日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

幸いな者 主に過ちをとがめられず

2020-04-17 | Weblog
  詩32篇    

 2節「幸いな者 主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人」聖書協会共同訳   

11節「(小見出し)ダビデの詩、マスキール。背きの罪を赦され、罪を覆われた人」悔い改めの詩篇のひとつ。詩51篇と同じ「バト・シェバとの不倫事件」サムエル記下11章が想起される。共通している詩篇は51篇、130篇、143篇もある。1、2節の文頭に「幸いだ!」(アシュレー)が来る。この形式は1篇1節、33篇12節、41篇2節などにも出てくる。それは罪の悔い改めの結果である。その罪の赦しが四様に出ている。
(1)「背き(ペシャア)」文語訳「咎」違反=赦された人(ネスイ)
(2)「罪(はタアー)的が外れる。踏み外す」=覆われた人(ケスイ)。
(3)「不義(アヴオン)」咎。邪悪な性格=主がとがめない(ろーヤふショヴ)。
(4)「欺き(レミヤ)」陰謀、欺瞞。「背き」=無い(ヴエエン)
3節「私が沈黙していたときは、一日中、呻き、骨も朽ち果てました」。これらの数々の罪の重圧に押しつぶされた状態に呻き苦しみ、昼も夜もあなたの手が重くわたしの上にあり、力は夏の日照りのように、乾き切って失せていたと告白するのである(4節)。「数々の重圧」は病を指すと解釈することが考えられる。
 5節「私はあなたに罪を告げ、過ちを隠しませんでした。私は言いました『私の背きを主に告白しよう』と、するとあなたは罪の過ちを赦してくださいました。」ここから1~2節につながる。心砕かれて、罪(ハタアー)と不義(アヴォン)と背き(ペシャア)のすべてを隠さず告白する時、神はこれを「覆う」(カーサー)、覆いかばさる(カバする)。罪を見えなくしてくださった。これは神の側の赦しの宣言となる。この派生語が贖罪所(カポーレット)である。信仰義認を示す言葉としてローマ4章7~8節に引用されている。
 6節「このゆえに、忠実な人は皆 時に応じてあなたに祈ります。荒ぶる大洪水もその人に及ぶことはありません」。直訳「敬虔な人」(はスイード)は「あなたに向って」(エれーは)「時に」(れエツト)「見つける」(メツオ-)。(改訳「汝に遭う事を得べき間に、汝に祈らん」。岩波訳「この故に、忠実な者はみな、あなたに祈る、適切な時に」
 7節「あなたこそ私の隠れ家。苦しみから私を守り救いの盾で囲んでくださいます」。神が隠し、救いの盾で囲んでくださるということは、5節に示されているように、在るがまま受け入れられていることを指す。岩波訳は「救いの歓呼をもって私を囲んでくださいます」としている。
 8節「私はあなたに悟りを与え 歩むべき道を示そう。あなたの上に目を注ぎ、諭しを与えよう」。8~9節は人称が変わり祭司的な託宣となる。直訳「あなたを賢くする(アスキるはー)」「私は助言しよう(イアツア―)」
 10節「悪しき者には痛みが多い。主に信頼する人は慈しみに囲まれる」。正しい人よ、主によって喜べ、喜び踊れ。心のまっすぐな人は皆、喜び歌え」(11節)。ここでは神に逆らう(悪しき者)と、依り頼む者とが対比されている。

まことの神よ 私の霊を御手に委ねます

2020-04-15 | Weblog
  詩31篇    

 6節「主よ、まことの神よ 私の霊を御手に委ねます。あなたは私を贖われた」聖書書協会共同訳   

1節「(小見出し)指揮者によって。賛歌、ダビデの詩。」
 2節「主よ、あなたのもとに逃れます。私がとこしえに恥を受けることがないようにしてください。あなたの正義によって私を救いだしてください」嘆き(2~7節)と信頼(8~9、20~23節)とが交互に歌われている。2~7節は71篇1~3節と同じである。「~もとに逃れます」は原語「あなたの中に私は逃げ込む(ハスイ―テイ)」である。 
 3節「私に耳を傾け、急いで私を助け出してください。私のために、砦の大岩、救いの城となってください。」逃げ込むのは、あなたが私のために「砦の大岩・巨岩(れツール)」砦の家・私の岩(サるイ)だからである」これが4節で繰り返されている。「あなたこそわが岩、わが救い。御名のゆえに、私を導き、伴ってください(4節)」。5節にもあり、類義語を繰り返すのは意味を強調する為である。
 5節「彼等が仕掛けた網から私を引き出してください。あなたこそ、わが砦」
 6節「主よ、まことの神よ 私の霊を御手に委ねます。あなたは私を贖われた。」御手に委ねるのは全き信頼を表すのである。これはイエスの十字架上の言葉として引用されている(ルカ23章46節・(ギ語「私の霊を御手に委ねます」)。マタイ、マルコ福音書にはこの言葉は無い。ヘブライ語聖書対訳では本詩「あなたの手に私は委ねる(アフキード)私の霊を(ルひー)あなたは贖い給え(ぱデイ―タ)」となっている。上述のように聖書協会共同訳とは少し違う。因みに文語訳は「~贖ってください」である。岩波訳では「あなたは私を買戻してくださった」。ダビデはこの取り扱われた結果を次のように詠う。
 7節「私は空しい偶像を守る者を憎み、主を信頼します」。「私はあなたの慈しみに躍り上がって喜びます。あなたは私の苦しみを見つめ、私の魂の苦悩を知っておられる(8節)。
 9節「あなたは私を敵の手に渡さず私の両足を広々とした場所に立たせてくださる」。広々とした場所(ヴアメルはヴ=狭いの反対)にいる人々であり、これに対して、ダビデの一途な主に信頼することで苦悩から解放され、内にある思いは喜びに変えられて両足で踏ん張り立つのである。
 10節「主よ、憐れんでください。目は憂いによって衰えました。魂もはらわたも」。なぜダビデは前半の信頼した神との関係が変わるのであろうか。その理由を次の節から知ることができる。
 11節「悲しみによって、私の命は、嘆きによって、私の歳月は尽き果てました。過ちによって私の力はうせ、骨は衰えました」原文「私の不義の中で(バアヴオニ)」私の力は、また私の骨は衰えました」。理由はここに示されている。
 12節「私は、私を苦しめる者すべてのそしりの的となりました。隣人にはいっそうのこと親しい者にも恐れられ、外で私を見れば、人は逃げ去りました」。死者のように忘れられ、「素焼きの器」(壊れた器)のように見て陰謀をはかり、命を奪おうとたくらんでいる(13~14節)。
 15節「しかし主よ、私はあなたに信頼します。私は言いました。『あなたこそわが神』」と。更えなる祈りである。ここで対する敵は「追い迫る者」であり、御手をもって助け出してくださいと祈る(16節)。改訳では「わが時はすべて汝の聖手にあり」TEV 「I am always in your care」
 17節「僕の上に御顔を輝かせ、慈しみによって私を、救ってください」。暗黒から真昼の世界に移されること。18節「主よ、あなたを呼び、恥をかくことなく、神に逆らう者こそ恥じに落とし陰府(りシェオーる)に落し黙らせてください」。19節「そうすれば驕り、高ぶり、蔑んで語る偽りの唇が黙ります」。
 20節「あなたの恵みはなんと豊かなことでしょう。あなたは主を畏れる人の為にそれを蓄え、人の子らの目の前であなたのもとに逃れる人に施された」。救いの素晴らしさが歌われる。恵みが神を畏れ、身を寄せる者にも与えられるようにと願う。都が抱囲された時、神が驚くべき慈しみ(原文・驚かせたヒフリ-別訳・目立つ,彼の慈しみ はスドー)の御業で取り巻いてくださる(22節)。これはアッシリア軍に抱囲された事例がある(列王記下18章13節以下)。
 24節「すべて主に忠実な者たちよ、主を愛せ。主は真実な人を守り、高ぶる者には厳しく報いる」。結語の部分である。「真実な人を守り」が新共同訳では「信仰ある人を守り」エムニーム(信仰の人達)となっている。この「エムナー」は落ち着いて信頼し、不動であること(イザヤ書30章15節see)、周囲が」敵に囲まれて四面楚歌の状態に陥る時に、主を信頼し不動であることは決して容易ではない。
「あなたはわたしの大岩、砦の岩、要塞となってください」と祈らなければならない(3、4節)。25節は27篇14節と同じ。

