日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

新田を耕し正義の種を蒔け

2010-03-31 | Weblog
  ホセア10章 

  1~15節 イスラエルに対する審判
  1節「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた」。この歴史的背景として列王記下14章にあるヤラベアム二世の治世(紀元前787~747年)が示される。国は繁栄し領土は拡大したが政治的不正と偶像礼拝は一層甚だしくなった。「伸び放題のぶどうの木」とはそのことである。

  2節「彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き、聖なる柱を倒される」。過去を回顧し、それを遠因として神の審判が示される。 神はべト・アベン(ベテルのこと)の高台にある偶像の祭壇を破壊される(5~6節)。
  9節「イスラエルよ、ギブアの日々以来お前は罪を犯し続けている」。再度ギブアの罪が取り上げられる(9章9節=士師記19章 cf)。
  10節「いや、わたしは必ず彼らを懲らしめる。…二つの悪のゆえに彼らを捕える」。二つの罪とは、ギブアでの不義と、ベテルの偶像礼拝である。
  11節「イスラエルは飼い馴らされた雌の子牛…エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く」。これは理想的なイスラエルがイメージされている。
  12節「恵みの業(ツェダカー)をもたらす種を蒔け、愛(ヘセド)の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように」。口語訳「あなたがたは自分のために正義をまき、慈しみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる」。悔改めを促す招きの言葉である。正義(ツェダカー)と慈しみ(ヘセド)は、繰り返し預言者が語り告げる神の聖意である。

  13節「ところがお前たちは悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ」。然し、民はこれに応えないで、悪を耕し、不正を刈りいれているので、神の審判が下るという(14~15節)。
 
  エレミヤ4章3節にも「新田を耕せ、いばらの中に種をまくな」とある。新田とは荒地であり、雑草を抜きとり石を取り除いて耕すことは容易ではない。しかしそこから新しい種を蒔き、豊かな収穫を期待する。そのような状景が浮かんでくる。

  正義の種を蒔き、恵みの雨が注がれ、慈愛の稔りが与えられるのである。 

新しくスタート・ラインに立つ

2010-03-30 | Weblog
 ホセア9章
 
  イスラエルの罪の弾劾は6章から続いている。歴史を回顧し、その出来事が今起きていることと重ね合わせて指摘される。
  1節「イスラエルよ、喜び祝うな…お前は自分の神を離れて姦淫し…姦淫の報酬を慕い求めた」。その結果主の土地に留まりえず(3節)、偶像にささげられたパンを食べる(4節)。
  5節「祝いの日、主の祭の日に、お前たちはどうするつもりか」。偶像礼拝の結果は祝祭に混乱が起き、町は荒廃する(6節)。
  「エジプト」の言及(3、6節)は、アッシリアとの攻防で、エジプトに援軍を頼んだ事である(7章10~11節・列王記下17章3~4節)。

  7~9節 予言者への憎しみ
  7節「裁きの日が来た。決済の日が来た。イスラエルよ、知れ。お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので、予言者は愚か者とされ~」。口語訳「預言者は愚かな者、霊に感じた人は狂った者だ。これはあなたがたの不義が多く、恨みが大きいためである」。民衆に踊らされて、予言者は繁栄と平和の偽りの予言をする(8節)。
  9節「ギブアの日々のように、彼らの堕落は根深く、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる」。士師記19~21章にあるギブアでの集団レイプ事件と同じ不義を犯し、主はこれを裁かれる。

  10~14節 ペオルにおける罪
  10節「…ところが、彼らはバアル・ペオルに行った。それを愛するにつれて、ますます恥ずべきものに身をゆだね、忌むべき者となっていった」。モアブの娘たちと犯したバアル礼拝事件と同じ失敗を犯している(民数記25章see)。
  11節「エフライムの栄えは鳥のように飛び去る。もう出産も、妊娠も、受胎もない」。たとえ出産し子を育てても、主なる神にひとり残らず奪い取られ、アッシリアに渡される(13節)。主に対する祈りは妊娠も受胎もないものである(14節)。多産を祝うバール礼拝の否定。

  15~17節 ギルガルにおける罪 
  15節「彼らの悪はすべてギルガルにある。まさにそこで、わたしは彼らを憎む。その悪行のゆえに、彼らをわたしの家から追い出し、わたしは、もはや彼らを愛さない。高官たちは皆わたしに逆らう者だ」。イスラエルの宗教的政治的中心地であったギルガル(ヨシュア4~5章)が、今バアル礼拝の地になっている(4章15節see)。
  17節「わが神は彼らを退けられる。神に従わなかったからだ。…」。イスラエルの背信行為は厳しく裁かれねばならない。

