日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます

2013-04-30 | Weblog
 詩61篇 

 3節「心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上にわたしを導いてください」(新共同訳)

  1~2節「指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩。神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください」。王に在りながら尚苦悩が絶えない状況が伺えよう。それはアブサロム反逆で、放浪中の歌であるといわれる(サムエル記下15章)。
  3節「心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください」。直訳「わたしの心が弱る時(気を失う時)わたしは叫ぶ」。それは地の果てからである。「高くそびえる岩山」、直訳「私より高い岩山」、口語訳「及び難いほどの高い山」、エルサレムを指している。
  4節「あなたは常にわたしの避けどころ、敵に対する力強い塔となってくださいます」。敵対するわたしの「強固な塔」(岩波訳)、御翼のもとに隠れる「避け所」ですと詠う。測り知れない信頼と従順を表わす。詩篇に多く出ている(17篇8節、36篇8節、57篇2節、63篇8節、91篇4節)。84篇4節では、それを羨む表現となっている。
  6節「神よ、あなたは必ずわたしの誓願を聞き取り、御名を畏れる人に、継ぐべきものをお与えになります」。神の名を畏れる者らに「継ぐべきもの」(イェルシャト=エルサレム)を与えてくださるようにと誓願している。
  7節「王の日々になお日々を加え、その年月を代々に永らえさせてください」。ここから聖歌隊によって、王の執成しとして歌われる祝いの合唱となる。それは王の長命と支配が永らえるようにというものである。王座について「慈しみとまこと」(ヘセド ヴェエメット)が御使いのように常に共なるようにと詠う(8節 詩23篇6節、40篇12節、57篇11節1see)。
  9節「わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い、日ごとに満願の献げ物をささげます」。「日ごとに満願の献げ物をささげます」。直訳「日に日に、わたしの誓願を果たすために~」。「誓願」を新共同訳は「満願の献げ物」と訳している(レビ記27章see)。誓願とは何か。それは神から賜る嗣業の地エルサレムである(6節)、そのことを思い、いつまでも絶えず褒め歌うことである。
  キリスト者にとって嗣業の地は御国を指す。




真理を前にして、その警告を受け入れるようにされた

2013-04-29 | Weblog
 詩60篇 

   6節「あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にして、その警告を受け入れるようにされた」(新共同訳)

  3節「神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください」。表題(1~2節)はサムエル記下8章13~14節、歴代誌上18章21、25章を参考にしたい。「我らを突き放し…散らされた」は直訳「怒って我らを拒否し、打ち破った」。岩波訳「~突き放し、突き破り憤った」である。神の拒否を受け止めながら、なおそこから回復して下さいと懇願する。詩22篇2節が示される。神の怒りは大地を揺り動かす出来事と同じである(4節・民数記16章31~33節、マタイ福音書27章51節see)。
  5節「あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ、よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた」。「辛苦の酒を飲まされた」直訳「よろめき(毒)のぶどう酒を飲ませた」口語訳「よろめかす酒」、岩波訳「悪酔いの酒」である(出エジプト記1章14節)。。バビロン捕囚の憂き目に遭うことだろうか。あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にしてその警告を受け入れるようにされた(6節)。ここは翻訳の困難なところのようだ。口語訳では「…あなたを恐れる者のために一つの旗を立てられた」となっている。これは「警告」(ネース)を「軍旗、合図」、「真理」を「弓」と変えて読んでいる。戦場を想定するなら口語訳のほうが判りやすい。
  7節「あなたの愛する人々が助け出されるように、右の御手でお救いください。それを我らへの答えとしてください」。敗戦が神によるものなら、勝利もまた神によらなければならない。そのためには神が応えてくださり、交わりの回復が必要ですと祈る。
  8節「神は聖所から宣言された。『わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。スコトの野を測量しよう』」。古い時代の預言者のことばで、神からの託宣である。「…ユダはわたしの采配=王の杖・笏」(9節)。「モアブはわたしのたらい=奴隷がたらい岩波訳(湯船)、口語訳(足だらい)」で主人の足を洗う。…エドムにわたしの履物を投げ=奴隷がきれいにするためにわたしの履物を投げる(10節)。本来の意味は履物を脱ぐのは、神が国々を征服しその土地を所有するからである(出エジプト3章5節)
  11節「包囲された町に、誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか」。再び現実にもどる。神の審判として敗戦という結果につながった歴史は、バビロン捕囚をはじめ、土師記などに繰返し述べられている。
  12節「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは我らと共に出陣してくださらないのか」。3節と同じ神の拒否。口語訳「われらの軍勢と共に出て行かれません」。神の前に人の助けや力は無力であり、その救いはむなしいもの(13節)、神は我らに力を振るわれるという(14節)。直訳「神がなされる力によってわたし達は敵を踏みつけます」。

  非戦論者であるキリスト者には馴染めない報復のことばが多いが、神がわたし達を拒否されるという事柄から「敗戦」の教訓を学び取る必要がある。今日本が15年戦争の代償として受け取った「平和憲法」が有耶無耶にされようとしている。平和の旗を振って行進する人々から軍靴の音が聞こえてくる。

