日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

わたしが命のパンである

2015-08-31 | Weblog
  ヨハネ6章 

  35節「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(新共同訳)。

  1節「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」小見出し『五千人に食べ物を与える』。本章全体がパンの奇跡に関連した記事となっている。但し16~21節に湖上を歩くイエスの記事が入る。
  2節「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」。「しるし」とは、役人の息子(4章43~54節)、ベトザタの池の傍で足の不自由な人(5章1~9節)である。この後、9章生まれつきの盲人、11章ラザロの死などの「しるし」が七回あり、いずれも単なる「奇蹟」ではなく、それを通して神の御子として表わす証しである(14、30、7章31、9章16、11章47、12章37節)。
  4節「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」。丘に登り前方に、退けた筈の群衆ではなく過越祭(二度出てくる)で、巡礼にくる別の群衆がご自分の方に来るのを見られた(5節)。続く記事は共観福音書とほぼ同じだが、本章はイエスご自身が共食の準備を弟子たちに依頼する(5~6節)。次に少年の所有する「大麦のパン五つと魚二匹」が出てくる(9節)。しかも貧しい「大麦パン」。群衆が満腹した後にイエスは「少しも無駄にしないよう、パンの屑を集めなさい」と言われた(12節)。特に注目すべきことはこの「しるし」を見て群衆がイエスを預言者また王にしようとするのを知って山に退かれたことである(14~15節)。
  16節「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った」小見出し『湖上を歩く』。17~21節は、マルコ福音書8章45~52節の並行記事とほぼ同じである。
  20節「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない』」。弟子たちだけで向こう岸のカファルナイムに行く途中、強風で湖が荒れ始め彼らが漕ぎ悩んでいる処に波間からイエスが舟に近づいて来るのを見て恐れたのである。この時マルコ福音書では「パンの事を理解せず心が鈍くなっていた」(52節)とあるが、ここではイエスが「わたしだ(エゴー・イエミー)、恐れることはない」としか書かれていない。しかし、この後の「イエスは命のパン」(小見出し)とある通り、引き続く言葉となっている。「わたしが命のパンである」(エゴー・イエミー・命のパン… 35、45、49節) となる。これは父から遣わされた独り子としてのイエスの自己啓示である。この後この自己啓示は、ヨハネ福音書の用語として「羊飼い」「門」「復活」「道・命・真理」「ぶどうの木」などとして出てくる。際立っているのは18章5~8である。
  27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。イエスはパンの給食に対する民衆の誤った理解を明確にする必要があった。それこそイエスが人々に与えてくださる「永遠の命にいたる食べ物である。人が判断して理解できる時間的延長線上の継続ではない。イエスによって生かされる生命である。そこでこのパンを得るための働きとは何か。
  29節「イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。ここでイエスは荒れ野のパンの出来事(出エジプト記16章)で一層明確にする。彼らはマンナを食べたが死んだ(49節)。しかしイエスの命のパンは違う。「天から降って来たパン」であると四回も繰り返す(38、50、51、54節)。従って「わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と告げた(35節)。イエスは生命線(ライフライン)である。先ずイエスによって生かされる(水と霊とによるバプテスマ)。次に生かされ続ける(イエスの血と肉で示されている最後の晩餐)。
  53~56節はキリスト者にとって聖餐理解を一層深くするところである。無理解の者は離れ去ることになる(66~68節)。

永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている

2015-08-30 | Weblog
  ヨハネ5章 

  24節「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(新共同訳)。

  1節「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた」。小見出し『ベトザタの池で病人をいやす』。エルサレムには羊の門の傍らに、『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった(2節)。「ベトザタ」はヘブライ語のベス(家)とヘセド(慈しみ・憐れみ)の意味である。池の周囲にある五つの回廊には、病人、目、足の不自由な人、体の麻痺した人が大勢横たわって水面を見つめていた(3節)。それは主の使いが時々降りてくると池が波立つので、一番先に飛び込んだ者の病が癒されるという訳である。「慈愛の家」とはよく言ったものだ。新共同訳では「付記」になっている。水面を睨み、われ先きに飛び込み、病の奇跡を待つ人々の惨めで醜い自我のぶつかり合い、まるで地獄図である。この競争原理が病人を一層苦しめ、無力なものは見放されてしまう悲惨な状態を想像する。
  5節「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた」。そこに苦悩と絶望の三八年を過ごしてきた病人がイエスの目にとまった。彼のすべてを察知して「良くなりたいか」と声を掛けられた(6節)。「千載一遇」の出会いはイエスの側からである。その時、彼が見続けて来た水面からイエスの顔と声に向けたのである。彼はありのままを告白し、孤立無援で人間関係の不信と破綻を告げた(7節)。
  8節「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい』」。原文は「起きて…、歩け」(エゲイレ…ペリパテイ)である。「起きよ」は新約聖書に144回もあり「目を覚ます、復活する」と訳される。するとその人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした(9節)。何ということであろう。38年間の忍苦が一瞬にして消えた。ここに言外に示されるのは、彼が「イエスの言われた言葉を信じた」からである(4章50節see)。不要になった薄っぺらなわらの床を彼は担いで群衆の中に入っていった。これを目撃したユダヤ人らは、床を担ぐのは安息日の違反行為だと咎め、誰がそのようなことをしたかと糺したが、彼は知らなかった(10~11節)。そこで再びイエスは神殿の境内でこの人に出会った(14節)。そしてイエスが彼に告げたのは「罪を犯すな」(メーケティ ハマルタネ)は「二度と道を踏み外すな」である。この警告は、ユダヤ人らが安息日に床を担いで歩きだしたことを取り上げ、それにとらわれているが、その間違いを正し「起き上がりなさい」ということこそ重要で、二度と歩く道を見誤るなということである。イエスは人を生かすという安息日の本質を明らかにした。それは肉体の癒し以上のイエスの復活を体験することにある。
  19節「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする』」。ベトザタの癒しは、ご自分の父なる神が御子を通してなされた働きだとはっきり言っておく」(アメーン・アメーン・レゴー) のだ。宣言、布告を表わす。これは父(神)と子の働きの同一性、一体性を証言するものである。そしてイエスを信じる者は「永遠の命を得、裁かれることなく、死から命に移っている」と宣言する(24、25節)。
  それは何時か。「今」である。「現在的終末論」という。何故ならイエスは命の賦与者(復活の主=11章25節)だからである。この明確な証言は既に1章13節、3章16節にもあった。

