日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

互いにいたわり合い、憐れみ深くあり

2015-04-29 | Weblog
  ゼカリヤ7章 

  9節「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き 互いにいたわり合い、憐れみ深くあり」(新共同訳)

  1節「ダレイオス王の第四年になって、主の言葉がゼカリヤに臨んだ。それは九月、キスレウの月の四日のことであった」。小見出し『断食と回復の約束』。紀元前518年、1章7節から二年近く経過している。ベテル(人物?)は、サル・エツェルとレゲム・メレクおよび、その従者たちを神殿に遣わして、主の恵みを求めさせた(2節)。
  3節「また万軍の主の神殿の祭司たち、および預言者たちに次のような質問をさせた。『わたしは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか』」。神殿の再建中、毎年5月にエルサレムが破壊された(列王記下25章8節see)悲しみの断食をしてきたがなお続けるのかと質問したのである。
  5節「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にもあなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが果たして、真にわたしのために断食してきたか」。主はゼカリヤを通して答えられた。それは真に断食といえるのか。7月の断食は、ユダの最後の統治をしたゲダルヤが暗殺された月である(列王記下25章25節see)。これについての主の御心が示される(7節)。
  9節「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き 互いにいたわり合い、憐れみ深くあり」。やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者らを虐げず 互いに災いを心にたくらんではならないと(10節)。
  11節「ところが民は耳を傾けることを拒み、頑なに背を向け、心を鈍くして聞こうとせず」。心を石のように硬くし、預言者を通して与えられ、律法と言葉を聞かなかった(12節)。
  13節「『わたしが呼びかけても彼らが聞かなかったように、彼らが呼びかけても、わたしは聞かない』と万軍の主は言われる」。だから民をあらゆる国に散らしたのだと主は言われる(14節)。
  断食についての記事は新約聖書に多く出てくる(マタイ福音書4章2節、6章16~18節、使徒言行録13章3節、14章23節)。
  現代では「医食同源」という言葉があり、健康維持のために断食をする人もある。問題は飽食時代といわれる生活を送る一方で、貧困で餓死する人々が絶えないという現実である。預言者ゼカリヤが見ている現実と似ているのではないか。



これが『若枝』という名の人である

2015-04-25 | Weblog
 ゼカリヤ6章 

  12節「万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す」。

  1節「わたしが再び目を留めて見ると、四両の戦車が二つの山の間から出て来た。その山は青銅の山であった」。小見出し『第八の幻』。その四頭の戦車で、第一は赤毛、第二は黒、第三は白、第四はまだらの強い色それぞれ数頭いた(2~3節)。
  4節「わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに、『主よ、これは何ですか』と尋ねると」この問いに御使いは「これは天の四方に向かう風で、全地の主の御前に立った後に出て行くものである」と答えた(5節)。更に尋ねると「黒い馬は北に向かい、白い馬は西に向かい、まだらの馬は南の国に向って行く」と言われた(6節)。強い馬も出てきて今にも飛び出して地上を行き巡ろうとしていたところ、御使いは地上を行き巡れと命じた(7節)。
  8節「彼はわたしに叫びながら言った。『よく見るがよい。北の国に向かって出て行ったものが、わが霊を北の国にとどまらせた』」。四頭立ての軍馬に象徴される風=霊が四方に行き巡る幻は、神の審判が全地に及ぶことを示し、最後は霊が北の国バビロンに留まり、神の最後の審判が下ることを表わしている。
  9節「主の言葉がわたしに臨んだ」。小見出し『戴冠の幻』。
  10節「帰還した捕囚の中から、ヘルダイ、トビヤ、エダヤの家族から、贈り物を受け取りなさい。あなたはその日のうちに、ツェファンヤの子ヨシヤの家に入りなさい。彼らはバビロンから帰ったばかりである」。そして彼らは銀と金とで冠(複数)をつくることを命じられる。その一つを大祭司ヨシュアの頭に載せて宣言するのである(11節)。
  12節「万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す」。続いて
  13節「彼こそ主の神殿を建て直し、威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて、平和の計画が二人の間に生ずる」。これは大祭司ヨシュアに向かって宣言している言葉であるが、「『若枝』という名の人が王座に座す」ということから、エルサレム神殿再建に関わったゼルバベルであるという解釈がある。4章からその可能性を引き出すことが出来る。その場合、王座の傍らにいる祭司がヨシュアとなり、二人に戴冠式がなされることとなるが、その歴史的根拠はない。
  『若枝』(ナーツァー)はイザヤ11章1節にあるように、メシア的存在を示唆する言葉である。ここでは新しい神殿建設と平和の王が到来し王座に着くという終末預言とみるべきであろう。ナーツァーは「ナザレ人」と語感が似ている。主イエスは三十年ナザレで生活し、ナザレの人と呼ばれた(マタイ福音書2章23節)。初代キリスト教会では、主イエスを信じる者を「ナザレ人の分派」といった(使徒言行録24章5節)。
  この主イエスこそ若枝(ナーツァー)という名の人、来るべき大祭司で、王なるメシアであると告げているのではないだろうか。

