日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

わたしがお前に語る言葉を告げよ

2015-02-28 | Weblog
  ヨナ3章 

  2節「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ」(新共同訳)

  1節「主の言葉が再びヨナに臨んだ」。小見出し『ニネベの悔い改め』。魚の腹から陸地に吐き出されたヨナは、再び主からニネベに行って語ることを命じられた(2節)。預言者としての召命である。彼は直ちに主の言葉に従ったのである。「直ちに」(クーム)は口語訳「立って」となっている。直訳は「立ち上がって」で、使命への応答である。ニネベは大きな町で、一回りするのに三日かかるとある(3節)。
  4節「ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる』」。40日ということは、10回程回ることになる。ヨシュア記を読むと、ヨシュアはエリコの城壁を七日間まわったとある。しかしここでは彼は一日ほんの僅かな距離しか叫んでいないのである。そこで彼は「陰府の底から助けを求め」(2章3節)、「滅びの穴から引上げてくださる」(同7節)というメッセージを語らなければならない筈だ。
  5節「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった」。ヨナの宣教は最小限であった。ニネベの都で一日だけ、しかも一市民に告げたのに、それが王に伝わり、王座から立ち上がり王衣を脱ぎ捨て、王と大臣の名で悔い改めの断食を命じ、布告するまでになった(6節)。
  7節「王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる」。そして、ひたすら神に向かって祈り、悪の道を離れ、その手から不法を捨てよと告げている(8節)。当時のペルシャはゾロアスター教で光(マツダ)と闇(アーリマン)を神が支配するという民族宗教であった。これはまるで預言者ヨナの言葉のようだが、むしろ神が王に語らせたというべきだろう。
  9節「そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」。悔い改めの断食祈祷である。その徹底した断食は王と民だけでなく家畜にまで及んでいる。

  ヨナに告げた神が彼らの耳を開かれたのであり、神は思い直され、宣告した災いを下すのをやめられた(10節)。狭い民族宗教の枠を超えた神の慈愛が示されている。これはヨナにとっては想定外の出来事であった。そのことが4章でふれている。



命を滅びの穴から引き上げてくださった

2015-02-27 | Weblog
 ヨナ2章 

  7節「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み 地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ あなたは命を 滅びの穴から引き上げてくださった」(新共同訳)

  1節「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた」。ヨナは、魚の腹の中で主に祈りをささげた(2節)。
  3節「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」。魚の腹とは呑み込まれた暗黒の世界であり、これをヨナは「陰府の底」と言い、そのどん底から主なる神に祈り叫ぶのである。助けを求めると聞いて下さったという。祈りは4~7節と7節後半~10節に区分される。
  4節「font color="blue">あなたはわたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み…」。海に投じられた時、神から追放されて生きる望みは断たれ(5節)、深淵に呑み込まれたのである(6節)、
  7節「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」。地の底に沈んで地は永久に扉を閉ざした。陰府の状況を描写する。
  7節「…しかしわが神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった」。神は祈りに応えて、陰府の世界(魚の腹)から救い出してくさったという。物語としては、魚から吐き出される前に、結果が語られていることになる。これは3節でも同じである。「しかし、わが神、主よ」との祈りは、救いの根拠がヨナの側にないことを示すのである。陰府(ゴーエル ギ語ハデ-ス)は、死者が留まる生活世界の下方にあるとしている(詩63篇10節、イザヤ書57章9節、マタイ福音書11章23節)。罪業の罰を受ける地獄とは区別され、神の支配はそこに及ぶのである(詩139篇8節、ヨブ記26章6節)。神との応答関係は断たれて二度と生の世界には戻ることはないとしている(詩88篇11~13節 ヨブ記7章9節)。
  8節「息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した」。神が三日三晩、陰府の底にいたヨナを救い出された奇蹟を、比喩的に主イエスはご自身の死と復活の事柄として語られた(マタイ福音書12章39~40節)。このイエスの死と復活を原体験として、教会は信仰告白としている。カトリック教会には「煉獄説」があるが、ルターはこれを否定して宗教改革の発端となった。
  10節「わたしは感謝の声をあげ いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある」。
  キリスト者に示される恵みの経験としては「息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱える」ことではないか。



海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ

2015-02-21 | Weblog
  ヨナ1章 
 
  9節「ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」(新共同訳)。

  1節「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」小見出し『ヨナの逃亡』。アミタイの子ヨナの名は列王記下14章25節に出ている。本書は「ヨナ物語」として読むと理解し易い。
  2節「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」。ヨナはアッシリアの首都ニネベに赴き悪を指摘するようにと召命を受けた。
  3節「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった」。彼はそれに応えることを厭い、タルシシュ行きの船で逃げた。それはオバデヤ書に見られたイスラエル中心の偏狭な民族思想から来る。本書を解く鍵はここにある。
  4節「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった」。主は嵐を呼んで海は荒れ、船は沈没するばかりになった。しかしヨナが船底でぐっすり寝込んでいるのは逃亡の意志表示である(5節)。
  6節「船長はヨナのところに来て言った。『寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない』」。船長は寝ている彼を呼び覚し「あなたの神を呼べ」と言った。ここにも民族信仰が示される。ヨナは祈ったと思えない。同船の者らが籤引きで神の真意を問うと、ヨナに当たった(7節)。そこで彼は素状を問い質され、この嵐による難船の原因を究明する(8節)。
  9節「ヨナは彼らに言った『わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ』」。これに続いて「主の前から逃げてきた」という告白があった(10節)。偏狭な預言者ヨナが自己を否定することで、創造主の神の憐れみと救いを異教徒に伝える結果になった。
  12節「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」。事柄の中心に、ヨナと創造主とを向き合わせる。この時ヨナは神の審判に身をさらして問題はわたしだ、責任はわたしにあると告げる。しかし乗組員は理解できないで、ヨナの死によって災いを身に受けないよう神に祈り、申し出た通り彼を海に投じた(13~15節)。ここでヨナはスケープ・ゴート(身代わりの山羊)となった。
  16節「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた」。口語訳「そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた」。ヨナの死によって証言した主なる神への礼拝と誓願は「人々は大いに主を畏れる」ということを示すものである。それは滅びを思い直される神である。そしてこのメッセージは本書を貫く竪線のようで、3章(9節)、4章(2節)にも明確になっている。

