殿の入り口の柱の傍らにヨアシュ王が立ち、そばに将軍たちと吹奏隊が立ち並び、民は皆、喜び祝ってラッパを吹き鳴らし、詠唱者たちは楽器を奏で、賛美の先導を行っていた光景を見て、愕然とし「謀反だ。謀反だ」と叫んだ。アタルヤは神殿の外に引き出され、王宮の馬の門の入り口で、百人隊長によって殺された。
  16節「ヨヤダは、自分とすべての民と王との間に、主の民となる契約を結んだ」。続いて民はバアルの神殿に行き、祭壇を破壊し像を砕き、バアルの祭司マタンを殺した。ヨヤダは神殿の監督を祭司とレビ人にゆだねた。神殿の門に門衛を立て汚れのある者を入れないようにした。更に百人隊長、貴族、民の支配者と民を率いて神殿からヨアシュを連れ出して王宮に入り、王座につけた。民はみな喜び祝い、町は平穏となった(17~21節)。かくして幼少の王は、ダビデ家の継承を保持し、主の契約によって王位に就くことになった。

 16節にある契約は、ヨヤダが王を中心に民の一致を確約させるものであった。

神殿の中に隠れていた

2012-09-11 | Weblog
  歴代誌下22章
 
  12節「こうして、アタルヤが国を支配していた六年の間、ヨアシュは彼らと共に神殿の中に隠れていた」(新共同訳)

  1節「エルサレムの住民は、ヨラムの最年少の子アハズヤを彼の代わりに王とした。アラブ人と共に陣営に攻め込んできた部隊によって年上のすべての王子が殺されてしまったからである。こうして、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった」。アラブ人に年上の王子が殺されたことは、21章17節にある。アハズヤ(ヨアハズ)は父王ヨラムと同じ道を歩んだ。その治世は僅か一年に過ぎない(2節)。この並行記事は列王記下8章25~29節にある。「42歳」は間違いで「22歳」が正しい。治世一年間はイスラエルの王オムリの孫娘つまりアハブの娘アタルヤが悪い勧めを与えたので、アハブの家の道を歩んだという(3節)。口語訳「その母が彼の相談相手となって悪を行わせた」とある。
 5節「アハズヤは彼らの勧めによって、イスラエルの王、アハブの子ヨラムと共にアラムの王ハザエルと戦うため、ラモト・ギレアドに行った。しかし、アラム兵がヨラムに傷を負わせた」。ユダの王ヨラムと同名であるが、負傷したヨラムはイズレエルに戻り治療をしていた。そこに見舞いにいったのである(6節)。その時イエフが同行したことになっているが、列王記下9章1~29節に出ているイエフの行動とは大きく違っている。イエフはユダの王アハズヤに仕える高官だが、エリシャが使者を遣わして油を注ぎ王にして謀反を起こし、イスラエルの王ヨラムを殺害したのである。ここではそれに触れていないが、「アハズヤがヨラムを訪れることによって滅ぶに至ったのは神による」(7節)というのは、同じ文脈で捉えることができる。イエフによって神に対する背信への裁定がなされた。イエフはアハブの家に裁きを行う時、アハズヤに仕えるユダの高官とアハズヤの兄弟の子らをも捜し出して殺したのである(8~9節)。
  10節「アハズヤの母アタルヤは息子の死んだのを見て、直ちにユダの家の王族をすべて滅ぼそうとした」。イエフはアハズヤの子らを殺してはいなかったようだ(9節see)。アタルヤはユダの実権を自ら掌握しようとして、王族すべてを殺害したのである。この時、乳児ヨアシュが、ヨラム王の娘、アハズヤの妹ヨシェバによって乳母と共に「寝具の部屋」に匿われて救い出された(11節)。彼女は祭司ヨヤダの妻であった。列王記下11章1~3節に並行記事がある。アタルヤが国を支配していた六年間、ヨアシュは神殿の中にかくまわれていたのである(12節)。これはなんという不思議、危機一髪殺されるところであった。ここにはもう一つの聖意があった。それは、主がダビデの家を滅ぼさないで、その子孫に絶えずともし火を与えると約束されたことである(21章7節)。

 「煙れる灯心を消すことがない」(マタイ12:20、イザヤ42:3)という神の憐れみを覚える。


絶えず灯火を与えると約束された

2012-09-10 | Weblog
  歴代誌下21章 

  7節「しかし主は、ダビデと結んだ契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えずともし火を与えると約束されたからである」(新共同訳)