神は慈しみ深く、先立って進まれます

2013-04-26 | Weblog
  詩59篇 

  11節「神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を、神はわたしに支配させてくださいます」(新共同訳)

  2節「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し、立ち向かう者からはるかに高く置いてください」。1節の表題は、サムエル記上9章11~17節に出てくる。「見張らせたとき」とはダビデを襲撃しようと見張りを立てている様子が伺える。「高く置く」のは、身張りを意識しているからである。敵、立ち向かう者、悪を行う者、流血の罪を犯す者から救ってくださいと神に訴えている(3節)。
  4節「御覧ください、主よ、力ある者がわたしの命をねらって待ち伏せし、争いを仕掛けて来ます。罪もなく過ちもなく」。「御覧下さい」は待ち伏せしているわたしの命を見て下さいということで8節と同じ。5節では「わたしに向かって目覚めて、見て下さい」と強く神の眼差しを求める。6節ではすべての民を「罰する」(検閲する、注意する)ために、目を覚まして下さいと祈る。何故なら「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神」だからだという。
  7節「夕べになると彼らは戻って来て 犬のようにほえ、町を巡ります」。同じ言葉が15~16節に繰返されている。敵対する者を犬になぞらえている。聖書では好ましくない動物である(22篇17節)。
 8節「御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう」。「口は剣を吐きます」直訳「剣を彼らの口で注ぎ出す」だが、これは野犬が夜中餌を求めて吠える有り様を表現している。しかしあなたは彼らを笑い、すべての民らを嘲笑っている(9節)。
  10節「わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神はわたしの砦の塔」。神の慈愛を求める。直訳「彼の力は あなたに 私は見守ろう」で、主語が不明である。「見張る・見守る」は「褒め歌う」とも訳せる。口語訳「わが力よ、わたしはあなたにむかってほめ歌います」岩波訳「わが守りよ、あなたに私は待ち焦がれます」は独特である。
  11節「神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を、神はわたしに支配させてくださいます」。「先立って進む」は「出迎える」という意味もある。口語訳「わが神は…わたしを迎えられる」。「支配させて~」は「見せて」である。口語訳が判りやすい。わが神はわたしに敵の敗北を見させられるのである。見せしめのために殺さないで、倒れさせないで下さいと願う(12節)。
  13節「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕えられますように」。因果応報で、敵対者の滅びとイスラエルの神の支配を祈る。呪いや欺く言葉の罠が自分自身にふりかかり、ひとりも残らず滅ぼしてくださいという(14節)。
  17節「わたしは御力をたたえて歌をささげ 朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場」。「しかし」(原文にある)は、16節までの嘆願と祈りを受けた接続詞である。あなたは「わたしの力の神」として、救いの喜びを讃美する。「慈しみ深い方」「砦の塔」が繰り返される(18節)。「わたしの力と頼む神」。10節にもある。直訳「わが力よ」(ウズィ)で岩波訳「わが守りよ」、新改訳「わが力」NKJV「O my Strength,」である。

あなたの翼の陰を避けどころとします

2013-04-23 | Weblog
 詩57篇 

  2節「憐れんでください神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし、災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします」(新共同訳)

  2節「憐れんでください神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし、災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします」。表題から判るようにダビデがサウルの追跡を逃れて洞窟に入り身を潜めていた時の歌(サムエル記上22章1節、24章3節)。56篇と共通したテーマである。洞窟のドームが雌鳥の翼にいる雛のイメージで、危機から逃れ慈愛の神の懐に抱かれる信頼を示す(36編8節、61編5節他)。「遣わして下さい、慈しみとまことを」は慈しみ(ヘセド)とまこと(アミー)が擬人化された御使。詩23篇6節see。ダニエルが獅子の中に投げ込まれたように、危険の只中に置かれ、嘲りは鋭い歯と舌で襲ってくる(5節)。
  6節「神よ、天の上に高くいまし、栄光を全地に輝かせてください」。12節と同じリフレイン。
 7節「わたしの魂は屈み込んでいました。彼らはわたしの足もとに網を仕掛け、わたしの前に落とし穴を掘りましたが、その中に落ち込んだのは彼ら自身でした」。「わたしの魂は屈み込んでいました」直訳「彼らは私の両足に網を仕掛けたので、私の魂はかがんだ」、岩波訳「網を彼らはわが足元に備え、わが魂を挫いた」、口語訳「…わたしの魂はうなだれました」である。しかし状況の逆転が起きる。それは敵側が仕掛けた罠に彼ら自身が陥るということである。
  8節「わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます」。心を確かにしますと二度繰り返す。「確かにする」(揺るがない=ナホーン)と7節の敵が網を「仕掛けた」(ヒーヌー)は語呂合わせになっている。つまり敵は罠を仕掛けた(set)が、神にわたしの心は確かにした(set)のである。「心を揺るがぬものにする」とは、堅く信頼することである(TEV I have complete confidence, O God)。状況は変わらないように思われても、御業を信じて神を賛美する。この神への賛美は56編5節にも出ている。
  9節「目覚めよ、わたしの誉れよ、目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう」。「誉れよ」(カヴォ-ド)は「栄光」(岩波訳)と「魂」(口語訳)と二通り訳せる。ここは口語訳が良い。「わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ~」。積極的な先取りの信仰である。目覚めを告げるわたしの「体内時計」に曙が反応する。
  10節「主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し、国々の中でほめ歌をうたいます」。主の慈しみ(ヘセド)とまこと(アミー)が如何に豊かで大きいものであるかを褒め歌う(11節)。4節の嘆願は今や聞き届けられた。
 12節「神よ、天の上に高くいまし、栄光を全地に輝かせてください」。6節と同じリフレイン本詩は閉じられる。

