日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

暦と祭

2007-10-31 | Weblog
   レビ記23章はイスラエルの年間行なわれる祝祭日が記される。
    ①安息日1-3節 
     ②過越祭と徐酵祭4-8節 第1月(ニサンorアビブ)14日、15日~21日 聖会
    ③初穂の祭9-14節、
    ④七週際15-22節 初穂の祭から50日目 聖会
    ⑤ラッパ祭23-25節 第7月(チスリ)1日 聖会
    ⑥贖罪日26-32節 同月10日 聖会
     ⑦仮庵祭33-43節 同月15~21日 聖会

   祝祭日の記事は民数紀28~29章、申命記15章にもある。

   バビロン時代に第1月ニサン、第7月チスリとなったが、太陽暦では第1月は3-4月であり、第7月は9-10月である。現在のユダヤではシリア暦で、第7月が正月で新年が始まる。暦は判り難く混乱する。
      キリスト信仰はそれらから、安息日礼拝と過越祭から三日後の復活祭、5旬祭(聖霊降臨日)が新しい意味をもって継承された。

  現代の人は様々な暦に捕らわれている。干支や陰暦、占星術など。キリスト信仰はこれらから解放するものである。ローマ14章5節、ガレテヤ4章10節、コロサイ2章16ー17節などにその記述がある。  

祭司の食事

2007-10-30 | Weblog
    レビ記22章は祭司の食事規定である。彼らは神殿の献げ物が日々の食事となる為に細心の注意が促がされる(1節)。2-7節に身を洗う必要がある場合。8節は17章15節と比較すると、祭司だけ厳しく要求されている。
    10ー14節は祭司の食卓。15-16節は注意義務。
    18節以下は祭司と献げ物の奉納者が共に食事をする場合、無傷の雄の牛、羊、山羊献げ物の条件が示される(18-25節)。
これは満願と随意の献げ物(18節)であるが、満願の場合は酬恩祭(和解の献げ物)は(21節)、22-23節に傷だけでなく欠陥もあってもいけない。酬恩祭のことは7章に施行細則がでているが、欠陥については述べていない。これは外国人から入手する場合特に細心の注意を促がす(25節)。

  この犠牲の献げ物が人間的な要求で一色に塗りつぶされている中、27-28節だけ犠牲になる動物の側に配慮がなされているような気がする。これは意味深だ。

完璧主義

2007-10-29 | Weblog
   レビ記21章は祭司の聖別で、1-9節は一般祭司、10-11節は上位に立つ祭司=大祭司についてである。
  大祭司は、親族の葬儀に関して祭司の場合(1-4節)と比較し一段と厳しく父母であっても禁止される(11節)。
   17-21節には祭司の務めをする者は、身体的欠陥のあるを除外する。新共同訳は八、新改訳は九、口語訳は十二の障害が挙げられている。ヘブライ語の翻訳が難しいようだ。
 20節「背中にこぶのある者、目が弱く欠陥のある者」は、新改訳「 せむし、肺病でやせた者、目に星のある者」、口語訳「背中の曲がった者、背のごく低い者、目にきずのある者」となっている。症状が異なって訳される。肺病でやせた者と背のごく低い者とは違う。弱視・近視と片目の状態も違う。
  これらはすべて障害者差別である。
  祭司の血統には、このような身体的障害があってはならないという完璧主義が伺える。これらの症状は必ずしも生来的でない場合、誰が身体検査をし、判定するかはここには記されていない。
  8節、15節、23節にある通り、聖性の保持の為だが、別な見方をすれば祭司の務めに際し、人間の視聴覚、身体的誤りは厳禁ということだろう。

  ここから、主イエスの周囲に様々な障害を持った人々が集まった(マタイ15章29-31節)新しい共同体が一層鮮やかに浮かんでくる。
  神の国には何ら差別はない(ルカ14章21節)。

慈愛と峻厳

2007-10-28 | Weblog
    レビ記20章は18、19章の違反に対する厳罰である。律法にはこの両面がある。「聖なる者になる」ことがここでも求められるが(7、26節)、それは汚れた者と区別されることだからである
  1-6節は異教の礼拝に対する審判
  7-21節は性的罪に対する審判
  神の審判は異教の礼拝者に対しては民の中から断つ(排除する)こと。性的罪に対しては27節の死刑・石打刑(9ー16節)、断つ(17-18節)、子を得ない(19-21節)である。
  これ程までに厳しい審判が示される理由が22節以下に記される。それは23節、25節にある通り、周辺諸国の異教(偶像礼拝)と一線を画す為であった。
  モレク神(2-3節)はアンモン人、獣婚(15-16節)はエジプト人の祭儀であったようだ。

