日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

必ず実現することば

2010-01-31 | Weblog
 エゼキエル12章 
 
  1~7節 荷物を運び出す象徴行為
 3節「…人の子よ、あなたは捕囚の荷物を造り、白昼彼らの目の前で捕らわれの身となって行きなさい。…他の場所へ、捕らわれの身となって行きなさい」。エゼキエルは白昼住民の目の前で捕囚の荷物を運び出し、夕方壁に穴を開け、暗闇の中、担いで運び出す(4~7節)。

  8~16節 象徴行為をイスラエルの首長とイスラエルの家に伝える。
 11節「あなたは言わねばならない。『わたしは、あなたたちのためのしるしである。わたしがやって見せたようなことが、彼らに起こる。彼らは捕囚として、捕囚の地へ行く」。壁の穴から出て行くのは、正門から堂々と出て行けない捕囚の状況を表す。手で穴を開けるとは大変なことだ。緊急で道具を手にすることができないからである。
 12「彼らの中の首長も、暗闇の中で荷物を運び出し…」。これはゼデキヤの捕囚を示している。
 14節「わたしは、彼を取り巻くすべての従者と軍隊とを、四方にまき散らし、剣を抜いてその後を追う」。四方にまき散らすとは、バビロン捕囚だけでなく、エジプトなど国外の逃亡である。

  17~20節 バビロン襲来の恐怖
18節「…震えながらパンを食べ、恐れ、おびえながら水を飲め」象徴行為である。
19節「…民に言いなさい。彼らはおびえながらパンを食べ、硬直した様で水を飲むようになる。その地が住民すべての不法のゆえに、地を満たしていたものを失い、荒れ廃れるからである」。 町の荒廃が告げられる。

21~28節 二つの論争の言葉
22節「…『日々は長引くが、幻はすべて消えうせる』という諺は何か」。エゼキエルの告げる幻は消え失せると、気休めに占い師がいう。これに対して
23節「…主なる神はこう言われる。『わたしはこのことわざをやめさせる。彼らは再びイスラエルで、このことわざを用いることはない』と」。かえって彼らに『その日は近く、幻はすべて実現する』と告げるのである。決して主の言葉は引き伸ばされることはない(25節)。次に
 27節「イスラエルの家は言っているではないか。『彼の見た幻ははるか先の時についてであり、その預言は遠い将来についてである』と」。彼らの楽観論である。しかしそれは違う。
28節「主なる神はこう言われる。わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される」。

「主の言葉がわたしに臨んだ」(1、8、17、21、26節)が繰り返されるのは、預言の確実性を強調しているからだ。イザヤの言葉が示される(55章11節)。創世記1章に「神は言われた。…そのようになった」とある通り、聖書はこれで一貫している。

石の心を除き肉の心を与える

2010-01-30 | Weblog
エゼキエル11章 

 1~13節 神の裁きの宣言
 1節「霊は…わたしを…神殿の東の門へ運んで行った。門の入り口に二十五人の男がおり、その中に民の指導者アズルの子ヤアザンヤと、ベナヤの子ペラトヤがいるのをわたしは見た」。彼らは民の指導者で、神の審判が告げられるべき者たちである。
 3節「彼らは、『家をすぐに建てる必要はない。この都は鍋で、我々は肉だ』と言っている」。人々が当時口にした聖都不落説である。主はこの過信に対して確かに都は鍋だが、その肉とは積み上げられた死体の山だと告げる(7節)。剣を逃れた者もイスラエルの国境(リブラ)で捕らえられ裁かれる(10節)。 
 これが主の宣言であることを、繰り返して強調している(5、7、8、10、12節)。
 12節「…お前たちはわたしの掟に従って歩まず、わたしの法を行わず、かえって周囲の国々のならわしに従ってきた」。周囲の国々の法に従い、神の法に従わなかったことが主の審判の理由である。
 13節「わたしが預言していると、ベナヤの子ペラトヤは死んだ。…」。エゼキエルと指導者らは目前でペラトヤ(“残りの者を救う”という意味)の死の事実を見る。

