日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

ペトロの説教

2006-03-31 | Weblog
 使徒言行録2章は五旬祭の日の出来事である。
 エルサレムのある二階座敷に集まっていた120名程の群に突然聖霊が降り、異言を語り始めた。そして中心人物の弟子ペトロが周囲に集まっていた群衆に説教を始める。これは異言ではない。ここに、使徒言行録に記される最初の説教がある。
 パンチの効いた説教は聖霊によらないでは、ペトロにとって不可能に近い出来事だ。
 この説教を聞いて心打たれ、罪の赦しの悔い改めが起き、洗礼を受けて三千人ほどの仲間が誕生した。
 現代では「集団改心」というのであろう。
 しかし、この三千人はヒステリー状態ではない。ひとりひとりが自覚的に覚めた言動をした。
 42節「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。
 ここにキリスト教会の原型がある。
 しかも、爆発的なエネルギーが秘められている。それが47節の「主は救われる人々を日々仲間を加え」で証明される。
 ここで現代の教会を想う。
 リバイバルとはこのようなことであろう。
 祈らずにおれない者にされた。
 

弟子マティア

2006-03-30 | Weblog
 イエスを裏切ったユダの欠員を補充し12弟子とする記事が使徒言行録1章にある。その人物がくじで当たったマティアである。
 その選考に注目させられた。
 21~22節「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
彼はこの条件を満たす人物だった。
 くじ引きというと世俗的な方法で、余り感心しないが、箴言に人は籤を引くが定めるのは神であるという言葉があった。
 この箇所はあみだ籤ではない。二人の中から一人を選んだ。
 ペトロたちの心境はどうだったのか。選ばれたマティアと、はずれたバルサバはどうだったのか。
 渡辺善太は、聖霊が降る前の出来事で籤引きは最後だったと言っている。そうかも知れない。
 明確なことは、12が完全数であること。
 12人という充足した弟子がキリスト共同体=教会の基礎になることであり、欠員のままでは駄目だったのだ。 
 彼の名はこの他に聖書には出てこない。
 マティアでありたいと今朝は思った。
 (写真 ブヌン族男性八部合唱 8音階で讃美は有名)
 
 

オンリーワン

2006-03-29 | Weblog
 最近number oneとonly oneということばを使い分けることがある。
 何でも一番になろうとする競争原理ではなく、他と比較しないで、かけがえのない存在ということである。
 もう一つ大切なのは、それをだれが認めるのか。
 ヨハネ福音書21章にあるペトロは主イエスから、only oneの自覚を持つよう促されている。
 イエスを愛すること、従うこと、イエス御身に対してである。
 15節「この人以上にわたしを愛しているか」
 22節「あなたは、わたしに従いなさい」
 人は、イエスからかけがえのない者として認められて生涯を生きる、そこに慰めと勇気がある。
 (写真 ブヌン族の人形とN氏)   

見て信じる

2006-03-28 | Weblog
ヨハネ福音書20章より、復活の主イエスとの出会いが三場面でている。
 マグダラのマリア、弟子たち、そしてトマスである。それぞれ意味深く黙想する。
 特に20節「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」
 「そう言って」は19節のあなたがたに平和があるようにという呼び掛けである。これは今日でもユダヤ社会で交わすシャロームであるが、日常の言葉ではなく真実な意味を込めた挨拶であろう。
 留意したいのは、手とわき腹を見せたことである。これは十字架上での釘跡と槍で刺された傷跡だが、イエスが死んで復活した事実を証明するものだった。トマスは弟子たちと対等の証言者になる為の当然な言動だった訳だ。
 見ていないが、見る者にしていただいた十字架と復活の証言者。
 わたしもトマスと同じでありたいと思う。
 
 
  

エッケ・ホモ

2006-03-27 | Weblog
 ヨハネ福音書19章はイエスの十字架と葬りである。
 示されたのは5節「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。」
 口語訳では「見よ、この人だ」であった。むしろ「この人を見よ」が自然な表現である。
 茨の冠、葦の棒、紫の服のイエス
 ピラトは「ユダヤ人の王」にこだわり、祭司長たちはローマ皇帝の他に王はいないと否定し、地上の王ではない王の威容でイエスが裁判席の前に立っている。
 この王なる方の前に、わたしは平伏す。
 中世の画家はこの場面を画いて「エッケ・ホモ」(ラテン語)と題をつけている。
 ルオーの絵は有名である。しかし茨の冠をつけたイエスの顔だけでは、王の威容は判らない。
 愛唱する賛美歌121番4節 由木康作詞「この人を見よ」を思う。

