日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

この契約の言葉を聞け

2014-05-31 | Weblog
  エレミヤ11章 
 
  2節「この契約の言葉を聞け。それをユダの人、エルサレムの住民に告げよ」(新共同訳)

  1節「主からエレミヤに臨んだ言葉」。小見出しは「破られた契約」。主の契約に聞き従うことを求める預言である。
  2節「この契約の言葉を聞け。それをユダの人、エルサレムの住民に告げよ」。それは契約の言葉に聞き従わない者は呪われるという(3節)。これはエジプトの地から導き出された時与えられた命令で、これに聞き従うなら、主の民となる(4節)。申命記28章に記されている。
  5節「それは、わたしがあなたたちの先祖に誓った誓いを果たし、今日見るように、乳と蜜の流れる地を彼らに与えるためであった」。わたしは答えて言った。『アーメン、主よ』と」。予言者として主に対して態度表明をする。しかし繰り返し民に聞き従えと言ってきたが民は耳を傾けなかったと主は言われる(7~8節)。この背景には、エルサレム神殿修築の時壁から巻物(律法の書=申命記の一部)を発見したヨシヤ王が宗教改革を行ったことがある(列王記下22~23章see)。しかしヨシヤはメギドの戦いで戦死した。その宗教改革が実を結ばない現実をエレミヤはここで指摘している。
  9節「主はわたしに言われた。『ユダの人とエルサレムの住民が共謀しているのが見える』」。この共謀とは何か。神との契約を破り、他の神々に従って礼拝していることである(10節)。だからいくら助けを求めてもわたしは聞き入れない(11節)。町の数ほど神々があり、エルサレムの通りの数ほど祭壇を設けてバアルに香を焚いている(12~13節)。しかし神はエレミヤに嘆き祈るなと言われる(14節)。
  15節「わたしの家で、わたしの愛する者はどうなったのか。多くの者が悪だくみを行い、献げ物の肉を彼女から取り上げている。あなたに災いがふりかかるとき、むしろ喜べ」。そして神殿で献げる燔祭の犠牲を、奪う悪だくみをはかる者らに災渦が降るのを喜べという。エルサレムと「緑のオリーブ」と呼ばれるユダの国は騒乱で焼かれる(16節)。
  18節「主が知らせてくださったので、わたしは知った。彼らが何をしているのか見せてくださった」。それはエレミヤに対する悪だくみである(19節)。
  20節「万軍の主よ、人のはらわたと心を究め、正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします」。はらわたと心を探られる方に、自らを赤裸々に告白し訴える。「はらわたと心を究める」は口語訳「人の心と思いを探られる」。岩波訳「諸々の思いと心とを試される~」。原語「思い」キルヤー(はらわた複数形)は感情の座と考えられている。20章12節see。彼の命を狙うアナトトの人々に主は報復をすると告げる(21~22節)。それはエレミヤの神殿批判、契約違反の言葉に対する出身地の祭司らの迫害である。
  主イエスもナザレの人々から命を狙われた(ルカ4章28節)。また主は「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」という言葉を引用して不信仰を批判している(マタイ13章53~)。
  何故か。真実を求める神(5章3節)は、人のはらわたと心を暴き出すからである。主イエスも隠されている秘密を明るみにされる方と向き合うことを求められた(マタイ6章6節)。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の企てをも明らかにされる方」である(第一コリント4章5節)。

真理の神、命の神、永遠を支配する王

2014-05-28 | Weblog

  エレミヤ10章 

  10節「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え/その憤りに諸国の民は耐ええない」(新共同訳)。