神の御言葉を賛美します

2013-04-22 | Weblog
  詩56篇 

  5節「神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が、わたしに何をなしえましょう」(新共同訳)

  2節「神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ」。表題(1節)に「遥かな沈黙の鳩」とあるが、歌の調子の呼び名といわれる。サムエル記上21章10~15節に関わる嘆きの歌。恵みの神に訴える。絶えず戦いを挑む敵はわたしを踏みにじって、陥れようとする。「踏みにじられ」は「押し潰す、踏み付ける」である。そのような時にあなたに依り頼むだけです(3~4節)。
  5節「神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が、わたしに何をなしえましょう」直面している事態からは賛美きるようではないが、神を信頼し、正当な裁定を先取りする時恐れを消し去るのである。賛美は勝利の力である(歴代誌下20章21~22節see)。11~12節にリフレインとして出てくる。「肉にすぎない者」、直訳「肉」(ヴァサル)、神と対比し、絶対的な優位性を告白する。
  6節「わたしの言葉はいつも苦痛となります。人々はわたしに対して災いを謀り」2~3節と同じ外敵。彼らは猟師が獲物を狙うように、待ち構えて争いを起こし命を奪おうと後を伺っている(7節)。「後を伺う」直訳「踵(かかと)を見張る」。「足元を見ている」ということである。。しかし彼らが頼るのは偶像に過ぎない(8節)。
  9節「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」。「わたしの嘆き」直訳「わたしの流浪」(ノディ) 岩波訳「わたしの放浪」口語訳「わたしのさすらい」。「~革袋」(ノデーハ)と語呂合わせになっている。新共同訳はこの語呂合わせから「流浪」を「嘆き」と訳して「涙を革袋に入れる」という比喩的解釈をしているのである。これはダビデの放浪生活を指している。「数える」、「蓄える」は苦難の経験が長いことを表す。
  10節「神を呼べば、敵は必ず退き 神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう」神を呼んで戦う時、神はわたしの味方だと知って、敵は退却することになる。「神はわたしの味方だ」、岩波訳「神は私のものだ」。そこで再び5節と同様に神の御言葉の素晴らしさをほめたたえるのである(11~12節)。もはや人(アダム)はわたしに何をなしえようという。勝利の確信である。これはローマの手紙8章31節、へブライ人への手紙13章6節に引用されている
  14節「あなたは死からわたしの魂を救い、突き落とされようとしたわたしの足を救い、命の光の中に、神の御前を歩かせてくださいます」。救いの御業を歌う。ここには三つの救いがある。第1は魂の救い、第2にわたしの足を救い(身体の救い、そして第3は命の光の中に歩かせてくださる(日々=生涯の救い)

あなたの重荷を主にゆだねよ

2013-04-20 | Weblog
  詩55篇 

  23節「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」(新共同訳)

  1節「指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩」。見出し。背景となる歴史的詳細は不明。外敵はエルサレムの中にある不法、搾取、詐欺を行う者たち、親しい朋友の裏切りで、彼らに神の報復を祈る。
  2節「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください」。隠れて見ない振りをしないでくださいと、苦しみ悲しみを神に訴える。
  3節「わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です」。岩波訳「わが悲嘆に私は身を震わせ、度を失いました」。圧迫してくる敵の声がわたしの上に落ちて滅ぼそうとし、そして怒ってわたしを恨む(4節私訳)。わたしの心はもだえ、死の恐怖に襲われ震えています(5~6節)。敵の襲来に追い詰められた状態である。
  7節「鳩の翼がわたしにあれば 飛び去って、宿を求め」。鳩が激しい嵐を逃れ人里離れた処に身潜めて難を逃れることができるのだがと、訴える。荒れ野は神との交わりの場を暗示させる(8節)。
  10節「主よ、彼らを絶やしてください。彼らの舌は分裂を引き起こしています。わたしには確かに見えます。都に不法と争いのあることが」。敵の破滅を求める真剣な祈り。「主よ~分裂を引き起こしています」何故このような訳になるのか判らないが、直訳「わが主よ、呑みたまえ、彼らの舌を分けたまえ」。創世記11章バベルの塔の物語を示唆している。都の城壁の上を不法と争いが巡り、町は災いと労苦とが往き巡り、広場から搾取と詐欺が去らないのだという(11~12節)。
  13節「わたしを嘲る者が敵であれば、それに耐えもしよう。わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば、彼を避けて隠れもしよう」。最大の苦しみを表わす。嘲る者、高慢な振る舞いをする者が外敵だったら、耐えられるのだが、「わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲」の裏切りには耐え難い苦しみだ(14節)。かつて彼らは神殿の庭で共に行き来した信頼する仲間だった(15節)。「共に行き来した」は岩波訳「ともに睦みあい」、直訳「私達は歩き続ける」である。
  16節「死に襲われるがよい 生きながら陰府に下ればよい 住まいに、胸に、悪を蓄えている者は」。神の審判を求める。コラに下った神の審判を思い起こさせる(民数記16章30~33節see)。
  17節「わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる」。これがわたしの願いである。夕べも朝も、そして昼も…昼夜を分かたず叫び求めることである(18節)。そして、敵対する人々の中から、贖い出し、平和を賜ることを神に願う(19節)。
  20節「神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。神はいにしえからいまし変わることはない。その神を畏れることなく」。ここは色々な訳があり判りにくい。直訳「神は御座におられて変わることなく彼らを(罪に)悩まされると私は聞いている」。20b~22節、24節は16節と同じ神の報復を求めている。
  23節「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」。結語。重荷を主にゆだねるとは、神のもとに身を隠し(8~9節)、神をたえず呼び(17~18節)、苦難の中にも主の平和を確信する(19節)ことである。