  石打刑とは裸にされ両手を縛り崖から突き落とし、絶命しない場合人の頭程の石を胸の上に投げて処刑するという残忍な方法。石打刑は24章14節、申命記17章5-7節にも記されいる。想像するだけでもおぞましく身震いする。

  9節の死刑は、19章3節(十戒の第五戒)違反である。

  18、19章と20章とを比較する時、「神の慈愛と峻厳をおもい見よ」(ローマ11章22節口語訳)が示される。



隣人を愛しなさい

2007-10-27 | Weblog
    レビ記19章は2節「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなた達の神、主であるわたしは聖なる者である」という命題でまとめられている。これは、11章44節、21章8節などにある。
    十戒と同じ断言法で罰則がない。本章で「わたしは主である」が繰り返されている(15回)。
    3節は十戒の第五戒と第四戒、4節は第一戒と第二戒。11節は第八戒、12節は第三戒に相当する。30節も第四戒。

    13~18節は、出エジプト22章20~26節にある人道的律法と共通する。エジプト奴隷生活から救出だされた慈愛の神を言い表している。特に18節は、マタイ22章39節で主イエスが最も重要な掟の一つとして採りあげられた。

    26~29節は異教の風習に染まないことのようだ。
   35~36節は不正と偽りを排除する基本。これはカノン(正典・法典)と結びついている。今日でも「分銅秤」は裁判のシンボルになっている。

    

嫌悪すべきこと

2007-10-26 | Weblog
    レビ記18章は、小見出しに「いとうべき性関係」となっている。
  「いとうべき」(22~30節に5回出てくる)を口語訳は「憎むべき」、新改訳「忌み嫌うべきこと」とある。abomination(憎悪、嫌悪)である。「いとう」は表現としは弱い。
 7-16節は「辱めること」
 17節は「破廉恥な行為」
 23節は「秩序を乱す行為」
 4節、26節「わたしの掟と法とを守る」ということから、創世記にある性的関係が肯定されるものではなく、別解釈を要する記述になる(ノア物語、ユダとタマルの関係等)。
  ここで厳しく問われるのは、3節にあるエジプトとカナンの風習に従うのを禁止することで、それは土着宗教(偶像礼拝と祭儀)と一線を画すことであった。しかしイスラエルにはこれに失敗した歴史がある。エゼキエルはそれを指摘する(23章)。

  一般には、近親相姦に関して劣勢遺伝を避けるという生物学的な原理があるが、ここでは論外である。
  

断絶

2007-10-25 | Weblog
   レビ記17章から26章を一つのまとまりを持つ文書とみなされるが(神聖法集)、しかし16章まで示された贖いの献げ物とそれに関わる細則や儀式につながったもの。
  神聖法集は、聖なる者となれ(19章)、死刑(20章)、祭司の汚れ(21章)など周辺の国と違うイスラエル共同体の形成を強く示しているようだ。
   
   2-9節は牛、羊、山羊を屠る時は必ず幕屋の入口に連れてくること。祭司によって血を祭壇を注ぎ油を燃やして酬恩祭(和解の献げ物)とする。祭司も連れて来た者もその肉を食する。それは血の処理を祭司の手で執り行うためである。
   10-16節で「血は命の贖い」として祭壇に献げ、決して血のある肉を食べてはならないと定めている。これは現代でもユダヤ教徒は厳守して、血抜きをした品を売る肉店がある。

   本章には「断たれる」(4、9、14節)「断つ」(14節)の言葉が出てくる。これは18章29節、20章5節などにもある。共同体から断たれることか。日本語には「断つ」「絶つ」「裁つ」「経つ」がある。絶つは抽象的だが、断つは具体的表現である。神との関係は絶つである。断絶は神と人の関係である。

  断絶されたら生きる意味を失う。
  主イエスの十字架上での7つの言葉を福音書から改めて示される。
  

アザゼルの雄山羊

2007-10-24 | Weblog
   レビ記16章は、2節「決められた時以外に」大祭司アロンが罪祭の儀式を行なう規定である。これは新共同訳"小見出し"にある年一度の「贖罪日」を指す。それは7月10日(29節)で「最も厳かな安息日」(31節)であった。
   アロンは先ず自分と一族の為に(6節)、イスラエルの民(15)の為罪祭の献げ物をする。次に15節「贖いの座」(贖罪所)、16節「至聖所」、「臨在の幕屋」(聖所)、18節「祭壇」の贖いの儀式をする。
   この後雄山羊の頭に手を置き、民のすべての21節「罪責と背きと罪」を告白して無人の荒れ野に追いやる。これがアザゼルの雄山羊である。
   最後にアロンは自らと民のために燔祭(焼き尽くす献げ物)をする(24節)。