  1節「イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け」。小見出しは「偶像とまことの神」。本章は、9章25節で告げている通り、予言の矛先を諸国諸民族に向けている。異国の民の空しい道を見習うな(2節)。
  3節「もろもろの民が恐れるものは空しいもの、森から切り出された木片、木工がのみを振る って造ったもの」。それは木工が鑿で造り、金銀で飾り、留め金で固定して身動きできない。きゅうり畑の案山子で口も聞けず、歩くことも出来ないで運ばれていく(4~5節)。イザヤ40章18~20節、44章9~20節see これに対して
  6節「主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方、御名には大いなる力があります」。あなたは諸国民の王なる主であり、あなたを恐れないものはない(7節)。この恐れは「畏れ」である。諸国の民は木片にすぎない空しいものを戒めにしている(8節)。それが銀箔を衣にした金細工人造ったものにすぎない(9節)。
  10節「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え、その憤りに諸国の民は耐ええない」。岩波訳「ヤハウェは、真実の神、彼こそはいける神、永久の王」。その憤りに地は震え、諸国の民は耐ええない。天と地を造らなかった神々は地の上、天の下から滅び去る(11節)。
  12節「御力をもって大地を造り、知恵をもって世界を固く据え、英知をもって天を広げられた方」。主が御声を発せられると、天と地を造り、地の果てから雨雲を湧きあがらせ、雨を降らせ、風を起こされる。鋳て造った像は偽り物で、空しく時が来れば滅んでしまう(13~15節)。
  16節「ヤコブの分である神はこのような方ではない。万物の創造者であり、イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主」。「ヤコブの分である神」は新改訳「ヤコブの分け前は~」。イスラエルを嗣業地として与えられたこと(創世記49章)。
  17節「包囲されて座っている女よ、地からお前の荷物を集めよ」。預言の言葉はイスラエルに身を置くエレミヤ自身の苦悩となる。悲惨な状況を経験することによって、神の聖意を知ることになる。これまでも語ったことである(4章13~18節、6章11節)。
  19節「ああ、災いだ。わたしは傷を負い わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。『これはわたしの病 わたしはこれに耐えよう』」。4章19~31節と同じ苦悩である。
  24節「主よ、わたしを懲らしめてください、しかし、正しい裁きによって。怒りによらず、わたしが無に帰することのないように」。「正しい裁きによって」は口語訳「正しい道にしたがって」、岩波訳「あなたの公正(ミシュパト)によって」。預言者は、自らを公正な神にゆだねて「懲らしめて(アーシャル)、教え、訓練して」下さいと祈り、同時に諸国の民にも、神の真実を求めるのである。懲らしめるとは、訓練を意味している。ヘブライ12章5~11節を引用したい。

目覚めてわたしを知ること

2014-05-27 | Weblog
  エレミヤ9章 

  23節「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる」(新共同訳)

  1節「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら、わたしはこの民を捨て、彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ」。民が神に立ち帰って、真の礼拝をしようとしない背信を、先祖の荒れ野生活と重ね合わせて問い正している。
  2節「彼らは舌を弓のように引き絞り、真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。彼らは悪から悪へと進み、わたしを知ろうとしない、と主は言われる」。舌を鋭い弓のように尖らせて、偽りを語って歩きまわり、主の真実を知ろうとしない民である(3節、8章7節)。
  4節「人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え、疲れるまで悪事を働く」。惑わし(シェケル)は、裏切り。変節、反逆と同語で、まこと(エムナー)と対比される(8章8節see)。その惑わしは炉に投げいれて試され、あばかれる(5~6節)。
  7節「彼らの舌は人を殺す矢、その口は欺いて語る。隣人に平和を約束していても、その心の中では、陥れようとたくらんでいる」。その舌の欺きは平和を約束していて陥れようとする企みである(6章14節、8章11節see)。わたしはこれらのことを必ず罰し、その悪に報いる(8節)。山々で哀歌をうたうと家畜も空の鳥もその声に驚いて逃げ去る(9節)。それは何故か。
  10節「わたしはエルサレムを瓦礫の山、山犬の住みかとし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる」。主は敵の襲来によってエルサレムは瓦礫の山となり、ユダの町々は荒廃するからだ。
  16節「万軍の主はこう言われる。事態を見極め、泣き女を招いて、ここに来させよ。巧みな泣き女を迎えにやり、ここに来させよ」。事態は深刻なのだ。
  19節「女たちよ、主の言葉を聞け。耳を傾けて、主の口の言葉を受け入れよ。あなたたちの仲間に、嘆きの歌を教え、互いに哀歌を学べ」。広場には人間のしかばねが、わら束や糞土のように覆っているという。理由は明らかである。「わたしを知ろうとしない、拒む」(2、5節)、「わたしの教えを捨て、わたしの声に聞き従わず」(12節)、「目覚めてわたしを知ること」(23節)をしないからだ。
  22節「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな」。主を知るとは、人間の知恵や力、富を誇らないで、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行うことである(23節)。ここで三つのことが求められている。口語訳「いつくしみ(ヘセド)と公平(ミシュパト)と正義(ツェデカー)を主が求めているということである。これは努力して得られるのではなく、主を知る、つまり主の聖意に従うことである。この欠落が、嘆きの根本原因である。
  24節「見よ、時が来る、と主は言われる。そのとき、わたしは包皮に割礼を受けた者を、ことごとく罰する」。神の審判は民族意識を超える。包皮の割礼を受けた者も、心の割礼のないイスラエルも、また割礼のない民も(25節)、皆例外なく神の前に正せられるのである。
 ガラテヤ6章15節「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」とある。この経験を与えられたキリスト者は何と幸いであろう。