 14~21節 捕囚の民に対する主の宣言
 15節「…エルサレムの住民は、…あなたの親族である兄弟たち、…イスラエルのすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている』」。捕囚されないでエルサレムに残留していた者らが、ここは自分たちの所有だと主張している。それが違うことはペラトヤの死で明らかだ。
確かに主はイスラエルを捕囚の民としてバビロンに送った(16節)。しかし彼らに次の事が約束されている。
 先ず「わたしは彼らの為にささやかな聖所となる」(16節)。
 第二に「再び呼び集められた土地では全ての偶像は取り除かれる」(18節)。
 第三に「彼らの石の心を除き、肉の心を与える」(19節)。
 第四に「彼らは主の掟に従って歩み、主の法を守り行う」(20節)

肉の心とは何か。「一つの心をあたえ、彼らの中に新しい霊を授ける」とある。これを知る手掛かりは詩51編にある。それは
「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(12節)。「神の求める生贄は、打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」(19節)である。

 悔い改めなくしては与えられることはない(21節)。

神の慈愛と峻厳

2010-01-29 | Weblog
エゼキエル10章 

 「翼を持つ四面体の生き物」が再び神殿に現れる幻
 1節「主は亜麻布をまとった者に向かって言われた。『ケルビムの下の回転するものの間に入れ。そして、ケルビムの間にある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らせ』と。彼は、わたしの目の前で入って行った」。亜麻布をまとった者とは、9章の腰に墨入れを着け、額に印をつけた者である。既にケルビムの上に留まる神の栄光が彼に現われていた(3節)。今度は彼に「ケルビムの間にある燃える炭火」を取ってエルサレムの都にまき散らせと命じた。
 4節「主の栄光はケルビムの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、庭は主の栄光の輝きで満たされた」。「ケルビム」は列王記上6章23節以下に出てくる。神殿建設の時二体が設置され、神の栄光を表す象徴であった。ここでは四体として車輪の上に翼を張って現れた。
 5節「ケルビムの翼の羽ばたく音は外庭にまで聞こえ、全能の神が語られる御声のようであった」。羽ばたく音の中から神の御声を聞き分けて、男は命じられた炭火を取ろうと車輪の傍らに立つと、ケルビムがそれを取って彼の両手に置いた(7節)。

 8~17節 ケルビムについての詳述
 13節「それらの車輪は「回転するもの」と呼ばれているのが、わたしの耳に聞こえた」。口語訳「その輪はわたしの聞いている所で、『回る輪』と呼ばれた」。岩波訳「それらの車輪はわが耳にガルガルと聞こえた」。車輪はヘブライ語ガルガル(直訳)である。
 14節「ケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、そして第四の顔は鷲の顔であった」。これは1章のケバル川のほとりで見た異象(幻)と同じ生き物であったことをエゼキエルは思い出す(15節)。そこでは「牛の顔」であったが、「ケルビムの顔」となっている。

 18~22節 ケルビムが移動し主の栄光が神殿を去る
 19節「ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、わたしの目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まった…」。最初は神殿の南側中庭にあった(3節)。しかし東門の入口に移動した。そこは神殿の正面の門である。ケルビムと共に神の栄光は都を離れて行こうとしている。

  ここでローマ11章22節が示される。口語訳「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。」

額に印をつける

2010-01-28 | Weblog
 エゼキエル9章 

  6人の男が神殿を破壊する道具を持って登場する幻。
1節「彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ」。北の門から腰に墨つぼを着けた六人の男が来て青銅の祭壇の傍らに立った(2節)。
 4節「主は彼に言われた。『都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。』」作業が行われるが、老人も若者も、おとめも子供も人妻も額に印を付けていない者は殺されることになる。慈しみの目を注いではならない、憐みをかけてはならないと告げられる(5~6節)。
 そして11節に腰に墨つぼを着けた者らの作業が終わったと告げている。
 結局額に印(ヘブライ語タウ)を付けられた人々は、滅ぼし尽くされなかった者であり、エルサレムの罪を嘆き悲しんでいるのである。つまり5、10節から神の慈しみと憐れみのゆえに残された少数者ということになる。8章18節にも出ていた。
 
 額の印タウは、アルファベットの最後の字で、罪を嘆き最後まで身体を捧げて生きるという事を示唆する。律法(トーラー)の綴りの初のタウから律法によって生きる者ともいわれる。