その破れを修復し、廃虚を復興して

2015-02-19 | Weblog
  アモス9章 

  11節「その日には わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し その破れを修復し、廃虚を復興して 昔の日のように建て直す」(新共同訳)。

  1節「わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。『柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて生きのびる者はひとりもいない』」。小見出し『第五の幻』。7章から続く幻の五番目。ここでは祭壇の傍らに裁きを行おうとして立つ主を見る。主が地を揺るがせ、剣に掛け、たとえ陰府に潜り込んでも、天に昇っても(2節)、たとえカルメルの頂きに身を隠し、あるいは海の底に隠れても(3節)、たとえ捕えられて敵の前に連れていかれても、主から逃れうる場所は決してないのである(4節)。
  5節「万軍の神なる主。主が大地に触れられると、地は揺れ動き、そこに住む者は皆、嘆き悲しむ。大地はことごとくナイル川のように盛り上がり エジプトの大河のように沈む」。その日には大地が揺れ動き、滅びをもたらす力を表わされる。天も地も海も支配される主である(6節)。
  7節「イスラエルの人々よ。わたしにとってお前たちは、クシュの人々と変わりないではないかと 主は言われる。わたしはイスラエルをエジプトの地から ペリシテ人をカフトルから アラム人をキルから、導き上ったではないか」。小見出し『全世界の神』。クシュ人だけでなく、ペリシテ人、アラム人に対しても主である。
  8節「見よ、主なる神は罪に染まった王国に目を向け、これを地の面から絶たれる。ただし、わたしはヤコブの家を全滅させはしないと、主は言われる」。イスラエルは変わりないが、主なる神はイスラエル同様に罪に染まった王国を裁かれる。イスラエルを全滅させはしない。諸国民の間でふるいにかけ、罪ある者は皆、滅ぼされ、逃れる者はいない(9~10節)。
  11節「その日には、わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し、その破れを修復し、廃虚を復興して、昔の日のように建て直す」。小見出し『後の日の回復』。「その日」とはイスラエル滅亡の後に来る新しい時代を 指す。審判による滅びから逃れた人々に対して復興と繁栄が約束される。
  13節「見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる」。これは紀元前587年南ユダが滅亡した後のことで、アモス預言活動から遙か200~250年も後の事柄になる。
  14節「わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒らされた町を建て直して住み ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み 園を造って、実りを食べる」。彼らはその土地に植え付けられ、再び引き抜かれることは決してないと神なる主は言われるのである(15節)。

  義の預言者アモスは神の厳しい審判とその滅びを預言したが、それに終わっていないことを改めて知る。つまり聖書の終末預言は世界の破局で締め括っていないということである。ここでは、「破れを修復し、廃墟を建て直す」(11節)ということである。


主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ

2015-02-18 | Weblog
  アモス8章 

  11節「見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(新共同訳)

  1節「主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、一籠の夏の果物(カイツ)があった。主は言われた」。小見出し『第四の幻』。7章からの幻の続き第四である。
  2節「『アモスよ、何が見えるか』。わたしは答えた『一籠の夏の果物です』。主はわたしに言われた。『わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない』」。夏の果物(カイツ)がすぐに熟して地面に落ちるように、イスラエルの最後(ケーツ)は直ぐに来ると告げた。語呂合わせになっている。宮殿には神に撃たれた屍が到るところにあるという(3節)。
  4節「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ」。小見出し『商人の不正』。主は悪徳商人の不正を暴かれる。貧しい者を踏みつけ、農民を抑圧し、新月祭や安息日を表面的に守りながら、それが終わると、分銅や天秤を誤魔化して商売をしている(5節)。
  6節「弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう」。これは律法違反だ(申命記25章13~16節)。主はこの悪事を決して忘れない、必ず罰するといわれる(7節)。大地はナイルの大河が氾濫するように盛り上がり、その日は必ず来る(8節)。
  9節「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」。小見出し『終わりの日』。神の審判の日には商人の不正が糾弾され、天変地変が起きる。祭りを悲しみに、喜びの歌を嘆きの歌に変え、民はどの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とするという(10節)。
  11節「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」。パンと水が断たれるなら生きて行くことはできない。しかし預言者アモスはこの現実を見据えながら、真に求められるのはパンや水でなく、神の言葉を聞くことに飢え渇くことだと言う。これは矛盾に満ちた言葉で容易に言えることではない。
  12節「人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない」。美しいおとめも力強いや若者も渇きのために気を失う(13節)。またダンとベエル・シェバに置かれている偶像は破壊され、これを頼る者らは倒れて起き上がることができない(14節)。
 パンと水は人間のライフラインである。いつの時代でもこれが断たれることは死生を制することである。戦国時代に兵糧攻めがしばしば行われている。昨今の様々な災害で悲惨な状態に救援物資が送られているが、これを実感する。これに対比して、神とのライフラインが問われる。これを求めても得られないとは、神から見放される厳しい審判を示している。ここで新約聖書から二か所が示される。主イエスの四十日間の断食の後の言葉「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4章4節)。十字架上の激しい渇きと苦痛の中で叫ばれた主の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27章46節)。これは身代わりとなって見放された神の審判である。

わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ

2015-02-17 | Weblog
 アモス7章 

  14節「アモスは答えてアマツヤに言った。『わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ』」。

  1節「主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、主は二番草の生え始めるころ、いなごを造られた。それは、王が刈り取った後に生える二番草であった」小見出し『第一の幻』。
  2節「いなごが大地の青草を食べ尽くそうとしたので、わたしは言った。『主なる神よ、どうぞ赦してください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう』」。アモスが見た第一の幻は、春の雨の時に生えた大地の青草をいなごの大群が食い尽くそうとしているものであった。家畜の飼料を失うと民は飢えてしまうので、神に赦しを願った。そして赦された
  4節「主はる神は私にこのように言われた。見よ、主なる神は審判の火を呼ばれた。火が大いなる淵をなめ尽くし、畑も焼き尽くそうとしたので」。小見出し『第二の幻』は、大地の淵(平板な地球と考えられていた)にまで審判の火が及び、イスラエル嗣業地も焼き尽くされるというもの。アモスは、主の赦しを懇願する。それに主は答え、思い直してこのことも起こらないと告げる(5~6節)。
  7節「主はこのようにわたしに示された。見よ、主は手に下げ振りを持って、下げ振りで点検された城壁の上に立っておられる」。小見出し『第三の幻』は主が城壁の上に下げ振り(測り縄)を持って立っておられた。主はアモスに何を見ているかと尋ね、測り縄だと応える。そして傾いて崩壊する城壁は見過ごし出来ないと言う(8節)。それは回避できないで崩れて廃墟となると告げる(9節)。つまりベテル神殿の崩壊を指している。
  10節「ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。『イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません』」。小見出し『アモスと祭司アマツヤ』。アモスが祭儀批判し(4~5章)、イスラエル王国滅亡の預言(6章)をヤロブアム反逆であるとアマツヤが王に訴えた。
  11節「アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる。』」。彼の預言の内容をまとめた言葉である。そして「先見者よ、行け、ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。ここは王の聖所、王国の神殿だ」とアモスに言った(12~13節)。
  14節「アモスは答えてアマツヤに言った。『わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ』」。職業預言者ではないと応える。アモスはテコアの農夫であり羊飼いであるが、主から預言せよと言われて預言している(15節)。しかしことここに到っては最早預言するなと主は告げていると、アマツヤに語る(16節)。
  17節「それゆえ、主はこう言われる。お前の妻は町の中で遊女となり、息子、娘らは剣に倒れ、土地は測り縄で分けられ、お前は汚れた土地で死ぬ。イスラエルは必ず捕えられて、その土地から連れ去られる」。待ち受けているのは神の厳しい審判であると言った。これがアマツヤの挑戦に対するアモスの応えである。
  自らを職業預言者でなく羊飼いだと告げたアモスの言葉が示される。パウロも天幕作りを職業としている(使徒言行録18章3節)。金銭で神の言葉を曲げる似非宗教家に陥ってはならない。近年牧師がサラリーマン化していると批判されている。

公道を毒に変じ、正義の実をにがよもぎに変じた

2015-02-16 | Weblog
  アモス6章 

  12節「馬は岩の上を走るだろうか。人は牛で海を耕すだろうか。ところがあなたがたは公道を毒に変じ、正義の実をにがよもぎに変じた」(口語訳)