  16章は11章から15章までの罪の汚れがすべて贖われる批准と考えられる。21節を口語訳では「イスラエルのもろもろの悪ともろもろの咎、もろもろの罪」となっている。

  これ程まで罪の贖いを徹底して聖なる神を礼拝しようとした。それは驚くばかりだ。
  
   

成人の性

2007-10-23 | Weblog
     レビ記15章は成人の性について汚れと清めが記される。
   1-17節は男性の精、19-23節と25-30節が女性の出血。18、26節は男女の性行為のことである。
    すべて自主的な判断。病でない時は「身を洗う」だけでよい。
    男女とも病の場合は、癒された時7日間を置いて8日目に咎祭と罪祭の儀式がいる(13-15節、28ー30節)。

    汚れというのは宗教的な規定だが、衛生的な面もある。感染の有無も問われる。イスラエル共同体が厳しく求められたのは、周辺の偶像礼拝と性的紊乱があったからだろう。性の問題は18章、20章にも律法として定められている。

   主イエスが12年も出血の止まらない女を癒された記事がある(ルカ8章42-48節)。その後のことは記されていないが、彼女は大きな喜びと感謝を抱いて咎祭、罪祭の儀式を行なっただろう。    

清めの儀式

2007-10-22 | Weblog
    レビ記14章は、重い皮膚病が治癒した時の清めの儀式である。この時も祭司の観察を受ける。
 儀式に必要な物を準備する(4-5節)。杉の枝に緋色の糸でヒソプを縛り、一羽の雀を殺して水の上にたらし、もう一羽の雀を血と水に浸して放つ(6-7節)。
  雀は病の汚れを遠くに持ち運ぶということか。

  次に全身の体毛を剃って身を洗う。これは大変なことだ。
  宿営の外で一週間過ごし再度剃る。
  10~20節に贖いの儀式を行なう。咎祭と罪祭と素祭である。
  22~32節は貧しい人たちへの配慮。
  33~53節は家屋のカビが生じた時の清めの儀式。これは人体の同じ観察だが、カビが無くならないと撤去するというからこれまた大変だ。34節にカナンの土地に入った時という断りがある。

  重い皮膚病を主イエスに癒して頂いた時、清めの儀式をすることが出ている(マルコ1章40-44節)。ルカ17章にも主イエスに10人が癒された記事がある。
  病の癒しは、喜ばしい神の御業である。

皮膚病

2007-10-21 | Weblog
   レビ記13章は人体の皮膚病と後半47節以下はかびについて、汚れと清めの規定が記される。
   皮膚については宗教的な判断から出ているので、実際の病理学とは合致しない。祭司は医師ではなく、症状を観察し調べるだけである。問題なのは、病名が付けられたことである。これまで「らい病」(ハンセン氏病)ツァラアトと訳されていた同じ言葉が「かび」(47節)を口語訳、新改訳が「衣服のらい」としていることでわかる。
   祭司が皮膚を観察して、湿疹、斑点、疱疹で症状から判断して疑わしい場合、一週間隔離し、広がっているか否かで更に一週間観察する。そこで「重い皮膚病」の判断がなされる(2-8節)。それは慢性皮膚病(11節)。一度治っても再発がある(22節)。
   頭部か首回りの症状も観察する(29-44節)。人体で汗腺のある場所は頭部に限らないのだが。そけい部など。
   当時病気治療がなされていたと思われるが、ここでは全く出てこない。
   衛生的に感染を防止することが目的で、共同体の宗教行事を清く守ろうとしたと思われる。
   かびは湿度に関係している。イスラエル地方は日本と違い湿度は高くないだろう。

   病気の治療では、預言者エリヤがアラムの将軍ナアマンの皮膚病を癒した記事がある(列王記下5章)。ここも重い皮膚病はツァラアトである。
   神は不可能と思われる重い病気も癒されるという信仰を持ちたい(出エジプト15章26節)。