 ヨハネ黙示録7章3~4節に、イスラエル12部族から一万二千人の数14万4千人の額に刻印が押されて残されるということが出ている。

 パウロの場合はイエスの焼き印だった(ガラテヤ6章17節)。

 激怒される神

2010-01-27 | Weblog
エゼキエル8章 

 エルサレムの偶像礼拝
 1~4節 エルサレムに運ばれる   
 1節「第六年の六月五日のことである。わたしは自分の家に座っており、ユダの長老たちがわたしの前に座っていた…」。これは彼の召命(1章1節)から一年後=紀元前592年頃となる。
 3節「彼が手の形をしたものを差し伸べて、わたしの髪の毛の房をつかむと、霊は…幻のうちにわたしをエルサレムへと運び、北に面する内側の門の入り口に連れて行った。~」。エゼキエルが自宅に座していると超人的な手が髪をつかんでエルサレム神殿に運ばれるという幻である

5~6節 激怒を招く像
5節「彼がわたしに、『人の子よ、目を上げて北の方を見なさい』と言ったので、北の方に目を上げると、門の北側に祭壇があり、入り口に…激怒を招く像があるではないか」。口語訳「…妬みの像があった」。岩波訳「…嫉妬の像があった」。

7~13節 壁に彫り込まれた甚だしい数の偶像
8節「彼がわたしに、「人の子よ、壁に穴をうがちなさい」と言ったので、壁に穴をうがつと、そこに一つの入り口があるではないか」。彼は庭の入口に連れていかれ壁に穴があるのを見る。そしてその穴をうがてと命じられ、穿つと入口があり、そこに入れと言われた(7~9節)
 10節「入って見ていると、周りの壁一面に、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれているではないか」。その前でイスラエルの長老七十人がヤアザンヤを中心に香炉を手にしていた(11節)。この忌まわしい偶像礼拝を行うイスラエルを主は遺棄される(12節)。

14~15節 神殿の北面の門で女たちのタンムズ神礼拝
14節「彼はわたしを、主の神殿の北に面した門の入り口に連れて行った。そこには、女たちがタンムズ神のために泣きながら座っているではないか」。タンムズ神とはシュメール神話にある豊穣男神で、女神イシュタルと対になり、草木が枯れる夏に黄泉にくだるのを悲しむ儀式である。

16~18節 神殿内の聖所で25人程の太陽礼拝
16節「彼はわたしを主の神殿の中庭に連れて行った。…主の聖所の入り口で、廊と祭壇の間に、二十五人ほどの人がいて、主の聖所を背にし、顔を東に向けていた。彼らは東に向かって太陽を拝んでいるではないか」。二十五人は祭司と思われる。聖所を背にして太陽礼拝におぼれている有様。 

北門の祭壇から、次に庭の入り口の壁に穴を開けて壁面、神殿の北入口、神殿の中庭へと引き回され、夥しい偶像を見せられる。預言者エゼキエルは神殿で「邪悪で甚だ忌まわしいことを見る」(6、9、13、15、17節)のである。
5節「激怒を招く~」とあるが、この激怒(キナーハ)は、モーセの十戒・第二戒「わたしは熱情の神」の熱情と同じ原語(出エジプト記20章5節)である。ここで偶像礼拝に対する神の激怒が示される。

終わりが来る、終わりが来る

2010-01-26 | Weblog
エゼキエル7章 

1~4節 終末の宣言
2節「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりが来る。地の四隅に終わりが来る」。新改訳「『もう終わりだ。この国の四隅にまで終わりが来た』」。これは緊急性を示す絶叫的な叫びである。これが、本章では10回も繰り返されている(2節=2回、3節、6節=4回、7節、10節、12節)。
3節「今こそ終わりがお前の上に来る…わたしは怒りを送り…裁き…忌まわしいすべてのことをお前に報いる」。終わりを告げるのは偶像礼拝の故である。

5~9節 災いが続く
5節「主なる神はこう言われる。災いに続く災いが来る」。災いは終わりの具体的な状態を表す。
6節「終わりが来る、終わりが来る、終わりの時がお前のために熟す」。終わりの叫びが連呼される。それは大混乱の日で山々には喜びの声が絶える(7節)。
9節「わたしは慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。…」。神の深い慈しみも、豊かな憐れみはもはや無い(5章11節)。

10~14節 審判の緊急性と不可避性
10節「見よ、その日を。今やその日が来る。順番が巡って来る。王杖に花が咲き、傲慢の芽が萌え出た」。岩波訳「不法が花咲き、うぬぼれが芽生えた。暴虐が起こり、邪悪の杖となった」。王杖(マッテハ)を不義(ムッテハ)と読み替え、ここではバビロンの王ネブカデネザルを指しているようだ。終りの時の表現である。
11節「…彼らの騒ぎも残らず、嘆きの声すら絶える」。破滅の激しさを示す。
13節「…群衆に対する審判の幻が、撤回されないからだ。罪のゆえに、誰一人命を保つことはできない」。審判の不可避性である。戦いの角笛を吹いても誰も出る者はいない(14節)。