わが主に憐れみを乞い願います

2020-04-11 | Weblog
詩30篇 わが主に憐れみを乞い願います   

 9節「主よ、私はあなたに呼び掛けます。わが主に憐れみを乞い願います。」聖書協会共同訳   

 1節「(小見出し)賛歌、神殿奉献の歌。ダビデの詩。「主よ、あなたを崇めます。あなたは私をすくい上げ 私のことで敵を喜ばせる事はありませんでした」(2節)。小見出しにある通り、神殿奉献の歌でマッカベヤ時代(BC164年~)から「宮きよめの祭に用いられるようになったという(ヨハネ福音書10章22節see)2節にあるとおり「主よ、あなたを崇めます」という賛美から始まる。
 3節「わが神、主よ、私があなたに叫ぶと、あなたは私を癒してくださいました。」本詩から32篇まで重い病から癒された経験が歌われる。それは瀕死に直面する程の者であったことが伺われる。
 4節「主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ、墓穴に下る者の中から生かしてくださいました」。「陰府」(シエオール)黄泉、「墓穴」(ヴオ―る)深穴、坑を指している(詩49編16see)。直訳では深穴に「下って行く者ら」(ミヤレデイ)である。
 5節「主に忠実な者たちよ、主をほめ歌え 聖なる御名に感謝せよ」。この癒しと救いの経験をイスラエルの人々に伝える。同じ御業が与えられることを信じ主に賛美の歌をうたい、感謝を捧げよという。
 6節「主の怒りは一時。しかし、生涯は御旨の内にある。夕べは涙のうちに過ごしても朝には喜びの歌がある」。原文「一時」(一瞬レガア)。「生涯」(命はイーム)。新共同訳「ひととき、お怒りになっても。命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」口語訳「その怒りはただ束の間で、その恵みは命の限り長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも。朝と共に喜びが来る」いずれの翻訳も時代的な変りをみる。文語訳、岩波訳、浅野順一訳cf。
 7節「安らかなときには、言いました『私はとこしえに揺らぐことはない』と。平安な時には高慢になり「私は揺らぐことはない」と唱えるが、しかし困難に陥ると再び不安と恐怖に襲われることとなる。それを次の聖言に記されている。
 8節「主よ、あなたは御旨によって私を強固な山にしてくださいました。しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。」
 9節「主よ、私はあなたに呼び掛けます。わが主に憐れみを乞い願います。」ここには2~4節の経験を得ている「わたし」の回想部分と考えられる。墓に下って塵が「あなたの眞=神の真実(アミテーハ)」を告げ、あなたに感謝するだろうかと10節で問う。「私が血を流し、滅びの穴へと下ることに何の益があるでしょうか。塵があなたに感謝し、あなたのまことを告げるでしょうか。」
 11節「お聞きください。主よ、私を憐れんでください。主よ、私を助けてください」。憐れみの嘆願である。
 12節「あなたは私の嘆きを踊りに変え、私の粗布を解き、喜びの帯とされました。」ここから粗布(喪服)は恢復の喜び(帯)となり感謝する。「嘆き」原意は胸を打って嘆くのである。「あなたは変えた(ハフアふタ)私の為に(り-)」。
 13節「それは、心の底からあなたをほめ歌い 口をつぐむことのないためです。わが神、主よ とこしえに、あなたに感謝します」。それは無限の感謝である。試練は更に豊かな希望の世界への導き手である。
 この詩の背景には敵が存在する。それは何なのか。病と死が襲っているのか。思いがけない災害か。はたまた外敵か。いずれにしても主への信頼によって勝利する者だけが、その恢復の喜びと感謝、讃美を献げることができるのである。
 