それは全地を見る彼らの目である

2015-04-24 | Weblog
  ゼカリヤ5章 

  6節「わたしが、『それは何ですか』と尋ねると、彼は、『そこに出て来たのはエファ升である』と答え、『それは全地を見る彼らの目である』と言った」(新共同訳)

  1節「わたしが再び目を留めて見ていると、一つの巻物が飛んでいた」。小見出し『第6の幻』。民に向けられた幻であるが、御使いがゼカリヤに何を見ているかと尋ねたので、神の呪いが両面に記されている長さ二十アンマ、幅十アンマという巨大な巻物が空中を飛んで行くのを見たと答えた(2節)。
  3節「彼はわたしに言った。『これは全地に向かって出て行く呪いである。すべての盗人はその一方の面に記されている呪いに従って一掃される。また偽って誓う者も、他の面の呪いに従って一掃される』」。これは万軍の主が、すべての盗人の家、偽りの誓いをする者の家に入って、梁も石ももろともに滅ぼし尽くすという幻である(4節)。
  5節「わたしに語りかけた御使いが現れ、わたしに言った。『目を留めて、そこに出て来るものが何であるか、よく見るがよい』」。小見出し『第七の幻』。そこで、ゼカリヤがそれは何かと尋ねると、全地を見る目を持つエファ升だという(6節)。
  7節「鉛の円盤が取り除かれると、エファ升の中に一人の女が座っていた」。次に邪悪という女が閉じ込められたエファ升の蓋を開けて見せ、再び鉛の蓋を閉める(8節)。
  9節「わたしが目を留めて見ると、二人の女が翼に風を受けて出て来た。かの女たちはこうのとりの翼のような翼を持ち、地と天の間でエファ升を運び去ろうとしていた」。そこでゼカリヤは、何処に持ち運ぶのかと尋ねた(10節)。
  11節「彼はわたしに答えた『彼女のため、シンアルの地に神殿を築こうとしているのだ。神殿が整えられると、その地に備えられた場所に置かれるはずだ』」。シンアルの地とはバビロンを指す。「邪悪」とはバビロンの偶像神「天の女王」(エレミヤ書44章17~19節see)と解釈される。この不義は新しいエルサレム神殿から取り除かれて、バビロンの神殿に持ち運ばれていくというのである。
  バビロンを悪の象徴とすることは、ヨハネ黙示録18章にもある。神の神殿から、すべての盗みや偽り邪悪は取除かれ、霊と真理とをもって礼拝が捧げられねばならない。
  四つの福音書に主イエスの宮清めの出来事が出ている。マタイ21章12~13節、マルコ福音書11章15~19節、ルカ福音書19章45~49節。ヨハネ福音書2章13~22節だけは違った記事になっている。因みに16節はこの様になっている「鳩を売る者たちに言われた『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」。


見事、見事と叫びがあがる

2015-04-22 | Weblog
  ゼカリヤ4章 

  7節「大いなる山よ、お前は何者か、ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば見事、見事と叫びがあがる」(新共同訳)