  歴史を回顧すると罪の汚点の数々が見えてくる。人はそれを隠蔽したがるがしかしそうではない。Back to base 基本に帰る。新しくスタート・ラインに立つのである。10節「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た」。
  キリスト者は、いつもこれを忘れてはならないエフェソ2章1~5節を読む。

五穀豊穣、子孫繁栄を願う子牛を捨てよ

2010-03-29 | Weblog
 ホセア8章 

  1~3節 イスラエルに対する警告
  1節「角笛を口に当てよ。鷲のように主の家を襲うものがある。イスラエルがわたしの契約を破り、わたしの律法に背いたからだ」。「角笛」は、主の契約を破り背くイスラエルに対する審判の警報である。
  2節「わたしに向かって彼らは叫ぶ。『わが神よ、我々はあなたに従っています』と」。神に従っていると言うが、契約を破っている。
  3節「しかしイスラエルは恵みを退けた。…」。形式的見せ掛けだけの信仰で、主の恵みを退けたので、外敵に襲われる(3節)。新共同訳「追われるがよい」は意訳。

  4~6節 イスエラエルの偶像は打ち砕かれる
  4節「彼らは王を立てた。…高官たちを立てた。しかしわたしは関知しない。彼らは金銀で偶像を造ったが、それらは打ち壊される」。ヤロブアム二世以降のイスラエル王朝が批判される。金銀の偶像を造ってバール神を礼拝した。
  5節「…お前の子牛を捨てよ。わたしの怒りは彼らに向かって燃える。いつまで清くなりえないのか」。口語訳「…わたしはあなたの子牛を忌みきらう。わたしの怒りは彼らに向かって燃える。彼らはいつになれば…罪なき者となるであろうか」。「子牛を捨てよ」だが、口語訳「忌み嫌う」新改訳「はねつける」岩波訳「退けよ」である。このヘブライ語(ザーナハ)は「恵みを退けた」(3節)と同じ言葉である。退けるものを間違えている。バール神子牛はイスラエルと共に必ず粉々に砕かれる(6節)。

  7節「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす」。 イスラエルは野の作物が不作で芽も穂もでない状態。出来ても他国の人々に食いつくされる(8節)。
  9節「エフライムは独りでいる野ろば。…貢によって恋人を得た」。アッシリアや諸国に貢を贈って支援を得ようとしたが、重荷になって苦しむようになる(10節)。
  11節「エフライムは罪を償う祭壇を増やした。しかし、それは罪を犯す祭壇となった」。何という皮肉であろう。罪を償う祭壇が、罪を犯す祭壇になるとは。
  13節「わたしへの贈り物としていけにえをささげるが、その肉を食べるのは彼らだ。主は彼らを喜ばれない。今や、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる…」。主が喜ばれるのは、愛であっていけにえではない(6章6節see)。今や民は悔い改めて、エジプト脱出の時に立ち帰らねばならない。
  14節「イスラエルはその造り主を忘れた。彼らは宮殿を建て連ねた…」。打ち壊されるものに心奪われて、創造主を忘れた。それらは焼き尽くされねばならない。
イスラエルの不徹底な悔改めが問われている。

  わが国は因習に染まった宗教行事が現在も温存されている。何の疑問も持たないままマスコミで報道され、受け入れている。
  五穀豊穣、子孫繁栄を願う子牛の祭壇を捨てないで、真実の平和と祝福は無いことを、肝に命じねばならない。

ねじれた弓のように虚しいものに向かう

2010-03-28 | Weblog
 ホセア7章 

  1~7節 イスラエルの罪(続き)
  1節「イスラエルをいやそうとしてもかえって、エフライムの不義、サマリアの悪が現れる。実に、彼らは偽りをたくらむ。盗人は家に忍び込み、外では追いはぎの群れが人を襲う」。イスラエルの罪状が列挙される。悪に取り囲まれながら意に介さない(2節)。
  4節「彼らは皆、姦淫を行う者、燃えるかまどのようだ。パンを焼く者は小麦粉をこねると膨むまで、火をかき立てずにじっと待つ」。彼らの悪行と陰謀を、パン種が膨らむまで待って、かまどの火が燃え上がる寸前の状態になぞらえる。
  5節「我々の王の祝いの日に、高官たちはぶどう酒の熱で無力になり、王は陰謀を働く者たちと手を結び」。王の祝宴が催される日に、密かに謀反が企てられている。
  7節「彼らは皆、かまどのように熱くなり、自分たちを支配する者を焼き尽くした。王たちはことごとく倒れひとりとして、わたしを呼ぶ者はなかった」。反乱の陰謀は今や実行に移された。