いつまでも背いているのか

2014-05-26 | Weblog
  エレミヤ8章
 
  5節「どうして、この民エルサレムは背く者となり、いつまでも背いているのか。偽りに固執して、立ち帰ることを拒む」(新共同訳)

  1節「そのとき、と主は言われる。ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、祭司の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される」。7章後半からの続き。ベン・ヒノムの谷で殺害され焼却されたその時、先祖の王を始め総ての民の墓があばかれるという預言。「ベン・ヒノム」とは「嘆きの子」で、この谷でアハズとマナセが王子を人身御供にした処(列王記下16章3節、21章6節see)。民族滅亡の哀歌である(2~3節)。
  4節「彼らに言いなさい。主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか」。どうして(マデュアー)、いつまでも背いているのか、偽りに固執して、立ち帰ることを拒み、正直に語ることをせず、悪を悔いることもしないのかと問う(5~6節)。
  7節「空を飛ぶコウノトリもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」。時の徴を知る渡り鳥は本能的に行動するが、しかし民は心に刻み込まれた「主の定めを知らない」。方向感覚が失われてしまった。「知る」(ヤダー)は人格的な関わりを表す(6章27節、9章2節、31章34節see)。創世記4章1節など、旧約聖書には数多く出てくる。
  8節「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で、主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした」。重ねて「どうして」(マデュアー)と問う。時の徴を知らないのは、民だけではない。賢者といわれる者、律法筆記者(口語訳=書記)、そして預言者から祭司にまで至る(9~10節)。10~12節は、6章13~15節を繰返している。
  14節「何のために我々は座っているのか。集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。我々の神、主が我々を黙らせ、毒の水を飲ませられる。我々が主に罪を犯したからだ」。主なる神が民になされる采配を黙して待つのである。それは「毒の水を飲む」という容易ならざる事柄である。平和を望んでも幸いはない(15節)。これは偽りの預言が暴かれることである(11節cf)。
  16節「ダンから敵の軍馬のいななきが聞こえる。強い馬の鋭いいななきで、大地はすべて揺れ動く。彼らは来て、地とそこに満ちるもの、都とそこに住むものを食い尽くす」。敵の襲来の予告である(17節)。
  18節「わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果てる」。エレミヤは嘆き、心は弱り果てるという。それはシオンの娘(都エルサレム)が偶像に犯されている状態に対してである(19節)。更に嘆きは恐怖に変わる(21節)。娘なるわが民の傷は癒えないのだ(22節)。
  23節「わたしの頭が大水の源となり、わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために」。悲嘆にくれる預言者像が描かれている。エレミヤは涙の預言者と呼ばれる。
  キリスト生誕物語を読むと、神が現された時の徴を知ったのは、東方の賢者や羊飼い達であった。そして、ファリサイ派らはそれを知ることが出来なかった(マタイ福音書16章3節)。
  キリスト者も時のしるしを見分ける霊的鋭い感覚を与えられたい(フィリピ1章9節)。

主の神殿、主の神殿、主の神殿という

2014-05-24 | Weblog
  エレミヤ7章 

  4節「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」(新共同訳)