主がその民に力を与えてくださるように   

2020-04-08 | Weblog
 詩29篇 

 11節「主がその民に力を与えてくださるように、主がその民に力を与えてくださるように」聖書協会共同訳   

 1節「(小見出し)賛歌、ダビデの詩 神々の子らよ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ」。8篇2~10節、19篇1~7節に同じ自然の中で神の力の働きが賛美されているが、本詩は自然の猛威の中から主(アドナイ・岩波訳ヤハウエ)の名を呼ぶ祈りである。「神々の子ら」は大空に無数に存在する星と雷鳴を表しているカナンの文学形式に基づいている(ヨブ記38章7節)。ヘブライ語対訳では「神の子らよ」で、礼拝の会衆に呼び掛けた典礼用に転用した加筆と言われる(9節、11節cf)。汎神論を避ける必要はない。
 2節「御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いで主にひれ伏せ。」天にある無数の星と雷鳴に呼びかけて「御名の栄光を主に帰せよ」と三度繰り返す。ヘブライ書8章」1~7、9章24節を参照。原文「聖なるコーデシュ光輝の中でペハドウラット主人をラドナイ伏し拝めヒシュター」
 3節「主の声は大水の上にあり栄光の神は雷鳴を轟かせる。主は荒ぶる大水の上におられる」以下9節「雷鳴と主の言葉」迄に「主の(アドナイ)・声(コーる)」という表現が7回記されている(7行詩)。ここでは「雷の音」を指すと説かれる(出エジプト記19章16~19節)。
 4節「主の声は力をもって主の声は輝きをもって」
 5節「主の声は杉の木を砕き 主はレバノンすぎをも砕く」
 6節「子牛のようにレバノンを野牛の子のようにシルヨンを踊らせる。」
 7節「主の声は炎をひらめかす」
 8節「主の声は荒れ野をもだえさせ、主はカデシュの荒れ野をもだえさせる」。
 9節「主の声は樫の木をもだえさせ、森を裸にする。主の宮では、すべてのものが『栄光あれ』と言う」。レバノン杉はヒマラヤ杉の一種で樹齢千年、30~50mの高さに達する。シルヨンは、シドン人のヘルモン山の名で雷鳴は地が震える様である(申命記3章9節、詩68篇9、114篇4、出19章18節see)。
 10節「主は洪水の上に座し、主は王として、とこしえに座した」。創世記6章17節、7章11節、8章2節see。主が混沌の海を制圧した神話的表現である。火災と地震の出来事から主の御声を聴くとき、再びノアの洪水で地を滅ぼすことはしないとの神の契約を忘れてはならない(創世記9章10~11節)。御座は洪水の上に在る審判の座であり、脅威におののくのではなく新しい大地から響く主の御声を聞くのである。
  11節「主がその民に力を与えてくださるように。主がその民を祝福してくださるように 平安のうちに」。ここで、主の御座から「神の子ら」(1節see)は新しい大地に響く主の声を聞くのである。原文「平安の内に(ヴアシャローム)彼の民を(エットアモー)祝福するように(アドナイ)主が」 。

父と母が私を見捨てようとも主は私を迎え入れて下さいます

2020-04-01 | Weblog
詩27篇     

 10節「父と母が私を見捨てようとも主は私を迎え入れて下さいます」聖書協会訳   

1節「(小見出し)ダビデの詩 主は我が光、我が救い。わたしはだれを恐れよう。主はわが命の砦。私は誰におののくことあろう」。「悪をなす者が私の肉を食らおうと近づくとき、私を苦しめる者、私の敵のほうが、かえってつまずき、倒れる」2節。1~6節は信頼の祈りであり、7~13節は嘆きの歌である。主は私の不安や恐れを取り除く光であり、命の砦である。然し苦難の描写や克服は共通した事柄で相互補完した詩篇と読むことが出来る。
3節「たとえ、軍勢が私に対して陣を敷いても私の心は恐れない。たとえ、戦いが私に向って起こっても私の信頼は揺るがない」。4節「私が主に願った一つのこと私はそれを求め続けよう。命のあるかぎり主の家に住み主の麗しさにまみえ主の宮で尋ね求めることを。」共同訳「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」。「命のあるかぎり」直訳「わが生涯の(はヤイ )すべての(コる)日々(イエメー)」。主との不断の交わりを喜び、日毎に新しい力を与えられることであろう。
5節「災いの日に、主は私を仮庵に隠し幕屋の隠れ場にかくまい、大岩に高く引き上げてくださる」「大岩に高く引き上げ」は直訳「大岩に(ベツール)私を高く置く(イエロメメーニ)」群がる敵の面前で主は大岩の上にわたしを高く置き見おろすようにして下さる。
6節「今や、私の頭(こうべ)は群がる敵の上に高く上げられる。主の幕屋で歓声をいけにえとして捧げ、主に向って歌い、ほめ歌を歌おう」。原文「さあ今(ヴエアター)」歓声をあげて感謝の献げ賛美の歌を歌おう」。これは凱歌の供犠であり、主からの呼び掛けの応答である。そこで幕屋の祭壇の前に出て、7節以下から、急に神への訴えに変わる。
7節「主よ、呼び掛ける声を聞いてください。私を憐れみ、答えてください」
原文「聞き給え(シエマアー)主よ、我が声を(コリー)私が叫ぶ(エクラー)私を憐れんでください」。主から呼びかけは家臣が王の面前に引き出される如くである。さらに嘆願が続く。
8節「あなたに私の心は言いました。『私の顔を尋ね求めてください』と。主よ、私は御顔を尋ね求めます」(8節)。王が「私の顔を尋ね求めよ」といわれ、これに家臣が直ちに応答するのである。これは呼び掛けに対して素直に応答する言葉である。つまり向き合う関係が示されている。「顔を尋ね求める」は神殿への巡礼を暗示している。それは一層切り離されない関係になる。
9節「御顔を私から隠さず怒りによって僕を退けないでください。あなたは私の助けとなってくださいました」。直訳は「私を捨て給うな。また私を見捨て給うな」である。口語訳は「わたしを追い出し、捨てないでください」。
10節「父と母が私を見捨てようとも主は私を迎え入れて下さいます」9節の意味を強調する。これは十戒の第五に関わる事柄である。庇護を求める者にこれ以上のものはない。それに優って神は「引き寄せてくださる。主は「私を集め入れる(ヤアスフエ―ニ)。猛獣に仕掛けた罠(1~2節)陥らぬように主が備えられた平らな道に導いてくださいと祈る(11節)。
12節「私を苦しめる者の思いのままにさせないでください」。彼らがしている偽りの証言の術中にはまって黄泉に陥る事なく、主を待ち望め。勇ましくあれ、心を強くせよ。主を待ち望めと、激励の言葉が投げかけられる(13~14節、ヨシア記1章7節)。