  1節「わたしに語りかけた御使いが戻って来て、わたしを起こした。わたしは眠りから揺り起こされた者のようであった」。込み出し『第五の幻』。眠りから呼び覚まされるのは事柄が重要であるかを表す。何を見ていたのかと問われ、金の燭台で双方に三本の枝があり、六個の灯皿が付き、頂上の枝1個合わせて七個の灯火皿になる(2節)。右に二本のオリーブの木がある幻であった(4節)。
  5節「わたしに語りかけた御使いは答えて、『これが何か分からないのか』と言ったので、わたしが『主よ、分かりません』と言うと」、御使いの答えがあった。
  6節「…これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」。神殿建設の再建に当るゼルバベルに対する幻だという。彼は集団的な組織力や、政治的な権力によらないで、神の霊のなされる御業だというのである。
  7節「大いなる山よ、お前は何者か、ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば見事、見事と叫びがあがる」。神の業は人の手の働きを超えている。「見事、見事と叫びが上がる」は口語訳「恵みあれ、これに恵みあれ」、TEV "Beautiful, beautiful!"、今流に言えば「天晴れ!天晴れ!」
  9節「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを あなたたちに遣わされたことを知るようになる」。ゼルバベルの果たす役割を万軍の主が図ったと告げたのである。
  10節「誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て 喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」。誰がこれを小さなことの日のように蔑むのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て喜び祝え。燭台の七つの灯皿は、地上をくまなく見回る主の御目であると伝えた(10節)。新共同訳では「選び抜かれた石」となっているが、口語訳は「下げ振り」である。このハーエベンは建築の基礎を据える時の合金を指している。正しい判断をする為の道具と考えられている(列王記下21章13節、イザヤ書28章17節see)。ここではゼルバベルが果たそうとしている役割を表す言葉として訳している。
  11節「わたしは言葉をついで御使いに尋ねた。『燭台の右と左にある、これら二本のオリーブの木は何ですか』」。更にオリーブの二本の金の管から油が注ぎ出ていると尋ねた」(12節)。左右にあるオリーブの木は、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルであると説明している(14節)。この二人の働きについては、既にハガイ書で語られている。エルサレム第二神殿再建が完成した時、彼らが歓声を上げて喜び主を賛美した様子は8章に出てくる。



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2015-04-21 | Weblog
 ゼカリヤ3章 火の中から取り出された燃えさし

  2節「主の御使いはサタンに言った。『サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか』」(新共同訳)

  1節「主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された」。小見出し『第4の幻』。大祭司ヨシュアを訴えるサタンが登場する。御使いは主がサタンを責められ、ヨシアは火の中から取り出された燃えさしだと言われる(2節)。彼が御使いの前に汚れた衣を着て立っているので、他の御使いに汚れた衣を脱がせ、罪を除き去ったので、晴れ着を着せてもらう(3~4節)。
  5節「また、御使いは言った。『この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。』彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴れ着を着せた。主の御使いは立ち続けていた」。更に主の御使いは彼に告げる(6節)。
  7節「万軍の主はこう言われる。もしあなたがわたしの道を歩み、わたしの務めを守るなら、あなたはわたしの家を治め、わたしの庭を守る者となる。あなたがここでつかえる者らの間に歩むことを許す」。更にヨシャアと同僚たちとに「若枝であるわが僕を来させる」と告げた(8節)。「若枝」「わが僕」は来るべきメシアを指す(エレミヤ6章12節、イザヤ52章13節)。
  9節「ここに石がある。これはわたしがヨシュアの前に差し出すものだ。この一つの石に七つの目がある。わたしはそこに碑文を刻む、と万軍の主は言われる。そして、一日のうちにこの地の罪を取り除く」。いま一つの幻は神の碑文が刻まれた石が差し出された。「七つの目」が何を意味しているか、様々な解釈がなされているが、同じ「泉」(アイン)と訳して、モーセが荒れ野で岩を打って、水を出させた事と関連させる説もある。この場合罪を取り除くということになる。そして民に平穏な生活が与えられる(10節)
  「火の中から取り出された、燃えさし」(2節)とは九死に一生を得るという意味になるが、ジョン・ウエスレー(1703~1791年)は6歳の時、司祭館が焼失し逃げ遅れ、危機一髪窓から助け出される経験をした。後に彼の肖像にこの言葉が刻まれたというエピソードがある。
  この場面では「火の中」とはバビロン捕囚を指す。大祭司ヨシュアは新しい祭司服を着用して神の指示に従うこととなる。神の使命に呼び出される者は、みなこれと同じ信仰経験となる。何一つ取得のない者を神は選んで清めて用いられるのである。汚れた衣を脱がせて、晴れ着を着せてもらう場面がルカ福音書15章22節の「放蕩息子が父親の許に帰ってくる」ところにある。これはキリスト者の原体験である。