15~19節 災禍を避けることはできない
16節「たとえ、逃れた者たちがのがれて山に行っても、皆、おのおのの自分の罪のゆえに谷間の鳩のように嘆く」。疫病と飢饉と外敵から逃れることはできない(17~19節)。

20~22節 美しい飾りも戦利品として敵の手に渡す
23~24節 民は鎖につながれて捕囚の民となり、国は荒廃する

25~27節 国に恐怖が襲う
25節「恐怖が臨む。彼らが平和を求めても、どこにもない」。この悪い知らせに、彼らが預言者に幻を求めても得られず、祭司から律法は失われ、長老には助言はない(26節)。王は嘆き、君候たちは恐怖にとらわれ、民の手は恐怖に震える(27節)。
 これでもかこれでもかと徹底して終末を告げる。「末期症状」(元訳5節)である。
罪が赦されるのは神の奇蹟である。イザヤ1章18節、第1ヨハネ2章2節を読む。

手をたたき、足を踏みならす

2010-01-25 | Weblog
 エゼキエル6章 

偶像礼拝に対する神の審判
2節「人の子よ、顔をイスラエルの山々に向け、それに向かって預言して言え」。イスラエルの山と丘、川と谷の処々方々に設けられていた異教の祭壇や聖木、香炉台を破壊する預言である(3節)。
5節「私はイスラエルの人々の死体をその偶像の前に置き、お前たちの骨を祭壇の周りにまき散らす」。殺された死体をまき散らすことは、偶像を塵灰に等しいものとして侮蔑し、荒廃させる手段となる。そこは死体の山と見なされる。

9節「お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像にひかれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる」。口語訳「…その犯した悪のために、みずからをいとうようになる」。捕囚の民として引かれて行ったバビロンの地で、この偶像礼拝のゆえに神がイスラエルになした悪を思い出し、心砕かれ深く後悔するようになる。

11節「主なる神はこう言われる。手をたたき、足を踏み鳴らして、イスラエルの家の忌まわしいすべての悪事を嘆け。彼らは剣と、飢饉と、疫病によって倒れるからだ」。これは嘆きと悲しみの感情表現、幼児が手と足をばたばたさせて泣き叫んでいるのと同じで、イスラエルの民は神の怒りに身を震わせるようになると、告げられる。

14節「わたしは彼らに向かって手を伸ばし、この地を荒廃させ、荒れ野からリブラに至るまで、彼らが住むすべての地を荒れ果てたところとする。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる」。疫病と飢饉と戦禍によってイスラエルからリブラ(エレミヤ52章9~10節see)までの広い範囲まで荒廃するという。それによって「わたしが主である」ことを知るのである(7、10、13、14節)。
 
  広場で笛を吹き踊ったり泣いたりして葬式ごっこをする子供たちのことがマタイ福音書に出てくる(11章16~17節)。この嘆きと悲しみのパフォマンスを笑って済ます訳にはいかない。10節にその理由を知ることが求められている。

 最近テレビで若いお笑い芸人たちが、あれこれギャグやパフォマンスで笑いを誘う番組が非常に多い。テレビのチャンネルを回すと目と耳を奪われて、一時の苦しみや辛さを忘れさせるのであろう。しかし社会や世界の情勢は笑ってすまされないのではないか。いまに地団駄を踏む時が来るかも知れない。
主イエスはすべての人に色々な譬を用いて「目を覚ましていなさい」と警告している(マタイ福音書24~25章see)。

熱情と妬み

2010-01-24 | Weblog
  エゼキエル5章 
 
  本章も象徴行為 
  1~4節 頭髪とひげを剃り落とす
1節「人の子よ、あなたは鋭い剣を取って理髪師のかみそりのようにそれを手に持ち、あなたの髪の毛とひげをそり、その毛を秤にかけて分けなさい」。髪の毛とひげは男の誇りで、それを剃り落とす行為は辱めること(サムエル下10章4~5節see)。三等分した髪の毛の一つは都の中で燃やし、一つは都の周りで剣をもって打つ。今ひとつは風に乗せて散らすようにと告げられた(2節)。
  更に少しを着物の裾に包み、幾らかを火に投じて燃やす(3節)。