 あなたの栄光の宿る所を慕います 

2020-03-25 | Weblog
 詩26篇   

 8節「主よ、私はあなたの生む家を あなたの栄光の宿る所を慕います」聖書協会訳   

1節「(小見出し)ダビデの詩 主よ、私を裁いてください」。私は全き道を歩みました。私は主を信頼し 揺らぐことはありませんでした。」。
2節「主よ、私を調べ、試してください。私の思いと心を確かめてください」。直訳「調べる」(=ベはネーニ試験する、「試す」=ツォルファ真偽を鑑定する)はらわたと心を火をもって試してくださいと祈る。本詩では信頼の姿勢が強く求められ一層強くそれが示される。「完全に歩んだ道」である。
3節「あなたの慈しみは私の目の前にあります。私はあなたの真実に従って歩んできました。」これは25篇10節にもある。私を導く使者はあなたの慈しみ(ヘセド)であり、あなたの真実(エムナー)だと告白する。
4節「私は空しい者と共に座らず 欺く者と共に進まず」、5節「悪をなす者の集いを憎み、悪しき者と共に座りませんでした。」わたしが相対している人物は偽る者(偽善者)、欺く者(悪事を謀る者)、主に逆らう者であり、わたしは彼らの集いに入らず、集いを憎み、共に座らないと明確な生き方の区別を示す。
6節「私は両手を洗って無実を示しあなたの祭壇を回ります」。祭司が犠牲の供え物を携えて祭壇に来る。そして感謝の歌声をあげて祭壇の周りを歩む有り様である。その行進は「感謝の声を響かせ、あなたの奇しき業のすべてを語り伝えるためである」(7節)。
8節「主よ、私はあなたの住む家をあなたの栄光の宿る所を慕います」。「あなたの住む家=「わたしの愛するアハヴティあなたの家ベテーは」であり、また、あなたの栄光の宿る場所を慕うのである。
9節「あなたが罪人と共に私の魂を 血を流す者と共に私の命を取り去ることがありませんように」。再び5節からの続きで、彼らと一緒にしないで下さいと嘆願するのである。
10節「彼らの手には恥ずべき行い 右の手は賄賂で満ちています」。直訳、「恥ずべき行い」ズイマー「性的不品行」、「賄賂」ショはツド「奪った物」。9~10節はモーセの十戒(殺すな、姦淫するな、むさぼるな)に相当する。
11節「私は全き道を歩みます。私を贖い、憐れんでください。」結語の祈りである。主の憐れみと贖いにより「わたし」は完全な道真っ直ぐな道を歩き続けますという。
12節「私の足は平らな所に立つ。集会の中で、私は主をたたえよう」。そして全会衆と一緒に「感謝の歌声を響かせたい」(7節)と祈るのである。「集会」はカーハールで「会衆」とも訳される。口語訳「会衆の中で」岩波訳「諸々の集会場~」とある。むしろ「あなたの、います家」(8節)つまり主の教会(信仰共同隊)を指し、礼拝の中で主を讃えるのである。「私」は全き道(神殿の境内の真っ直ぐな道、ここでは「平ら」「完全」を象徴する表現である27篇11、イザヤ26章7節、箴言15章19節)を歩き続け、そして礼拝の中で、聖歌隊(口語訳・会衆)と共に感謝の歌声を響かせたい。」(12節)

主は恵み深く、正しい。それゆえに罪人に道を示す

2020-03-19 | Weblog
 詩25篇   

 8節「主は恵み深く、正しい。それゆえに罪人に道を示す」聖書協会訳   

1節「(小見出し)ダビデの詩 主よ、私の魂はあなたを仰ぎ見る」。わが神よ、私はあなたに信頼する。私が恥を受けることのないように。敵が勝ち誇ることがないように(2節)。9~10篇と同じアルファベット詩篇である。1節と2節は冒頭にアルファベットが来ないで、「あなたに向かって」(エレーは)と「あなたに」(べはー)である。まず「私が恥を負わないように、」敵が勝ち誇ることがないように」と祈る。更に主を待ち望む者は恥を受けない。理由なく裏切る者は恥じると、「恥じ」が三回出ている(2~3回)。それは神との正しい関係についてである。
4節「主よ、私にあなたの道を知らせ、行く道を教えてください」。前の「道」は複数で「諸々の道」デレヘーは(・口語訳大路)、後の「道」オルほテーは(小道)でいずれも神の目的、計画を指す。何故なら神が導こうとしている道筋だからである。5~11節はその理由と嘆願を表している。
①「あなたの真実(ヴエらメデーニ)によって導き、教えて下さい5節(嘆願)。
②「あなたは憐れみ(ラはメーは)と慈しみ(ハサデーは)深い方だから6節。
③「若い日の罪と背きを思い出さないで、慈しみに相応しく恵み(トウヴはー)のゆえに思い出してください(7節)。
④「主は恵み深く正しくいまし(ヤシャル真直ぐな)、それゆえに罪人に道を示す方」(8節)。
⑤「主は苦しむ人(アナヴィーム心低い者)岩波訳=貧しき者・を公正に導き、貧しき者に道を教える(9節)。神の公正な審判で罪を悔い改め、謙遜な者とならしめる。
⑥「主の契約と定めを守る者にとってすべての小道は『慈しみ』(ヘセド)と『真実』(エメット)」である」(10節)
⑦「あなたの名のために私の大きな不義をお許しください」11節(嘆願)。
⑧「主を畏れる人に選ぶべき道を示し、善(トーブ)の中に宿り、地を継ぐ者にして下さる」(12~13節)。
⑨「罪の誘惑と危険な網から足を取りだして下さる方に、常に私の目を注いでいます。私は貧しくかつ独りだからです」(15~16節)
17節「心の苦悩から解き放ち、苦難から私を引き出して下さい」。これは16節を受けている。既に9節にあるように、ここから不法を仕掛ける敵が出てくる(19節)。主への信頼は心低い者、柔和な者で主の前に謙遜でなければ出来ない(20節)
 21節「完全と正しさが私を守るように。私はあなたを待ち望む」。新共同訳
 「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守って下れるでしょう」岩波訳「完全さと誠実さが、私を見守りますように。私はあなたを待ち望みますから」。22節はない。

〈註〉ヘブライ対訳聖書では22節「神よ、イスラエルをすべての苦難から贖ってください」であるが、本詩篇はアルファベット訳で21節最初の単語「完全さ」(トム)で終わりになっている。