泉となり永遠の命がわき出る

2015-08-29 | Weblog
  ヨハネ4章   

  14節「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(新共同訳) 

  1節「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると」。小見出し『イエスとサマリアの女』。ニコデモに代表されるユダヤ人への宣教に続いて、紀元前六世紀以前最も近い北イスラエルがアッシリアに占有され民が移住し、婚姻関係から偏見的差別で数世紀「サマリア人」と呼ばれていた人々への宣教がなされるのである。
  3節「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」。ヨルダン川沿いに直行する通常のベレヤ街道でなく、サマリアを通らねばならなかったとある(4節)。平素から仲が悪いサマリアの町を通ると、人々は挨拶もせず無視して道の反対側を行くのが通常であった(ルカ10章25~37節)。「ねばならない」はイエスの偏見と差別の壁を取り除こうとする先見的な眼差しがあったからだ。そこにはヤコブの井戸があり、イエスは旅に疲れて、そのそばに座っておられた。食べ物を買うため弟子たちが町に行っている時、サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水をください」と声を掛けられた(6~7節)。男の方から、白昼に(普通水汲みは朝だが、この時刻は何かの理由で人目をはばかってする)、嫌われていたサマリアの女に向って声をかけられたという二重の意味で驚いた(9節)。疲れと渇きを持つ人間として向き合われ、身分素性(17~18節)を知りながら、イエスの方から心を開き、相手と同じ目線で会話されたのである。
  13~14節「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。「水を飲ませて下さい」という願いで主客の転換が起きた(15節)。これは自分を中心から、イエスを中心にした生き方に変わることである。「ヤコブの井戸」という日常を縛っている生き方から解放し、イエスご自身が湧き出る泉となり、人間的な差別や悩みを洗い流して新しい命に生きるものとなることであり、律法学者ニコデモに示された「水と霊によって生きる」(3章5節)同じメッセージを示されたのである。
  16節「イエスが、『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい』と言われると」。この具体的な質問は前後関係から理解しなければならない。それは「永遠の命に至る水が湧き出る」源泉(15節)である。それは具体的な日常から始まる。五人の夫から見放され、それは今も同じだと有りのままを告白すること(17節)は、ゲリジム山での空疎な形骸化した形式的信仰、人間の願望を満たすだけの偶像礼拝から解放へとつながっているライフライン(命の管)なのである。
  23節「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」。「まことの礼拝」は、此処だ、あそこだと場所を指すのではなく、今御子イエスが居られる処で、霊と真理をもって御父にささげる礼拝だと告げられたのである(24~26節)。御子イエスの居られない処にはまことの礼拝はない。
  28節「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った」。女はサマリアの町に行き、イエスとの出会いを語り、この方こそ何もかも知っていてくださるメシアだと伝えてこれを信じた(29~30節)。さらにサマリアの人々はイエスが二日間滞在しその言葉を聞いて信じた(39~41節)。真の命に至る水が、この町に湧き出たということができよう。
 

あなたがたは新たに生まれなければならない

2015-08-28 | Weblog
  ヨハネ3章 

  7節「『あなたがたは新たに生まれなければならない』と言ったことに驚いてはならない」(新共同訳)