  1節「災いだ、シオンに安住し、サマリアの山で安逸をむさぼる者らは。諸国民の頭である国に君臨し イスラエルの家は彼らに従っている」。小見出し『驕れる人々への審判』。預言者の警告を無視して安逸をむさぼる諸国の指導者と、それに従うイスラエルである。アッシリアによって侵略され支配されているカルネハマト・ラバ、ペリシテ人の支配するラバに行って見よ、比較してこれらにまさっているとでも思うのか(2節)。
  3節「お前たちは災いの日を遠ざけようとして不法な支配を引きよせている」。口語訳「あなたがたは災の日を遠ざけ、強暴の座を近づけている」。横暴無法な支配を求め、象牙の寝台に横たわり、最上の食事をし(4節)、竪琴の音に合わせて即興の歌に興じ(5節)、大杯の酒に酔い、破滅に気を病むことのない日を過ごしているが(6節)、今や捕囚によってそれはすべて失われる(7節)。
  8節「主なる神は御自分を指して誓われる。万軍の神なる主は言われる。わたしはヤコブの誇る神殿を忌み嫌い その城郭を憎む。わたしは都とその中のすべてのものを敵に渡す」。都と城郭は破壊されて敵の手に渡り、例え家に危難を逃れた男たちが十人しかいなくても捕えられ殺される。その時、一人が家の奥にいる者にまだ奥にあなたと共にいるのかと尋ねると「いない」と答え、「声をだすな、主の名を唱えるな」と言う(9~10節)。
  12節「馬が岩の上を駆けるだろうか、牛が海を耕すだろうか。お前たちは裁き(ミシュパート)を毒草に、恵みの業(ツェダーカー)の身を苦よもぎに変えた」。アッシリアに制圧される。口語訳「公道を毒に変じ、正義の実をにがよもぎに変じた」。神の審判と正義を変えることはあってはならないし、ありえないことだ。既に5章7節でも問われていた。毒も苦よもぎも口に入れる者はいない。そのように神の公道と正義を遠ざけてしまうのである。それは馬が岩の上を駆け、牛が海を耕すような、誰が見ても明らかに不合理な事態だと預言者は警告する。
   13節「お前たちはロ・ダバル(空虚)を喜び『我々は自分の力で カルナイムを手に入れたではないか』と言う」。虚しいものを手に入れたと誇るが、主なる神は、イスラエルをアッシリアの手に渡される(14節)。
 「公道(公平)と正義」は旧約の預言者が一貫して神の国の政治理念としてきたことである。それを列挙すると
  イザヤ書(9章6節、16章5節、11章3~5節,33章5節、56章1節)
  エレミヤ書(9章24節、22章3節)
  エゼキエル書(33章14~19節)
  ホセア書(2章21節)

  主イエスも、律法学者、ファリサイ派の人々に対して、これを厳しく糾弾している(マタイ福音書23章23節)。これは人類の歴史を貫いて求められる理念であろう。


正義を洪水のように、恵みの業を大河のように

2015-02-15 | Weblog
  アモス5章 

  24節「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(新共同訳)

  1節「イスラエルの家よ、この言葉を聞け。わたしがお前たちについてうたう悲しみの歌を」。小見出し『悲しみの歌』。神の審判を前の挽歌である。乱暴に投げ捨てられたおとめイスラエルは立ち上がることが出来ない(2節)。
  3節「まことに、主なる神はこう言われる。『イスラエルの家では 千人の兵を出した町に、生き残るのは百人 百人の兵を出した町に、生き残るのは十人』」。絶望的な未来であり、戦いで生き残れるのは10パーセントである。
  4節「まことに主はイスラエルの家にいわれる。わたしを求めて生きよ、主を求めて生きよ」小見出し『わたしを求めて生きよ』。ベテルやギルガルに行って助けを祈っても得ない。必ず捕えられ移される(5節)。繰り返し「主を求めて生きよ」と言われる。さもないと厳しい主の審判から免れられない(6節)。
  7節「裁きを苦よもぎに変え、正しいことを地に投げ捨てる者よ」。裁き(公平・ミシュパート)と正義(ツェダーカー)を不愉快として投げ捨てる者よ、闇を朝に昼を夜に変える主は、突如として城壁と砦を破滅させることを知れ(8~9節)。何故なら、不正な裁判を行い(10節)、弱者を抑圧し(11節)、賄賂を取っているからだ(12節)。
  14節「善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きるために。そうすれば、お前たちが言うように 万軍の神なる主は お前たちと共にいてくださるだろうに」。主なる神の前にでて、何を求めているかを正せ。
  15節「悪を憎み、善を愛せよ、また町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が ヨセフの残りの者を 憐れんでくださることもあろう」。悪は徹底して憎み、善は求めるだけでなく愛せよ。裁きが行われる町の門で正義(ツェダーカー)を貫け。そうするなら万軍の主は共にいてくださる。
  16節「それゆえ、万軍の主はこう言われる。どの広場にも嘆きが起り、どの通りにも泣き声があがる。悲しむために農夫が 嘆くために泣き男が呼ばれる」。小見出し『裁きの日』。それは主が民の中を通られるからだ(17節)。出エジプトで民が最後の食事をした時に町に起きた嘆きと悲しみが(出エジプト12章12節、30~31節)、ここではイスラエルに裁きとして起きると告げたのである。
  18節「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない」。獅子の前から逃れても熊に会い、家に帰りついて壁に手をついても蛇にかまれる(19節)。主の日は、暗闇であって、輝きではない(20節)。
  21節「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない」。
小見出し『祭にまさる正義』。燔祭や素祭や、肥えた獣の酬恩祭をささげても(口語訳see)、騒がしい楽器を奏しても主は喜ばれない(22~23節)。そうではない。
  24節「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。口語訳「 公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ」。岩波訳「公義をほとばしる水のように…」。新共同訳「正義」と訳しているが、7節「裁き」(公平ミシュパート)で、神の公正な裁定を示している。何故なら、民の甚だしい偶像礼拝(26節)に対するアッシリア捕囚という審判がなされるからだ(27節)。

 公道(正しい審判)と正義は、信頼の基盤となるものである。

その計画を人に告げ 暗闇を変えて曙とし

2015-02-14 | Weblog
  アモス4章 

  13節「見よ、神は山々を造り 風を創造し その計画を人に告げ 暗闇を変えて曙とし 地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主」(新共同訳)。