出産

2007-10-20 | Weblog
    レビ記12章は妊婦の出産に関する規定。
   何故出血が汚れなのか、宗教的意味として言えることは、「血は命」(創世記9章5節)という前提からである。
   犠牲の動物の血を祭壇に塗るのは、命の贖いを意味する。したがって血に対する特別な関心が求められる。
   そこから、出産の出血に対して神に清めて頂くという儀式になっている。汚れと清めはつながる宗教的概念である。
   男児出産の場合7日と33日で40日が妊婦の清めの期間(4節)。40日は完全数。女児がその倍という。何故か判らないが、特別扱いとなる。
   母親は清めの期間が過ぎると、雄羊か鳩を携えて神の許に来て燔祭と罪祭を献げる。この期間は休養して健康を回復し日常生活に戻る迄の配慮となる。三千数百年も前に、これ程の保健衛生があったことは驚きである。
   献げ物には男女の区別はない。

   母マリアも出産後この規定に従って鳩を献げるために、イエスを抱いてエルサレム神殿に行った(2章22-24、27節)。

  
  


汚れとは

2007-10-19 | Weblog
   レビ記11章から、汚れに関する記述が16章まで続く。16章は10章とつながった章である。
   11章はアロンに神が告げた区別(10章10節)を具体例で示した規定である。
   ひずめ有無と反芻有無の四つの動物 1-8節
   水中の魚類でひれと鱗の有無(名が記されていない) 9-13節
   19種の猛禽類 13-19節
   いなご以外のすべての昆虫類 20-23節 爬虫類 41-43節
   これらはすべて汚れたもので、食べてはならない。
   次に死骸に触れることは汚れとなる24-40節。29節以下には爬虫類の種類が挙げられ、土器、かまど、焜炉、泉と池、種もみに死骸が落ちた場合である。
   汚れたものとして挙げられているのは、衛生上ではなく宗教的規定といえよう。ひずめ、反芻、ひれと鱗の判別では、動物学上では間違っている。例えばらくだ、狸、兎など。水中のひれの無い魚は殆んどいない。

  汚れを避けるのは、45節にある通り、聖なる神によって聖なる共同体とされた証しであった。

  使徒言行録10章9節からヤッファで見たペトロの幻の記事がある。そこでユダヤの食物規定に束縛されない判断が示されている。

  キリスト者もまた聖なる民とされているので、この世につける様々な罪と汚れから清められねばならない。ローマ1章29~31節に罪の目録がある。  
   

祭司の違反

2007-10-18 | Weblog
    レビ記10章にはレビの子らの規定違反が厳しく問われている。
    レビに4人子がいた(1、6節)。ナダブとアビフが規定に反した炭火(口語訳は異火)で香をたいたという。炭火は祭壇から取るべきだった(16章12節)が、そうしなかったのか。
   二人は火(雷)に撃たれて死んだ。大祭司も祭司も燔祭と咎祭が必要なのは、既に9章にあったが、この事例は、主が直接アロンに告げていることを(9~11節)厳格に遵守する、教訓であろう。
  二人は「濃い酒」(9節)で泥酔していたと言われている。

   違反は16-17節にもあった。これは民のための罪祭の献げ物で、規定に従って食べることになる。これは6章18-23節にある。しかしアロンは二人の事件から燔祭(焼き尽くす献げ物)にしたのである。これも判断を誤る違反だが、モーセはアロンの弁明を容認した。異火とは違反が違うようだ。

  アロンの子らに対する神の審判は、「聖と俗、清いものと汚れたものの区別」にあっただろう。ここから示されるのは、第二コリント6章14~7章1節である。
    

両手をあげて祝福する

2007-10-17 | Weblog
   レビ記9章は、8日目にいよいよアロン自身が祭儀の初執行をした。
   先ず7-14節で、アロンは自らの為に、無傷の一歳の雄牛で、燔祭(8節)と罪祭(12節)を行なった。
   続いて15-21節で彼は民の為に、無傷の雄山羊で燔祭を行い(15節)、次に罪祭のための動物で儀式を行い(16節)、更に素祭(17節)、酬恩祭(18節)を行なった。

 すべての祭儀が終ると、アロンは壇上から両手を挙げて民を祝福した(22節)。

   これがキリスト教会の礼拝形式に採用されたという。一般に礼拝で「祝祷」というのは、神に祝福を祈ることだが、ここは違っている。神の祝福の宣言である。洗礼式、結婚式などで司式者が両手を挙げてする宣言と同じである。現状はこれが曖昧になっているようだ。