栄光の王とは誰か。強く勇ましい主

2020-03-14 | Weblog
詩24篇   

 8節「栄光の王とは誰か。強く勇ましい主。戦いの勇者なる主」聖書協会訳   

1節「地とそこに満ちもの。世界とそこに住むものは主のもの。」(小見出しダビデの詩。賛歌)聖書協会共同訳。「主が大海の上に地の基を築き 大河の上に世界を添えたから」2節。エルサレム入城に先立ち、その資格が質されている。先ず主は全地を支配されるかたであり、その御業は天地創造の時にまで遡る。「大海の上に地の基を築き」とあるが、「大海」「大河」は創世記1章2節「混沌」(カオス)で、その上に天と地が創造されたということである(2節)。続いて主の山(エルサレルムの都)に上り、聖所で主を礼拝する人 は誰かが問われる(3節)。これは15篇にもある。その人は
 ①「汚れのない手と清い心を持つ人(4節)暴力や不正で汚れていない人。
 ②「魂を空しいものに向けない人 異教の神々を拝まない人。
 ③「偽りの誓いをしない人 。岩波訳「欺瞞の為に誓うことのない者」である。
 5節
「①その人は主から祝福を受け、
 ②救いの神から正義(ツエデク)を与えられる。」
 ③6節「これこそ、主を尋ね求める人々。
 ④ヤコブの神の御顔を求める者」である。
エルサレムの都で神を礼拝する人の資格が明らかに示されている。
これは23篇3節にある御名にふさわしく義(ツエデク)の道へと導かれる者である。
 7節「門よ、頭を上げよとこしえの扉よ、上がれ。栄光の王が入る」。城門が擬人化され、最初に入るのは功績のある人間ではない。栄光に輝く主なる王であると二度反復され、栄光に輝くことを強調しているのである。
 9~10節は7~8節の繰り返しである。ダビデが王位に就いて最初エルサレムで契約の箱を荷車でなく担ぎ登った事例が想定される(サムエル記下6章1~19節参照)。これは戦いに勝利した王の凱旋である。これは人間でなく神的な栄光に輝く王たることを告げる。その王が私たちのために先駆者として、そこに入って行ったので(へブライ6章20節)、人は大胆に恵みの座に近づくことができるのである(ヘブライ4章16節)。
神の御子イエスは軍馬でなく、驢馬の子にのって、エルサレムに入城する(マタイ福音書21章1~9節)。それは預言者ゼカリヤ9章9節の預言であり、戦勝の王でなく、平和の王を表す出来事であった。このイエス入城を律法学者も祭司たちも認めることは出来なくて、ファリサイ派の人々を扇動し、群衆の歓声を黙らせようとした(ルカ福音書19章39節)。五日後にはユダヤ最高法院でイエスを死罪の判決をくだし、群衆は更に、「十字架につけよ」と叫んでいる(同23章13~25節)。
 いつの時代も大衆動員と情報操作は恐ろしい。現代のIT社会では国の内外を超えて情報伝達のネットが張り巡らされ、リアルタイムで世界から罪と悪の力が吹き荒れて、愛と義の支配する世界が失われて行く。「御国を来たらせ給え」と日々切願して止まない。
  
 

主は私の羊飼い。私は乏しいことがない

2020-03-12 | Weblog
 詩23篇    

 1、2節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。主は私を緑の野に伏させ憩いの汀に伴われる」聖書協会共同訳
  
 1節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」。新共同訳は「主は羊飼い」であったが、原文は「ヤハウエ ロイー」(主はわが羊飼い)で、一人称を省いていたが、ダビデの個人的経験(サムエル記上16章11節)の枠を超えて主を羊飼いとして導かれるイスラエル民全体の賛歌という解釈であった(エゼキエル34章see)。民として欠けることのない土地に平穏に生きる確信が込められていたのであろう。主は私を草原(若草の牧場・岩波訳)に伏させ、「憩いの水のほとり・アル メー メヌほット)に伴って下さる。流れる水ではない。動物も人間も貴重な岩盤を砕いて掘った井戸である(出エジプト記2章15~17節)。
 3節「主は私の魂を生き返らせ御名にふさわしく、正しい道へと導かれる」。オアシスでの憩いは疲労を癒し、新たな力を与える処である。羊飼いなる主はこの場所を恵みの道筋として賦与されるのであり、羊の群れは全くそれに依存している。「正しい道」とは神の義(ツエデク)である。迷いやすい群れであるが、ここに無条件で正道を導いて下さる神の業がある。 
 4節「たとえ死の陰の谷を歩むとも私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める」。狭く暗くて方向がわからない谷で羊には死の谷であるが、避けて通ることができない。しかし義なる神が寄り添ってくださるから脅え惑うことはない。「鞭」(シヴテハー)は野獣や突然襲ってくる盗賊を追い払う棍棒である。「あなたの杖」(ウミシュアンテーは)、山や岩を登る時の杖である。羊飼いは両手に持っていることになる。普通はどちらか1本であるが、ここでは棍棒が必要なのである。
 5節「私を苦しめる者の前であなたは私に食卓を整えられる。私の頭に油を注ぎ私の杯を満たされる。「私を苦しめる者の前」は口語訳「敵の前で」であるが、原語「ツオレライ」はわが敵とも訳せる。荒れ野で生活する遊牧民は外敵に追われて逃亡する人々と遭遇することがある。その時追われてきた人を旅人として迎え入れるのである。ここでは「わたし」は敵から逃れてきた人を旅人として迎え入れるのである。天幕の主人(羊飼いなる主)は疲れ飢えたわたしの為に豊かな宴を設け、追跡の敵はその宴をただ見るだけガ示されている。「頭に油を注ぎ私の杯を満たす」とは好意的な接待を表す。「香油を注ぐ」のは王や祭司の任命などに用いるオリーブ油であり、酒宴の杯の前に王のように迎えられることを示している。
6節「命あるかぎり恵みと慈しみが私を追う。私は主の家に住もう、日の続くかぎり」。私は生涯「主の家」(神の幕屋)に住み、平安に生きることが出来るという賛美である。「私を追う」(イルデフーニー)は「追跡する」である。これは5節にある「私を苦しめる者」(ツオレライ・敵)と対比してあり、「恵み」(トーブ)と「慈しみ」(ヘセド)が天の使いのように追い掛けてくるという表現である。主は熱心に祝福しようとしておられるのである。それは「生涯のすべての日々」(コる イエメー はヤイ)である。

