日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

福音を告げ知らせながら巡り歩いた

2015-09-30 | Weblog
  使徒言行録8章 

  4節「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(新共同訳)

  1節「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」。小見出し『エルサレムの教会に対する迫害』。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ(2節)。この殉教は信徒達が地方に散って行く結果、宣教の拡大へとつながる。
  3節「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」。彼がステファノの殺害に賛成し、石打ちの刑に立ち合い、石を投げる者らの着物を預かった人物として記されている(1節、7章58節)。
  4節「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」。小見出し『サマリアで福音が告げ知らされる』。使徒たちは都を離れなかった為、結果的に自立した信仰を継承することになる。「巡り歩く」は新約聖書に43回出てくるが、使徒言行録は21回もある。福音が苦難という入れ物で持ち運ばれた。「殉教者の血は教会の種子である」(テルテュリアヌス)。
  5節「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた」。1章8節に預言された通りディアコヌース(奉仕者・第一テモテ2章8節“執事”)のフィリポによるサマリア宣教である。差別と偏見の壁を越えて福音は伝えられた。彼は初期の信徒伝道者である。町の人々は彼の話を聞き、悪霊が追い出され、癒しの業がなされ大いに喜んだ(6~8節)。
  9節「ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた」。しかしフィリポが神の国とイエスの名による福音を語り、信じた者らがバプテスマを受かるのを見て、シモンもこれに心を引かれてバプテスマを受けた。この有り様を聞きエルサレムからペトロとヨハネが来て彼らの上に手を置き聖霊を授かった。これをみたシモンは金を持って来て聖霊を授かるよう頼んだが、ペトロから神の賜物を金で手に入れようと願う悪事を諭され悔悛の心を表し「泣きに泣いた」といわれる(19~24節)。教父時代にシモン-マゴグ(魔術師シモン)がグノーシス主義の父であるという伝承がある。
  26節「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である」。次にフィリポに示された宣教は エルサレムから南西80キロの旧ガザ(戦争で破壊された)へ下る寂しい道で口語訳「このガザは、今は荒れはてている」としている。宣教は人の判断を超え、大衆の待ち受けている所とは限らない。そこで女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理していたエチオピア人の宦官と出会う(27節)。遥か二千キロの旅をしてエルサレムへの巡礼を終えて帰国するユダヤ教改宗者であった。彼は馬車に乗って予言者イザヤの書を朗読していた(28~30節)。聖霊はフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と指示した。不思議な出会いである。大声で朗読している馬車に近づいて、読んでいることがお判りですかと声をかけた。それはイザヤ53章7~8節である(32~33節)。宦官は謙虚に.「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言っている(31節)。フィリポの「手引き」は真に適切であった。これは誰のことかと聞かれ、「羊のように屠り場に引かれて行った~」をイエスの十字架として説き、更に「彼の命は地上から取り去られるからだ」を復活の予言として伝えた(32~33節)。つまりイエスの十字架と復活が約束の実現であることを示した。「イエスについて福音を告げ知らせた」とはこれである(35節)。
  これを受入れた宦官はバプテスマを受けたが、彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」(39節)。フィリポは栄誉も賞賛も受けないで、その場を去るのである。

主イエスよ、わたしの霊をお受けください

2015-09-29 | Weblog
  使徒言行録7章 

  59節「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った」(新共同訳)

  1節「大祭司が、『訴えのとおりか』と尋ねた」小見出し『ステファノの説教』。奉仕者(ディアコノス)に選ばれたステファは「恵みと力に満ち」「知恵と霊によって語る」優れた説教者で、彼に議論を仕掛けた者らが太刀打ち出来ないのに腹を立て、人々を唆せ、偽証人を立て最高法院に訴えられ、彼は訴状に対する弁明をする。
  2節「そこで、ステファノは言った。『兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ』」。彼は兄弟であり父である者と呼び掛け決して敵視しないばかりか受容の姿勢を示す。しかし実際彼は石打ち刑にされる(58節)。歴史を父祖アブラハムから解く(3~5節)。続いて族長ヤコブと一族がヨセフによりエジプトに移住し四百年(出エジプト記12章40節・430年)奴隷の民となるが、再び帰国する(6~8節)。ヨセフによるエジプト移住の経緯が述べられる(9~16節)。17~22節はモーセ誕生と40年であり、23~29節ミディアンの地での40年である。
  30節「四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました」。彼の召命物語である(31~34節)。出エジプト3章にある。35~43節は、再度エジプトから約束の地に向う「荒れ野四十年」を述べる。シナイ山で、「命の言葉を受け」たが(38節)、これに背き偶像礼拝に陥ったので神は拝むままにされたと預言者アモスの言葉(5章25~27節)を引用して糾弾した(39~43節)。荒れ野でモーセは「証の幕屋」(44節)を造ったが、その後ダビデが願いソロモンが神の家を建てたが(46~47節)、「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」とステパノは明確に告げ(48節)、預言者イザヤ66章1~2節を引用して語った(49~50節)。
  51節「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです」。「心と耳に割礼を受けていない人」とは、暗に割礼を習慣化していることへの批判であり、更に先祖の人々は真の神礼拝を実現するため遣わされた「正しい方」メシアを預言した人々を殺し、そして今や、その方を裏切る者、殺す者となったと語った(52節)。これを聞いた裁判席の人々は「激しく怒り、ステフアノに向かって歯ぎしりした」(54節)。裁く者が裁かれる者になったのである。更に事柄は重大で、それが真実だったとしても自分たちの過ちを認めたくない、認めるなら、ユダヤ教の依って立つ所は失われてしまう。「正しい者を殺す者となった」と指摘された事実を消し去るために再び同じ過ちを繰り返してステファノを殺す。人は自分の罪を指摘されると怒りこれを取り去るために相手を殺す。ここに人の罪の真相が暴露される。これは人の歴史に繰り返された事実である。
  55節「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て」。「神の右側」は権威と力の象徴である(詩118篇15、16節)。また大祭司イエスの執成す姿である(ヘブライ4章14節)。「立っている」のは事柄の緊急性を表わす。人々は大声で叫び、手で耳をふさぎ一斉に襲いかかり、「都の外に引きずり出して石を投げ始めた」(57~58節)。これはユダヤ教が行う石打ちの死刑である。その臨終に献げた二つの祈りに注目する。それは「主よ、わたしの霊をお受けください」(59節)と、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」(60節)である。
  これはルカ福音書23章34、46節のイエスの祈りと同じである。著者はこれを意図的に書き記したのであろう。イエスと同じ十字架にかかる原始教会の最初の殉教者として、彼の最期を書き綴った。この祈りは死に勝利した祈りである。