  5~17節 象徴行為の意味を解く
  6節「…この都はそれらの国々よりも、いっそうわたしの裁きに逆らい、…激しくわたしの掟に逆らった。…わたしの裁きを拒み、わたしの掟に従って歩もうとしなかった」。エルサレムに対する神の怒りを告げる。それは「裁き」(ミシュパート)に逆らい、「掟」に反する態度をとったからだ。それ故に今まで行ったこともなく、再び行うこともない忌まわしいことが起こる(9節)。
  新共同訳は7節から、「お前たち」に告げると人称を変えている。
  12節「お前の中で三分の一は疫病で死んだり、飢えで息絶えたりし、三分の一は都の周りで剣にかけられて倒れ、残る三分の一は、わたしがあらゆる方向に散らし、剣を抜いてその後を追う」。この結果、エルサレムは廃墟となり、周囲の国々から嘲りの的となる(14~15節)。悲惨な飢えが襲い、「親が子を食べ、子が親を食べる」(10節)。
  17節「わたしは飢えと狂暴な獣をお前たちに送り込み、子供たちを奪わせる。疫病と流血はお前の中を通り抜ける。またわたしは剣をお前に臨ませる。主なるわたしがこれを告げる」。 飢えと疫病という神の怒りと憤りと激しい懲らしめの裁きは徹底的だ。その鋭い裁きにたじろぐばかりだ。

  申命記28章53~57節にも、飢えと困窮が神の呪いとして書かれている。これは弱肉強食、肉食動物に見られる世界。一時の飢えを満たす本能、限りある生の執着。

  これに厳しい審判の矢を射るお方は「わたしは生きている」(TEV I am the living God)と告げ(11節)、そして「熱情をもって語ったということを彼らは知るようになる」(13節)。口語訳「…主であるわたしが熱心に語ったことを知る」。NJK…and they shall know that I, the Lord, have spoken it in My zeal。

  神の熱情を知るとあるが、この熱情(キナハー)とは「激しく燃える心情」を示し「熱心」「熱意」「妬み」とも訳される。因みに英訳は「妬み」である。出エジプト20章5節、24章14節、イザヤ36章32節に出てくる。エゼキエルはこれを「怒りと熱情」としてしばしば語っている(16章38節、36章5~6節、23章25節、38章19節)。

Body Language

2010-01-23 | Weblog
 エゼキエル4章
 
  三つの象徴行為 本書には十二回ある。

  1~3節 粘土板にエルサレムの略図を描き鉄壁で囲う
1節「人の子よ、れんがを一つ取って目の前に置き、その上に都であるエルサレムを刻みなさい」。鉄筆で描き、鉄の板で囲い、この都が包囲される象徴的なしるしとした。鉄の壁は神の審判の厳しさを示す。

  4~8節 横臥して苦悩を経験する
4節「左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい…」。その日数は三百九十日で、一日は一年を示す。左は北王国を指す。ソロモン神殿奉献から破壊までの期間と考えられている。
  5節「次に右脇を下にして横たわり、ユダの家の罪を四十日間負わねばならない。…それをあなたに課す」。この期間腕をまくりあげ、エルサレムに向かって預言する。また縄で縛られて寝返り出来ない状態となる(7~8節)。南王国であり、捕囚期間である。

  9~17節 その期間の食べ物と水の指示、パンの焼き方
  10節「あなたの食べる食物の分量は一日につき二十シェケルで、それを一定の間隔をおいて食べなければならない」。パンの材料も欠乏時の応急にする仕方に決められた(二種を混ぜることは律法で禁じられていたレビ記19章19節)。食べる分量は、二百二十グラム。毎日ではない。エルサレムの窮乏状態を経験する。飲み水の量は二分の一リットルで一定の期間を置く。
  問題はパンを人糞で焼くよう指示された。エゼキエルはこの「汚れたパン」を口にすることが出来ないと訴え、牛糞を用いることが許される(14~15節)。
この結果人々はパンも水も不足し、やせ衰えて犯した罪の深さを経験することになる(17節)。

  預言者エゼキエルは、聞いても見ても認めない罪の頑固さをこの象徴行為で体現して伝えねばならなかった。3章で神の言葉を示す巻物を食べたが、それよりもっと強烈な神の言葉の体現であった。
意思伝達に、Body Language というのがある。エゼキエルの場合は悲しみと苦痛を長期に表わしたBody Languageであろう。これはイザヤもエレミヤも同じであった。