  8~16節 イスラエルと諸国民
  8節「エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ、エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった」。この悪事と陰謀の状態は「裏返さずに焼かれた菓子」、新改訳「生焼けの菓子パン」だという。表は生焼きだが裏は焦げ焼きで食べられたものではない。期待に反した民は吐き捨てるだけである。
  11節「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く」。帰趨本能を失った愚かで悟りのない鳩と同じである。主なる神に帰らないで、エジプト、アッシリアに頼っていく背信の民である(10~11節)。
  14節「寝床の上で泣き叫び、穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが、わたしには背を向けている」。口語訳「彼らは真心をもってわたしを呼ばず、ただ床の上で悲しみ叫ぶ。彼らは穀物と酒のためには集まるが、わたしに逆らう」。新共同訳は、穀物と酒をバールの祭壇に供え泣き叫び身を傷つけて祈る狂態としている(列王記上18章28節see)。

  16節「彼らは戻ってきたが、ねじれた弓のようにむなしいものに向かった。高官たちは自分で吐いた呪いのために、剣にかかって倒れ、エジプトの地で、物笑いの種となる」。新改訳「たるんだ弓」。「ねじれた弓」は正しい方向に飛んで行かず、的に当たらない。ヘブライ語「罪」(ツァターアー)の原意は「的外れ」で、ギリシャ語「ハマルタノー」と同じである。これらはみな本来の状態を失った「不正」を指す。
  強く絃を引けば引くほど、弓矢は違った方向に飛んでいく。不正に気付かないで自らを正しいとする人の罪深さが暴露される。

  地獄への道には良いことしようという願いで敷き詰められている。ローマ信徒の手紙7章24節「ああ何という惨めな人間なのだろう」という嘆きが聞こえて来る。

打ち砕かれた悔いた心

2010-03-27 | Weblog
  ホセア6章 

  1~3節 悔い改めの言葉
  1節「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」。新共同訳はこれを「偽りの悔改め」としている。5章15節の自発を促すことと結びつけるなら、ホセアが民に向けた悔改めの勧めとも理解され必ずしも偽りとはいえない。
   3節「…主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ~」。主を知るとは人格的な関わりを表わす(2章22節see)。

  4~6節 悔改めに対する神の言葉。
  4節「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」。主は民の安易な悔い改めに批判を投げ掛けているのだろうか。「お前たちの愛(ヘセド)は朝の霧のようだ」が曙の光が現れる時に、それは消えてしまう。それは裁きの光だからだ(3、5節)。
  6節「わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」。口語訳「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」。新改訳「わたしは誠実を喜ぶが~」。 わたしは慈しみ(ヘセド)を喜び、神を知ることを喜ぶという。
  ここにも心からの応答を求める主の慈愛が示される。それは打ち砕かれた悔いた心である(詩51篇19節)。

  7~11節 イスラエルの罪
  7節「彼らはアダムで契約を破り、そこでわたしを裏切った」。その意味しているのは、イスラエルの罪状で、それは神と断絶した根本的な原罪(創世記3章)が、今現れている。それはギレアドの流血(8節)、祭司らの計画的な犯罪行為(9節)、そしてエフライムの姦淫(偶像礼拝による背信)である(10節)。これは7章に続く。

尋ね求め、わたしを捜し求めよ

2010-03-26 | Weblog
 ホセア5章  

  1~7節 イスラエルに対する審判
  1節「聞け、祭司たちよ、心して聞け、…耳を傾けよ、王の家よ」。王と祭司らにその責任を問う。
  3節「…イスラエルがわたしから隠れることはできない。まことに、エフライムは淫行にふけり、イスラエルは身を汚している」。イスラエルの罪状は明らかだ。悪行と淫行の霊(4節)、高慢と不義だと告げる(5節)。
  6節「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが、見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた」。犠牲を携えて主を尋ねて来ても、イスラエルを見放された主に出会うことはない。