主の御前に黙せ

2015-04-20 | Weblog
 ゼカリヤ2章 

  17節「すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる」(新共同訳)

  1節「わたしが目を留めて見ると、四本の角があるではないか」。小見出し『第二の幻』。口語訳は、1章18~21節になっている。語り掛けた使いに手にしている角は何か尋ねるとイスラエル、エルサレムをちりぢりにした破壊力を有する角であると答えた(2節)。
  3節「更に主はわたしに四人の鉄工を示された」。この四人はユダの地に角を振り上げ、震え上がらせた国々の角を切り倒すために来るのだという(4節)。
  5節「わたしが目を留めてみると、ひとりの人が測り縄を手にしているではないか」。小見出し『第三の幻』。ゼカリヤはどこに行くのかと尋ねると、エルサレムを測り、その幅と長さを調べるためだと答えた(6節)。また別の御使いが出てきて彼のもとに走り寄って告げる(7節)。
  8節「彼に言った。『あの若者のもとに走り寄って告げよ。エルサレムは人と家畜に溢れ、城壁のない開かれた所となる』」。わたし自身が町を囲む火の城壁となりその中で栄光となるので、急いで北の国バビロンから逃れよ、逃げ去れと主が言われる。天の四方から吹く風が、吹き散らすと告げる(9~10節)。
  11節「シオンよ、逃げ去れ バビロンの娘となって住み着いた者よ」。わたしを遣わした万軍の主が略奪した国々に向って手を振り上げ、自分自身の僕に奪われるようにすると告げる(12~13節)。
  14節「娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる」。その日には、多くの国々は主に帰依して主の民となり、その中に住まわられるようになると告げている(15節)。
  16節「主は聖なる地の領地となり、ユダを譲り受け、エルサレムを再び選ばれる」。エルサレムの新しい復興を約束する言葉である。
  17節「すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる」。同じような言葉を詩篇に見出す。新共同訳「力を捨てよ、知れ、わたしは神」(46篇11節)。口語訳「静まって、わたしこそ神であることを知れ」。

  半世紀前になるが、スタンレージョンズが最初に提唱したアシュラム運動では、日々の静聴を実践している。これは黙想(メディテーション)を中心にしたプログラムを持つのである。

わたしは憐れみをもってエルサレムに帰り

2015-04-18 | Weblog
  ゼカリヤ1章 

  16節「それゆえ、主はこう言われる。わたしは憐れみをもってエルサレムに帰りわが家をそこに建て直させると、万軍の主はこう言われる。エルサレムには、測り縄が張られる」(新共同訳)

  1節「ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ」。ハガイと同時代の預言者であることが判る。
  2節「主はあなたたちの先祖に向かって激しく怒られた」。厳しい神の宣言がゼカリヤを通して告げられることとなる。
  3節「あなたは彼らに言いなさい。わたしに立ち帰れ、と万軍の主はこう言われる。わたしに立ち帰れ、と万軍の主は言われる。そうすれば、わたしもあなたたちのもとに立ち帰る、万軍の主は言われる」。ハガイと同じに神への悔い改めを民に伝える。捕囚前の先祖に呼び掛けたが悔い改めて立ち帰らなかったが、今また預言者たちによって立ち帰りを求めているが、しかし神に聞き従わず、耳を傾けていない(4節)。だが神は、わたしたちを扱おうと思い定められた通りされた(6節)。
  7節「ダレイオスの第二年十一月、シェバトの月の二十四日に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ」。小見出し『第一の幻』。主の幻(黙示)は第八(6章8節)まで続いている。
  8節「その夜、わたしは見た。ひとりの人が赤毛の馬に乗って、谷底のミルトスの林の中に立っているではないか。その後ろには、赤毛の馬、栗毛の馬、白い馬がいた」。馬に乗る巡回の御使いとの会話。ゼカリヤは、これは何かと尋ねると、御使いは、地上を巡回させるために遣わされたと応えた(9~10節)。
  11節「彼らはミルトスの林の中に立っている主の御使いに向かって答えた『わたしたちは地上の人々は安らかに暮らしています』」。巡回した御使らの会話である。それに答えて主の御使いは、万軍の主よ、エルサレムとユダの町を憐れんでくださらないのですか。あなたの怒りは七十年も神の怒りは続いていますと言った(12節)。
  13節「わたしに語りかけた御使いは、主は優しい言葉、慰めの言葉をもって答えられた」。わたしはエルサレムとシオンに激しい情熱を傾けると言われる(14節)。元訳では「甚だしく心を熱して妬ましくおもう」とある。激しい感情表現である。ゼファニヤ1章18節see。安穏としている諸国には激しく怒ったが、わずかだったので、彼らはほしいままに悪事を行っている(15節)。
  16節「それゆえ、主はこう言われる。わたしは憐れみをもってエルサレムに帰りわが家をそこに建て直させると、万軍の主はこう言われる。エルサレムには、測り縄が張られる」。「憐れみ」(ラハライム)は、「同情」とも訳されるが、「子宮、胎」(腹(はら)腸(わた))とも訳される。日本語の「断腸の思い」と同じ言葉であり、単なる同情ではない神の激しい思いが込められている。
  17節「再び、呼びかけて言え。万軍の主はこう言われる。わたしの町々は再び恵みで溢れ 主はシオンを再び慰め エルサレムを再び選ばれる。』」。ユダの町々は再び恵みに満ち溢れ、主はシオンを再び慰められるのである。
  同じような感情を主イエスも抱いておられる(ヨハネ福音書2章17節=詩69編10節)。