  使徒パウロは、「イエスの焼き印(スティグマ)を身に受けている」(ガラテヤ6章17節)と言っている。彼が福音伝道の最中に受けた迫害の傷を指している。これも一種のBody Languageである。このような事例はキリスト教迫害の歴史は数多くある。


口に見張りを置いてください

2010-01-22 | Weblog
  エゼキエル3章 

  1節「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい』」。2章8節と同じことが繰り返された。エゼキエルは口を開き、神はその口に巻物を入れる(2節)。その巻物には表も裏も「哀歌と呻きと嘆き」の文字が書き込まれてあった(2章10節)。
  3節「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」。新改訳「…わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし~」。象徴行為としては「巻き物を胃袋に入れる」という表現のほうがリアルである。羊などの咀嚼動物を想像させる。すると蜜の味がした。何故か。書かれた神の審判の言葉からすると「腹には苦いが口には蜜のように甘い」ということかも知れない(ヨハネ黙示録10章9節see)。神の言葉は、預言者の口と味を支配しているのである。

5節「まことに、あなたは、不可解な言語や難しい言葉を語る民にではなく、イスラエルの家に遣わされる」。口語訳「異国語を用い、舌の重い民につかわすのでなく…」、新改訳「むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく…」となっている。バビロンの民に語れば彼らは聞くだろうが、イスラエルの民は頑なで聞かない(6~7節)。「鉄面皮」だ。だからわたしはいっそのこと「ダイヤモンド」のように硬くするので恐れるなと告げた(8~9節)。
10節「更に主は言われた。「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい」。神は念を押すようにエゼキエルに伝える。

  12~15節 ケバル河畔の七日間
  14節「霊はわたしを引き上げて連れ去った。わたしは苦々しく、怒りに燃える心をもって出て行ったが、主の御手がわたしを強く捕らえていた」。エゼキエルは背後に主の栄光が轟く音とともに現われ(12節)、1章の時の車輪に乗った翼のある生き物の大きな音を聞いたあと(13節)、霊が彼を捕えて連れ去り、ケバル河畔に行った。そして七日間捕囚の民のところに留まった(15節)。

  16~21節 預言者の務め
悪人に警告したのに悪から立ち帰らない時彼らは死に、その責任は預言者にはない。しかし警告しなかったら、死の責任は問われる(18~19節)。
正しい人に対して不正を行った時死ぬが、預言者が警告しなかったらその責任が問われる。正しい人が過ちを犯さないよう警告し、これを受け入れたなら共に自分の命を得る(20~21節)。

  22~27節 エゼキエルの沈黙
  26節「わたしはあなたの舌を上顎につかせ、ものが言えないようにする。こうして彼らを責める者としてのあなたの役割は終わる…」。神は預言者の口の自由を奪う。「しかし、わたしが語りかけるとき、あなたは口を開く」(27節)と告げる。イザヤ(1章7節)、エレミヤ(1章9節)も同じであった。

  真に語るべきことを語るのは至難である。キリスト者は 詩141篇3節「主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください」と祈らねばならない。

聞いても拒んでも語れ

2010-01-21 | Weblog
  エゼキエル2章
  
  1節「彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」。1章の召命の続き。「人の子よ」は弱さを持つ存在で、エゼキエル書の特徴で多用している(87回)。エゼキエルは語りかける声を聞いた(2節)。
  3節「主は言われた。『人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて…』」。イスラエルを「反逆の家」と呼ぶのも特徴であり、本章だけでも4回ある。この神に背き、恥知らずで強情な民に彼は遣わされる(4節)。
  5節「彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう」。口語訳「彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう」。神の召命は厳しい。「聞いても、拒んでも」神の告げる言葉を語らねばならない。

  6~7節 彼らを恐れてはならない。
  6節「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、…恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない~」。「反逆の家」だからと言って、彼らの言葉を恐れ、たじろいではならない。聴いてくれる人にだけ語ればよい筈だ。これは容易なこと。然し拒む人にも語れと言われる。何故か。それは神の言葉だからだ。

  説教者の姿勢がここにある。
 テモテへの第二手紙4章2節「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」。
TEV 「to preach the message, to insist upon proclaiming it (whether the time is right or not), to convince, reproach, and encourage, as you teach with all patience.」