すべての人が主を心に留め、立ち帰るように

2020-03-06 | Weblog
  詩22篇    

 28節「すべての人が主を心に留め、立ち帰るように。国々のすべての氏族が御前にひれ伏すように」聖書協会共同訳
  
 1節「指揮者によって、曙の牝鹿による、賛歌。ダビデの詩(小見出し)21篇とは対照的に弱さを一身に負う者の嘆きの詩が22節まで詠われる。
 2節「わが神、わが神 なぜ私をお見捨てになったのか。私の悲嘆の言葉は救いから遠い」。『わが神、わが神 なぜ私をお見捨てになったのか』は原文「エリー エリー ラマー アザヴターニ」がそのまま十字架上で叫ばれた主イエスの言葉として引用されている(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。
 3節「わが神よ、昼に呼びかけてもあなたは答えられない。夜もなお、私は黙ることはできない」。昼も夜も呼び求めて止まないのに応えてくださらないと「わたしの神に」訴える。絶望のどん底にありながら、あなたヘの信頼は絶えることはない(4節)。なぜならあなたは聖なる方、イスラエルの讃美の中におられる方、彼らが依り頼むと苦難から逃れさせられた。あなたにより頼むと、恥を受けることはなかった(5~6節)。
7節「だが私は虫けら。人とは言えない。人の謗りの的、民の蔑みの的」本詩に先行する18~21篇では王という権力者、社会的強者が登場したが、自らを「虫けら、人間の屑(物笑いの種)、民の恥(原語ウヴェズイ アム」となっている。
8節「私を見る者は皆、嘲り、唇を突き出し、頭を振る」。主に任せて救って貰うがよい。主が助け出してくれるだろうと罵られる(9節)。イエスが十字架上で受けた恥辱と嘲笑の有り様がここから示される(マタイ27章27~31節、39~40節)see
10節「まさにあなたこそ、私を胎から取り出した方母の乳房に預けた方。」この叫びが母の胎内にある時から全存在を賭けたものであることを訴え、苦難が迫り、助けてくれる者のいない今、私から離れないで下さいと祈る(11~12節)。
13節「多くの雄牛が私を取り囲み、バシャンの強い牛が私を取り巻いた」。獲物を引き裂き、吠えたける獅子のように私に向かって口を大きく開ける(14節)。私の骨はバラバラ、心蔵は蝋のように体の中で溶け(15節)、力は壊れた陶器の破片で死の塵に捨て置かれ(16節)、野犬が群れをなす獅子のように両手両足を取り囲んでいる(17節)。私を裸にして肋骨を算え眺め回し、服を剥ぎ取り籤引きにしている(ヨハネ19章23節)。
20節「主よ、あなただけは遠く離れないで下さい。私の力の源よ、急いで助けに来て下さい」。原文は文頭に「しかしあなたは(ヴェアター)、主よ(アドナイ)」が出てくる。ここから状況は苦悩から祈りと讃美に変わる。何が起きたのか。言えることは神の奇跡が彼のうちに起きたのだ。「助け出して下さい・剣から私の命を、犬の手から私の唯一の命を。救って下さい、獅子の口から、野獣の角から。するとあなたは私に答えて下さった」(21~22節)。讃美と栄光を主に帰せる事(24節)、貧しく苦しむ人が受け入れられ、神の御顔を隠されなかったことである(25節)。神の沈黙と断絶はなくなった。
26節「大いなる集会で、私の賛美があなたから出る。主を畏れる人々の前で、私は誓いを果たそう」。後半の「主を畏れる人々の前で、私は誓いを果たそう」を共同訳は「満願の献げ物をささげます」と意訳している。これは原文「私の誓いを(ネダライ)私は果たす・支払う・満たす(アシャれム)」で聖書協会訳はこれに近い。つまり恵みの御業に対する応答と解しているのである。
27節「苦しむ人は食べて満ち足り、主を尋ねる人は主を賛美する。あなたがたの心がいつまでも健やかであるように」。地の果てまですべての人が主を心に留め、立ち帰るように。国々のすべての氏族が御前にひれ伏すように。王権は主にあり、主こそ国々を治める方(28~29節)。
 この結果、地の富める者もひれ伏し、自ら命を保持できない者も、皆主の前に身をかがめる(30節)。なし遂げてくださったことを代々語り伝えることになる。キリスト者にとってそれは何か。ほかでもないイエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命である(31~32節)。

 あなたの救いにどれほど喜び踊ることか 

2020-03-02 | Weblog
  詩21篇

 2節「主よ、王はあなたの力を選び、あなたの救いにどれほど喜び踊ることか」聖書協会共同訳
  
 1節「指揮者によって、賛歌。ダビデの詩」小見出し 20篇に続く王の詩である。20篇が取り成しの詩であり、21篇は御救いの感謝の詩である。全体は2~8節と9~13節に二分される。
 2節「主よ、王はあなたの力を選び、あなたの救いにどれほど喜び踊ることか」。讃美は主の御力を喜び祝うというものである。「あなたの力を選ぶ」とあるが直訳「主よ『あなたの力の中で』(アドナイ ベオズは)は20篇で三度くりかえされた「神の名の力」(2,6,8節)である。主が王の心の願いに応え、聞き届けられた勝利が与えられたという確信が歌われる。
4節「あなたは恵みの祝福をもって彼を迎え、その頭に黄金の冠を載せた」。主がイスラエルの王位に就けられたことを喜ぶ。「黄金の冠を載せた」は王の権威の再確認である。サムエル記下12章30節以下を参照したい。
5節「彼が命を願うとあなたは長寿を、代々とこしえまでも与えた」。戦いに勝利し、命の安全が与えられたことを感謝し、地上に命のある限り、主の御業を忘れることはないという。
6節「王の栄光はあなたの救いによって大きくなり あなたの威厳と輝きを彼の上に置く」「栄光」「威厳」「輝き」はすべて主の救いの中にある。永遠の祝福という主の約束に基づく王の支配を喜び祝う。いと高き神の慈しみに支えられて、王位は揺るぐことがないと告げ(7~8節)後半の9~13節へと続く。
7~8節「あなたは永遠の祝福を彼に与え 御前の喜びによって彼を楽しませる。原文(キー なぜなら)王は主に信頼し、いと高き方の慈しみの中で、揺らぐことはない」。
9節「あなたの手はすべての敵を探り出し、右の手はあなたを憎む者を探り出す」。主の右手はすべての敵対するものを見つけて(原文テイムツア-)打破られるのである。
10節「主よ、御顔を現すとき あなたは彼らを火のついた炉のようにする。主は怒りで彼らを呑み尽くし、火は彼らを食らい尽くす」。主は燃える炉に投げ込まれた者のようになり、火が彼らを呑み込んでしまうと告げるのである。
11節「あなたは彼らの実りを地から その種を人の子らの中から滅ぼす」。直訳「~彼らの実り(子孫 ビルヤモー)を地から、子孫(ヴエザルアム)を人の子の中から絶たれる。
12「彼らがあなたに悪事を重ね 策略を巡らしても、果たせはしない。」その悪事は決して成功しないのである。
13節「あなたは彼らを敗走させ」彼らの顔に向けて弓を引き絞る。」かえってあなたは彼らを引き倒し、彼らの顔に向かって弓を引き絞られる。
14節「主よ、力に満ちて、高くいませ。私たちはあなたの力強い業を詠いほめ歌を歌おう」。御力を表される主を崇めよ。力ある御業を讃えて、彼らは讃美の歌をうたう。これは20篇と同様に結びの祈りと讃美である。
(11~14節はヘブライ語聖書対訳シリーズ参照)