霊と知恵に満ちた評判の良い人

2015-09-28 | Weblog
  使徒言行録6章 

   3節「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」(新共同訳)

  1節「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」小見出し『ステファノたち七人の選出』ここで、信徒が増大することにより、新たな課題が起きたことが書き記される。ギリシア語を話すユダヤ人とは原文通り訳すと「ヘレニスト」であり、ヘブライ語を話すユダヤ人は「ヘブライスト」である。バビロン捕囚以降ユダヤ人たちの多くが国外に住むことを余儀なくされ、BC2世紀マカビヤ時代には「離散の民」と呼ばれギリシア語訳聖書(70人訳)で、ユダヤ教信仰を続けていた。婚姻関係その他の事情でエルサレムにも多く定住していた。ユダヤ人社会で両者間に緊張関係があったが、新しいキリスト共同体ではこれを克服していくことになる。
  2節「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない』」。既に教会に中には「相互の交わり」(コイノーニア)とこれに伴う「恵みの共有」(パンタ・コイナ)があった(2章43~47、4章32~36節)。ユダヤ社会にあった働きを真似て「パンの籠」と呼ばれる援助金をいれる器が備えられ、それを適宜配分するような形が出来てきていた。
  3節「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」。この解決方法は「食事の世話をする」者と「祈りと、御言葉の奉仕」に専念する者という職務分担を決めたことである。共同体が選んだ7人は苦情処理や弱い人や貧しい人々への適切な配慮に当り、12人の使徒たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念する。ここで「世話をする」(ディアコノス)と「日々の分配」(ディアコニア)は同じで、「ディア」(通る)と「コニオールトス」(塵)の二つの言葉からできていて、塵や灰を頭に被りながら仕事をすることで謙遜でなければ、務まらない。奉仕者に選任される条件は先ず「あなたがたの中から」で選ばれる。次に謙遜になって祈りつつ聖霊の導きを求める人、第三は「知恵に満ちた人」。知恵は知識でなく、清い良心から来る叡智(第1テモテ3章9節)、第四に「評判のよい人」(マルテュルーメノス)で、家庭人としても仕事の上でも、非難されることなく主の証が出来ている人である。選任の基準は「祈りと御言葉の奉仕」に専念する者である(4節)。これらの四つの条件を満たす、信仰と聖霊に満ちている人ステファノ、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオ7名の名前が挙げられた(5節)。ステフアノとフィリポの二人しか、この後には登場しない。使徒たちは彼らの上に手を置いて祈ったことに留意しなければならない。何故なら、奉仕は神からの賜物だからである。
  8節「さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」小見出し『ステファノの逮捕』。ところがキレネとアレクサンドリアの出身者で「解放された奴隷の会堂」(ルベルテンの会堂)に属する人々、キリキア州とアジア州出身の人々が立ち上がり、ステファノと議論した(9節)。然し彼らは歯が立たなかった(10節)。そこで人々を唆せ、神を冒涜する者だと言わせ、民衆や律法学者らを扇動し最高法院に引いて行って、ナザレの人イエスと同じの言動をしていると訴えた(10~14節・マルコ14章58節see)。最高法院の席にいた者らは、聖霊に満ちたステファノの顔がさながら天使の顔のように見えた(15節)。

人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません

2015-09-26 | Weblog
  使徒言行録5章 

  29節「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません』」(新共同訳)