  1節「主からエレミヤに臨んだ言葉」。小見出しは「神殿での預言」。エレミヤの召命は1章2節にある通りヨシア治世13年(紀元前627年)であるが、初期預言は宗教改革(列王記下23章 628~年)と重なる。神殿預言が、26章と同じとすれば、ヨアキム治世の初め(紀元前608年)になる。彼の20年近くの預言活動が処々に伺える。
  2節「主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。『主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け』」。エレミャは神殿の門前で、主の言葉を聞けと告げた。万軍の主はお前たちの道と行いを正すなら、この所に住まわせると(3節)。
  4節「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」。神殿を絶対化し、どんな外敵からも不可侵であるという誤った考え方は、ヒゼキヤの時代アッシリヤ軍が一夜にして敗退した出来事(列王記下19章35節)に端を発すると考えられている。偽りの預言を信じてはならない。
  5節「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」。神の正義(ミシュパート)を行わないで、救いの力を持たない異教の神々に従いながら、「救われた」というのか(6~10節)。主は繰り返し語ったが、その言葉に従わず、呼び掛けに答えなかった(13節)。そこで北イスラエルのシロと同じように、民を放棄すると告げる(15節)。列王記上2章27節see。
  16節「あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてわたしを煩わすな。わたしはあなたに耳を傾けない」。悔い改めを求め、執り成しをする預言者の存在理由を奪われる神の言葉。そこにははなはだしい偶像礼拝がある(9節、17~19節)。
  18節「子らは薪を集め、父は火を燃やし、女たちは粉を練り、天の女王のために献げ物の菓子を作り、異教の神々に献げ物のぶどう酒を注いで、わたしを怒らせている」。「天の王女」とは、アシタロテ、アシュラと呼ばれる豊穣の女神であると言われる(44章16~23節)。
  23節「むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る』」。然し、彼らは聞き従わず、頑なな悪い心の企みに従い、わたしに背を向けた(24節)。うなじを固くし(26節)、すべての言葉を語っても聞き従わず、呼び掛けても答えない」(27節)。神に執り成しをすることを要しないのは、このためである。それゆえ、彼らに「主の声に聞き従わず、懲らしめを受入れない、その口から真実が失われた民だ」と言うがよい(28節)。ベン・ヒノムの谷に高台を築いて、息子、娘を人身御供にすることを禁じたにもかかわらず、これを行うユダとエルサレムの町は廃墟となる(29~34節)。
  列王記下16章3節、21章6節see。この危機的な状況から「哀歌をうたう」ことになると告げる(29節)。

平和がないのに『平和、平和』と言う

2014-05-23 | Weblog
 エレミヤ6章 

  14節「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」(新共同訳)。

  1節「ベニヤミンの人々よ、エルサレムの中から避難せよ。テコアで角笛を吹き鳴らし、ベト・ハケレムに向かって、のろしを上げよ。災いと大いなる破壊が北から迫っている」。小見出しは「エルサレムの攻城」である。真実なる神は、襲来によって滅ぼされる理由として民の不義不正を暴く。
  3節「羊飼いが、その群れと共にやって来る。彼女に向かって周囲に天幕を張り、それぞれに、草を食い尽くす」。娘シオンを取り囲んでいる。それは北から襲ってくる敵である(1章13~15節、4章5~8節see).
  5節「立て、夜襲をかけよう。城郭を破壊しよう」。周到な準備ができている。攻城のために木は切られ土塁は築かれた(6節)。エルサレムよ、懲しめを受け入れよと主は言われる(8節)。
  9節「万軍の主はこう言われる。『ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者を摘み取れ。ぶどうを摘む者がするように、お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ』」。襲来する敵に主が呼びかけている言葉。
  10節「誰に向かって語り、警告すれば、聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で、耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも、それを侮り、受け入れようとしない」。エレミヤの独語。しかし神の警告を伝えねばならない。老若弱男女は捕えられ、家畑すべて失うであろう。それに耐えることに疲れたという(11~12節)。
  13~30節 預言者も祭司も民を欺いている。然し預言者は真実を暴露しなければならない。それは三つある。
  第一 14節「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」。口語訳「手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている」。岩波訳「わが民の傷を、手軽に癒して言う『平安だ、平安だ』と。しかし平安などない」。偽りの医師の言葉だから「心配いらない、安心せよ」の訳が直裁でよい。傷を癒さないばかりか安心せよと言う二つの悪がある。
  第二 16節「主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』しかし、彼らは言った。『そこを歩むことをしない』と」。口語訳「わかれ道に立ってよく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み」。新改訳は「四つ辻に立って」となっている。道標を見誤るとそこは奈落の底である。いや樹林に迷込んで抜け出せない。何という危険なことか。この警告を国々よ聞け、地よ聞け(17~19節)、北からの敵襲は残酷で容赦のないもの(22~23節)、恐怖は四方から迫り突然襲う(25~26節)。
  第三 27節「わたしはあなたをわが民の中に金を試す者として立てた。彼らの道を試し、知るがよい」。預言者エレミヤに求められたこと。預言者の言動は、坩堝に鉱石を投じて溶かし、金銀銅鉄を検出することになる(28~30節)。その結果は、みな金滓ばかり。火で精錬されて純粋な金を取り出すこと、それが神の真実である。
  第1ペテロ1章7節を読みたい。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」