  1節「この言葉を聞け。サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ。弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げる女たちよ」。小見出し『サマリアの女たち』。2章13~16節、3章11節と同じ神の審判をつげる。
  2節「主なる神は、厳かに誓われる。見よ、お前たちにこのような日が来る。お前たちは肉鉤で引き上げられ 最後の者も釣鉤で引き上げられる」。口語訳「主なる神はご自分の聖なることによって誓われる。見よ、あなたがたの上にこのような時が来る。その時、人々はあなたがたをつり針にかけ、あなたがたの残りの者を 魚つり針にかけて引いて行く」。口語訳の方が判りやすい。神の聖性のゆえに悪徳の繁栄を激怒し、審判を告げる。破壊された城壁から捕囚の民として連れ出される(3節)
  4節「ベテルに行って罪を犯し ギルガルに行って罪を重ねよ。朝ごとにいけにえを携え 三日目には十分の一税を納めるがよい」。小見出し『かたくななイスラエル』。ベテルは北王国の聖所があったところ。形式的礼拝に対する明らかな皮肉。熱狂的な礼拝を揶揄する。「大声で触れまわれ」(5節)とは、虚しい言葉だけが宣伝されることを指す。
  6節「だから、わたしもお前たちのすべての町で、歯を清く保たせ、どの居住地でもパンを欠乏させた。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと、主は言われる」。「歯を清く保たせ~」は飢饉で食べる物がないこと。「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」と6~11節に5回繰り返す。それは飢餓(6節)、旱魃(7節)、凶作(9節)、疫病と殺戮(10節)、戦禍(11節)など、神の警告を無視していることである。ここで民の罪の頑なさが示される。
  12節「それゆえ、イスラエルよ わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに イスラエルよ お前は自分の神と出会う備えをせよ」。悔い改めて神に立ち帰り、神との出会を求めよと勧告する。それは風を創造し、暗闇を変えて曙とする神の許である(13節) 。これは断罪されるのか、悔改めるのかの何れか、神との関係を問い直せという意味になる。聖なる方の臨在にふれる時に預言者イザヤは「ああ災いだ、わたしは滅ぼされる」(イザヤ書6章5節)と叫んだ。また弟子ペトロは、主イエスの前で「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と告白した(ルカ福音書5章8節)。
 聖と義を属性する神と出会うことは、決して容易な出来事ではない。

  17世紀初めから三百年近い徳川幕府の弾圧を潜ってきた隠れキリシタンが「おらしょ」(主の祈り)で『試み(ラテン語テンタツィオ)に遭わせないで下さい』が、“われらをテンタさんに話したもうなかれ”と変えられた。テンタ(太陽)に告げ口しないで下さいとはユーモアある言葉である。15世紀に渡来したバテレン(宣教師)は、日本の神々を排して「天主さま」と呼んだ。天とは神の臨在を表わす言葉で、何一つ影も曇りもないことだ。キリスト者は聖にして義なる神に向かって、「天の御父よ、我らを誘惑に遭わせないで、悪より救い出したまえ」(マタイ福音書6章9、12節)と祈る。


獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう 

2015-02-13 | Weblog
  アモス3章 

  8節「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」(新共同訳)。

  1節「イスラエルの人々よ 主がお前たちに告げられた言葉を聞け。 -わたしがエジプトの地から導き上った 全部族に対して-」。小見出し『神の選び』。預言者(ナービー)として召命を受けたアモスは「主が告げる言葉を聞け」と厳しい神の審判という託宣を語らずにおれない。それは先見者(ローエー)ではない。
  2節「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する」。エジプトから救い出したのは「お前たちだけだ」と神が選びを告げる。選びは神の聖意を行なうという目的に応えねばならない。しかしそれに背いている。
  3節「打ち合わせもしないのに 二人の者が共に行くだろうか。」口語訳「 ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。」新改訳「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」。小見出し『神が語られる』。「打ち合わせる」(ヤーアド)は「相談する」「約束する」と訳される(ヨブ記2章11節see)。二人とは神とアモスである。荒れ野の旅は危険を避けるため独り旅をしなかった。アモスは危険と使命を自覚して語ろうとしている。
  4節「獲物もないのに獅子が森の中でほえるだろうか」。預言者として獅子吼せずにおれない心情を表わす。これは8節でも繰り返される。仕掛けられた罠に鳥が降りてくるように(5節)、警報の角笛で町の民が慄くように(6節)、預言の活動は神から促されてなす必然の結果だと伝える。神の言葉に突き動かされて語らずにはおれないという(7節)。
  8節「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」。これは獅子に食い千切られる恐れ(12節)で、命を失う危険でありそれは避けることは可能である。しかし神を畏れる者は、それから逃れることはできない。比喩としてではなく、対比として理解する。
  9節「アシュドドの城郭に向かって エジプトの地にある城郭に向かって告げよ。サマリヤの山に集まり、そこに起こっている狂乱と圧政を見よ」。小見出し『サマリヤの滅亡』。サマリヤがパニックになり狂乱し、暴虐や暴行の状況を見よとアシュドドやエジプトに向かって呼び掛ける。イスラエルを憎悪する彼らが、その罪状の証人に呼び出されているのである(10節)
  12節「主はこう言われる。羊飼いが獅子の口から二本の後足、あるいは片耳を取り戻すように、イスラエルの人々も取り戻される」。これは獅子に噛み殺されて餌食になった羊の残骸である後足や方耳の断片を、羊飼いが証拠として持ち帰るというのである。
  14節「わたしがイスラエルの罪を罰する日に、ベテルの祭壇に罰を下す。祭壇の角は切られて地に落ちる」。祭壇の四隅にある突起した角に掴まるなら刑罰は免れるというが、それは破壊されて無く、審判は必ず下ると告げる(列王記上1章50~53節see)。夏と冬を使い分ける豪邸も、象牙の塔も打ち壊されて無くなる(15節)。