  1節「ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り」小見出し『アナニアとサフィラ』。これは4章終わりにあるバルナバの真似をしたものと思われる。二人はその代金の中からごまかして一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた(2節・4章35節see)。ペトロはアナニアの心にサタンが働き、聖霊を欺いて何故代金をごまかしたのか。人を欺いたのでなく、神を欺いたのだとたたみ掛けるように牽制した。代金を彼がどう欺いたのか、前例のバルナバと違い一部を持って来て全部と偽ったと思われる(3~4節)。献金は献身の証しで多少を問わない。
  5節「この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」。三時間後、アナニアの妻サフィラが夫の死を知らずにペトロに会った。彼は土地の値段を問い質すと、そうですと答えると、「二人で示し合わせて主の霊を試すとは何としたことか」と告げ彼女も倒れ、息が絶えた(6~10節)。ここで問われるのは、教会全体が聖霊の働きにより、心も思いも一つになることである(11節、2章44、4章32節see)。
 12節「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが」小見出し『使徒たち、多くに奇跡を行う』。あえて仲間に加わろうとしなかったが、称賛していた。しかし主を信じる者の数は益々増えた(13~14節)。またペトロの周囲に病人や汚れた霊に悩まされていた人々が集まり、みな癒してもらった(15~16節)。
  17節「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて」。使徒たちを捕えて、公に牢に入れた。ところが主の天使が夜中に牢の戸を開けて使徒たちを外に出して(18~19節)、行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさいと言われた。そこで使徒たちは夜明けごろ境内に入って教え始めた(20~21節)。「命の言葉」とはイエスの復活に関する教えであり、復活を認めないサドカイ派に対する挑戦である。語り始める大胆かつ受難を恐れない態度は、主の天使から解放された時の言葉に応答する誠実さにほかならない。大祭司たちやサドカイ派の仲間らは最高法院での審問を開始するため、早速イスラエルの子らの全長老会全体を召集し、人を牢に差し向けるが、牢には鍵がかかっていたのに、使徒たちの姿が見えないので周章狼狽する(22~23節)。境内で民に教えているとの報告を受け再逮捕した。使徒たちは無抵抗であった。
  27節「彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した」。あの名によって教えてはならないと、厳しく命じた筈だ。「あの男の血を流した責任」を我々に負わせようとしている(28節)。これはイエスの十字架を指す。これに使徒たちは「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と答えた(29節)。そして「わたし達の先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられた」と告げた(30節)。「わたし達」、「あなた方」との弁明には法廷の議員を巻き込んだ内容である。裁く側も神の法廷に引き出されている。これを聞いた者たちは激しく怒り使徒たちを殺そうと考えた(33節)。その時ファリサイ派で律法の教師ガマリエルが議場に立ち、使徒たちを外に出すよう命じた(34節)
  38節「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし」。神から出たものであれば滅ぼすことは出来ず、神に逆らう者となると忠告した(39節)。使徒たちはイエスの名の為に辱めほどの者とされたことを喜んだ(41節)。

ほかのだれによっても、救いは得られません

2015-09-25 | Weblog
   使徒言行録4章 

  12節「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(新共同訳)

  1節「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た」小見出し『ペトロとヨハネ、議会で取り調べを受ける』。ペンチコステ以後弟子たちの宣教は大きく進展する。殊にペトロの二回に亘る説教は、イエスの復活を宣べ伝えるもので彼らはいらだち、捉えて一晩牢に入れた。サドカイ派は天使とか奇跡とか復活を信じない現実主義で、国の安定を図る親ローマ派、神殿守衛長は神殿警察の長でサドカイ派が多かった。彼らは社会不安が自分たちの地位を脅かすと思ったからだ
  5節「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった」。彼らに呼び出された二人を真ん中に立たせて「何の権威で、だれの名でしたか」と詰問した。ペトロは、四十年足の不自由な男が「イエス・キリストの名によって立ちあがり」歩きだしたこと、そして「わたしたちの救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と告げた(7~12節)。この証言は彼の実体験である。「救い」には定冠詞がついていて唯一の救いを表わす。この説教で三様の反応があった。先ず「彼らの大胆な態度を見、しかも無学な普通の人であることを知って驚いた」(13節)。教育を受けていない人だという。第二は「イエスと一緒にいた者であることが判った」という。これはイエスと同じ考え、生き方をする者たち、イエスを主と告白している証拠となる。第三は、イエスの名で癒された体験者が傍に立っていたので反論できなかった(14節)。
  17節「しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」。~決して(否定的命令形)、話すな(大声で)と脅したが、脅迫でも変えることは出来なかった(18節)。ペトロらは「神に従わないで、あなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか、考えて下さい」と一蹴する(19節)。「あなたがたに従うこと」とは71人の議員で構成する最高法院の権威を指す。周囲の者らが、この事で神を賛美していたので民衆を恐れ、釈放した(20節)。
  23節「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」小見出し『信者たちの祈り』。これを聞いた人たちは心を一つにし(聖霊の一致)、神を賛美し「天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方」と呼び、詩2篇1~2節(70人訳)を取り上げ、イスラエルと異邦の民がこぞってイエスに逆らっているが、その脅しに怯むことなく、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気が癒され、大胆に思い切って語ることができるようにして下さいと祈った(24~29節)。神の祝福か、人間的な安定かの二者択一という決断をキリスト者は迫られるのである。申命記30章19~20節、エレミヤ6章16節see。
  31節「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。燎原の火の如く使徒たちの宣教に対する熱情は消すことは出来なかった。
  32節「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」小見出し『持ち物を共有する』。一人も貧しい人がいなかった。土地や家を売って代金を持ちより、使徒たちの管理のもとで必要に応じて各々に配分した。2章43節以下より組織化が伺える。出エジプト記16章17~18節のマナの教訓(相互扶助)が再現しているようである。キプロス島生まれのバルナバ(慰めの子)は使徒として13章1節に登場する(36~37節)。

イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい

2015-09-24 | Weblog
  使徒言行録3章 

  6節「ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」新共同訳

  1節「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」小見出し『ペトロ、足の不自由な男をいやす』。2章のペンテコステとペトロの説教に対する反応は一方で恐れが生じたが(43節)、他方で「民衆全体から好意を寄せられた」(47節)。その事が「足の不自由な男」を巡って一層大きくなる。
  2節「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」。イエスを信じて仲間に加わった人々は毎日ひたすら心を一つにして神殿に参っていた(2章46節)。ペトロとヨハネも午後三時の祈りを守るために神殿の境内に入ると、「美しい門」に運ばれてきていた物乞いをする男と出会った(3節)。
  4節「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った」。最初の「見る」(アテニゾー)は凝視するで、後の「見なさい」(ブレポー)は、普通の「見る」である。物乞いの男が何か貰えるだろうと「二人を見つめる」(エペコゥー)は注目である(5節)。神の奇跡の要素として見るのは「アテニゾー」である。信仰の応答がなされるかどうかが確認される(ヨハネ福音書5章6節、ルカ福音書18章41節)。人の本心を突くような出来事が起きる。
  6節「ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。財産を共有し合う生活を送っていたので、施す金も無いほど貧しかった訳ではない。じっと凝視した時、何が彼に今必要かを選択し、その要求を退けて、ペトロとヨハネが持っている「ナザレの人イエス・キリストの名」こそが、与える唯一の癒しであり、救いであることを示したのである。ペンテコステの時から彼らが新しく歩み始めた同じ生き方である。ペトロは彼の右手を取って立ち上がらせると、足やくるぶしが、しっかりして立ち、欣喜雀悦し神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った(7~8節)。民衆はこの有り様を見て、我を忘れるほどに驚いた(9~10節)。彼らは礼拝を共にする仲間に加わったのである。
  11節「さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た」。ペトロ二度目の説教である。傍に一緒にいた癒された男に驚いている民衆に向って、何故驚くのかと言い、歩けるようになったのは、アブラハム、イサク、ヤコブの神が僕として遣わされたイエスをピラトは釈放しようとした(12~13節)。あなた方は人殺し(バラバ)を赦し、この「聖なる方」「命への導き手である方」(アルケーゴス)を殺した。然し神はこの方を復活させられ、わたしたちはその証人である(14~15節)。この人が全く癒されたのは、その名を信じる信仰なのだと告げた(16節)。「アルケーゴス」は口語訳「いのちの君」となっている。同じ語はヘブライの手紙12章2節「創始者」と訳されている。
  19節「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」。罪が消し去られる為に今はメシアなるイエスを遣わされて、「慰めの時」(カイロス=好機、適する時)である(20節)。しかし、このお方は万物が新しくなる時まで天に留まっておられ、耳を傾けない者は、滅ぼし絶やされることになっているという(21~23節)。ここで、イエスが神の僕として遣わされたのは、あなた方が悪から離れ、祝福に与らせるためである(26節)。「今や、恵みの時、今は救いの日である」(第二コリント6章3節)。

使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること

2015-09-22 | Weblog
  使徒言行録2章 

  42節「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(新共同訳)

  1節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」小見出し『聖霊が降る』。「五旬節」(1節ギリシャ語・ペンテコスト)は過越祭、仮庵祭とともに後期ユダヤ教の三大祭であった(レビ記23章)。出エジプト記34章22節では「七週祭」となっている。この日二階座敷に集まり、心を一つにして祈っていた120人余の人々の上にイエスが昇天前に約束しておられたことが起きた(1章4節)。
  2節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。これはシナイ山でのモーセによる律法の授受の出来事に似ている。「激しい風」は神の霊の傾注を示し、旧約律法を凌駕する新しい神の啓示を指している。同時に耳をつんざくような音は、他に何も聞けない、唯神からの声だけを聞くことになる。つまり神は人の耳を支配されたのである。
  3節「そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。「舌」(グローッサイ)は言葉の機能を持つ。炎のような舌が降ったのは、一人ひとりの語る舌を神の霊が支配したのである。ここに集まっていた一同は霊が語ることを聞き、それを語るという神の業が起きたのである。
  4節「すると一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。復活のイエスが約束された、聖霊の力を受けてユダヤとサマリヤの全土、また地の果てに至るまで証人となることが実現した。「ほかの国々の言葉で」は直訳「他のグローッサイス(舌・複数)で」である。聖霊が弟子たちの舌を支配して語らせたのである。一般に「異言」(グローッサイ・第一コリント14章see)と言われる。この出来事が5節以下に起きた。
  5節「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが」。五旬節に、国々に散らされていたユダヤ教徒達がエルサレムに帰ってきていたが、彼らはこの日イエスの弟子たちが「自分の故郷の言葉」を話しているのを聞き、驚き怪しんだのである(6~7節)。その「故郷の言葉」とは、ユダヤを中心に東方(パルティア、メディア、メソポタミア)から、北西(ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア)、さらに南西(フリギア、パンフリア、エジプト、キレネに接するリビア地方)と円環状に記され、遠くローマ、西方のクレア、アラビアにまで及んでいた(8~11節)。これを「神の偉大な業を語っている」と受け取ったが、驚きまどい、一体何事かと不思議に思った(12節)。批判的に取りたて「新しい酒」に酔っているとあざける人々もいた(13節)。
  14節「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」。彼は酒に酔っているのでなく、預言者ヨエルが告げたことが(3章1~5節)、今ここに実現成就したのだと語り始める17~21節」。彼の説教が36節まで続くが、神が旧約の預言された通り、イエスを通してなされた十字架と復活の出来事を告げる(22~31節)。今わたし達は聖霊によって語っている(33節)。あなた方が十字架につけたこのイエスを神がメシアたされたと告げると人々は大いに心打たれ、一体どうしたらよいのかと言った(36~37節)。
  38節「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。ペトロの言葉を受入れた人々は洗礼を受け、その日三千人程が使徒の教えを聞き、相互に交わり(コノーニア)、パンを裂き(愛餐)、熱心に祈る集団となった(41~42節)。ここに新しいキリストの共同体が誕生したのである。

地の果てに至るまで、わたしの証人となる

2015-09-21 | Weblog
  使徒言行録1章 

  8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」 (新共同訳)