  8~15節 戦争の罪と罰
  ここでは「わたし」と一人称で預言している。
  8節「ギブアで角笛を、ラマでラッパを吹き鳴らせ。ベト・アベンで鬨の声をあげよ。ベニヤミンよ、背後を警戒せよ」。ギブア、ラマ、ベト・アベンはベニヤミン領で南ユダとの対戦準備を示している。歴史的背景はアラム・エフライム同盟軍が南ユダを攻撃した争いである(列王記下16章5節see)。この対戦は南ユダがアッシリアに援軍を頼み敗北する(9~10節)。
  11節「エフライムは蹂躙され、裁きによって踏み砕かれる。むなしいものを追い続けているからだ」。イスラエルの王ペカは殺され、民は捕囚としてアッシリアに連れ去られる。
  13節「エフライムが自分の病を見、ユダが自分のただれを見たとき、エフライムはアッシリアに行き、ユダは大王に使者を送った。しかし、彼はお前たちをいやしえず、ただれを取り去ることもできない」。次の王ホシェアは再びアッシリアが攻撃した時彼に服従して貢ぎ物を納めたが、謀反を起こした為にアッシリアに滅ぼされる(同17章6節)。同じ時に南ユダの王アハズは使者を遣わして敬順の態度を表わし、アッシリアの祭壇をモデルにして築き、エルサレム神殿を改造するという愚行をなした(同16章10~18節)。
  14節「わたしはエフライムに対して獅子となり、ユダの家には、若獅子となる。わたしは引き裂いて過ぎ行き…救い出す者はいない」。神に見放されることとなる。
 15節「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」。しかし国が滅ぼされ、罪を認めて神を尋ね求める時を待つという。ここに悔改めの自発性が促される。

  神学者カルヴァンは神の絶対恩寵を解いた。神の救いに人の側の条件はない。全く神の働きであるが、しかし人は「操り人形」として神に創造されたのではない。神の呼び掛けに応答する者とされた。救いはそこからはじまる。

  ここで、「求め続けよ、門をたたき続けよ」(マタイ福音書6章7節)という主イエスの言葉が響いてくる。



見放される罪の審判

2010-03-25 | Weblog
  ホセア4章 
  1~3節 主の告発
  1節「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ」。先ず主の民への告発である。 誠実と慈しみ(ヘセド)と神を知ることが無いという。口語訳「この地には真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもない」。その結果「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている」のである(2節)。更に旱魃で動植物が死ぬという(3節)。

   4~10節 祭司の堕落
  5節「もはや告発するな、もはや争うな。お前の民は、祭司を告発する者のようだ」。口語訳「…祭司よ。わたしの争うのは、あなたと争うのだ」。問題は祭司だけではない。預言者も告発されねばならない(5節)。原因は神の律法を忘れ、退けたからだ(6節)。
  7節「彼らは勢いを増すにつれて、ますます私に対して罪を犯した」。新改訳「彼らはふえるにしたがって、ますます、わたしに罪を犯した」。祭司ら誤った働きは、一層神への背信となる。民の罪をむさぼる(8節)。
  9節「…わたしは、彼らを行いに従って罰し悪行に従って報いる」。偶像礼拝にふけって止めず、主を捨て聞き従おうとしなかったからだ(10節)。

  11~14節 偶像礼拝の罪
  11節「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う」。偶像礼拝で判断力を失う。木(アシュラ像)や枝(テラフィム)に託宣を求めて淫行に耽り(12節)、山や丘の上に祭壇を築いて偶像礼拝を行い(13節)、神殿娼婦と同じように女たちが姦淫を行って紊乱状態にあるが、この結果は滅びであるから「わたし」は放任する(14節)。9節にある通り、これは厳しい主の審判である。

  15~19節 北イスラエルを見習うな
  16節「まことにイスラエルは、強情な雌牛のように強情だ。どうして主は、彼らを小羊のように、広い野で養われるだろうか」。ユダは罪を犯すなと告げて北イスラエルを見習うことを警告する。危険がない広い野に放牧される群れではもはやない。
  17節「欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らは生け贄のゆえに恥を受ける」。口語訳「風はその翼に彼らを包んだ。彼らはその祭壇のゆえに恥を受ける」。偶像礼拝の霊が吹きまくる嵐となって祭壇を破壊する。

  神に見放される罪の審判についてはローマ1章24節にある。
 御子イエスは十字架上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ福音書15章34節)と叫ばれた。ここに人の罪を担われた神の審判を知ることが出来る。

この後ふたたび罪を犯すな

2010-03-24 | Weblog
  ホセア3章 

  1節「主は再び、わたしに言われた。『行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように』」。ここで主なる神は、ホセアにゴメルのもとに「行け」と促した。破綻した関係回復は主からの要請である。これは彼に求められる苦悩の決断である。裏切る者を愛することは出来ることではない。然しそれを促すのは、「主がなお彼らを愛されるように」である。
  2節「そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った」。淫婦に堕ちたゴメルを、彼は身代金の銀と大麦を払って連れ帰した。決して純愛物語ではない。彼女はバール神殿の娼婦になっていたのだろうという。
  3節「わたしは彼女に言った。『お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる』」。ホセアには激しい叱責の言葉は無い。あるのは再び罪を犯すなという言葉である。しかしこれも人間的な愛であるなら、確実性は無い。