主は苦難から常に救い出してくださる

2013-04-19 | Weblog
 詩54篇 

 9節「主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように」(新共同訳)

  1~2節「指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」。表題の出来事はサムエル記上23章19節、26章1節にある。詩52篇と同じで人の悪意により身の危険を感じる者の嘆きの歌。
  3節「神よ、御名によって私を救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください」。あなたの名によって救い、あなたの力によって裁き、わたしの祈りを聞き耳を傾けて下さいと求める。どこまでも執拗に真剣にすがる姿勢が伺える。誰に対してか。「あなたの名」は、神の属性が「名」に表されている呼び方。つまり神ご自身が力を持って臨むのである。
  5節「異邦の者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです」。この場合「異邦人」とはジフ人であるが、ジフはユダの山地を指している(ヨシュア記15章55節)。原文は「見知らぬ人々」(リザーム)で、口語訳「高ぶる者」。「暴虐な者」とは暴君を指し、人々に殺意を抱くサウルであろう。命を狙うことは神の存在を否定する行為となり、神の聖意に背くことになる(出エジプト記20章13節see)。
  6節「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」。そこで陥れようとする者に災いを報いてくださいと祈る(7節)。悪には悪を返して下さいという意味である。岩波訳「帰れ、かの悪はわが敵対者に」となっている。「彼らを絶やしてください」は、直訳「あなたの真実(アミテハ-)をもって彼らを滅ぼしてください」。報復を主の真実にゆだねることである。
  8節「主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ 恵み深いあなたの御名に感謝します」。ここら信仰の確信に変わる。御名に感謝する。なぜなら苦難から主は常に救い出してくださるからである(9節)。御名を呼んだわたし(3節)は、御名に感謝するのである。
  9節「主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように」。「わたしの目が敵を支配しますように」は解り難い。これは主が苦難の中から救い出されたわたしの目は、敵がどうなのかを見るという期待と確信を表すものである。口語訳「わたしの目に敵の敗北を見させられたからです」。岩波訳「わが目がわが敵どもを見下ろしたからです」。新改訳「私の目が私の敵をながめるようになったからです」とみな違う訳である。


神を知らぬ者は心に言う『神などない』と

2013-04-18 | Weblog
  詩53篇 

  2節「神を知らぬ者は心に言う 『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」(新共同訳)

  1~2節「指揮者によって。マハラトに合わせて。マスキール。ダビデの詩。神を知らぬ者は心に言う『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」。本詩は14篇と殆ど原形は同じである。「神を知らぬ者」口語訳「愚かな者(ナヴァル)」 52篇では「力ある者」であったが、本詩は背信の民に対する呼び掛けである。神を信じない者の腐敗した有様を激しく告発する。「目覚めた人」口語訳「賢い者(マスキール)」と対照的である(3節)。ここでは神を求めず、『神などいない』という人類の無神論的堕落が言い表されている。この歴史的事実をローマの手紙3章10節以下に引用されている。天の御座から見下ろされる神は、これを一笑に付される(2篇4節see)。「腐敗している」は食物の腐敗した状態を指し、「汚れている」と同じである。イスラエルの祭儀で供え物には厳密に腐敗を避ける規定がある。例えば酵母をいれないパンがそうである(出エジプト12章8節、レビ記2章11節)。
  4節「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。ここで「汚れている・善を行う者はいない」を繰り返して強調する(2節)。「だれもかれも背き去った」は、直訳「皆が一緒にしり込みし堕落する」で、心の頑なさが堕落の原因となっている。この箇所がローマ3章10~12節で「悟る者、神を探し求める者」がいないとして引用される。「パンを食らうかのように、わたしの民を食らう者」(5節)とは2節に指摘されている通り、経済的搾取による不義不正を示す。そこで、神を恐れない者に向って呼び掛ける(6節)。
  6節「それゆえにこそ、大いに恐れるがよい、かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を、神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた」。「神を恐れない者」とは不信心なイスラエルの民を指している。それは何か。「あなたに対して陣を敷いた者」とは、敵が周囲に陣を敷いて攻撃する有り様である。「骨をまき散らす」とは死後に正当に扱われないことで、死者を辱める行為である。口語訳が判りやすい。「神はよこしまな者の骨を散らされるからである。神が彼らを捨てられるので、彼らは恥をこうむるであろう」。このような歴史的な状況が何時起きたかは不明である。
  7節「どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」。最後は神の助けと全き救いに対する待望を歌う。バビロン捕囚からの解放が想定されるが、それならば「神を知らぬ者」(1節)とは、イスラエルを攻撃したバビロンを指すことになる(紀元前598~586年)。「大いなる恐れ」(6節)とはこのことを指しているといえよう。
  しかし本詩には、ローマ3章に引用されている通り、すべての民の罪過が伺われる。