  8節以下は3章1~3節につながる。

足もとにひれ伏す

2010-01-20 | Weblog
 エゼキエル1章
  
  1節「第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した」。エゼキエルはヨアキン王捕囚の時バビロンに連れて行かれた祭司で、その5年後に召命を受けたという(2節)。

  4~25節 神の顕現の異象
  6節「それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた」。その四つの顔は正面が人、右に獅子、左に牛、後ろに鷲の顔(10節)で、翼の二つは上向き、二つは顔を覆っていた(11節)。生き物は輝き、稲妻のように行動する(13節)。

  15節「…四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた」。車輪の描写が21節まで記される。四面体の生き物は一つの「車輪」の中にあって自由自在に連動する

  22節「生き物の頭上には、恐れを呼び起こす、水晶のように輝く大空のようなものがあった。それは生き物の頭上に高く広がっていた」。輝く大空の描写が25節まで記される。これが神の臨在する大空の舞台設定である。

  26節「生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった」。大空の上の輝く王座におられる主なる神に臨在にふれることになる(27節)。

  28節「わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた」。預言者エゼキエルの召命が示される。それは「ひれ伏した」、「語りかける者があって、…その声を聞いた」ということである。
 
  主からの召命は色々な状況で、目と心を奪われるが、ひれ伏して主のみ声を聴くことである。イザヤもエレミヤも召命の時に幻を見た。

  漁師ペトロがガリラヤ湖畔で召命を受けた時は、大漁の奇蹟体験した後であった (ルカ福音書5章1~11節)。彼もイエスの足もとにひれ伏した。
モーセの場合も同じでる。彼はホレブの山で燃える芝の中から御声を聞いた(出エジプト記3章1~10節)。モーセも拝跪した。

  イスラエル旅行で、エルサレムのモスクに入った時、靴を脱ぎ信徒たちが拝跪している光景を見、彼らの敬虔な姿に学ぶところがあった。

そっ啄同機

2010-01-19 | Weblog
  哀歌5章
 
  主語が「わたしたち」である。
  1~18節 民の嘆き
  1節「主よ、わたしたちにふりかかったことに心を留め、わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください」。受けた嘲りとは嗣業地を失い(2節)、皆の所有だった井戸の水も金を払わねばならない(4節)。
  5節「私たちは軛を負って、追い立てられ、疲れ果てても、休むことができません。」。追い立てられて働かされ、疲れても休むこともできない。
6節「わたしたちはエジプトに手を出し…アッシリアに向かった」。わたしたちの父祖はエジプトを頼り、アッシリアに従属した。この背信行為で、わたしたちは咎を負わされている(7節)。民族的な嘆きである。これが18節まで続く。
  16節「…わたしたちは罪を犯したのだ」。それゆえに心は病み、悲しみで目はかすむ(17節)。

  19~22節 主への嘆願
  20節「なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか」。新改訳「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか」。英訳「Why do You forget us forever, And forsake us for so long a time?」
  21節「主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください」。ここも新改訳「帰らせてください…帰りたいのです。」としている。

  果てしなく見捨てておかれた神から、「帰れ」と呼んでくださるのでなければ立ち帰れない。立ち帰りの実現は、神の側の働きに掛かっているからだ。

 ルカ15章の放蕩息子の譬で、彼は息子としてではなく、飢えを満たすためには雇人の身分でもと願って郷里に帰って行った。その時父親に発見されなかったら「立ち帰り」は実現しなかった。それは迷える羊、失われた銀貨と同じである。

  仏教に「啐啄同機」という言葉がある。「啐啄」とは鶏が卵をつつくことである。この場合、雛が殻を割って出てくる時と雌鶏が卵をつつく時のタイミングが良くなければ、雛は死ぬという意味である。
  「求めよ、そうすれば与えられる」も、求めることを呼び掛けている神の「与えようとしている」慈愛を知らねばならない。
   立ち帰りの実現は、一方的絶対的な神の側の業であるが、決して人はロボットのように創造されたのではない。応答関係に創造されたのである。