目標に生きる

2006-03-26 | Weblog
 今朝の旧約通読ヨシュア記14章にカレブが出ている。
 彼はカデシュ・バルネアでの偵察員12人のひとりで、ヨシュアと共に神の約束通りカナン侵入を報告し進言した。しかし民はこれを退けて荒野40年の彷徨となった。
7~9節にその時のことをカレブは述べている。
 彼は以来45年間、神の約束を抱き続けてヨルダンを渡り、今土地分配に際して告白する。
 10~11節「御覧ください。主がモーセにこの約束をなさって以来四十五年、イスラエルがなお荒れ野を旅した間、主は約束どおりわたしを生き永らえさせてくださいました。今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。」
 信仰に生きる老人パワーである。
 目標に生きることが、いかに重要か。
 嗣業の土地はヘブロンだった。エルサレムから東30キロ。聖書地史によればここは色々な舞台になっている。
 ダビデが7年間王位についた場所である。
 新約に生きる者として思うのは、フィリピの信徒の手紙3章にある上なる賞与を目指して進むことである。 
 (写真 台湾基督長老梅蘭教会の若者たち) 
 

十字架は栄光

2006-03-25 | Weblog
 ヨハネ福音書17章は、イエス祈りの章である。他の福音書ではゲッセマネの祈りの箇所となるが、趣きが大きく違う。
 5節「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」
 この栄光とは何か。
 よく読んでみると、既に表わした栄光と、これから表わす栄光と二つの表現がある。父の許から地に来て表わした栄光と、父の許に行く栄光であろう。
 これはイエスの十字架を指している。十字架は栄光である。
 十字架上のイエスの最後の言葉がよく判る。
 19章30節「成し遂げられた」。これはいろいろな言葉に翻訳されている。
 芥川竜之介のイエス理解と全く違うことは明らかだ。
 (写真 台湾 霞む新高山)
 

 
 

和解

2006-03-24 | Weblog
 旧約聖書ヨシュア記の通読で、今朝は9~10章。
 ここにギブオン人のことが出ている。エルサレムから10キロ程西の丘陵地帯で貯水池があり小麦、オリーブ、ブドウが栽培され、食糧の宝庫と思われる。
 神の命令は他民族をすべて滅ぼす筈だったが、偽装工作で彼らはヨシュア軍と和睦した。契約を交わしたので、ヨシュアは裏切ることは出来ない。そこでギブオン人は奴隷的身分で服従することになる。
 27節「ヨシュアは、その日、彼らを共同体および主の祭壇のため、主の選ばれた所で柴刈りまた水くみとした。それは今日まで続いている。」
 彼らが祭壇に必要な柴刈りの仕事と水汲みをするとはすごいことだ。
 ギブオンの地名は、この後何回も聖書に登場する。
 ここで黙想する。
 争そいは自然を破壊する。しかし和解は自然と生命を保つ。
 和解は恥ではない。決断であり、解放である。
 新しい創造である。
 聖書は和解の道を明らかにしている。
 レントに一層このことを示される。
(写真 ブヌン族の若者が小熊(剥製)を収猟し村民に告げる模様を演じた) 

 

ぶどうの木と枝

2006-03-23 | Weblog
ヨハネ福音書15章に、ぶどうの木と枝の状態から、イエスは「つながっている」ことを繰り返し求めている。4節には四回もある。
 「 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」
 木と枝は一体で、切り離すことが出来るのは農夫だ。
 するとつながっている状態は、こちら側=わたしたちは100パーセント受容されていることになる。
 イエスと一つの生命共同体。
 16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び……」という意味もよく分かる。
 キリスト者は、このような状態である筈だ。しかし実際は?
   