  ホセアを突き動かすのは神の慈しみ(ヘセド)である。「憐れみ」「真実」「誠実」「愛」とも訳される。本書には2章21節の他に4章1節、6章6節、12章7節にある。これは人の愛と異なる。
旧約一般では「愛する」はアーヘーブである。1節はこの言葉が使われている。
 
  この箇所からヨハネ福音書8章1~11節の記事を示される。
姦通をした女を律法学者やファリサ派の人々が神殿の境内に連れて来て主イエスに、これをどう裁くか試す記事がある。主は「罪を犯したことの無い者が、先ず女に石を投げよと言われたが、誰一人出来る者はいなかった。主は女に罪の赦しを宣言し、「往け、この後ふたたび罪を犯すな」(文語訳)と告げている。

「わが夫」と呼び「わが主人」とは呼ばない

2010-03-23 | Weblog
 ホセア2章 

  1~3節 イスラエルの回復
  1節「イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは『あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)』と言われるかわりに、『生ける神の子ら』と言われるようになる」。これは口語訳1章10~11節で、区分の仕方が異なる。新共同訳は回復預言(1~3節、16~25節)の間に背信記事(4~15節)を挟み込んでいる。不自然さがあるが、2章全体をイスラエルに対する預言と見ている。ホセアの身に起きた実体験は3章に続いているので、本章はホセア預言の総論といえよう。
  2節「ユダの人々とイスラエルの人々は、ひとつに集められ、一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる」。ホセアの預言活動は北イスラエルが未だ滅ぼされていない時期なので、これは遥か先の時代に起きる出来事として描かれる事柄。つまり審判の後に描く救いの時は終末預言として示されるものである。
  3節は1節と同じ内容、25節で再び語られる。

  4~15節 イスラエルの背信
  4節「告発せよ、お前たちの母を告発せよ。彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない。彼女の顔から淫行を、乳房の間から姦淫を取り除かせよ」。一章で示された通り、イスラエルの背信行為は、最早夫でも妻でもない関係になった。偶像礼拝という姦淫を取り除かねばならない。
   7節「その母は淫行にふけり、…彼女は言う。『愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ』」。バアル神殿に野の産物を捧げて礼拝する。バアルの祭司らは、それらはバアルから賜るからだという。それは見当違いだ(10節)。主なる神は、淫行の恥をさらけ出し(12節)、誤った祭りをやめさせ(13節)。ぶどうと、いちじくの園を荒らし(14節)、バアル礼拝者を罰する(15節)。

  16~25 イスラエルの救いの日
1  6節「…わたしは彼女をいざなって荒れ野に導き、その心に語りかけよう」。エジプトから上って来た日のように、呼びかける(17節)。イスラエルの歴史の原点から再出発する。
  18節「その日が来ればと、主は言われる。あなたはわたしを、『わが夫』と呼び、もはや、『わが主人(バアル)』とは呼ばない」。そこから新しい契約の民が生まれる。
  21節「わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ」。契約の更新は「正義(ツェデク)と公平(ミシュパート)、慈しみ(ヘセド)と憐れみ(ラハーミーム)」である。これはイザヤ、エレミヤなど預言者に示された共通項である。

 その日バアル礼拝は終焉する(22節)。
  その日主なる神は天に命じ、天は地に命じ、地は応えて豊かな産物を生みだし、流血は無く「イズレエル」(神が種を蒔く)の地となる(23~24節)。
  イスラエルはルハマ(憐れまれる者)、アンミ(わが民)と呼ばれ、真に神の名を呼ぶことができる(25節)。
 
   キリスト者は主イエスと「新しい契約」に結ばれているのだが(ルカ福音書22章20)、日常会話で気になることがある。それは「わが夫」と呼ばないで「わが主人」と呼び、妻も夫も平気なのである。言葉に厳格でありたい。