明けの明星

2010-01-18 | Weblog
  哀歌4章  

  いろは歌 
  1~10節 エルサレムの悲惨な状況
  1節「なにゆえ…聖所の石が打ち捨てられているのか」。神殿と宮殿の財宝は奪われ破壊されてもうない(2節)。
  3節「山犬ですら乳を与えて子を養うというのに、わが民の娘は残酷になり~」。エルサレムにいる民は餓えてわが子を養うことができない状態である(4節)。
  5節「美食に馴れた者も、街にあえぎ紫の衣に包まれて育った者も塵にまみれている」。新改訳「ごちそうを食べていた者は道ばたでしおれ、紅の衣で育てられた者は、堆肥をかき集めるようになった」。このほうがリアルである。餓えて皮膚は骨に張り付き、枯れ木のようになった(8節)。
 10節「憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きし…食糧としたのだ」。現実にはあり得ない表現となっている。

  11~12節  まり…シオンに火は燃え上がり、都の礎までもなめ尽くした」。都は焼土と化し、敵は城内に侵入した(12節)。

  13~16節 預言者らや祭司らの罪が崩壊の原因
  13節「これはエルサレムの預言者らの罪のゆえ祭司らの悪のゆえだ。エルサレムのただ中に、正しい人々の血を注ぎ出したからだ」。彼らは流した血の汚れで目が見えずエルサレムの街をさまよう(14節)。その汚れは重い皮膚病と同じに扱われる(15節)。
 16節「主は御顔を背け、再び目を留めてはくださらない。祭司らは見捨てられ長老らは顧みられない」。国の指導者たる預言者、祭司、長老の罪と悪は隠れようもない。

  17~21節 敵の兵士らがエルサレムに在留する
  18節「町の広場を歩こうとしても一歩一歩をうかがうものがある。終りの時が近づき、わたしたちの日は満ちる。まさに、終りの時が来たのだ」。外国からの援軍を待っても来ないばかりか、町の広場に兵士らが見張っていて空を飛ぶ鷲のように獲物を狙って追い回している(19節)。
  20節「主の油注がれた者…その人が彼らの罠に捕えられた。…」。頼みにしていたゼデキヤ王は逮捕され、バビロンに引かれて行った。この有様を見てエドムは祝杯をあげて酔いしれる。
 
  22節「娘シオンよ、悪事の許される時が来る。再び捕囚となることはない…」。これは暗夜に輝く一点の星である。 
 「明けの明星」というべきか(ヨハネ黙示録22章16節)。

神の介入

2010-01-17 | Weblog
  哀歌3章 
   
  1~18節 苦悩を一身に負う
  1節「わたしは主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者」。口語訳「わたしは彼の怒りのむちによって、悩みにあった人である」。闇の中を歩み(2節)、鞭打たれ(4節)、柵に包囲され鎖につながれ(7節)、叫んでも聞かれない(8節)。
  18節「わたしは言う『わたしの生きる力は絶えた、ただ主を待ち望もう』と」。苦悩で平和を失った今、ただ主を待望するだけである。

   19~24節 信頼の告白
  22節「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」。新改訳「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」。再び心を励まして主を待ち望む時に、その慈しみ(ヘセド)は絶えることがない。そのヘセドは朝ごとに新たであり、真実(エムナー)は力強い(23節)。主こそわたしの嗣業である(24節)。詩16篇6節see

  25~33節 希望の教訓
  25節「主に望みをおき尋ね求める魂に主は幸いをお与えになる」。主が負わせる軛は必ず幸いになる(26~27節)。
  31節「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない」。

  34~39節 主のご支配
  38節「災いも、幸いも、いと高き神の命令によるものではないか」。口語訳「災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか」。

  40~48節 悔い改めの祈り
  主語が「わたしたち」になる。
  40節「わたしたちは自らの道を探し求めて主に立ち帰ろう」。天にいます神に向かい両手を上げ心もあげて告白する(41節)。
  42節「わたしたちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした」。怒りに包まれ(43節)、祈りは聞かれず(44節)、塵芥のように捨てられました(45節)。わたしの目は滝のように涙を流す(48節)。

  49~66節 敵に対する神の審判を祈る
  55節「深い穴の底から、主よ、わたしは御名を呼びます」。耳を閉ざすことなく聞き、助け救ってください(56節)。わたしの訴えを取り上げ、悪意を、嘲りと謀のすべてを見てください(60~61節)。
 
   蓋をされ絶望のどん底と思われる深い穴の底(53~55節)から、主の御名を呼ぶことが出来るのは何故なのか。可能性の無いところで神の介入が起きるからだ。これを榎本保郎はこの様に表現をしている。
  『時計の針が二十三時五十九分五十九秒まで来た時、次の瞬間午前零時となるように、彼の心は急転直下真昼のように輝きわたる』(旧約一日一章)。