銀はわたしのもの、金もわたしのもの

2015-04-17 | Weblog
  ハガイ2章 

  8節「銀はわたしのもの、金もわたしのものと万軍の主は言われる」(新共同訳)
 
  1節「ダレイオス王の第二年、七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ」。小見出し『新しい神殿の栄光と祝福』。1章から27日後である。10節の9月24日から数えると彼の預言期間は4ヶ月足らずということになる。
  3節「お前たち、残った者のうち誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか」。主の霊で奮い立たせられた民に向かい、大胆さと行動力を促がす。
  4節「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる」。「勇気を出せ」と繰り返し告げる。わたしの霊はお前たちの中にとどまっているので恐れるな(5節)。わたしは、もう一度天と地、海と陸地、諸国の民を揺り動かし(7節)、すべての民の財宝をもたらして、神殿を栄光で満たすと万軍の主が告げる(8節)。
  9節「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と万軍の主は言われる」。新しい神殿はソロモンの時と比較して見劣りするとしても、神殿の栄光は優る。その場所に平和を与えるという。そこで働く祭司たちの聖別について明確にする。
  12節「『もし、だれかが、聖別された肉を衣の裾に入れて運んでいて、その裾がパン、煮物、ぶどう酒、油、そのほか何かの食物に触れたとする。これらのものは聖別されるだろうか』と。祭司たちは答えて『されない』と言った」。神の聖性は互いの接触では伝わらいが、汚れは伝わることを示す(13節)。「正邪合わせ飲む」という諺があるが、これは政治家がよくとる灰色の態度の保身術である。しかし聖書はこれを否定する(第二コリント6章14節see)。泉の同じ源から甘い水と苦い水が出ることは無いのである(ヤコブ3章11節)。アダムの罪の汚点は全人類に及んでいる。現代の「放射能汚染」を示される。
  15節「今日この日から以後、よく心に留めよ。主の神殿の石を積み重ねる前に」。これまでは不信と自分中心に対する神の審判により、野の産物は得られず困窮していたが(16~17節、1章10~11節cf)、主の神殿の基が置かれたこの日から(18節)、わたしは祝福を与えると主はいわれる(19節)。
  21節「ユダの総督ゼルバベルに告げよ。わたしは天と地を揺り動かす」。小見出し『主の僕ゼルバベル』。同じ日主がハガイに語った預言。ゼルバベルは選ばれて神殿再建により、諸国の力を砕くことになるという。
  22節「わたしは国々の王座を倒し 異邦の国々の力を砕く。馬を駆る者もろとも戦車を覆す。馬も、馬を駆る者も 互いに味方の剣にかかって倒れる」。この時、すでにサマリアに異邦の多くの民が住みつき、神殿再建を妨害する状況があり、神の僕ゼルバベルを励まし勇気つけるハガイの言葉である(23節)。詩78篇70節を参照したい。
  ハガイ書は、しばしば礼拝堂建築の時に引用される。当時の神殿建築と比較することは出来ないが、印象に残るのは、「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる」(1章8節)。「銀はわたしのもの、金もわたしのものと、万軍の主は言われる」(2章8節)であろう。