 妻を愛し、夫を敬う

2010-03-22 | Weblog
 ホセア1章

 1節 表題 北イスラエルの預言者
 ヤロブアム二世~ホシェア(列王記下14~17章)の時代を背景にしている。

   2節「主はホセアに言われた。『行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ』」。主なる神からのこの過酷な呼び掛けは何か。ここにイスラエルが偶像礼拝(姦淫)を行っている事と淫行の妻をめとることが重ね合されている。一説によればゴメルはバール神殿の巫女だと言われる。
夫と妻を神と民との関係で捉えることは、出エジプト記34章13~15節にある。偶像礼拝は姦淫である。エレミヤ13章26~27節、エゼキエル23章にも語られている。
  3節「彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ」。主から第一児の命名を「イズレエル」とするよう告げられる(4節)。
「イズレエルの流血」は列王記下9~10章のイエフがサマリアで行った粛清事件を指す。イエフはバアル礼拝を排除したが、徹底はしなかった(10章29~31節see)。
  6節「彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。『その子をロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず、彼らを決して赦さないからだ』」。ホセアは二人目の女児誕生に対して、既に妻の姦淫を見ている。これによってイスラエルの赦されない姦淫を描きだす。
  8節「彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ」。三人目は男児であった。その命名も主から告げられ「ロ・アンミ(わが民でない者)」とした(9節)。これは主なる神との関係破綻と断絶を指している。アッシリアによる北イスラエルの滅亡は紀元前722年、ホシェア王治世9年に起きた。預言者ホセアは、このことを見据えている。

  ホセアの家庭崩壊という実体験によって、イスラエルの神に対する不義と不真実を語るということは、誰にも出来ることではない。そこには激しく神の真実な愛を求める預言者の生き様である。

  キリスト者もまた、真実な愛で結ばれる夫と妻の関係をエフェソ5章から示される。「妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」(33節)とあるように。 

主のために生き、主のために死ぬ

2010-03-21 | Weblog
 ダニエル12章
 
  1~4節 大天使長ミカエルについて 
  1節「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く…しかし、その時には救われるであろう お前の民、あの書に記された人々は」。10~12章で表された苦難の結語である。苦難は続くがミカエルが守るという。
  2節「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」。その時に起こる救いの出来ごと。イスラエル復興の預言であるが、ある者は永遠の命へ、ある者は永久の審判である。「塵の中から目覚める」はヨブ記19章25節と共通している。目覚めた者らは大空の星のように輝く(3節)。これらは「真理の書」に封印されることになる(4節、9節)。

  5~12節 終わりの幻  
  6節「その一人が、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人に向かって、「これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」と尋ねた」。ここから一人称になる。川の両岸に立つ人が、終わりの時はいつかという会話をダニエルは聞いた。その一人が両手を天に差し伸べ「一時期、二時期、半時期たって聖なる民が打ち砕かれる時である」と誓っているのを聞いた(7節)。三年半は長い時期ではないという意味。
  10節「多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る」。精錬によって純化され、金滓が除かれるようになる(11章36節see).
  11節「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている」。神殿略奪と荒廃が起きた時から千二百九十日が経過した。しかし千三百三十五日間の忍耐と待望を要するという(12節)。差し引くと四五日まだ足りないということか。

  この日数について、様々な解釈がされるが、封印は解くことは出来ないし、解かれていない。多くの異端思想は、この数字を解釈し誤った終末信仰に陥り、集団自殺に至った歴史がある。「統一協会」もその一つである。

 13節「終りまでお前の道を行き、憩いに入りなさい」。本書の結論である。与えられた使命を貫いて生きることである。
 ここでローマ14章7~8節が示される。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」

純白にされるための精錬

2010-03-20 | Weblog
 ダニエル11章
  
  2~20節 ペルシア時代からセレウコス王朝に至る歴史
  2節「さて、お前に真理を告げよう。見よ、ペルシアになお三人の王が立つ。次に、第四の王はだれにもまさって富み栄え、…ギリシア王国に挑戦する」。歴史的には特定できない。
  3節「そこに、勇壮な王が起こり、大いに支配し、ほしいままに行動する」。アレキサンダーである。しかし彼は遠征先で急死し、領土継承の争いから国は分裂する(4節)。
  5節「このうち南の王となったものは強くなるが、将軍の一人が王をしのぐ権力をとり…」。南の王はプトレマイオス一世、将軍の一人はセレイコス一世。ここから南の王と北の王との確執が始まる。
  6節「何年か後、二国は和睦し、南の王の娘は北の王に嫁ぎ、両国の友好を図る。だが、…やがて…裏切られる」。政略結婚でプトレマイオス二世の娘はアンティオコス二世の許に嫁ぐが、殺害される。
  7節 プトレマイオス三世の復讐。シリア軍を攻め、勝利品をえてエジプトに持ち帰る(8節)。
  9~10節 一進一退の攻防が続く。
  11~12節 プトレマイオス四世はアンティオコス三世を攻撃して、決定的な勝利をえないで和睦する。
  13~15節 アンティオコス三世の反撃で、エジプト軍を破る。この時「麗しの地」(イスラエル)はシリアに支配される(16節)。
  アンティオコス三世はエジプト全土を支配しようと企み、和睦し娘を政略結婚させるが、成功せず暗殺される(17~19節)。
  21~29節 アンティオコス四世の支配 
  21節「代わって立つ者は卑しむべき者で…甘言を用いて王権を取る」。アンティオコス四世エピファネスが登場する。「契約の君もやぶられる」とはイスラエルが支配されることである(22節)。彼の勢力は拡大するが、それは「一時期のこと」である(24節)。プトレマイオス六世は側近に操られて、彼の軍勢と戦うが勝つことが出来ない(25~26節)。
  28節「北の王は莫大な富を獲得して自国に引き揚げる。聖なる契約に逆らう思いを抱いて、ほしいままにふるまい、自国に帰る」。エピファネスは帰途イスラエルによりエルサレム神殿を破壊し、その祭儀を止めさせギリシアの神々を拝ませようとした。その後もエルサレムの破壊が継続している(29~30節)。
  彼の横暴な反イスラエル政策で、剣にかかり火刑に処せられ、倒されるが、彼に組みする不誠実な者もいる(31~34節)。
  この受難の意味は「終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである」(35節)。
  37~39節 偶像礼拝による荒廃した国の状態である。
  40~45節 終末における戦争対立が激化し、その狭間に「麗しの地」も侵略される。