 ここでは 「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」と叫ぶアモスの熱い思いに、心が動かされる。使徒パウロもコリント教会に向けて同じ心境を述べている(第二コリント11章28~29節)。

四十年の間、導いて荒れ野を行かせ

2015-02-12 | Weblog
  アモス2章 

  10節「お前たちをエジプトの地から上らせ四十年の間、導いて荒れ野を行かせ、アモリ人の地を得させたのはわたしだ」(新共同訳)。


  1節「主はこう言われる。モアブの三つの罪、四つの罪のゆえにわたしは決して赦さない。彼らが王の骨を焼き、灰にしたからだ」。モアブは死海の東でエドムと隣接し、ロトと同じ子孫。骨を焼き灰にすることは、甚だしい死体への冒涜行為である。「ケリヨト」は人身供養をするケモシ祭儀の中心地であった(2節)。不和と抗争に対する審判か(3節)。
  4節「主はこう言われる。ユダの三つの罪、四つの罪のゆえにわたしは決して赦さない。彼らが主の教えを拒み、その掟を守らず先祖も後を追った偽りの神によって惑わされたからだ」。神の審判は隣国からユダに及んだ。ここでは預言者を通して語られた主の言葉である。。「靴一足の値」で人身売買を行うという、弱者と貧しい者への抑圧が具体的に示される(6節)。教えを拒み、掟を守らない二つの罪状で、神の律法を破り、偶像礼拝に陥ったのである。
  7節「彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い、わたしの聖なる名を汚している」。七番目の最後がイスラエルである。それは社会的不正と倫理的不義である。更に逸脱した祭儀が行われている(8節)。
  10節「お前たちをエジプトの地から上らせ四十年の間、導いて荒れ野を行かせ、アモリ人の地を得させたのはわたしだ」。神との関係が断絶していることを指摘する。出エジプトの最初の出発に戻って考えてみよと告げる。
  11節「わたしはお前たちの中から預言者を、若者の中からナジル人を起こした。イスラエルの人々よ、そうではないかと、主は言われる」。荒れ野四十年を、主が預言者モーセと誓願を立てたナジル人を用いてに導いたのである(民数記6章1~21節see)。それにもかわらず、民は主の指示に逆らう(12節)。4節の罪と同じ。
  13節「見よ、わたしは麦束を満載した車が、わだちで地を裂くように、お前たちの足もとの地を裂く」。神の審判はイスラエルに速やかに臨む。麦束を満載した車のわだちが地面を深くえぐるように、不正と罪によって民の心を深く切り裂く。罪の重荷で民が打ち砕かれることが、神の審判になるのである
  14節「そのときは、素早い者も逃げ遅れ、強い者もその力を振るいえず、勇者も自分を救いえない」。弓を引く者も、足の速い者も、馬に乗る者も間に合わない(15節)。
  16節「勇者の中の雄々しい者も その日には裸で逃げる、と主は言われる」。審判が速やかに行われることを示す。万国の予言者は、他国の罪状より、自らの同胞の罪こそ一層厳しく問うのである。
ペトロ第1の手紙4章17節には「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」とある。問題の解決、その糸口を自らの足元に置くことから始める。予言者アモスはそのことを促している。

主は…エルサレムから声をとどろかされる

2015-02-11 | Weblog
  アモス1章 

  2節「彼は言った。主はシオンから吠えたけり、エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は乾き カルメルの頂は枯れる」(新共同訳)