  1節「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」。小見出し『イエスとニコデモ』。彼は「ファリサイ派」は当時のユダヤ教律法の細則タルムードを厳格に遵守する少数のエリート集団に属した。「ユダヤ人たちの議員」とは、70人で構成するサンヒドリム(最高法院)の議員で、祭司、長老、律法学者によって構成されていた。人々から「イスラエルの教師」と呼ばれる年配の指導者とおもわれる(9節)。何故か「ある夜」イエスのもとに来た(2節)。昼間の喧騒を避けたのか、議員で教師という肩書きから人の視線を気にしたのか。
  2節「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」。世間一般のイエスに対する評判だが、彼自身の確信の無さが伺われる。これに対するイエスの言葉は対照的で明確である。
  3節「イエスは答えて言われた『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』」。文語訳「まことに誠に汝に告ぐ、人新たに生れずば、神の国を見ること能はず」。「まことに誠に汝に告ぐ」(アメーン・アメーン・レゴ―・ソイ)は25回も出てきて本書の特徴となっている。イエスは真実をズバリ示している。指導的な立場にある教師の誠実さにも拘わらず理解できない。彼は「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるのか」と愚問を発した(4節)。これも老成した者の皮肉とも嘆息とも取れる。彼は2節、4節、9節と三度も「どうしてそんなことが…」と応えている。彼の真摯な求道心が伺える。この問いを手がかりに人間の根本に関わる生き方を学ぶ。「教師でありながら、こんな事が判らないのか」というイエスの厳しい言葉から、救いが神から来ることを示す。「新たに~」(アノーセン)は、「上から」とも訳せる。イエスは重ねて「水と霊とによって生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と告げた(5節)。「水と霊」とは、グノーシス(二元論)を排することばである。「生れる」は「生む」でも「作る」でも「改める」でもない。ニューボン、無からの創造、新しい生命体であり、その主体は神の側にある。新生のプロセスは、水の中に全身沈んで死に、命の息-神の霊を吹き込んで頂くことである。「風は思いのまま吹く」(8節)とあるが、「風」と「息」とは同じプニューマ(ギ語)である。これは「水と霊のバプテスマ」を指す(1章22節)。新生は神の国に入ること、神のご支配に生かされることである
  11節「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」。ニコデモの無理解はユダヤ人を象徴し(9~10節)、それに対し「わたしたち」(複数)は「新しく生きる者」(教会)を表わす。イエスの言葉が教会の宣教の言葉と同化(assimilate)されている。「荒れ野で蛇をあげた」故事(14節・民数記21章4~9節)から、「上げられる」イエスを仰ぎ見る者の罪の赦しと永遠の命の約束が告げられている(15節)。
  16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。「独り子」は本書だけにある言葉でイエスの存在と働きを啓示している。「世」(コスモス=この世・定冠詞がある)は宣教の対象であるが、同時にイエスを受け入れず拒むもの(19節・1章10~11節)である。ここで、神は独り子により世を愛されたという逆説的な言葉で、イエスの宣教が言い表されたのである。これが福音(ユーアンゲリオン)である。因みに、ヨハネ福音書には「福音」という言葉はない。

神殿とは、御自分の体のことだった

2015-08-27 | Weblog
  ヨハネ2章 

  21節「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(新共同訳)

  1節「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた」。小見出し『カナでの婚礼』。兄弟も招かれたことから、マリアの姻戚関係と思われる(12節)。弟子たちも招かれた。ユダヤ人の風習では婚宴が一周間も続くことは珍しくなかったようだ(創世記29章28節)。ここで予想外のことが起きた。
  3節「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った」。招待客が多かったか、準備不足、予想外に盛り上がった等々、その理由は判らない。しかし、前途を祝福する結婚に大きな警告を与える出来事だった。人には失敗や困難が思いがけず起き、不名誉な失敗の話題になる婚宴であった。マリアは、イエスにこの窮状を訴えた。すると「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」とは素っ気ない拒絶である(4節)。母を「婦人」と呼ぶことは、肉親関係に一線を引くことである。他にもある(ルカ福音書8章21節)。「わたしとどんなかかわりがあるか」は、直訳「何か、わたしとあなたは」(ティ・エモイ・カイ・ソ)である。「婦人よ」と呼んだように、父と御子の関係を明確にする。そして「わたしの時」とは父が御子に聖意を示される時を指す。マリアはそれでも怯まないで、どんな事をいわれようとイエスの言葉を信頼し指示通りに応じるよう召し使いに伝えた。
  7節「イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」。その家の門口にあった清めに用いる石の水ガメ六つに言われた通り水を満たし、次に世話役のところに運ばせた(8~9節)。摩訶不思議、水が美味しいぶどう酒に変わっていたので、彼は花婿を呼んで「…酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と言った。これは一種のユーモアを感じさせる言葉である。
  11節「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」。「栄光を現された」とは何か。先ず婚宴は「神の婚宴」(ルカ14章、マタイ22章)の予表で、その主導権をイエスが握り不完全な宴を祝福に変えたのである。清めに用いる六つの空の水甕(旧約の不完全さ)を良きぶどう酒に変えられたこと。更に「召し使いたち」(5、7、9節・ディアコノス)がイエスの指示に忠実だったことである(第一テモテ3章8節同じ言葉)。御子イエスが天から遣わされた「栄光を現わす・最初のしるし」であった(1章50~51節。
  13節「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた」。小見出し『神殿から商人を追い出す』。本書に「過越祭」が三回出ており(6章4節、12章55節)。イエスの公生涯三年の根拠になる。イエスは神殿の境内に入られ両替をしている人々を見られた(14~15節)。そこで商人たちを追い出した様子は共観福音書より徹底している。ユダヤ人たちは激しく抗議した。
  19節「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』」。ヘロデが四六年も掛けて未だ建築中の神殿を否定し、イエスご自身が死からの復活で建てる「御体なる教会」を告げたのである(第一コリント12章21節)。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ

2015-08-26 | Weblog
付記】日毎の糧は前回を参考にしながら継続している。新約は2009~2010年である。

  ヨハネ1章 

  29節「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』」(新共同訳)