  「練り清められ、純白にされる」火の精錬については、第一ペトロ1章6~7節に出ている。これは本物の証明に必要なことである。

恐れるな、愛されている者

2010-03-19 | Weblog
 ダニエル10章
 
 10~12章 終わりの時に就いての幻 1節はその序文  
2~5節 チグリス河岸で幻を見る
2節「そのころわたしダニエルは、三週間にわたる嘆きの祈りをしていた」。その間彼は一切の美食を遠ざけ、肉も酒も口にせず、体には香油も塗らなかった(3節)。過越祭と除酵祭をはさんで行われた嘆きの祈りが1月24日まで続いた(4節)。その日わたしはチグリス河岸にいた。
5節「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯をして立っていた」。麻の衣は祭司の着衣

 6~9節 壮大な幻
 6節「体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった」。これを見たのはダニエルだけであった(7節)。彼は壮大な幻に圧倒され力が抜けて地に倒れ、気力が失せた(8節)。その人の語りかける声がしたが、聞きながら意識を失った(9節)。

 10~14節 人の子のような姿の者の言葉
 11節「…『愛されている者ダニエルよ、わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、…わたしはこうしてお前のところに遣わされて来たのだ』。こう話しかけられて、わたしは震えながら立ち上がった」。彼はダニエルを引き起こして、こう告げた。ダニエルが三週間の苦行で神意を知ろうとしたが、その最初の日から祈りを聴いてわたしは来たのだと告げた(12節)。
 13節「ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった」。天上でペルシアの守護天使長と二十一日間のバトルがあり、イスラエルの守護天使長ミカエルが助けに来てくれたので来たので、そこにいる必要はなくなった。そこで、民に将来起こる幻を告げるために来たのだという理由を聞いた(14節)。黙示文学に出てくる光景である。「ミカエル」はユダの手紙9節、ヨハネ黙示録12章7節にある。

 15~21節 再び告げられる
 唇に触れたので口を開いて尋ねた(16節)。
17節「どうして主の僕であるわたしのような者が、主のようなお方と話すことなどできましょうか。力はうせ、息も止まらんばかりです」。再び触れ力づけられた(18節)。
19節「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい」。そしてこの人のような方は、ダニエルの許に来た理由を告げ、ギリシヤの天使長(ミカエル?)が「真理の書」に記されてことを教えるという(21節)。
逃げ出したり、気力や意識まで失って倒れたり、顔を地に伏せ、言葉を失うダニエルだが、しかし天から声で「恐れることはない。愛されている者よ」と励まされる。
  神の言を聞いて語るには、神に捉えられる状態でなければ出来ない。同様の事柄がヨハネ黙示録にも見られる(1章13節)。

臥して嘆願する祈り

2010-03-18 | Weblog
 ダニエル9章
 
  定めの七十週
  1~2節 ダニエル預言書を読む
  2節「わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った」。メディアのダレイオス治世の時、神殿再建に関してエレミヤに告げた七十年のことをダニエルは知ったという。これはエレミヤ25章11節にある。