  1節「ヨシャファトは先祖と共に眠りにつき、先祖と共にダビデの町に葬られた。その子ヨラムがヨシャファトに代わって王となった」。この並行記事は、列王記下8章16~24節で、簡潔なものである。アサ、ヨシャファトと続いたダビデ王朝に陰りを見せたのがヨラムである。ヨラムが背反と堕落に至ったのは、ヨシャファトに遠因があったといえなくは無い。彼に7人の王子がいたが、それぞれにユダの砦の町と金銀など高価な品々を遺産として与えたが、ヨラムは長子だったので、王位を彼に与えた(2~3節)。長男ヨラムは兄弟より優れていた訳ではなかった(13節see)。父の国を支配下に置いて勢力を増すと兄弟をすべて殺し、ユダの高官をも剣にかけて殺す愚行を行った。それは王の権力と権勢欲を手に入れたということである(4節)。三二歳で王位に就き在位は八年間だった(5節)。
  6節「彼はアハブの娘を妻としていたので、アハブの家が行ったように、イスラエルの王たちの道を歩み、主の目に悪とされることを行った」。これは父ヨシャパテの時になされた時と同様の政略結婚であった(18章1節)。ヨラムはアハブの家が行ったように、イスラエルの王たちの道を歩み、主に対する背反と堕落(偶像礼拝)の罪を犯した。列王記下に示される「ヤロブアムの罪」である=列王記下9章9節、10章29節。しかし主はダビデと結んだ契約のゆえに、その子孫に絶えず与えると約束された灯火を消されなかった(7節)。
  8節「ヨラムの治世に、エドムがユダに反旗を翻してその支配から脱し、自分たちの王を立てた」。ヨラムの背反との結果は、ユダにエドムが反旗を翻し、続いてエドムとリブナも反旗を翻してその支配から脱することになる(9~10節)。ヨラムがユダの山々に高台を造り、住民に淫行を行わせ、ユダの人々を堕落させたことを受けて預言者エリヤから一通の手紙が届く。それは彼が父ヨシャファトの道を歩まず、民に淫行(偶像礼拝)を行わせ、兄弟を殺したゆえに、大いなる災いをもって民と、妻と子たち、すべての財産を打ち、悪質の病にかかり、日々重くなるというものであった(11~15節)。その予言は現実のものとなり、ペリシテ人とアラム人もヨラムに敵意を抱いてユダを攻め王宮の財宝と共に、王子と王妃も奪い去ったのである。そしてひとりヨアハズが残された(16~17節)。そして彼は内臓の重い病気に罹り、来る日も来る日も苦しみ、二年間苦しんで死んだのである(18~19節)。彼の葬送は悲惨で、惜しまれることなく、世を去ったとある(20節)。新改訳「人々に愛されることなく世を去った」とある。

 ガラテヤの信徒への手紙に厳しい言葉があり、それがここで示される。
 「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っている(共食い)なら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう」(口語訳5章15節)。

喜びと賛美の歌

2012-09-08 | Weblog
  歴代誌下20章 

  22節「彼らが喜びと賛美の歌をうたい始めると、主はユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので、彼らは敗れた」(新共同訳)

  1節「その後、モアブ人とアンモン人が、メウニム人の一部と共にヨシャファトに戦いを挑んだ」。優れた国の治世であった敬虔王ヨシャファトの晩年に再び危機が到来した。連合軍の襲来を聞いたヨシャファトは、主を求めることを決意し、ユダの人々に断食して主に求める要請をし、神殿の庭に集まった(2~5節)。
  6節「…『わたしたちの先祖の神、主よ。あなたは天にいます神、異邦人の国をすべて支配しておられる方ではありませんか。御手には力と勢いがあり、あなたに立ち向かうことのできる者はいません』」。祈りは12節まで続く。それはカナン侵略に遡って、この地の先住民を追い払って、国を建設し、神殿を建て祈りを捧げてきたこと、しかし荒れ野時代にはモアブ人とアンモン人との対決を避けてきた。しかし今彼らは攻撃してユダの人々を追い払おうとしている。この大軍を迎え撃つ力はなく、何をすべきか分からず、あなたをただ仰ぐだけであると無力を告白する。
  13節「ユダのすべての人々がその幼子も、妻も、息子と共に主の御前に立っていた」。その会衆の中から、レビ人ヤハジエルが立って「ヨシャファト王よ、恐れるな。…これは神の戦いである」と告げた(14~15節)。彼らと戦う必要はない。主が救うのを見よ。重ねて「恐れるな、おじけるな。~主が共にいる」と告げた(17節)。これは、イスラエルがカナン侵入の時ヨシュアに告げられた戦勝の宣言と同じである(ヨシャア1章9節)。 
  18節「ヨシャファトは地にひれ伏し、すべてのユダとエルサレムの住民も主の御前に伏して、主を礼拝した」。主の勝利が告げられた後、それを先取りするように礼拝と賛美が続く。大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した(19節)。無力の戦い、それは神の名を崇め讃美するところから始まる。「主の聖なる輝きをたたえる者たちを任命し…軍隊の先頭を進ませ」(20節)は口語訳「聖なる飾りを着けて軍勢の前に進ませ」とある。伏兵におびえ、同士討ちをして敵は自滅した(22~23節)。セイル山で勝敗は決し、ユダの軍隊は戦地に残された戦利品を携え、竪琴と琴を奏でラッパを吹き鳴らしながら、エルサレムに凱旋した(28節)。讃美で敵を攻撃し勝利した記録も、ヨシュア記6章エリコ攻略に出てくる。この後、諸国はイスラエルの神への恐れが伝わった(29節)。
  30節「ヨシャファトの王国は平穏で、神は、周囲の者たちから彼を守って、安らぎを与えられた」。31節後半は、ヨシャファトの治世のまとめであるが、彼の父アサの道を歩んだが、しかし聖なる高台は取り除かなかった。民は揺るぎない心を神に向けていなかったとある(33節)。17章6節と違っているのは何故か。35節のイスラエルの王アハズヤと協定を結んだことは、預言者エリエゼルに譴責されるという過ちを犯すことになっている(37節)。油断があったためであろう。

  讃美こそ神の力であることを知る聖書は旧約・ネヘミヤ8章10節、新約・使徒言行録16章25節にある。