神の慈しみに依り頼みます

2013-04-17 | Weblog
  詩52篇 

  10節「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます」(新共同訳)

  1~2節「指揮者によって。マスキール。ダビデの詩。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたとき」。表題。エドム人ドエグがサウル王に告げ口をし、その結果ダビデを援助した祭司アヒメレクのー族が殺害された事件(サムエル記上21~22章)に基づく詩。舌によって引き起こされた災難とその嘆きといえるが、権力者の横暴な行動に対する神の審判を祈る詩篇とも言える。
  3節「力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。神の慈しみの絶えることはないが」。「力ある者」岩波訳・新改訳「勇士よ」、権力を嵩にきて悪事を図る者である。サムエル記上21章8節にドエグは「牧者のつわもの」とある。「誇る」は「自慢する」。しかし神(エル=力の神)の慈しみに生きる者には、豊かな繁栄が与えられる。「慈しみの絶えることはない」は直訳「神の慈しみは一日中」岩波訳「神の恵みはひねもす」、新改訳「神の恵みは、いつも、あるのだ」。悪事を誇る者には破滅がもたらされる(4節)。言葉による罪過に言及する個所は聖書には多い(55篇22節、57篇5節、64篇4~5節、箴言26章20~28節、ヤコブの手紙3章5~12節)
  5節「お前は善よりも悪を 正しい言葉よりもうそを好み」。人を欺いて破滅に落とす舌を好んでいる(6節)。神は彼を打ち倒し、天幕から引き抜き、生ける者らの地から根こそぎにする(7節)。ここに厳しい神の裁断が下される。
  8節「これを見て、神に従う人は神を畏れる。彼らはこの男を笑って言う」。「神に従う人」 口語訳「正しい者」、岩波訳「義人たち」。原文は「そして見る(ヴェイルウー)義人たちは そして畏れる(ヴェイラウー)」と語呂合わせになっている。彼の背信の結果を笑うことになる。この男は神を信頼しないで自らの富の多さを信頼し、それが自らの滅びを決定づけた(強くした)のだ(9節)。新共同訳は意訳。
  10節「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます」。結語。「慈しみに生きる人」 口語訳(「聖徒の前で」)、岩波訳(「忠実な者たちの前で」)。わたしは生い茂る(岩波訳「緑滴る」)。オリーブの木のように、聖なる場所に根を下ろして、神から祝福の実を結ぶ者となり、あなたに「いつまでも感謝をささげます」として結んでいる(11節)。

  本詩は「悪事を誇る者」(3節)と、「慈しみに依り頼む者」(10節)とが対比されている。



神よ、わたしの内に清い心を創造し

2013-04-16 | Weblog
   詩51篇 

  12節「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください」(新共同訳)

  1~2節「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」。七つの悔改めの詩篇のひとつ。見出しはサムエル記下11~12章に記されているダビデのスキャンダルを指している。50篇と共通した内容の部分がある。
  3節「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください」。罪の赦しを懇願する。直訳「あなたの憐れみの多さで、私の咎を消してください」。罪の表現が6節までに四つ出てくる。原文と訳が異なっており、整理すると次のようになる。
 ①「咎」(3節) フェシャー 新共同訳「背きの罪」、岩波訳「諸々の不義」
 ②「不義」(4節) アブォン 新共同訳「咎」、口語訳「不義」 故意による罪(evil)
 ③「罪」(同) ハタッア 「過ち」過失による罪(sins)
 ④「悪事」(6節) ハラア 「悪」 恥ずべきこと(blameless)。バテシバとの不倫を指している。
  4節「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」。直訳「私の不義から多くして(踏んだり叩いたりして)私を洗い、わたしを清めてください」。人と人の関係より先に、神との歪んだ関係を糺すのである。それが「あなたのみに罪を犯し」と懺悔して恥ずべき悪事が明確にされる(6節)。口語訳「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」(4節)。認罪はここでのみ明確なものとなる。そして主の審きに決して誤りがないという。
  7節「わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです」。わたしの母が懐妊した時にすでにわたしは罪の中にあったという。罪が生来のものとすることは、「アダムの罪」として新約聖書に取上げられている(ローマ5章14節、第一コリント15章22節see)。但しガラテヤ1章15節にある通り、神の創造の働きを否定する論拠にはならない。これは性悪説をいっているのではない。
  8節「あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます」。口語訳「見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください」。新共同訳「秘儀」(ヴァトゥホット)は「心の奥」「内臓」のこと、「秘術」は「閉ざされたところ」で、口語訳が判りやすい。これは罪からの赦しを願い求めているのである。既に3~4節で慈しみと深い憐みを求め、更に神にヒソプによって罪を払い去り、洗い、清くして頂きたいと祈る(9節)。ヒソプについてはレビ記14章1~9節、民数記19章14~19節参照。「雪より白く」は神の新しい創造による御業である(イザヤ1章18節参照)。「新しい確かな霊」(12節)、「聖なる霊」(13節)、「自由の霊」(14節)によって生かして下さいと祈る。
  15節「わたしはあなたの道を教えます あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように」。罪赦された者の応答は、これを証しする。そして恵みの御業を喜び歌い、口を広く開けて讃美する」(16~17節)。「打ち砕かれ霊、打ち砕かれ悔いる心」を献げる(19節)。これは詩50編8~13節と共通している。これこそ神が求めておられる「焼き尽くす完全な献げ物」(21節)である。