  1節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。小見出し『言が肉となった』。本書は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と違った書き方をしている。それは紀元90年代に著されたことにある。70年ユダヤ戦争後、ユダヤ人(複数)の新しい組織が強くなるということ(キリスト教徒を異端として排斥する)、またグノーシス(霊肉二元論・異端)が台頭している背景がある。これは「教会(共同体)」が強く問われる特徴となっている。1節は、創世記1章1~3節に類似する。「ことば」(ロゴス)は創造主の神を示す。
  4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。神の創造は暗闇(スコトス=ヘブライ語カオス)を吹き払った(5節)。断定的宣言である。新共同訳「理解しなかった」は口語訳「勝たなかった」、岩波訳「阻止できなかった」である。その「光」は、まことの光で世に来て全ての人を照らすのである(9節)。
  14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。口語訳「言は肉体となって~」が直載で良い。これを「受肉」と呼ぶ。ロゴスなる神が人となってこの世に来られたのである。これはグノーシス思想を否定している。これは15~18節で一層明確に記されている。
  19節「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させたとき」。ヨハネの働きはメシアを「証するために来た」ということであった。証(マルテュレオ)は法廷用語で「証言」だが、人の前では「告白」となる。新約聖書111回の中でヨハネ福音書42回、ヨハネの手紙11回で約半分出てくる。彼はメシアでも、エリヤでも、預言者でもないと証言した(20~21節)。そして「荒れ野で叫ぶ声である」と証言する(23節)。これらはすべて否定的消極的な表現である。
  29節「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。ここで彼は積極的肯定的な証言をした。次に「わたしが水で洗礼を授けた時に、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た(32節)と証言した(ルカ福音書3章22節)。これは「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」との言葉で確証となっている。四度目は「見よ、世の神の小羊だ」と再び指さしている(36節)。これはイスラエルの民が毎年遵守した「過越祭」の時に神に献げる贖罪の犠牲の小羊を示す。この贖罪はイエスの十字架によって完成し成就するのである(19章30節see)。「世の罪」を除くのはイスラエルという民族の壁を超えた御業である。「罪」は単数で全ての人の罪過を指している。
  レオナルド・ダビンチが描いた「ヨハネの手」について記して置きたい。そのヨハネは実に穏やかな殉教者とは思えない顔であるが、ある方向を指さしている姿だ。その先には十字架が輝いている。誰もが絵を前にすると「見よ!」とヨハネが語りかけて来る。素晴らしい作品である。

私たちの心は燃えていたではないか

2015-08-25 | Weblog
  ルカ福音書第24章 

  32節「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」(新共同訳)

  1節「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」小見出し『復活する』。四つの福音書に復活記事があるが、それぞれ特徴がある。ルカ福音書は特に違った記述である。葬られた墓を見届けたのはガリラヤから一緒に来た婦人たち(23章55節・8章2~3節see)で、週の初めに香料をもって墓に早朝出掛け、遺体が見当たらなかったのである(2~3節)。マタイは二人、マルコは三人、ヨハネは一人だった。
  4節「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」。婦人らは墓と周囲を捜したが、見当たらないで途方に暮れていた時、二人の人(神から遣わされた)が、あの方は復活なさった、ガリラヤで告げられた十字架と復活の事(9章22、44節)を思い出せと言った(6~7節)。そこで彼女たちはこの一部終始を11人の使徒たちに話したが戯言として取り合わなかった(8~11節)。
  13節「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら」。エルサレムから南方十二キロ程の村である。婦人たちが話していた墓にイエスの遺体が「見当たらなかった」(3節、33~34節)ことを話し合い論じて合っていた。そこにイエスが近づいて来て、一緒に歩き始められた(14~15節)。
  16節「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。ここに重要な出来事が示されている。復活の主イエスの方から近づいて同伴者となられたこと、そして「何を論じているのか」とイエスの方から声を掛けられたことである。これは復活信仰の原点となる。二人は「暗い顔をして立ち止まった」(口語訳・悲しそうな顔をして~)。そしてこの数日エルサレムで起きたこと事を一部始終伝えたのである(17~22節)。
  25節「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。鈍くなった心を砕かれ、神の約束であるメシア復活の出来事を、イエスご自身が聖書全体にわたり説明されたのである(27節)。ここで起きた事柄は何か。詩127篇130節である。
  29節「二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」。ここではまだ同伴者が復活のイエスであることを知らない。先に行こうとするのを無理に引きとめ、その方が夕食の席で賛美と祈りをささげ「パンを裂いて」(割って、ちぎって=クラシス)」(22章19節と同じ)、手渡された様子を見て、最後の晩餐の時と同一人物だと二人は直感した。この方が復活のイエスだと判った時、そのお姿は見えなくなった(31節)。
  32節「二人は『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」。彼らは時を移さず、直ちにエルサレムに引き返して、弟子たちにこの出来事を伝えた。この時の二人は、エマオ村に帰ってくる時とは打って変わり、心燃やされ新たな生きる望みを与えられエルサレムに引き返した。ここに人生の方向転換がある。キリスト者は、このエマオ途上の復活主イエスとの出会を必要とする。

あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

2015-08-24 | Weblog
  ルカ23章 

  43節「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」(新共同訳)