  3~19節 罪の悔い改めと嘆願
  4節「わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。『主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ』」。わたし達は罪を犯し悪行を重ね(5節)、預言者に聞き従いませんでした(6節)。背いた罪のゆえに他国に散らされたのでした(7節)。
  9節「憐れみと赦しは主である神のもの、わたしたちは神に背きました」。律法を無視し、御声に耳を傾けなかったので、災難が襲ったのは当然でした(10~13節)。
  16節「主よ、常に変わらぬ恵みの御業をもってあなたの都…から怒りと憤りを翻してください」。御顔の光を輝かせてください(17節)。
  18節「…わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます」。ダニエルは同胞の罪を身に負って祈る。赦しの根拠は民の側にない(19節)。

  神殿再建を図ったが工事中断、困難に直面した時に神に罪を懺悔し恵みの業を祈ったことがエズラ9章、ネへミヤ9章にあり、その状況を伺わせる。

  20~27節 七十年についての理解
  21節「こうして訴え祈っていると、先の幻で見た者、すなわちガブリエルが飛んで来て近づき、わたしに触れた…」。そして理解させようとした(22節)。
  24節「お前の民と聖なる都に対して、七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なる者に油が注がれる」。七十年は七十週だという。490年で、エレミヤの預言を第二捕囚(紀元前587年)とすると紀元前90年頃になる。アンティオコス四世の登場とは70年程の誤差がある。「聖なる者に油が注がれる」とは汚されたエルサレムが浄化されることと解釈される。

  25節「これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから、油注がれた君の到来まで七週あり、また、六十二週あって危機のうちに広場と堀は再建される」。「七週」は  49年でキュロスの解放令によるバビロンからの帰還(紀元前538年)、「六二週」は434年で、アンティオコス四世の登場まで(177年頃、60年程誤差がある)と解釈される。26節の「油注がれた者」は大祭司オニア三世と言われ職を奪われ殺された。
  27節「荒廃をもたらすものが座す」、口語訳「荒す者が憎むべき者の翼に乗って来る」はアンティオコス四世を指すが、これはマルコ福音書13章14節に引用されている。

神の定められた時を待つ

2010-03-17 | Weblog
 ダニエル8章 

  1~8節 雄羊と雄山羊の幻
   3節「目を上げて眺めると、見よ、一頭の雄羊が川岸に立っていた。二本の角が生えていたが共に長く、一本は他の一本より更に長くて、後ろの方に生えていた」。ダニエルは、スサの町のウライ川辺で、雄羊幻をみた。この羊は四方に突進し、ほしいままに高慢に振舞っていた。
   5節「…見よ、西から一頭の雄山羊が全地の上を飛ぶような勢いで進んできた…」。雄山羊は、先の雄羊に突進して打ち倒し二本の角を折った(6~7節)。雄山羊の角も折れたが、代わりに四本の角が生えた(8節)。 

   9~14節 一本の角が猛威を振るう
   9節「そのうちの一本からもう一本の小さな角が生え出て、非常に強大になり、南へ、東へ、更にあの『麗しの地』へと力を伸ばした」。この角は『麗しの地』(エルサレム)に侵入し、日毎の供え物を廃し、聖所を倒した(11節)。
   13節「…もう一人の聖なる者がその語っている者に言った。「この幻、…日ごとの供え物が廃され、罪が荒廃をもたらし、聖所と万軍とが踏みにじられるというこの幻の出来事は、いつまで続くのか」。この問いに対して日は暮れ、夜が明けること二千三百回であるという返事であった(14節)。朝と夕に犠牲を献げるので1,150日になり、三年半(1,278日)に及ばない日数である

  15~26節 幻の解説
  ガブリエル(天使名)によって説明を受ける(16節)。これは終わりの時に起こることだという(17~19節)。
   20節「お前の見た二本の角のある雄羊はメディアとペルシャの王、雄山羊はギリシャの王である」。
  21節「また、あの毛深い雄山羊はギリシャの王である…」。雄山羊が雄羊を打ち倒すとは(6~7節)、アレキサンダーの支配を指し、四本の角が生えるのはギリシャの四分割のことである(8、22節)。
  23節「四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして高慢で狡猾な一人の王が起こる」。これは、その一本からもう一本が生えて猛威を振るうという幻(9~12節)のことと符合が一致し、セレイコス朝のアンティオコス四世を指す。7章24~25節に出ていた。彼はギリシャ化政策で、エルサレム神殿礼拝を止めさせた(24節)。それは必ず終わりの時が来ることを告げている(14、25節)。「最も大いなる君」は口語訳「君の君」でありメシア待望を表す。
 
  ダニエルは疲れ果てて病に倒れる(27)。これは神の定めの時を耐えて待つことであろう。使徒言行録1章7節に「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」と復活の主は言われた。終末信仰は忍耐と待望を要するものである。