告白を神へのいけにえとしてささげ

2013-04-15 | Weblog
  詩50篇 

  14節「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ」(新共同訳)

  1節「賛歌。アサフの詩。神々の神、主は、御言葉を発し 日の出るところから日の入るところまで、地を呼び集められる」。表題のアサフは聖歌隊のリーダー(歴代誌上16章5節see)。詩篇に12あり、73~83篇にまとめられている。「神々の神、主」直訳(エル エロヒーム ヤハウェ)。口語訳「全能者なる神」。「神」を反復し最高の神を表現する。神は法廷を開き裁判官として立ち、言葉を発し、陪席に世の被造物が召集されて裁判の情況を注目している。今や不義と偽りを除いて焼き尽くすため、神は黙して見過ごすことが出来ない(3節)。
  4節「神は御自分の民を裁くために 上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる」。天と地が召集者として立てられ(4節)、被告人は御自分の民、生け贄を供えてわたしと契約を結んだ「慈しみに生きる者」である(5節)。口語訳「わたしの聖徒」。「聖徒」(ハスィード)は「敬う者」で、ヘセド(慈愛)と語源が同じである。岩波訳「わたしに忠実な者」。
  7節「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。わたしは神、わたしはお前の神わたしの民よ、聞け、わたしは語る」。「わたしの民よ、聞け」(シェマー アミー・申命記6章4節see)。いよいよ罪状認否の告発がなされる。神は形式的な諸々の犠牲を求められないことが明らかにされる。神は犠牲に雄牛や雄山羊を求めない(9節)。山々に群がる獣はわたしのもの(10~11節)、飢えてそれを食べ、血を飲むとでも言うのか(12節)。
  14「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ」。神が求められる生贄は、真実な告白である。「告白」(トダー)は口語訳「感謝」とも訳せるが、法廷での尋問という文脈から「告白」が相応しい。そしてわたしに求めるなら応えて苦難から救う(15節)。これは預言者がしばしば主張したテーマである。(イザヤ1章11~13節、エレミヤ6章20節、アモス5章21~22節、マラキ1章6~10see)。
  16節「神は背く者に言われる。『お前はわたしの掟を片端から唱え、わたしの契約を口にする。どういうつもりか」。形骸化した犠牲をささげて神の掟に背く者への罪状が告げられる。先ず偽善的行為(16節)、不服従=諭を守らない(17節)、盗みと姦淫(18節)、虚偽(19節)、兄弟の争い(20節)。
  22節「神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない」。神の掟を守らず、神を忘れている者を犠牲のように引き裂くことを悟れ。そうでなければ救いは無い。しかし心砕かれ、「感謝」を生け贄として献げる者に救いの道を示そう(23節)。神の温情ある判決である
  本詩の結論は、真実な告白を神の前にささげ、道を正し、幼子の心で主に信頼することである。


神はわたしの魂を贖い

2013-04-13 | Weblog
 詩49篇 、

 16節「しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる」(新共同訳)