  1節「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」小見出し『ピラトから尋問される』。イエスの逮捕は22章54節以下に記されている。最初大祭司の屋敷に連行され、見張りの者らに暴行を受け、夜明けに最高法院に連れて行かれた(同63~71節)。そして「神の子である」という言質を取り、全会衆はピラトの法廷に連れて行って訴えた。訴状は「自分が王たるメシア」と言ったという。これではローマの法に触れないのでなんら罪を問うことにならないと告げた(3~4節)。更に噂に聞いた「ガリラヤ人か」と尋ね、ヘロデの支配下にあると知り、彼のもとに送り返した(6節)。ヘロデは会いたいと思っていたイエスを見て色々質問したが答えられなかった(9節)。そこで祭司長、律法学者と一緒に侮辱し、以前見張りの者らから受けた恥辱と暴行を再び受けられ、王に見立てた「派手な衣」(マルコ15章17節)を着せてピラトの法廷に送り返された(10~11節)。
  12節「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである」。記述の順序は異なるがこのイエスに対する行為は「ユダヤ人の王」と自称したという告訴をヘロデとピラトは共に認めることで一致したのであろう。
  14節「言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった」。ピラトの裁定はその訴状では無実だと告げる。ヘロデも同じだ。だから、騒乱罪として鞭打ちで釈放すると告げる。しかし群衆は収まらず一層騒ぎが大きくなるので過越祭に罪人を開放するという恒例で、釈放したらどうかと提案したが「バラバを釈放しろ!イエスを十字架につけろ!」と大声で叫び続けた(15~21節)。無罪で釈放をしようと三度も告げたが、ピラトはこの態勢に押されてしまい「手を洗い」責任はわたしにないと告げた(マタイ27章24節)。無法状態の中にイエスは身を置かれたのである。これ程恐ろしい審判はない。しかし同時に全ての支配者なる神の厳然たる法は変わることはない。
  26節「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」。ローマの死刑執行は処刑される受刑者が刑場まで十字架を運ぶことになっていた。イエスは限界状況だったのでそこに居合わせたシモンが代りに運ぶこととなった。人生は出会いだといわれるが、彼は限りなくある出合いのその一人になった。「キレネ人」とはクレネ島で、彼はアレクサンドロとルフォスの父と思われる(マルコ15章21節)。彼がこの経験で生涯が変えられた事は確かだ。彼の妻と息子の名がローマの手紙16章13節に出てくる。「主に結ばれて選ばれた者」となったのは、神の奇しきドラマがあったことを物語っている。
  33節「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」。名前は判らないが然しイエスをはさんで最期に交わした会話がある(39~43節)。一人は、最期の捨て台詞で、「メシアなら自分自身と俺たちを救ってみろ」と呟(つぶや)いた(39節)。絶望の中から口に出た揶揄ともとれる。いま一人の犯罪人は違っていた。彼は自分の罪過と死の報酬を認めた上で「イエスよ、御国においでになる時にはわたしを思い出して下さい」と祈った(42節)。イエスの無罪性を認め、十字架上から赦しと憐れみを乞うた(34節)。御国の権威を持って来ることを認めてこれに完全信頼を寄せた。この出会いの厳かさと素晴らしさを思わずにはおれない。

わたしの血による新しい契約である

2015-08-22 | Weblog
  ルカ22章 

  20節「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(新共同訳)

  1節「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」小見出し『イエスを殺す計画』。イエスに対する殺意は宣教の当初からあった(4章29節、6章11節)。受難の予告も12弟子選任の後に既に告げている(9章22節、43~45節)。ヘロデの殺意も早くからあった(13章31節)。ここから祭司長や律法学者らがその策を図っている時、ユダの相談が持ちかけられその機会が来たと考えた(2~4節)。
  5節「彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた」。ユダは承諾し、群衆のいない時、イエスを引き渡すよい機会を狙っていた(6節)。
  7節「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」。ユダヤ暦ではニサンの月第1週で、除酵祭は4日目と定められ、過越の食事をする準備をペトロとヨハネに依頼し、何処でするかを尋ねたので、水甕を運んでいる男と出会い、その人の家について行くようにと指示された(8~11節)。ついて行くと席の整った二階の広間を見せてくれて、そこに準備をした。イエスの言われた通りだった(13節)。ユダの密かな計画を察知した上で、場所を定めたと言える。「時刻になった」とは弟子が揃ったということである(14節)。
  15節「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた』」。しかし神の国で過越が成し遂げられる迄、この過越の食事をとることはないと言われた(16節)。イエスが示される過越とは、旧い形骸化した「過越祭」でなく、御自身が成し遂げられるものである(16節)。
  19節「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」。これこそが「神の国」の食卓である。イエスご自身が十字架で体を裂いて神に献げられた仔羊となるのである。
  20節「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。ここではキリストが十字架上で血を流された出来事である。このパン裂きと杯はキリスト教会における聖餐の制定語となっている(第一コリント11章23~25節)。画家ダビンチの「最後の晩餐」はこの場面が描かれているが、聖書学から考察すると、当時のユダヤ教が執り行い、繰り返されていた「仔羊の肉と血を盛った器」が描かれる筈の「過越祭」の会食でないことを知る必要がある。
  21節「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」。イエスの弟子として裏切るイスカリオテのユダが、食卓から去って行くのは、自らの罪と過ちに気付くことが無かったからで、申しそうならば、罪の贖いを示し与えられる神の国の食卓に着くことができた。弟子たちの議論はそれを示す(23節)。


身を起こして頭を上げなさい。解放の時が近いからだ

2015-08-21 | Weblog
  ルカ21章 

  28節「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(新共同訳)