  1、2節「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。本書がルカ福音書の続編であり、しかも同一の著者によってテオフィロという人物に献呈される形になっている。ルカ福音書では「テオフィロ閣下」(口語訳)とあり、ローマの高官に対する儀礼的称号であるが、著者との関係は不明である。書名は「お選びになった使徒たち」から来ている。「使徒」(アポストロス)」は「任命を受けて派遣される」人を指す。
  3節「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」。今までの「弟子」とは違った使命の内容がここにある。派遣に際し自由に大胆に恐れのない心で出て行く内なる力が必要となる。
  4節「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい』」。復活の主が昇天を前にして約束されたものは何であったか。
  8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。その約束は二つのことであった。先ずその日聖霊が降るという出来事が起きると、祈り集まっている者たちに力(デュナマイ)を受けるというのである。この力はエルサレルという垣根を越え、ユダヤ、サマリアの全土、そして更に民族、人種、国境を越えて地の果まで及ぼす神のご支配、神の国が実現するという力である。因みにこの言葉は「ダイナマイト」の語源となっている。第二に約束されているのは、「わたしの証人となる」である。「証人」(マルテュレス)とは、裁判官の前で証明する(マルテュレオー)ことだが、広義には、自分の見、聞き、経験したことを証言することである。この処に集まっていた百二十人ほど(15節)であったが、それは十二使徒を中心に、婦人たち、イエスの母マリア、イエスの兄弟たちであった。ここでは三年間一緒であった使徒と呼ばれたが、ユダの裏切りで排除されマティオが新しく加えられた十二使徒であった(18~26節)。この百二十人はイエスに結ばれた血縁関係を越えた新しい交わりの形成を示す。新しく生み出された証人(マルテュレス)である。神が聖霊の降臨によって爆発力(ダイナマイト)の起爆剤に結ばれた導火線の役割を担っていると表現できるものである。そして既に点火が始まっていた。それは何か。
  14節「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。祈って待つことなくしては、何も起こらない。それは只の土の粉と火薬との違いでスイッチオンをしても無駄である。百二十人の約束を信じた人々は十日間、エルサレムにある家の二階座敷で、心を合せて熱心に祈ったのである(14節)。「心を合せ」(プロス)、「ゆるがないで」(カルテレオー)の二つの語である。祈りはゆるがなく準備の業として続けること、ここに新しい信仰共同体の原型がある。人間的思惑や取るに足りない左右の違いを越えた見事な交わりを形成する。祈りによりすべての壁を越える働きをつくり出すターニングポイントである。「祈りはペンテコステに先立つ!!」ことを明確に知る必要がある。


あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい

2015-09-19 | Weblog
  ヨハネ21章 

  22節「イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(新共同訳)

  1節「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである」。小見出し『イエス七人の弟子に現れる』。本章は20章30節以下にある通り、ヨハネ福音書の補遺として付け加えられた記事である。復活主がティベリアス湖畔(ガリラヤ湖の別名)で弟子たちに示された教説で、ヨハネ福音書独自なものである。七人の弟子の内ペトロ、トマス、ゼベダイの子らは十二弟子に出ているが、他はここだけである(2節)。
  3節「シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」。復活のイエス顕現を通して立ち直りと宣教使命を与えられた場所は日常生活の只中から始まることを教える。しかし出漁の働きは平穏なものでないことを示唆する。弟子の召命を受けた時を思い出させる(ルカ福音書5章1~11節)。同じように匿名者イエスは「舟の右側に網を打ちなさい」と呼び掛け、言われた通りにすると網を引き揚げられないほど魚が取れた(4~6節)。「主だ」叫ぶ声でペトロは服を着て湖に飛び込み陸にあがると食事を用意して待ち受けているイエスに会う。主に招かれパンと魚の手渡された食卓は、原始教会が行った「聖餐」を指している(12~14節)。獲れた153匹は地中海の魚の種類で、全人類の象徴であるとヒエロニムスは説いている
  15節「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」。三度同じ言葉のやり取りがある。イエスは「この人以上にわたしを愛しているか」。ペトロ「…愛していることはあなたがご存知です」。「わたしの小羊を飼いなさい」。三度「愛しているか」と問われるのは、三度イエスを否んだ彼には残酷な響きを持つ。彼は悲しくなり「あなたは何もかもご存知です」と告白をする(17節)。愛は心の奥底から出る応答である(15章12節)。ここから「小羊を飼い、羊の番をし、羊の世話をする」という信頼関係が生れる。ここでイエスが二度「愛しているか」(アガパオ)と問いペトロは「愛しています」(フィレオ)と答えたが(15、16節)、三度目はイエスもペトロもフィレオであった。ここでは愛の相違がないことを示す。
  18~19節は、ペトロが逮捕されて殉教の死を遂げることをイエスは婉曲に予告しているところで、紀元62年頃皇帝ネロの時と言われる。「両手をのばして」は十字架刑を示唆する。
  20節以下では、もう一人の弟子(7節)が記される。謎の人物だが諸説がある。「ヨハネ福音書」の著者かもしれない。ここでペトロと二人の問題が取り上げられるが、召命に応える道は他者との比較によってではなく、「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)と言って、イエスはペトロを諭した。この言葉の背後には19節があることは明らかである。これはキリスト者に「死に至るまで忠実」であることが求められている(ヨハネ黙示録2章10節)。

弟子たちは、主を見て喜んだ

2015-09-18 | Weblog
  ヨハネ20章 

  20節「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」(新共同訳)