あなたの救いを喜び歌おう

2020-02-28 | Weblog
詩20篇    

 6節「あなたの救いを喜び歌おう。我らの神の名により旗を揚げよう。主があなたの望みをすべてかなえてくださるように」聖書協会共同訳
  
 1節「指揮者によって、賛歌。ダビデの詩」小見出し 「ダビデの詩」とあるが、民が王と共に戦いに出陣する時の歌である。本詩はその祈りであり、21篇は感謝。背景としてサムエル記下10章1~19節が考えられる。この時祭司が王に呼び掛け、執り成す祈りである。
 2節「苦難の日にあなたに答え、ヤコブの神の名があなたを守ってくださるように」。「あなた」は以下王を指している。イスラエルを救出したヤコブの神(出エジプト記19章3節see)の御名が崇められ、戦場で起こり来る苦難に助けられるようにと願う。
 3節「聖所からあなたに助けを送り、シオンからあなたを支えてくださるように」民の真ん中にある神殿から勝利の助けが来ることを期待して讃美を献げるのである。
 4節「主があなたの供え物をすべて心に留め 焼き尽くす生け贄を、喜ばれますように」そして5節「あなたの心のままに与え あなたの計らいをすべてかなえてくださるように」。祭壇で生け贄を焼き尽くす祭りは文語訳では「はん祭」と呼び祭壇の上に丸焼きにする動物の犠牲を指している。それによって神に嘉納されたことを知るのである。
 6節「あなたの救いを喜び歌おう。我らの神の名により旗を揚げよう。主があなたの望みをすべてかなえてくださるように」。民の王に対する祈りである。神の御名が崇められることを求めるのは、2節と同じであり、8節にもある(三回出てくる)。「旗を揚げる」(原語 ニドウゴる)は「大旗」「軍旗」で、戦場で神の臨在を鮮やかに示し誇りを表す行為である。
 7節「今、私は知った。主が油を注がれた者を救ったこと 聖なる天から彼に答えることを。右の手による救いの力をもって。」。「私は知った」とは戦いの態度表明である。王の勝利を確信する祈りである。敵陣は最高の武力である戦車や軍馬を誇ると祈るのである。然しわたし達は、我らの神、主の名を誇るのである(8節)。然し勝敗は明らかになる。
 9節「彼らは膝を折り、倒れた。しかし私たちは起きて、まっすぐに立った」。直訳「ヘーマ(彼らは)カレウー(屈する)ヴエナフア―るー(また倒れる)」岩波訳は「膝つき、くずおれた」でリアルな表現である。これに対して我らは「奮い立ち、元気を回復する」のである。人の無力と」神の威光が対比される。
 10節「主よ、王を救って下さい。私たちが呼び求める日に、答えて下さい。」「主よ、救ってください」は、共同訳「主よ、王に勝利を与え~」より、直訳(ホシーア救い給え cf 7節)に近い。この句は1節にあるように、王と民が出陣に際して「主よ~答えてください」と唱える常套句となっている(4篇2、13篇4 etc)。英訳(TEV)はGive victory to the Kingであり、英国歌に“God save the King”として取り入れている。
 


天は神の栄光を語り、大空は御手の業を告げる

2020-02-27 | Weblog
詩19篇 

 3節「その声は全地にその言葉は世界の果てにまで及ぶ」」聖書協会共同訳
  
 1~2節(小見出し)指揮者によって、賛歌。ダビデの詩。「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を告げる」。本詩は2~7節と8~15節との二つの詩が結び合わされている。前者は神(エル)の御手で万物の創造を支配している事を讃美する。それは天の栄光を物語る(原文 メサペリーム)働きとして示している。後者は神(ヤーヴェ)が大空を両手(原文 マギッド)の業として創造された事を言い表している。
 3~4節「昼は昼に言葉を伝え 夜は夜に知識を送る。語ることもなく、言葉もなく、その声は聞こえない」これは8篇2、4にも詠われている。
 5節「その声は全地に、その言葉は世界の果てにまで及んだ。そこへ神は太陽のために幕屋を張った」。大空に張られた弦の響きは世界に伝えられるという。
 6節「太陽は花婿のように祝いの部屋を出て、勇者のように悦び勇んで道を駆け抜ける。」太陽の有様が擬人化して表される。日の出は花婿が天涯(部屋)から出るようである。昼中の働きは天の果てを目指して走る選手のように思われる。そして、四方の果てまで行き巡る。何一つその熱から隠れるものはない(7節)
 8節「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めはまことで、無知な者を賢くする。」主の聖意は「主の律法」と「主の定め」であるが、諭しはまっすぐで、心を喜ばせ、主の戒めは純粋で、目を光り輝かせる(9節)
 10節「主への畏れは清く、いつまでも続く。主の裁きは真実で、ことごとく正しい」。金よりも、あまたの純金よりも好ましく密よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い(11節)エゼキエル書3章⑶節にもある。神の言葉を心の奥底に飲み込むのである。そうするならば金銀では味わうことに様々な思いが湧き出る。ヨハネ黙示録10章10節で「食べると腹は苦くなった。」とある。
 12節「あなたの僕もこれらによって教えを受けました。これらを守るとき報いは大きい」。「教えを受けました」が共同訳では…「それらのことを熟慮し」(ヘブライ語シリーズ詩篇と同じ訳)となっている。原文(ニズハル)は「教えられる。戒めを受ける、照らす」。「誰が知らずに犯した過ちに気づくでしょう。隠れた罪から私を解き放ってください。(13節)」という文脈から、「熟慮する」が良いかも知れない。
 14節「あなたの僕を傲慢から引き離し、これに支配されないようにしてください。その時、私は全き者となって、多くの背きの罪から解き放たれるでしょう。」13節の故意の罪を~引きはして下さいとなる。それは重い背きの罪が律法により徹底して暴露される。そこではじめて「私の口が語ることと心の思いとが、御前で喜ばれますように主よ、わが岩、わが贖い主よ」。
(15節)その時、私の口の言葉と心と思いを主にすべて明け渡すことになる。そしてはじめて「私の贖い主よ」と御名を呼ぶことになる。