  1節「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた」。小見出し『やもめの献金』。イエスの律法学者に対する非難の続きである(20章47節)。栄誉と地位を欲して歩き回る彼らの中に、やもめの相談を受けて法外な金を要求する貪欲な者がいた。イエスは神殿の庭の一角に佇んでいると、巡礼者たちが賽銭箱に金を投げ込んでいるのが見えた。賽銭方法は、金額を声を上げて告げ、祭司の手で箱に入れるのである。初めに金持ちが献金した。続いてやもめが、レプトン銅貨二枚を餐銭箱に入れたのをイエスは見られた。
  3節「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」。あの金持ちたちは有り余る中から献金したが、この人は乏しい中から生活費を全部入れたと言われた(4節)。「ありあまる」は「貪欲」(プレオネキアス¬=「より多く」(プレオン)「持つ」(エクソ)である。双方はその重さが違う。彼ら動機は「見え」(栄誉心)であり、自己顕示に他ならない。それは白己義認の行為と云うべきである。金持ちの農夫の讐(12章13~21節)、富める役人の求道(18章18~25節)、ザアカイの回心(19章1~10節)などに示されるのは、富を放棄する時に、何が残るかを問題にしたのである。「財産を使い果たした弟息子」も結果的には、救いに入れられる。これは、終末信仰、つまり聖国を仰ぎ望む信仰の生き方になる。貧しい寡婦が何故生活費全部を捧げたかを、ここで考える必要がある。思い煩わない、信仰から来る楽観主義(12章22節)、天に宝を積む信仰である(12章33節)。
  5節「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた」。小見出し『神殿の崩壊を予告する』。これは1~4節と関連してくる。並行記事であるマルコ福音書13章1節に弟子のひとりが「なんと見事な石、なんと立派な建物」と褒めた。神殿はイスラエルが地上にイスラエル国家再興の希望を繋ぐ根拠で、その為に多額の献金が集められていた。しかし真実の神礼拝には、この様な仰々しい祭儀は不要であり、再度イエスは神殿の崩壊を告げられた(6節・19章44~46節see)。
  7節「そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」小見出し『終末の徴』。6節に続く問い掛けである。
  8節「イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」。まず世の終の接近を告げる偽キリストの出現である(使徒言行録8章9節)。また戦争と暴動が起きる、国と国、民と民との敵対、地震や飢饑、恐ろしい現象がある(9~11節)。そして反対者らが迫害し、王や総督の前に引き出されるが、どう弁明しようとかと準備をしない。対抗も反論も出来ない言葉と智恵が与えられる(12~17節)。髪の毛一本も失われない(18・12章7節see)。
  20節エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」小見出し『エルサレムの滅亡を予告する』。既に19章43~44節で語られているが(紀元70年既に起きた事実)、ここではユダヤ教のみならず神の審判、救いと滅びの時を悟らない民への警告である(21~24節)。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。解放の時が近いと告げておられる(25~28節)。

すべての人は、神によって生きているからである

2015-08-20 | Weblog
  ルカ20章 

  38節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(新共同訳)

  1節「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て」小見出し『権威についての問答』。宣教の初めからイエスの「権威ある言葉」に人々は驚いていた(4章32節)。決して律法学者のようにではなく、「権威ある者として教えておられた」(マタイ7章29節)。ここではイエスの教えは20~21章まで続いている。この時代に権威ある者として認められていたのが「祭司長や律法学者、長老」であった。
  2節「言った。『我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか』」。この祭司長は「油注ぎ」という律法制度によって(レビ記4章3節)、律法学者たちは専門的な学問を修得によって、そして長老たちは民衆の代表で、サンヒドリム(ユダヤ宗教最高議会)の議員に選ばれるとい資格においてそれぞれ権威付けられていた。彼らと比較してイエスにはそのいずれも持っていない「無冠の帝王」と見られた。ところが、神殿から商売人たちを追い出したので(19章45~46節)、彼らは当然何の権威で、そんな事をしたかと詰問した。
  4節「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」。イエスは、バプテスマのヨハネの権威の所在について反問された。質問をはぐらかしたのでも逃げたのでもなく、彼らの問いに彼ら自らが答えるという方法を取った。ヨハネはメシアの先駆者として登場し、ヨルダン川でバプテスマを人々に授け悔い改めを説いた。大胆に領主ヘロデに対しても、ヘロデヤとの結婚問題でその不実を厳しく責め、その結果斬首された(9章7~9節see)。国民的英雄としての評判を民衆から得ていたヨハネがイエスを「メシア」として証詞した。従って、イエスの権威は、ヨハネと同じ根源を持つ事が明らかである。イエスは罠を仕掛け、ヨハネのバプテスマが天からであったか人からであったかを質し、祭司長、律法学者、長老たちは民衆の前で権威を失うことをおそれて「分からない」と言い逃れをした(7節)。この世の権威が、如何に脆いものであるかが暴露された。ある演歌歌手が「お客様は神さまだ」と言ったが、世に迎合し権威ぶる有り様はまるで案山子のようだ。
  真実の権威とその所在を知るには、イエスとの交わりを通してである。ライオンには番犬はいらない。この世にあってキリスト者はイエスの福音に秘められた神の力を得ているのである(ローマ1章16節)。
  27節「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた」小見出し『復活についての問答』。ある人の兄が妻を娶り、子がなくて死んだ場合、その弟が兄嫁と結婚して後継ぎをもうけねばならないという事例を取り上げた(28節)。これは創世記38章8節、申命記25章5節にある「レヴィラート婚」と呼ばれるものである。この問いに対して、イエスは死ぬから子孫を残す為に結婚するのだが、復活によって神の子と定められたので、結婚に束縛されることはないと応えられた(34~35節・ローマ1章3~5節)。復活を否定するサドカイ派だが、モーセの「柴」の箇所で(出エジプト記3章3、14~17節)、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んでいるのは神が死んだ者でなく生きている者の神だからだと反論したのである(37~38節・使徒言行録7章32~34節)。
  更に人々は「メシアはダビデの子だ」と言うが、ダビデ王位継承に際して詩110篇1節からダビデが「わたしの主」(メシア)と呼んで、この方が(復活によって)神の右の座に着かれるのだと、イエスは説かれたのである(42~44節)。