  2節「諸国の民よ、これを聞け この世に住む者は皆、耳を傾けよ」。コヘレトの言葉に近い、知恵の詩歌。諸国の民への呼び掛けは47、48篇と同じにある。「この世」(ハーレッド)とは、不安定な浮世を指す。
  3節「人の子らはすべて 豊かな人も貧しい人も」。貧富に関りなく特別な啓示に耳を傾けよと告げる。わたし(詩人)の口は知恵を語り、心は英知を思う(4節)。「英知を思う」は意訳。直訳「わが心の悟りを口ずさむ(瞑想する=ハグート)」。竪琴を奏でて謎を解く(5節)。音楽には霊力を高める力があるとされた。「謎」、箴言1章6節、エゼキエル17章2節see。
  6節「災いのふりかかる日、わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも、どうして恐れることがあろうか」。悪意に囲まれる時にも、彼らは財宝を頼み、富を誇っているだけで、神を頼む者に恐れはない(7節)。
  8節「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない」。神に対する魂を贖う代金、身代金は高額で、彼らが頼んでいる財宝からは支払い不可能だ(9節)。
  10節「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか」。富める者も貧しい者と同様に、また賢い者も愚かな者と同じに、すべて人は死に、永遠には生きず、財宝も地所も必ず手放すことになる(11~12節)。
  13節「人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。自分の力に頼る者の道は陰府であり(14節)、羊の群のように死が彼らを陰府に置いた(15節)。「陰府がむしばむ」は意訳で、直訳「彼らの姿を陰府が消滅させる・打ち砕く」。岩波訳「陰府が彼の住居なのだ」。
  16節「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取上げてくださる」。ここでは9~10節と対照句になる。「贖う」(ファーダー)は金銭の支払いで取り戻すこと、岩波訳「買い戻す」。法的自由を得ると言う場合「ゴーエル」が使われ、旧約には数多く出てくる(レビ記27章15節、民数記35章19節、ヨブ記19章25節)。奴隷からの解放などである(出エジプト6章6節、イザヤ43章1節、44章22節)。祭儀的な罪の贖いと言う場合「カーファル」で「覆い隠す」という意味になる(レビ記4章20節)。レビ記25章13節「箱」(口語訳「贖罪所」)カポーレットは同語源である。ギリシャ語ルトロンは両方の意味がある。
  17節「人に富が増し、その家に名誉が加わるときも、あなたは恐れることはない」。栄誉は死とともに失せ去るもの、天に宝を積むことこそが栄誉なのである。10節を拡大して記述している。

 キリスト者に求められることは、天に宝を積むことである(マタイ福音書6章19~20節)。

死を越えて、わたしたちを導いて行かれる

2013-04-12 | Weblog
 詩48篇 

  15節「この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と」(新共同訳)

  2節「大いなる主、限りなく賛美される主。わたしたちの神の都にある聖なる山は」。シオンの麗しさの賛歌 内容は46~47篇と一連の詩で神への賛美が歌われる特にエルサレムを神の都として、不落の信仰がアッシリアとの攻防の中で出来上がり、それが後に誤ったエルサレム信仰として形骸化し、正義と公平が失われた信仰に預言者エレミヤは厳しく批判している(エレミヤ7章4節see)。「大いなる主」これを唯一なる神に向けて呼ぶ。歴史の中で働き、歴史を支配する神こそ、誠の大いなる主に、相応しい方である。そして「北の果ての山、シオンの山、力ある王の都」に君臨されるのである(3節)。「北の果て」は異邦の神々の住いであるが、ここでは同一視して主の支配の豊かさを表わす(イザヤ14章13節、エゼキエル38章6節)。
  4節「その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される」。46篇で触れたとおり、アシッリア軍襲来を一夜で敗退させた事件(列王記下19章)が考えられている。周辺の王らが「共に進んで来た」(申し合わせて一緒に来て)攻撃をしかけた(5節)。しかしい彼らは恐怖に陥って逃げ去った」(6節)。ここでカイザルの言葉「来た=ヴェニ・見た=ヴィディ・逃げた=ヴィキ」。
  7節「そのとき彼らを捕えたおののきは、産みの苦しみをする女のもだえ」。その恐怖は陣痛の苦しみ(7節)、航行の船舶を破壊する「東風」(8節)と同じである。神の審判が予想されている。
  9節「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た 万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる」。異国の地で住む巡礼者らがエルサレム神殿に詣でて礼拝をささげる。彼は万軍の主の都、神殿にあって思い描くのは神が民と共に結ばれた契約であり、神の慈しみ(ヘセド)であり(10節)、右の御手に溢れている正義(ツェデカー)」であり(11節)、そして華やかに着飾ったユダの乙女ら=ユダの町々の人々が、喜び踊る有様である(12節)。
  13節「シオンの周りをひと巡りして見よ。塔の数をかぞえ」。巡礼者らは、エルサレム神殿で礼拝を捧げ、賛美して帰途につく。家々で迎える者らにその光景を語り伝える。それは「塔の数」であり(13節)、「城壁…城郭」である(14節)。
  15節「この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と」。神の都にいます主は「死を越えて」直訳「死の上に」アル・ムット)、わたしたちを永遠に導かれるお方である。
  キリスト者はここで、ヨハネ黙示録21章から復活の主、再臨の主を思い描くことが出来る。



いと高き神、畏るべき方

2013-04-11 | Weblog
 詩47篇 
  3節「主はいと高き神、畏るべき方 全地に君臨される偉大な王」(新共同訳)