  1節「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである」。アモスは「牧者」で農村出身であった。祭司の出身イザヤ、エゼキエルとは異なる。ヤロブアム二世の北イスラエルが繁栄した時代に国の不正と欺瞞を糾弾した義の預言者で、ウジヤ(紀元前792~740年)、ヤロブアム二世(同787~740年)の時代になる。地震は760年頃と言われる(ゼカリヤ書14章5節see)。
  2節「彼は言った。主はシオンから吠えたけり、エルサレムから声をとどろかされる。羊飼の牧草地は乾き カルメルの頂は枯れる」。小見出し『諸国民に対する審判』。主の声は獅子の雄叫びのように雷鳴の響きのように民に審判を告知される。
  3節「主はこう言われる。ダマスコの三つの罪、四つの罪のゆえに わたしは決して赦さない。彼らが鉄の打穀板を用い ギレアドを踏みにじったからだ」。ダマスコはシリアの首都である。「三つの罪、四つの罪」とは「再三再四」と同じ強調表現。残虐な行為を指摘し、ダマスコの宮殿を焼き、城郭を壊して民はアッシリアに捕え移される(4~5節)。
  6節「主はこう言われる。ガザの三つの罪、四つの罪のゆえに わたしは決して赦さない。彼らがとりこにした者をすべて エドムに引き渡したからだ」。ガザはペリシテ)。主はガザの城壁に火を放ち、城郭をなめつくす(7節)。アッシリアの攻略により首都は征服される(紀元前734年)。
  9節「主はこう言われる。ティルスの三つの罪、四つの罪のゆえに わたしは決して赦さない。彼らがとりこをすべてエドムに引き渡し 兄弟の契りを心に留めなかったからだ」。ティルスはフェニキアの首都。同盟関係を破り、エドムと奴隷売買をした罪。売られた対象は必ずしもイスラエルではない。
  11節「主はこう言われる。エドムの三つの罪、四つの罪のゆえに わたしは決して赦さない。彼らが剣で兄弟を追い 憐れみの情を捨て いつまでも怒りを燃やし長く憤りを抱き続けたからだ」。エドムへの託宣。口語訳「…全くあわれみの情を断ち、常に怒って、人をかき裂き園、ながくその憤りを保ったからである」。新改訳では「肉親の情を損ない」で、イスラエルとエドムは同じ子孫であるが、憎悪と争いを繰り返してきた歴史に対する鋭い非難である。バビロン軍がユダを侵略してきた時、それに乗じてエドムはユダに攻め入り住み着いた(イザヤ書34章、エゼキエル書25章12節、35章10節以下)。
  13節「主はこう言われる。アンモンの人々の三つの罪、四つの罪のゆえに わたしは決して赦さない。彼らはギレアドの妊婦を引き裂き 領土を広げようとしたからだ」。アンモンとは同じロトの子孫である。妊婦を引き裂いたという事件は列王記下8章12節にある。ダマスコの残虐、ペリシテの無慈悲、ティルスの違約、エドムの非情、アンモンは残虐な欲望を預言者は取り上げている。これは2章に続く。

  アモスの預言が、イスラエルに限定しないのは、神の義の普遍性を表す為である。神の言葉が民族と国境、時代を超えて伝えられることが示される。21世紀を迎え人類は世界の平和と一致をどこに求めていくかが問われている。その基盤を聖書に表された神の義に据えるべきである。


鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した

2015-02-10 | Weblog
  ヨエル4章 

  13節「鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい」(新共同訳)

  1節「見よ、ユダとエルサレムの繁栄を回復するその日、その時」。小見出し『諸国民の裁き』(口語訳3章1~15節)。主は諸国の民を皆集め、ヨシャファト(主の裁き)の谷に連れて行きそこで、彼らを裁く。それはイスラエルを諸国の民の中に散らし、自分たちの間に分配したからだと告げる(2節)。ヨシャファトの谷は、エルサレム城壁の南側キドロンの谷と考えられている。諸国に対する神の報復である。彼らはイスラエルの民の息子や娘を奴隷として売り渡したからだ(3節)。3章1節の預言と対比される。
  5節「お前たちは、わたしの銀と金を奪い、貴重な宝をお前たちの神殿に運び去った」。エルサレム神殿の祭具や財宝は対敵によって奪い去られた(列王記下23章35節、25章13~17節)
  8節「わたしは、お前たちの息子、娘をユダの人々の手に渡す。ユダの人々は、彼らを遠くシェバ人に売ると主が語られた」。復讐を返すとはこの事である(3節see)。
  10節「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え」。平和の時の器具を武器に変えて戦いに出よという。イザヤ2章4節とは全く反対である。それは復讐のためであり、外敵に虐げられてきたイスラエルの民族思想が色濃く伺える。
  13節「鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい」。酒ぶねを踏み、真赤な葡萄の液が溢れる有様で、血の復讐(21節)をするという黙示的な描写である。イザヤ63章にも記されている。
  16節「主はシオンからほえたけり、エルサレムから声をとどろかされる。天も地も震える。しかし、主はその民の避け所、イスラエルの人々の砦である」。小見出し『ユダの救い』(口語訳3章16~21節)。これは3章3~4節にあった「大いなる恐るべき日」である。終末的な神の審判はエルサレムの救いになる。使徒言行録2章では、3章5節後半は引用されなかった。
 神の審判は4~15節と16~18節とによって、闇と光、呪いと祝福、滅びと救いを明らかにする。
  18節「その日が来ると 山々にはぶどう酒が滴り、もろもろの丘には乳が流れ、ユダのすべての谷には水が流れる。泉が主の神殿から湧き出て、シティムの川を潤す」。終末の日には、自然は豊かな収穫をもたらし、神の都から命の川が流れ出ることを描いている。エゼキエル47章1~12節、ヨハネ黙示録22章1~5節に出てくる。「十字架のもとぞ、いと安けし、神の義と愛のあえるところ」という讃美歌を思い出した(旧讃美歌262番)。神の義とは、神の怒りの審判として貫かれる呪いの十字架を指し(ガラテヤ3章10~11節)、神の愛は十字架上に流された血による赦しの契約(第一コリント11章25節、第一ヨハネ1章7節)である。キリスト者はこの十字架を仰ぐのである。


主の御名を呼ぶ者は皆、救われる

2015-02-09 | Weblog
  ヨエル3章 

  5節「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる」(新共同訳)
 