だれでも持っている人は、更に与えられる

2015-08-19 | Weblog
  ルカ19章 

  26節「主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。」(新共同訳)

  1節「イエスはエリコに入り、町を通っておられた」小見出し『徴税人ザアカイ』。エリコの町に住むザアカイは「徴税人の頭で金持ちでした」とある(2節)。エリコはカナンに入る国境の要所で古くから徴税所があり、ローマ直轄領で、彼は関税徴収の委託業者で利鞘を自由に取ることが出来た。金持の議員(18章18~30節)と救いについて対照的な結果を示す事例となる。カペナウムの収税所で働いていた徴税人レビは弟子として召命を受けたが金持ちとは書かれていない(5章27~28節)。金持ちでも幸せな日々とは言えない。徴税請負はローマの犬といわれて反感を持たれ、「アムハーレツ」(地の民・罪人)という差別をうけていたからである。
  3節「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」。噂を耳にするのが遅かったのかも知れないが、強い関心を抱いていたことは彼のとった行動から充分伺える。背の低い彼は先回りして、丁度目の前にあったいちじく桑の樹に登った(4節)。
  5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。何と驚いた事だろう。初対面とは思われない申し出である。ザアカイの名をいつどこで知ったのか。これはイエスの先行的選びである。何故なら「泊りたい」は「泊らねばならない」という強い断定的な表現である。「今日」は終末の救いが先取りされて訪れたことを示す。この申し出に彼は急いで降りて来て、同じ目線となり、喜んで迎えた(6節)。
  7節「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった』」。イエスには、周囲の批判の声にも拘らず、失われた羊を救い出さねばならない熱い思いがあった(10節)。そしてその願いに直ちに応答してわが家に迎え、イエスが泊ることによって救いは実現する。彼の生き方が変わった。金銭で利益を得るとする価値観ではない生き方である。財産の半分を貧しい人々に施し、更に何かだまし取っていたら四倍にして返すと言った。これは強盗で破壊行為が歴然とした場合、普通の盗みは二倍である(出エジプト記21章37~22章2節)。彼の悔い改めの具体的な証しで、恵みの信仰が善き行為を生むのである。イエスは「きょう、救いがこの家に訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と言われた。(9節)。アブラハムの祝福の約束が実現したことを示している(創世記12章2節)。
  11節「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」。小見出し『ムナの譬』。ザアカイの入信から、神の国は直ぐにも現われると思っている人々からの質問をうける。マタイ福音書25章14~30と似ている。結論は、やがて終末の到来に至り、神の国を受入れる者が益々豊かに祝されることである(26~27節)。

気を落とさずに絶えず祈らなければならない

2015-08-18 | Weblog
  ルカ18章 

  1節「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(新共同訳)

  1節「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」小見出し『やもめと裁判官のたとえ』。この祈りの譬は神の国待望という終末信仰に関連しており、その到来の遅延にともない孤独と絶望に陥る時、神の義が貫かれるよう失望せずに絶えず祈ることを教えたものである。
  2節「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」。この裁判官は「不正な管理人」(16章)と同じユダヤ的対立対比の表現法である。裁判官は複数制であったが、ひとりで采配出来るのはヘロデ配下の異邦人で、神殿の献金から高給を取っていた神を恐れない裁判官がいたといわれる。
  3節「ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた」。そこに財産を奪われようとして訴えてきたやもめがいた。彼女は、金銭で賄賂を贈るすべを持たない貧しい女だったので、只々訴え続ける以外になかった(口語訳“たびたび来た”)。裁判官も取り合おうとしなかった(“拒み続けた”・4節)。
  5節「しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから裁判をしてやろう。さもないとひっきりなしにやって来て、さんざんな目に遭わすにちがいない」。「さんざんな目に遭わす」(フポピスゾー)を祥訳聖書は「襲いかかって、わたしを絞め殺す」となっている。この裁判官にしてこの寡婦である。困窮のあまり自暴自棄になり、裁判官を世間一般に破産させた人間だとなじる事となる。
  7節「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。これと対比して、真実な神は正しい審判をしない筈はないと言われた。正しい審判とは、神の国と義の実現であり、キリストの再臨を指している。選ばれた人たちとは、キリスト者である。ユダヤ教では、間断なき祈りで神を煩わせてはならない。人は一日三回以上祈るべきではない。くどくど祈ることは禁じられていたのである。絶えず祈る事こそ、キリスト者にだけ与えられた、最も相応しい信仰の証しに外ならない。
  9節「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」小見出し『ファリサイ派の人と徴税人』。ここも7節の祈りに関する教えである。
  10節「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」。ファリサイ派は十戒の三の掟「姦淫、盗み、偽証しない」を忠実に守り、二度の断食と十分一献金をしているという。一方徴税人は胸を打ち「罪人の私を憐れんでください」と祈る。二人のうち神に義とされて家に帰ったのは徴税人だとイエスは答えた(14節)。見下す者をしりぞけ、謙る者を受入れる神を示された。次の乳飲み子を祝福された箇所(15~18節)も同じ視点で、律法を守りえない乳飲み子は神の救いに値しないとする律法主義をイエスは廃し、神の国はこのような者たちであるとし、乳飲み子を叱った弟子たちを諭したのである(16節)。

この人はサマリア人だった

2015-08-17 | Weblog
  ルカ17章 

  16節「そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」(新共同訳)