  1節「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」込み出し『復活する』。イエス埋葬された墓を訪ねたのは、他の福音書と違い唯一人マグダラのマリアだけだった。空だったことを二人の弟子に伝えて、それを確認して家に帰るが、マリアは墓に戻り、外で泣いていた(2~10節)。彼女は墓の中を覗いてみると
  12節「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた」。天使たちが何故泣いているのかと訊ねると、ここに置いてあった、わたしの主を誰かが取り去ったからだと応えた。それはイエスをわが手に取り戻そうという自己中心的な愛情である。そこで後ろを振り向くとイエスが立っているのが見えた(14節)。「振り向く」(ステロホー)とは自己中心的な態度を変え、百八十度の転換をする。それは呼び掛けられる声の主(ぬし)に視点を向けることである。墓穴の反対側から「マリアよ」と呼び掛けるイエスの、これまで幾度となく声であることを悟り「ラボニ」と応答するのである(16節)。この態度決定こそが復活証人となり得ることを知りたい。この後、イエスは「すがりつこうとする」態度を諌められている(17節)。その理由は、主イエス復活の事実を個人的体験に留めず、弟子たちの処に遣わされて、証言する為だからで、マリアは言われた通り、「わたしは主を見ました」と伝えている(18節)。
  19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。小見出し『イエス、弟子たちに現れる』。先ず示されるのは、復活の主イエスが11人の弟子たちが集まっている処に現われたことである。重大な事実や出来事の証言は、二人か三人の証言者が必要とされた。復活の確かな事実を証言させる為に、イエスは弟子たちの居るところに姿を示すことが必要であった。彼らが集っていた理由は「ユダヤ人を恐れて」であるだけではない事を読み取りたい。確かに彼らは三年間寝食を共にして教えと訓練を受けながら、命を惜しんで逃げ出した事実は否めない。「閉じこもり現象」である。しかしそこにイエスが来て真ん中にたち「あなたがたに平和があるように」(エイレネー・フューミン・ヘブライ語「シャローム・ラーカム」と言われた。これは命の危険を恐れ、不安の中に身を置いていた弟子たちにとって、何と慰めと癒しの言葉であったろうか。神が共にいて可能な実質を伴う平和であり、和解である。神の絶対的な権威としての支配ではなく、裏切り背くものをも受入れる神の恵みの支配である。新しい交わりの回復である。復活の主の証言は「手と脇とをお見せになった~」ことで示される(20節)。ここで、彼らの心は平安と喜びに変わり、新たな宣教へと召される。聖霊による弟子たちの派遣である(21~22節)。「手と脇」を示すのは、復活の事実を明確にする為であり、復活を観念的に捉えて、肉体を伴う復活は無いとし、霊的現象とする「主智主義」(ノスティズム)の教理(ヨハネ福音書の時代背景)に対する明確な否定である。八日後のイエスとトマスの出会いが記される(24節以下)。問われているのは、「指を釘跡に入れ、手をそのわき腹に入れてみなければ決して信じない」と反発した(25節)。心霊主義的復活論という異端に対して、彼は真実なイエス復活を信じようとして、疑問を投げかけたのである。これは復活否定という合理的信仰とも表裏になる。トマスは直接御自身の顕現により、復活の事実を受け入れた。

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い

2015-09-17 | Weblog
  ヨハネ19章
 
  30節「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(新共同訳)。

  1節「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた」。総督ピラトのイエス裁判は18章28節から始まっていた。彼はイエスの無罪を知りながら、過越祭に罪人を釈放する慣例で「あのユダヤ人の王を釈放して欲しいか」と言うと、ユダヤ人らはバラバだと大声で叫んだ(38~40節)。
  2節「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ」。「ユダヤ人の王万歳」と言って平手で打ち、茨の王冠を頭に乗せ、紫色の服を着せて辱め、これで勘弁してやれという態度をピラトは示したが、然し祭司長たちや下役らは「十字架につけろ」と連呼した。そこで、お前たちが引き取って十字架につけるが「見よ、この男だ」(3~5節)、この男に罪を見いだせないと言った(6節)。口語訳「見よ、この人を」(ホ・アンスローポス)はラテン語「エッケ・ホモ」。「アンスローポス」は、ギリシャ思想家たちによって天的人間、理想的人間、完全な人、人類の理想を表わすものとして用いられたという(Wバークレー)。この「見よ、この人」はレンズで太陽の光を一点に集めるような事柄であり、この後十字架上の罪状書から、屈辱の極みに在りながら、透徹した精神と霊的判断とをもって語られた言葉として画家たちによって描かれている(19~22節)。
  7節「ユダヤ人たちは答えた。『わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです』」。「神の子」とは自称であり(定冠詞がない)、「神の御子」とするメシア性を否定した。ピラトは、恐れて何処から来たかと尋ねたが、イエスは答えられなかった(8~9節)。
  10節「そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」。イエスはピラトの権限を否定した(11節)。主導権は神にあることを示す言葉である。彼はイエスを釈放しようと努めたが、ユダヤ人らは裁判を続けさせようとして「王と自称する者は皇帝に背く者だ」と叫んだため、ピラトはガバタ「敷石」という裁判の場所にイエスを引き出した(13節)。裁判官は「これがあなたたちの王だ」と告げると原告の祭司長らは「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫び、「わたしがあなた達の王をつけるのか」、「わたしたちは皇帝のほかに王はいない」と訴え、結審しイエスを彼らに渡して(14~16節)、手を洗った(マタイ27章24節cf)。
  17節「こうして、彼らはイエスを引き取った」。イエスは自ら十字架を背負い、ゴルゴタという丘に向われ二人の強盗(政治犯?)も両側に、十字架に一緒につけられた(17~18節)。ピラトは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とヘブライ、ラテン、ギリシャ語で罪状書きを書いて掛けた(19節)。ユダヤ人の祭司長たちはこれを承認できず変更を求めたが聞かれなかった。全人類の救い主であることを示すものである(20~22節)。ローマ兵が着ていた服を分け合うと言う事柄は、詩22篇19節の実現と見ている(23~24節)。25~27節は、なんという慈愛と慰めに満ちた言葉であろう。ここには、神の家族が予告されている。イエスの十字架の愛に結ばれた新しい人格関係である。この相互の愛はイエスが既に求めて教え諭した者であることは明らかである(15章11~14節)。「成し遂げられた」(30節)は、大声であったことが判る(マルコ15章37節)。十字架の救いは「すべてが完成している」の宣言である。
  映画の字幕にFINEと出ると館内は明るくなり、映像の世界から現実に引き戻され、我に帰った気分で、席を立ち出て行く。しかしそこで待ち受けているのは終わりのない苦悩や誤魔化し、虚しさと焦燥の生活であるが、イエスの宣言は全く異なり、すべてはここから始まる。これから神による新しい出発となる宣言である。