  1節「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」。小見出し『神の霊の降臨』。口語訳では2章28~32節であり、新共同訳はヘブライ語聖書に依っている。本章は使徒言行録2章17~21節に引用されている。「その後」は「主の日」と同じである(2章18節)。主の深い愛と憐れみが注がれる時である。主の霊は特別な人ではなく、息子や娘、老人や若者に注がれるのである。
  2節「その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」。身分、階級を越えている。終末的な神の霊の働きが預言される。
  3節「天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である」。「主の日」が天変地変という終末的状況で示されるのは、人間の判断を超えているということである(4節)。新約では「盗人が夜来るように」(1テサロニケ5章2節、第二ペトロ3章10節、ヨハネ黙示録3章3節)とある。
  5節「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる」。神の霊は、注がれた者たちを用いて救いを告げさせる。そしてそこで、主の名を呼ぶ者となる。予言者ヨエルは、エルサレムを救われた人々の都として見ているが、ペトロの引用句では5節後半は省略している。

 今日本基督教団では、未受洗者の陪餐が議論になっている。誰でも陪餐できると唱える根拠は、主は誰をも差別しない、差別すべきでないことだと言う。然し礼拝出席者が皆「主の御名を呼ぶ者」であるという論理は成り立たない。ひやかし半分の者もおれば、批判の思いを持って出席する多宗教の者も同席するであろう。おのずからそこには区別がある。区別を差別と取ることは、思い込みと偏見に陥っている。神と教会は無条件で招くが、すべての者を招き陪餐者に対する条件となる神の側にある。つまり「聖霊に依らねば誰もイエスを主と呼ぶことが出来ない」(第一コリント12章3節)のであり、「主の御名を呼ぶ」とは、イエスの死と復活を口で公に言い表すことである(ローマ10章9~10節see)。受洗(バブテスマ)がこれを指していることは明々白々である。一番の問題は、聖霊なる神の働きを無視することである。ひと昔前であるが、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という言葉が流行った。幼児から大人まで「みんな病」に罹ると大変なことになる。「安寧秩序」という言葉がある。Peace and Orderである。神の支配はこれによって保たれていることを知るべきであろう。


今こそ、心からわたしに立ち帰れ

2015-02-08 | Weblog
 ヨエル2章 

  12節「主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで」(新共同訳)。

  1節「シオンで角笛を吹き、わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく」。1章に続いて飛蝗を黙示的に描きながら、外敵の襲来を主の怒りの日として語る。暗黒の雲が覆うように飛来し、これまで起こったことにないような事態である(2節)。燎原の火が燃え広がって、滅びの荒れ野となる(3節)。
  5節「戦車のような響きをたてて山の頂を駆け巡り、わらを焼く炎のような音をたてる。これは戦いの備えをした強大な民の姿だ」。ここでは戦車を飛蝗になぞらえている。戦士が城壁をよじ登り(7節)、町中を駆け巡り、盗人のように窓から入り込む(9節)。地はおおのき、天は震え、太陽も月も、星も光を失う(10節)。
  11節「主はその軍勢の前で声をとどろかされる。その陣営は甚だ大きい。御言葉を実現される方は力強い。主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう」。地は暗くなり雷鳴が響く有様と、蝗の襲来と重ね合わせ、主の怒りの日を伝えている。一節で繰り返された「主の日」がここでも描かれている。
  12節「主は言われる『今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し泣き悲しんで』」小見出し『主の慈しみ』。国の存亡を告げる角笛が、同時に心を裂いて悔改めを告げる角笛となる。衣を裂くのではなく、心を引き裂き、立ち帰るなら、主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、下した災いを主は思い直されるのである(13~14節)。
  16節「民を呼び集め、会衆を聖別し、長老を集合させよ、幼子、乳飲み子を呼び集め。花嫁を祝いの部屋から呼び出せ」。主の赦しと憐れみを求めて、会衆はすべて、長老も幼児、乳飲み子、花婿花嫁までも招集される。
  18節「その時、主は御自分の国を強く愛し、その民を深く憐れまれた」。悔改めて神に立ち帰る時、主の慈愛と憐れみが注がれる。
  21節「大地よ、恐れるな、喜び躍れ。主は偉大な御業を成し遂げられた」。荒廃した大地は豊かな稔りを得る地となる(22~24節)。飛蝗で示された災禍は消える(25節)。
  26節「お前たちは豊かに食べて飽き足り、驚くべきことを、お前たちの為に成し遂げられた主 お前たちの主なる神の御名をほめたたえるであろう」。主に立ち帰る時、主が豊かに慈愛を注がれたことを知る。それは荒廃した大地が豊かな収穫を得るようになるからである。そして主の御名は周囲の国々で褒め称えられるようになる(27節)。
  3月イスラエル旅行をした時、エルサレム北側の小高い丘から東南に広がるユダの平原を眺望すると春の雨で緑に変化していた。これが間もなく来る夏になると全く茶色の荒地に変わると案内して頂いた方が話していた。ユダの地は乾期の荒野と雨期の緑地が際立って描かれる大地だ。「大地よ、喜び躍れ」とは、この光景を描いているように思われる。イザヤ35章1~2、6~7節にもある。
 四年前の東日本地震・津波で被災した時の映像をテレビで何度も見るが、それは荒廃した瓦礫の大地であった。アラビヤ半島で今繰り広げられている戦禍の映像も悲惨極まらないもので、家屋の残骸と土地と、住む家を失った難民の有り様である。この地獄絵蒔きはいつ終わるのか。新しい天と地を希求して止まない。