父、子、聖霊

2006-03-22 | Weblog
 「三位一体」というキリスト教用語がある。政治家が安直にこれを引用しているが、それは薄っぺらな用い方である。
 ヨハネ福音書14章26節から、その意味が理解できる。
 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
 これは、16節にも記されている。
 ここでは、聖霊が弁護者だとある。この原語はいろいろ翻訳されるようだ。
 文語訳を読んでいた時は「慰め主」であった。口語訳は「助け主」。英語ではHelperである。これは日常よく使われる言葉で、聖霊がヘルパーという生き方は何と心強いことだろう。
(写真 ブノン族の店)
 
 

洗足

2006-03-21 | Weblog
 ヨハネ福音書13章はイエスが弟子たちの足を洗われたところであるが、これは最後の晩餐場面と思われる。他の三つの福音書とは趣きが違っている。
 主人が従僕の足を洗うという新しい秩序を示している。逆転である。
 ここで8節の言葉を黙想する。
 「ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
 この時のペトロの言葉から、上下関係、権威主義、競争原理を連想する。
 そのような生き方が絶えず出てくる。
 この時イエスが明確にされたのは、14節と34節である。
 互いに足を洗う。互いに愛し合う。
 それを実現するために、十字架の道を歩まれた。
 レントを迎えているが、これを証ししていけるよう祈る。
 先月台湾を訪問した時目にしたモニュメントを思い出している。
 (写真 ブヌン族梅蘭教会前にあるモニュメント)

真っ赤な紐

2006-03-20 | Weblog
 今朝の旧約通読はヨシュア記であったが、エリコ城攻略のために二人の斥候が送られる。これを手引きしたのが遊女ラハブであった。二人が情報を得て無事に脱出する時のことが18節にある。
 「我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。」
 神はカナンの地に侵入した時に最初に救いを与えたのは異邦の賎しい一人の女性だった。ヨシュア記には異民族を全滅して占領する記事として知られているが、ここに例外があった。
 マタイ福音書1章にラハブの名が出てくる理由も、ここにあるのだろうか。
(写真 ブヌン族の工芸品)

復活

2006-03-19 | Weblog
ヨハネ福音書11章25節
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」
 ラザロの死が4日も経って臭うという。しかしイエスは「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫び、彼は出てきた。この有様に周囲の誰も驚いた。
 最高法院はこのままなら、人々がイエスを信じ、その結果我々の神殿もイスラエルという組織もなくなると言っている。
 ラザロの出来事は、一粒の麦(12章24節)としてやがて死に渡されるイエスの業を証言する。
 この復活の出来事は、イエスご自身によって証明されて、復活信仰を証しする新しい民が起きた。それがキリスト教会である。
 (写真 玉山の梅の木)

巣立ち

2006-03-18 | Weblog
今朝の旧約聖書通読は申命記31~32章である。特に示された箇所
 申命記32章11~12節
 「鷲が巣を揺り動かし 雛の上を飛びかけり 羽を広げて捕らえ 翼に乗せて運ぶように、ただ主のみ、その民を導き 外国の神は彼と共にいなかった。」
 口語訳では「わしがその巣のひなを呼び起し」となっている。
 崖の上で親鷲が巣にいる雛を飛立たせようとしている情景が浮かんでくる。不安と危険に身を屈めている雛は親の広げている翼の上に落ちる(跳ぶ)。
 ここから新しい出発が始まる。巣立ちである。
 いま巣立ちを迎えている若者がいるが、それを大きな翼を拡げて受け止めてくれるものが居るか。それが無いと、巣立ちは出来ない。出来ても羽の力が弱く、奈落の谷に落ちる危険がある。
 巣立ちの時は、人それぞれ異なるが、人生の重要な転換点(turning point)である。わたしは、この巣立ちの時に聖書を手にし、教会に導かれた。今もその時のことを忘れない。

見えると言い張る

2006-03-17 | Weblog
ヨハネ福音書9章は生まれつきの盲人をいやす記事で、きわめてドラマティックである。何幕になるだろう。
 最後の場面が一番盛り上がる。
 41節「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。後半は口語訳がよい「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
 8章12節と同じテーマで、イエスは「わたしは世の光である」(5節)とこの男に告げて目を癒された。したがって見える者とは、この光なる方を受入れることである。視力の問題ではない。
 敷衍(ふえん)すれば、自分のことは何でもわかっていると言い張って生きる処に暗闇がある。そんな不自由な生き方から救われるのである。
 (写真 ブヌン族の踊り)