  1節「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である』」小見出し『赦し、信仰、奉仕』。弟子たちに留まらず、キリストに結ばれている者の対する勧めである。躓かせる罪の負債はお互いの赦しに結ばれるものである。「躓き」(スキャンダロン)は、獣の首に仕掛ける罠である。首にひき臼を掛けられ海に投げ込まれるよりましだという。
  3節「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。神は赦しに制限しない方だから、何度でも赦すのである(4~5節)。「七回」とは何回でも、ということである。
  5節「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき」。弟子たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下せ』と言えばその通りになる(6節)。神の支配の力は、人の思いを超えるのである。
  11節「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」。ある村で、重い皮膚病の男十人が出迎えて、声を張り上げ「わたし達を憐れんでください」と言った(12~13節)。ひとりサマリア人で九人はガリラヤ出身だったが、彼らは一緒に生活していた。病気でなければ在り得ない。何故ならここには二重の差別があったからだ。紀元前七世紀イスラエルがアッスリヤに滅ぼされ、アッスリヤ人らが移住し、そして生まれた混血人がサマリア人と呼ばれ、ユダヤ人とは長く反目し合う因縁の仲だった(ネヘミヤ13章28節)。更に「重い皮膚病」(ハンセン氏病)は感染のため隔離されていた。社会的偏見と宗教的差別の精神的苦痛があった。
  14節「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた」。病を癒された動機は「憐れみ」で同情ではない(13・15章20節)。ここでは、直ちに祭司たちのところに行って、体を見せなさいと伝えた。15章と違うのは、必ず癒されるというイエスの言葉と先取りの信仰であり、反芻し腹の底にストンと落ちるまで信じて歩いていたに違いない。彼らは、そこへ行く途中で清くされた理由がそこにある。イエスの言葉を信じた通りになることが「からし種一粒ほどの信仰」(5節)である。そして十人は、願い通りに癒された。
  15節「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」。二重の差別を受けていたサマリア人だけが踵を返して、大声で神を賛美し足もとに平伏し感謝した。それは肉体の癒しに留まらず、イエスを通して神との交わりの回復が与えられ感謝した。他の九人は何故来なかったのか(17節)。
  彼らはおそらく神殿に馳せ参じ、祭司に証明を貰い懐かしい我が家に帰ったであろう。問題は祭司から証明を貰う必要があったのか。イエスにより与えられた新しい日々を(有り難き事として)感謝し賛美を神に表わすことではなかったか。差別からの解放はそこから始まる。イエス御自身が呪いとなり罪と死の病に打たれて十字架にかかり、失われた人間性を回復し癒された。祈りと賛美はその神の御業に対する感謝の応答であり「立ち上がって、行きなさい」(19節)は、イエスの証人となることである。

だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか

2015-08-15 | Weblog
  ルカ16章 

  11節「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」

  1節「イエスは、弟子たちにも次のように言われた。『ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった』」小見出し『「不正な管理人」のたとえ』。イエスの讐の中で最も難解と言われる。財産については間違った理解に陥る危険性がある。金持ちの管理人が主人の財産を無駄遣いした。私利私欲のため弟息子が父親の資産を浪費したのと共通している(15章14節)。息子は本心に立ち帰り過誤を悔いているが、この管理人は違う。
  2節「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』」。そこで管理人は、不正がばれて解雇された時のことを考えた。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そこで「借用証書」(主人の財産)を勝手に書き換える不正工作をする(3~4節)。
  5節「そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った」。ユダヤの律法では利息を取ることは禁止されているが(申命記23章19節)、相互に利益を得る場合はよいと理解し、貸借に利息を付けていた。彼は負債者を呼んで油百パトスの証文を五十パトスに書き直し、利息の五十パトスは無しにする(6節)。利息が貸借の半額というから高利である。利息が無かったとする工作で、負債者の借りは無しとなる訳である。
  7節「また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』」。同様に小麦百コロスの債権者には八十コロスで利息なしにする(油は混ぜものをし易いので八十%の利息)。自分に有利な処理で不正を重ねた。
  8節「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」。この不正工作を知った主人は、この管理人の抜け目のない不正なやり方を褒めたが、何故なのか。債権者は喜び、管理人は恩義を得、主人には実質的損失はないという「丸く治めた賢いやり方」だからである。ここで使われている「抜け目のない」「利口な」(フィロニモース)は「思慮深い」とも訳される。つまり賢い管理人(12章42節)である。イエスはここで「この世の子ら」は仲間に対して「光の子ら」より賢いと褒められた。
  9節「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。ごく小さなことへの忠実さと、本当に価値ある大きなことへの忠実さとが対比して問われることになる(10~11節)。管理人が先々を考えて取った態度は、金が無くなった時のことであった。イエスは既に「尽きることのない富を天に積みなさい」と言われ(12章33節)、「自分の持ち物を一切すてないなら、わたしの弟子ではありえない」と語られた(14章33節)。イスラエルの民は地上の富は神の祝福とし、貧しさや不足は神の祝福から遠ざけられたものとした。それはヨブ記、箴言に伺える。従って「この世の不正にまみれた富」に忠実な管理人とは、ファリサイ派や富裕者へ向けられた批判として理解することが要るのである。金に執着するファリサイ派の人々が、この話の一部始終を聞いて、イエスをあざ笑ったのはそのゆえだった(14節)。
 キリスト者も「忠実な神の奥義の管理者」であり、この世の偽りや不正を鋭く見抜く上よりの知恵が要る(第一コリント4章1節)。深い知識とするどい感覚によって何が重要であるかを判別する事が求められる(フィリピ1章8節)。