イエスが「わたしである」と言われたとき

2015-09-14 | Weblog
  ヨハネ18章 

  6節「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」(新共同訳)

  1節「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」。小見出し『裏切られ逮捕される』。ユダの裏切りは13章で予告している。彼の事前工作も省略する。「イエスは弟子たちと共に度々ここに集まっておられた」として、居場所を明確にし、逃げ隠れしないイエスを示している(2節)。
  3節「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた」。イエス逮捕のため最高法院の下役どもだけでなく、ユダはローマの大部隊を引き連れてやって来た。「一隊」(スペイラ)とは、六百人あるいは二百人の数である。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられたので、進み出て、誰を捜しているのかと問い、ナザレのイエスだと言うと「わたしである」(エゴー・エイミー)と身分をあかした。完全に自由な決断によって十字架の道を歩まれる姿を証言している。このイエスの確信に満ちた何らもの怖じしない言葉に圧倒される
  6節「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」。人の全存在を打ち倒す程の権威、神がイエスを通して現された力である。これはご自身を表わした七つの言葉の最初に来る(1命のパン、2世の光、3良い羊飼い、4門、5道・真理・命、6復活・命、7葡萄の樹)。出エジプト記三章で燃える芝の中から『わたしはある。わたしはあるという者だ』とモーセに語りかけられた神の名前と同じである。ペトロが大祭司の手下に打ってかかり、その右耳を切り落とすという事件に「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と諭された(10~11節)。前向きの積極的受容である。イエスの御心は何か。「わたしを捜しているのなら、この人々を去らせよ」と言われた(8節)。これは「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(9節)の父との約束の実現を願った言葉で、17章12節を指している。
  12節「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り」。小見出し『イエス、大祭司のもとに連行される』。大祭司カアファの舅アンナスのもとに連行される。これは余審ということか舅が隠然たる勢力を持っていたと思われる。イエスに敵対する陣営の行動か(13~14節)。ペトロはこの大祭司の中庭にまで入ったが門番の女中から「その人の弟子だ」と言われ彼は違うと否認した(15~18節)。二度三度の指摘にも「知らない」と否定する(25~27節)。13章38節のイエスの予告通りとなった。
  28節「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」。イエスの十字架刑が過越祭前日であることを示す箇所である。彼らは審判をピラトの官邸に移しローマの法律で告発しようとした。官邸内で罪状の認定で押し問答をする。ここでもイエスは審判について予知しておられた(32節)。
  「わたしはこの世には属していない」としてピラトの権限を否定され、「真理に属する者はわたしの声を聞く」と告げられた(36~37節)。ピラトはイエスが無罪であると民衆に告げたが、ユダヤの慣例で誰か一人を釈放すが、どうかと尋ねると「それはバラバだ」と大声で言い返した(38~40節)。

わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです

2015-09-12 | Weblog
  ヨハネ17章 

  22節「あなたが下さった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(新共同訳)

  1節「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。小見出し『イエスの祈り』。訣別説教に続く祈りで、共観福音書ではゲッセマネの祈り? 「時が来ました」は、御子として定められた業を成し遂げる時である(12章27~28節see)。それによりすべての人が永遠の命を与えられるのである(2節)。
  4節「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」。世界が造られる前に持っていた栄光を与えて下さいと祈る(5節)。
  6節「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました」。ここから弟子たちの為の祈りである。彼らは世から選び出され、イエスに所属し所有されているが、それは父との共同所有であり、自分勝手には出来ない(9~10節)。キリスト者はキリストの焼印(スティグマ=所有印・ガラテヤ6章17節)を身に帯びているのである。祈りのポイント第一は「わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈る。それはイエスの御名を呼ぶことであり、誘惑や危険から守られることである。第二は、イエスと父が一つであるように、彼らもひとつになる為である(9~11節)。
  13節「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」。喜びが彼らのうちに満ち溢れるようにと願う。祈りの第三である。何故なら、世は彼らを憎み、わたしと同じ世に属していないので、世から守られる為である(14~15節)。
  17節「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」。祈りの第四ポイントである。聖なる(聖別される)者となることは御子イエスが聖なる方であり、神ご自身の本心なのである。そして真理の霊(16章13節)によってこの世に遣わされるためである(18~19節)。
  21節「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」。弟子たちの言葉を聞いて信じる人々への祈り、イエスを信じる群、世にある新しい共同体への祈りである。ここには祈りの第五のポイントがある。イエスを信じる者が民族、国境、人種を超え、また人間の持つ罪の性質が生みだす偏見、差別、対立、敵意、また分派や分裂、抗争の壁を取去って一つの群になることを祈られる。これは容易ではない。15章で示された通り「相互内住」を原理とし、聖霊によって賜う一致である。祈りのポイントの最後は、彼らがわたしのいる所に、共におらせてください。そしてわたしの栄光を、彼らに見せて下さいと祈られた(24~26節)。
  既に地上の生涯を終えた者も、今この地上に生きている者も、「永遠の共同体」へと主が招かれる祈りであり、それに呼応しすべての者が「マラナ・タ」(主よ来てください)と祈るのである。

勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている

2015-09-11 | Weblog
  ヨハネ16章
 
  33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(新共同訳)

  1節「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」。14章からの訣別説教の続きである。周囲の状況は苦難と悩みが多く、世に属していないイエスと天の父を憎んでいるというものである(15章23節)。
  2節「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。それは父もわたしをも知らないからだ(3節)。この困難な状況の中で、イエスは遣わされた父のもとに去って行くことになり、そして弟子たちの心は悲しみに満たされる(3~6節)。
  7節「しかし、実をいうと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ弁護者はあなたがたのところに来ない」。「弁護者」(パラクレートス)は「パラ」(傍らに)と「カレオー」(招く、呼ぶ)で口語訳「助け主」である。これはマイナスがプラスに変換されることだと言われる。
  8節「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。その方、つまり「真理の霊」(14章17節)なので、この世の支配者が断罪される。「明らかにする」(エクレセオ)は「目を開く」(口語訳)、「責める」、「誤りを認めさせる」である。この裁判の席で弁護側から無罪を得るため原告側の罪と義を質して正当な判決を勝ち取るのである。それは有罪を無罪にする審判となる。NKJでは He will convict the world of sin…(罪の世に有罪判決にする)となっている。
  16節「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」小見出し『悲しみが喜びに変わる』。しばらくすれば見なくなるとは、父のもとに行くからで、悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ、しかしそれもしばらくで、悲しみは喜びに変わる(14~20節)。それは女の産みの苦しみと同じで、子が生れると苦痛を思い出さないのと同じである(21節)。だから何事もわたしに名で願うと父は与えてくださり喜びで満たされる(24節)。
  25節「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」。小見出し『イエスは既に世に勝っている』。その日には、イエスの名によって父に祈ることが出来るようになる(26節)。イエスは神のもとから出て来て、今世を去り神のもとに行かれる。しかし真理の霊により、総ては明らかにされるので、たとえを用いて話されることは無くなると語られた(27~30節)。これはイエス復活後の聖霊降臨を指す。
  33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。「勝っている」は現在完了形であり、これから勝利するのでなく、既に勝利が決定しているということである。

わたしの愛に留まりなさい

2015-09-10 | Weblog
  ヨハネ15章 

  12節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛に留まりなさい」(新共同訳)。

  1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。小見出し『わたしはまことのぶどうの木』。成長が約束されて良い実を結ぶ木とそれを育てる農夫とは、神とイスラエルの関係を表現したイザヤ書5章1~7節と対比した譬である。イスラエルは期待に反し、悪しき実を結ぶ野ぶどうの木となってしまった。ここでイエスは「わたしは である(エゴー エイミー)真理のぶどう」と結ばれた新しい神の民の共同体である。「命の共同体」といってもよい。
  2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。農夫である御父は、実を結ばない無駄な枝を剪定し、いよいよ良い実を結ぶ作業をする。一般の場合は良い実を結ぶ為に先ず「接ぎ木」という方法を取る。野生の木は柿と同じで良い実を結ぶことは出来ない。「接ぎ木」の比喩は、オリーブの樹がある(ローマの手紙11章17~22節)。ここではイエスが原木で、既に接ぎ木された枝が弟子たち(命の共同体である教会)である。そこで、農夫なる父は、良いぶどうの実を結ばせる為に「手入れ」(剪定)をする(2節)。何処までも実を豊かに結ばせる方法であり、癒しの働きと言うべきである。あなた方は既に清くなっているとは、剪定済みであるということである(3節)。
  4節「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」。短刀直入にいえば、ぶどうの枝がつながっている(メネー)、あなたもわたしにつながりなさい(メネー)と言われる。5節で「つながっている」という唯一の条件が繰り返し強調される。4~7節まで八回出てくる。英語では、remain united in meである。14章で繰り返されていた「メノー」(とどまる)と同じである。12章34節(いつもいる)、4章40節(滞在する)にもある。14章23節では「一緒に住む」( live with him)である。これを相互内住という。ここで、樹液を神の愛として理解すると次の言葉は容易に受け入れられる。
  12節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛に留まりなさい」。相互内住は、愛の共同体として立証されることになる。互いに愛し合うということは、主イエスが友のために命を捨てたように、自分の命を捨てるということである(13節)。ここで、イエスとの一体性の証しとしてあなたを友と呼ぶのである(14節)。友と呼ぶ根拠は、御父がイエスを選ばれたようにわたし達もイエスに選ばれたからである(15節)。そこでイエスの名によって願うなら、何でも御父は答えて与えられることになる(16節)。
  18節「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」小見出し『迫害の予告』。既にイエスの友として選ばれ、命を捨てることが予知されていた通り(13節)、この世から憎まれ迫害を受ける(19~25節)。しかし、イエスに代って遣わされる「真理の霊」なる弁護者(パラクレートス)が、必ずイエスについて証ししてくださる(26節、14章26節)。何と喜ばしく、大きな慰めであろう。