ヨハネ6章
35節「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(新共同訳)。
1節「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」小見出し『五千人に食べ物を与える』。本章全体がパンの奇跡に関連した記事となっている。但し16~21節に湖上を歩くイエスの記事が入る。
2節「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」。「しるし」とは、役人の息子(4章43~54節)、ベトザタの池の傍で足の不自由な人(5章1~9節)である。この後、9章生まれつきの盲人、11章ラザロの死などの「しるし」が七回あり、いずれも単なる「奇蹟」ではなく、それを通して神の御子として表わす証しである(14、30、7章31、9章16、11章47、12章37節)。
4節「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」。丘に登り前方に、退けた筈の群衆ではなく過越祭(二度出てくる)で、巡礼にくる別の群衆がご自分の方に来るのを見られた(5節)。続く記事は共観福音書とほぼ同じだが、本章はイエスご自身が共食の準備を弟子たちに依頼する(5~6節)。次に少年の所有する「大麦のパン五つと魚二匹」が出てくる(9節)。しかも貧しい「大麦パン」。群衆が満腹した後にイエスは「少しも無駄にしないよう、パンの屑を集めなさい」と言われた(12節)。特に注目すべきことはこの「しるし」を見て群衆がイエスを預言者また王にしようとするのを知って山に退かれたことである(14~15節)。
16節「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った」小見出し『湖上を歩く』。17~21節は、マルコ福音書8章45~52節の並行記事とほぼ同じである。
20節「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない』」。弟子たちだけで向こう岸のカファルナイムに行く途中、強風で湖が荒れ始め彼らが漕ぎ悩んでいる処に波間からイエスが舟に近づいて来るのを見て恐れたのである。この時マルコ福音書では「パンの事を理解せず心が鈍くなっていた」(52節)とあるが、ここではイエスが「わたしだ(エゴー・イエミー)、恐れることはない」としか書かれていない。しかし、この後の「イエスは命のパン」(小見出し)とある通り、引き続く言葉となっている。「わたしが命のパンである」(エゴー・イエミー・命のパン… 35、45、49節) となる。これは父から遣わされた独り子としてのイエスの自己啓示である。この後この自己啓示は、ヨハネ福音書の用語として「羊飼い」「門」「復活」「道・命・真理」「ぶどうの木」などとして出てくる。際立っているのは18章5~8である。
27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。イエスはパンの給食に対する民衆の誤った理解を明確にする必要があった。それこそイエスが人々に与えてくださる「永遠の命にいたる食べ物である。人が判断して理解できる時間的延長線上の継続ではない。イエスによって生かされる生命である。そこでこのパンを得るための働きとは何か。
29節「イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。ここでイエスは荒れ野のパンの出来事(出エジプト記16章)で一層明確にする。彼らはマンナを食べたが死んだ(49節)。しかしイエスの命のパンは違う。「天から降って来たパン」であると四回も繰り返す(38、50、51、54節)。従って「わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と告げた(35節)。イエスは生命線(ライフライン)である。先ずイエスによって生かされる(水と霊とによるバプテスマ)。次に生かされ続ける(イエスの血と肉で示されている最後の晩餐)。
53~56節はキリスト者にとって聖餐理解を一層深くするところである。無理解の者は離れ去ることになる(66~68節)。
35節「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(新共同訳)。
1節「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」小見出し『五千人に食べ物を与える』。本章全体がパンの奇跡に関連した記事となっている。但し16~21節に湖上を歩くイエスの記事が入る。
2節「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」。「しるし」とは、役人の息子(4章43~54節)、ベトザタの池の傍で足の不自由な人(5章1~9節)である。この後、9章生まれつきの盲人、11章ラザロの死などの「しるし」が七回あり、いずれも単なる「奇蹟」ではなく、それを通して神の御子として表わす証しである(14、30、7章31、9章16、11章47、12章37節)。
4節「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」。丘に登り前方に、退けた筈の群衆ではなく過越祭(二度出てくる)で、巡礼にくる別の群衆がご自分の方に来るのを見られた(5節)。続く記事は共観福音書とほぼ同じだが、本章はイエスご自身が共食の準備を弟子たちに依頼する(5~6節)。次に少年の所有する「大麦のパン五つと魚二匹」が出てくる(9節)。しかも貧しい「大麦パン」。群衆が満腹した後にイエスは「少しも無駄にしないよう、パンの屑を集めなさい」と言われた(12節)。特に注目すべきことはこの「しるし」を見て群衆がイエスを預言者また王にしようとするのを知って山に退かれたことである(14~15節)。
16節「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った」小見出し『湖上を歩く』。17~21節は、マルコ福音書8章45~52節の並行記事とほぼ同じである。
20節「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない』」。弟子たちだけで向こう岸のカファルナイムに行く途中、強風で湖が荒れ始め彼らが漕ぎ悩んでいる処に波間からイエスが舟に近づいて来るのを見て恐れたのである。この時マルコ福音書では「パンの事を理解せず心が鈍くなっていた」(52節)とあるが、ここではイエスが「わたしだ(エゴー・イエミー)、恐れることはない」としか書かれていない。しかし、この後の「イエスは命のパン」(小見出し)とある通り、引き続く言葉となっている。「わたしが命のパンである」(エゴー・イエミー・命のパン… 35、45、49節) となる。これは父から遣わされた独り子としてのイエスの自己啓示である。この後この自己啓示は、ヨハネ福音書の用語として「羊飼い」「門」「復活」「道・命・真理」「ぶどうの木」などとして出てくる。際立っているのは18章5~8である。
27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。イエスはパンの給食に対する民衆の誤った理解を明確にする必要があった。それこそイエスが人々に与えてくださる「永遠の命にいたる食べ物である。人が判断して理解できる時間的延長線上の継続ではない。イエスによって生かされる生命である。そこでこのパンを得るための働きとは何か。
29節「イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。ここでイエスは荒れ野のパンの出来事(出エジプト記16章)で一層明確にする。彼らはマンナを食べたが死んだ(49節)。しかしイエスの命のパンは違う。「天から降って来たパン」であると四回も繰り返す(38、50、51、54節)。従って「わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と告げた(35節)。イエスは生命線(ライフライン)である。先ずイエスによって生かされる(水と霊とによるバプテスマ)。次に生かされ続ける(イエスの血と肉で示されている最後の晩餐)。
53~56節はキリスト者にとって聖餐理解を一層深くするところである。無理解の者は離れ去ることになる(66~68節)。