自分の歩む道に心を留めよ

2015-04-16 | Weblog
  ハガイ1章 

  5節「今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」(新共同訳)

  1節「ダレイオス王の第二年六月一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ」。小見出し『神殿再建の呼び掛け』。時代背景としては、エズラ、ネヘミヤ書と平行して読むと理解しやすい。ペルシャのダレイオス王登場は、キュロスの解放令(紀元前538年)から18年後である。祖国に帰還した民は神殿再建にかかったが、妨害され中断していた。この時の預言者がハガイとゼカリヤである(エズラ4章23~5章2節see)。
  2節「万軍の主はこう言われる。この民は、『まだ、主の神殿を再建する時は来ていない』と言っている」。神の叱責のことば。
  4節「今、お前たちは、この神殿を 廃虚のままにしておきながら 自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか」。口語訳では神殿を「主の家」と訳している。板を張った「家」(ハッバイト)と神殿を比較している。神殿を廃墟のままにしておきながら、杉板で覆う豪華な家に住んでいる。
  5節「今、万軍の主はこう言われる『お前たちは自分の歩む道に心をとめよ』」。現状に熟慮反省せよ。「蒔く、食べる、飲む、着る、稼ぐ」(6節)は、生きるに欠かせない行為である。7節でも、5節と同じ言葉である。
  8節「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると、主は言われる」。これが民の今なすべき業である。
  9節「お前たちは多くの収穫を期待したが それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るとき わたしは、それを吹き飛ばした。それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃虚のままであるのに お前たちが、それぞれ自分の家のために 走り回っているからだ」。それゆえ、お前たちの上に、天は露を降らさず、地は産物を出さなかった。干ばつを呼び寄せ、大地と山々の穀物も、ぶどうの樹、オリーブの樹も産物を与えることができない(10~11節)。
  12節「シャルティエルの子ゼルバベルと、大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者は皆、彼らの神、主が預言者ハガイを遣わされたとき、彼の言葉を通して、彼らの神、主の御声に耳を傾けた。民は主を畏れ敬った」。客観的な言葉で、事柄の成り行きが記される。
  14節「主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取り掛かった」。主は彼らの霊を奮い立たせ、そして勇気と喜びを与えられたのである。同じ言葉が、エズラ記1章1節、5節にもある。
  主の霊に奮い立たせ、勇気を与えられた出来事は、使徒言行録二章のペンテコストの日にその事例を見る。

愛によってお前を新たにし

2015-04-09 | Weblog
  ゼファニヤ3章 

  17節「お前の主なる神はお前のただ中におられ勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」(新共同訳)