主はわが岩、わが城、私を救う方

2020-02-22 | Weblog
 詩18篇 

 3節「主はわが岩、わが城、私を救う方、わが神、わが大岩、私はそこに逃れる。わが盾、わが救いの角、わが砦」聖書協会共同訳
  
 1節「小見出し:指揮者によって、主の僕ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日、彼はこの歌の言葉を主に語った。同じ詩がサムエル記下22章に出てくる。サウル王から逃れて読んだ詩は52,54,57篇にもある。全体を五つに区分できよう。
 ①苦難の中から神に呼ばわる(2~7節)
 ②神の顕現(8~16節)
③救いは正しい者に与えられる(17~31節)
④神こそわたしの力、敵を滅ぼす(32~46節)
⑤感謝と讃美(47~51節)
 2節「主よ、わが力よ、私はあなたを慕う。」以下九つの表現で神を告白する。主はわしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔(2~3節)、いつもわたしは褒め称える主の名によって敵から救われる(4節)
 5~16節「死の縄が巻きつき、滅びの河が私を脅かす。6節陰府の縄と死の罠が私を待ち受ける。7節苦悩の中から主に呼び掛け、叫びを上げると、主は私の声を聞き、叫びは、その耳に届く、8節地は揺らぎ、山々の基は震えおののく。それは主が怒ったからだ。9節主からの噴煙が噴きあがり火が焼き尽くす。炭火が燃え上がった。10節主は密雲を足下に従え、天を傾けて降り11節ケルビムに乗って風の翼を広げる。12節闇を隠れ場とし雨雲と群雲を仮庵とする。13節御前にある輝きを雲がよぎり雹と炭火が続いた。14節主が雷鳴をとどろかせ、雹と炭火が続く。15節主はそれらを散らし稲妻を増してかき乱した16節主よ、あなたの怒りの息吹によって水底が現われ、世界の基があらわになった。 
 17~24節「主は滅びの大水(ノアの洪水)から引き上げる」。「私は主・アドナイ」が繰り返され(18,19、21,22、23、24節)主の道を守り、主の裁きを前にして罪から守る。
 25~31節「主はその目の前で私の義(ミシュパト)に相応しく、手の清らかさに相応しく応じられた」(25節)。忠実な人には忠実な方、全き者には全き方として応じられた(26、27節)。わたしの闇を照らす灯(28、29節)、それは家の繁栄、幸福、長寿を表すために火をともす習慣から来た。
 32節「主をおいて誰が神であろうか。我らの神の外に誰が大岩」3節にもある。私の道を全きものとした(33節)それは体力(34~35節)足とくるぶしと足の関節、両手と腕(36~37節)、敵と戦う力(38~40節)。それは敗走させるものである(41節)悲鳴をあげても屈しない(42~43節)。敵の報復を遙かに超える勝利宣言である(45~46節)。
 47節「主は生きておられる。わが岩をたたえよ。わが救いの神を崇めよ」ここから結論部分で感謝と讃美を献げる。原文「はイ・アドナイ」(生きている・主は)」で本文は意訳で、存在の根拠を宣言する。私の救いと敵への報復を遙かに超えて、すべての国と民から御名が讃美され、崇められることとなる。
本詩篇はサムエル記下22章と殆ど同じである。本文の注解は、そちらを熟読するとよい。ダビデ王朝の王の感謝である。ダビデは支配者としてメシアとして示される。1節「前書き」そこには無い。
 新約聖書ではマタイ福音書5章43~48節、7章21、12章50,25章31~46節を参考にしたい。
 


あなたの道を守り、足取りの揺らぐことはない

2020-02-22 | Weblog
詩17篇 

 3節「私の歩みはあなたの道を守り、足取りの揺らぐことはありません」聖書協会共同訳
  
 1節「主よ、私の正しさをお聞き下さい。叫びに耳を傾けてください。偽りのない唇から出る私の祈りに。」無実の訴えである。ダビデの生涯では、マオンの荒れ野に逃れた時(サムエル記上23章24~29節が想定される。「正しさ」原語は義(ツエデク)である。
2節「御前から私のために判決が出され、あなたの目が公平に注がれますように」神の義(ツエデク)をもって訴えを聞き、公平(ミシュパト)をもってご覧下さいと強く迫る。
3節「あなたは私の心に試練を与え、夜訪れて私を試みましたが、何も見出すことはありませんでした。たくらみなど口にすることはありません。」あなたが私の内側を火で精錬して不純物があるかどうかを試しても、何一つ無いでしょうという。
4節「人のなすべき事についてはあなたの唇の言葉に従い、私は無法者の振る舞いを見張って来ました。」原文は「(オルほット)小道を(パリツ)暴虐な者の」私は守った」となっている。直訳は「わたしは守った、暴力の道を避けて」で共同訳が判りやすい。
 5節「私の歩みはあなたの道を守り、足取りの揺らぐことはありません。」これまで神の言葉(律法・命の道16篇11節)によって一歩一歩揺らぐことなく進むと決意をのべる。
6節「神よ、私はあなたに呼び掛けます。あなたが私に応えてくださるからです。私に耳を傾け、この訴えを聞いて下さい。」救いを求める祈りで1節と同じ。
 7節「あなたの慈しみの業を現わして下さい。攻め来る者から逃れる者を右の手をもって救われる方」原文を忠実に訳すと「あなたの慈しみを分け給え、救う方よ(モシーア)逃げ込む者達を。あなたの右手で、立ち向かう者達から」。「慈しみを分け給え」(ハフれ-)は「目立たせ給え」とか「驚くべき業をする」とも訳すことも出来る。
 8節「瞳のように私を守り、あなたの翼の陰に隠してください。」瞳は顔の最も大切な処で、細心の注意を払って守るようにということ。原文は「目の娘、瞳」である。悪しき者らがわたしを虐げ(荒し)、自分の肥えて太った心(脂肪)に閉じ込めて高慢に語っている(9~10節)。太った心のとりこは脂肪で心が鈍くなった状態を意味し。「私を追い詰めるや、取り囲み、地に倒そうと目を向けています」(11節)。
 12節「餌食を引き裂こうとする獅子、物陰に潜む若獅子のように」その猛烈な有様を猛烈な獅子に7篇2節、10篇9節、22篇13節でこれまでも譬えている。この敵は冷酷、傲慢、残酷なのである。
 13節「主よ立ち上がってください。彼に立ち向かい、屈服させてください。あなたの剣によって、悪しき者から私の魂を救い出して下さい」。直訳では『主よ、立ち給え。彼の顔に迫り給え。彼を屈服させ給え。私の魂を悪人から、あなたの剣で。』である。
 14節「主よ、人々からあなたの手で。人々から、彼らの人生の分け前であるこの世から、あなたがかくまった人に、十分な食べ物を与えてください。子供たちも満ち足り、その幼子たちにも豊かな富を残せますように」。直訳は難解であるが、「ヘブライ語聖書対訳シリーズ」を記載する。『主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち、命ある者の中から彼らの分を絶って下さい。然し御もとに隠れる人には、豊かに食べ物をお与え下さい。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように』である。これは、公平な審判は逆らう者を撃ち、その嗣業地を絶ち、神を避け所とする者に繁栄を与えられるという意味である。
 15節「私の義にあって御顔を仰ぎ見、目覚めてあなたの姿に満ちたれるでしょう」。1節の祈りは応えられ、満ち足りた悦びが与えられる。これは16篇11節と同じである。神に義(ツエデク)と認められた者は、御顔を仰ぎ見ることが出来るが、逆らう者には御顔を仰ぐことは出来ない。