  2節「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」。王なる神を賛美する詩篇。「即位の詩篇」と呼ばれる。王の即位と比較し、神の創造と歴史支配を重ね合せて賛美し、諸国はこの王に従うように勧める。これは民族主義的展望である。「手を打ち鳴らせ…叫びをあげよ」は歓喜の表現で、王の即位に際してよく行われた(サムエル記下15章10節)。王が凱旋する時などに叫ぶことがある(歴代誌下2章14節)
  3節「主はいと高き神、畏るべき方 全地に君臨される偉大な王」。直訳「全地の上の偉大な王」。王なる神の支配を告げる。9節でも繰り返される。ヨシャパテ王の時代にモアブ軍の攻略を受けたが、それに賛美で勝利したことが書かれている。賛美は勝利である(歴代誌下20章1~4、20~24節)。王なる神は国々をイスラエルの足元に置かれた(4節)。そこを嗣業の地とし、麗しい土地で、ヤコブの誇りとして民に与えられた(5節)。山岳地帯であるが、そこにエルサレム神殿が建っていることをイスラエルの誇りとするのである。
  6節「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる」。再び賛美を呼び掛けられる。王のエルサレム入城の有り様であるが、かつてペリシテに奪われた神の箱を取り戻したダビデが角笛を吹き鳴らしてエルサレムに担って入いる情景が重ね合わされている(サムエル記下6章12~14節)。この時主なる神は天に上られていることを思うのである。この時「神をほめうたえよ、ほめうたえよ、われらの王をほめうたえよ、ほめうたえよ」(口語訳)と、4回繰り返されている(7節)。
  8節「神は、全地の王 ほめ歌をうたって、告げ知らせよ」。直訳「全地の神は王、歌え、マスキールを」であるが、「マスキール」は岩波訳「巧みな歌」。各詩の表題に多く出てくる(45篇1節)。
  10節「諸国の民から自由な人々が集められ アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる」。「アブラハムの神の民となる」は創世記12章2~3節の言葉と結びつき、神の祝福の約束が、すべての民に実現することを表している。

  すべてのキリスト者は、主イエスによってアブラハムの子となる(ガラテヤ 3章6~29節、ローマ4章16~17節)。




心に湧き出る美しい言葉

2013-04-09 | Weblog
  詩45篇 

  2節「心に湧き出る美しい言葉 わたしの作る詩を、王の前で歌おう。わたしの舌を速やかに物書く人の筆として」(新共同訳)

  1~2節「指揮者によって。「ゆり」に合わせて。コラの子の詩。マスキール。愛の歌。心に湧き出る美しい言葉 わたしの作る詩を、王の前で歌おう。わたしの舌を速やかに物書く人の筆として」。10節まで王に対する語り掛けである。「愛の歌」とは宮廷の詩人が、王の結婚に対して捧げた歌である。「愛」(イェディドット)はヘセドではない。これを比喩的に解釈して王をメシア、花嫁をイスラエルとみなした。同じ比喩的解釈は、雅歌にも見られる。「心に湧きでる美しい言葉」とは、動きが止まらないことで、自分の舌が書記の筆のように流暢に動くのである。
  3節「あなたは人の子らのだれよりも美しく あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方」。第一に、王が人として優雅で魅力的である。第二に勇士としての能力を称賛する(4~6節)。腰の剣は栄と輝き、矢は鋭く敵陣で諸国の民を倒す。「栄えと輝き」は口語訳「威光と尊厳」である。第三は王の安定した支配の保証を示す(7~8節)。「王」を神と呼ぶところからメシア預言としてヘブライ1章7~8節に引用されている。「あなたの王権の笏は公平の笏」。口語訳「王の杖は公平の杖」。王は笏を右手に持って審判を下す(エステル4章11節参照)。
  8節「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに 神、あなたの神は油を注がれた喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で」。「従うことを愛し、逆らうことを憎む」は口語訳「あなたは義を愛し、悪を憎む」(7節)となっている。王なる神の本質を表わしている。
  9節「あなたの衣はすべてミルラ、アロエ、シナモンの香りを放ち、象牙の宮殿に響く弦の調べはあなたを祝う」。「ミラル」は没薬でアラビヤ産の樹脂。「アロエ」はインド産で芳香を放つ。王の着衣と宮殿に響く弦の調べを詠う。「オフィルの金」列王記上9章27~28節、ヨブ記22章24節28章16節。
  11節「娘よ、聞け。耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ」。新しい女王に対する勧めである。外国の出身であろうと思われる。その民と父とを忘れて、夫に全き献身をすることを勧める。この失敗例がある(ソロモン、アハブetc)。「ティスルの娘よ」。口語訳「ツロの娘」フエニキヤの都市国家、富み栄えていたイスラエルの隣国。花嫁が王宮に輿入れをする有り様を描く(13節)。最も美しく高価な衣を来た王妃は侍女を連れて、王の宮殿に行進する(14~15節)。侍女らは喜び喜んで導かれ、宮殿に入る(16節)。
  17節「あなたには父祖を継ぐ子らが生まれ、あなたは彼らを立ててこの地の君とする」。詩人は今や未来の祝福、父の栄誉をもとらす名声の高い息子たちを予期し、その名が諸国の中で代々語り伝えられるであろうと賛美する(18節)。
  この詩篇は、王と王妃との婚宴の祝い歌であるが、王妃は王を誉め称える側に置かれる。その威光と讃美を捧げるという点で、キリストの教会も「花嫁」としてその使命を与えられている(第二コリントへの手紙11章2~3節see)。