  1節「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は」。再びエルサレムの堕落を糾弾する。それは神の声を聞かず、戒めを受け入れず、信頼せず、近づこうとしない四つの罪である(2節)。役人、裁判官、預言者、祭司ら指導者は共に不正と不義を行っている(3~4節)。
  5節「主は、都の中にいまして正しく決して不正を行われない。朝ごとに裁きを与え、それを光とし誤りをなさることはない。不正を行う者は恥を知らない」。「正しく」と「裁き」は口語訳「その中にいます主は義であって、不義を行われない。朝ごとにその公義を現して、誤ることがない~」。神は義(ツェデク)であり、神の公義(ミシュパート)は朝毎に表わされるという。
  6節「わたしは諸国の民を滅ぼした。彼らの城壁の塔は破壊された。わたしは彼らの街路を荒れるにまかせた。もはや、通り過ぎる者もない。彼らの町々は捨てられ 人影もなく、住む者もない」。諸国に対する神の審判もエルサレムと同じ避けることはできない。彼らはますます堕落を重ね悪事を行った(7節)。
  8節「それゆえ、お前たちはわたしが獲物に向かって 立ち上がる日を待つがよい、と主は言われる。なぜなら、わたしは諸国の民を集め もろもろの王国を呼び寄せ 彼らの上に、憤りと 激しい怒りを注ぐことを定めたからだ。必ず、地上はくまなく、わたしの熱情の火に焼き尽くされる」。口語訳「妬む怒りの火~」。厳しい審判に秘められた神の熱愛を見る。
  9節「その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える」。本節から預言が一変する。「その日」(11、16節)、「その時」(11、19、20節)の言葉が繰り返される。諸国の民の救いが到来するその時、その日である。彼らは主の名を唱え、献げ物を携えてきて礼拝する(10節)。
  11節「その日には、お前はもはやわたしに背いて行った、いかなる悪事のゆえにも辱められることはない。そのとき、わたしはお前のうちから 勝ち誇る兵士を追い払う。お前は、再びわが聖なる山で 驕り高ぶることはない」。誇り高ぶる者はいなくなる。厭しめられた民が残され、主の名を避けどころとする(12節)。偽りを語らず、欺くことない(13節)。
  14節「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」。「娘シオン」とは、擬人化したエルサレムを指し、イスラエルの王なる主がエルサレムにおられるので、もはや災いを恐れることはないという(15節)。同じ表現がゼカリヤ書9章9節にある。この聖句は、メシヤ預言としてマタイ福音書21章7節に引用されている。この時の王は、諸国に平和を告げる柔和なろばに乗ってエルサレムに入城される方イエスを指している。
  17節「お前の主なる神はお前のただ中におられ勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」。「愛によってお前を新たにし」は、新改訳「その愛によって安らぎを与える」。元訳「愛の余りに黙し汝のために喜びて~」。 NKJ He will quiet you with His love, 圧倒的な神の愛は言葉で表わしえない程のものである。
  これに近い聖句が、ペトロ第1の手紙第1章8節にある。「~言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。キリスト者に向けられているメッセージとして読みたい。

すべての人々よ 恵みの業を求めよ

2015-04-02 | Weblog
  ゼファニヤ2章 

  3節「主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた この地のすべての人々よ 恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に あるいは、身を守られるであろう」(新共同訳)

  1節「共に集まれ、集まれ、恥を知らぬ国よ」。1章の続き。ユダの判決が下る主の怒りの日が来る前に主を求め、恵みの業を求めよと悔改めを呼びかける(2、3節)。
  4節「まことに、ガザは捨てられ アシュケロンは荒れ果てる。アシュドドは真昼にその住民を追われ エクロンは根こそぎにされる」。小見出し『諸国民の滅亡』。ペリシテの人々が住むガザ、アシュケロン、アシュドト、エクロンの町々は捨てられ荒れ果てる。これらの海沿いの地に住む民は滅ぼされる(5節)。その土地はユダの残された者らが来て羊飼いらの井戸を掘り、囲いを作り、牧草地にし、羊を飼い、主なる神が繁栄を回復される(6~7節)。
  8節「わたしはモアブの嘲りとアンモン人の、ののしりを聞いた。彼らはわが民を嘲り、自分の領土について驕り高ぶった」。モアブとアンモンに対する審判。万軍の主は、モアブをソドムのように、アンモン人をゴモラのようにすると言われる(9節)。この地を「わが民の残りの者」が奪い取り、自分の所有地にする(9節)。その地のすべての神々を滅ぼし、主にひれ伏すようになる(10節)。
  12節「クシュ人よ、お前たちもまた、わたしの剣によって刺し殺される」。エチオピアとアッシリアに対する神の審判。クシュ人はエチオピアを指している。
  13節「主はまたその手を北に向かって伸ばし、アッシリアを滅ぼし、ニネベを荒れ地とし、荒れ野のように干上がらせられる」。その土地はあらゆる獣が荒廃した家に潜み(14節)、そこを通り過ぎる者は、どうしてこんなに都は荒れ果てたのかと言って、驚きのあまり口笛を吹いて軽蔑する(15節)。
  ユダとエルサレムに向けられた神の審判は、1章2~3節に「わたしは地の面から、すべてのものを一掃する」とある通り諸国民に対しても例外でない。ここには人種も国境もなく告げられた。しかし、その中で「残りの者」(7、9節)が神に顧みられ、繁栄を回復するという終末預言である。これはイザヤ書42章、アモス9章、ミカ4~5章などにも記されている。「残りの者」という神の選びは、人の側にその根拠はない。
  新約聖書から、その根拠を見る。先ずヨハネ福音書15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」。エフェソの信徒への手紙1章4節「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者,汚れのない者にしようと,御心のままに前もってお定めになったのです」。