主よ、御目は、真実を求めておられる

2014-05-22 | Weblog
  エレミヤ5章 

  3節「主よ、御目は、真実を求めておられるではありませんか。彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず、彼らを打ちのめされても、彼らは懲らしめを受け入れず、その顔を岩よりも固くして、立ち帰ることを拒みました」(新共同訳)

  1節「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう」。外敵襲来の原因を一層明らかにする。エルサレムの堕落の有様を見るが、彼らは口先では主は真実を求めていると言う。「正義」(ミシュパート)も「真実」(エムナー)も求める者は一人もいない。4章2節に出ている。民は打たれても懲らしめられても鉄面皮で立ち帰ることを拒んでいる(2~3節)。
  4節「わたしは思った。『これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ。主の道、神の掟を知らない』」。そこで身分の高い者に尋ね主の道、神の掟を知っている筈だと思ったが、等しく神に対する背信は変わらないことを彼は知る(5~6節)。
  8節「彼らは、情欲に燃える太った馬のように、隣人の妻を慕っていななく」。発情した馬のようだ(7節)。旧約思想には異教の神々を慕う偶像礼拝を男女の姦淫として表現するが(ホセヤ書see)、ここでは発情した馬になぞらえている。主は必ずこの悪に報いると告げられる(9節)。
  10節「ぶどう畑に上って、これを滅ぼせ。しかし、滅ぼし尽くしてはならない。つるを取り払え。それは、主のものではない」。ここでは神が植えられたぶどう園になぞらえる(イザヤ5章1~5節)。その状態を見ると主の期待を欺いている(11節)。
  12節「彼らは主を拒んで言う『主は何もなさらない。我々に災いが臨むはずはない。剣も飢饑もおこりはしない』」。新改訳「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない…」。「主が何だ」(ローフー)と言って預言者の口を通して語られる神の言葉を無視し否定して慢心を抱く。そこで「わたしの言葉をあなたの口に授ける」とエレミヤに告げる(14節)。それは北からの敵の襲来である(15~17節)。これも既に預言していた事柄であった(4章5~31節)。北から騎馬軍団が襲来して、野の収穫物を奪い、城壁を破壊する(17節)。しかし神は「民を滅ぼし尽くす」のではない(19節)。これは未来に向けての神の憐れみの計画である。
  21節「愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても見えず、耳があっても、聞こえない民」。20節から、ヤコブとユダの罪が取上げられる。彼らは心がかたくなで、主に背き続ける(22~23節)。時に応じて降り注ぐ恵みの雨をその頑なさでとどめたと言われる(24~25節)。
  26節「わが民の中には逆らう者がいる。網を張り、鳥を捕る者のように、潜んでうかがい、罠を仕掛け、人を捕らえる」。籠を鳥で満たすように、欺きとった物で家を満たす、富める者らが私腹を肥やしている。貧しい者や、みなしごの訴えを退けて際限がない(27~28節)。偽預言者と祭司らも同調している(31節)。

 「正義を行い、真実を求める者」(1節)がいないという結論になる。神は真実を求められる方である(1、3節)。真実とは何か。真実(エムナー)は、「信仰、まこと、忠信、安き、堅く立つ、忠実」と同じ意味である。真実は正義と結ばれて切り離せない(4章2節)。何故なら正義は真実(忠実)に遂行されねばならないからである。
  真実なる方は神唯ひとりであり、その真実を表された方はイエスである(Ⅰコリント1章9節、Ⅱテモテ2章13節)。

わたしのはらわたよ、はらわたよ

2014-05-21 | Weblog
  エレミヤ4章 

  19節「わたしのはらわたよ、はらわたよ。わたしはもだえる。心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。わたしは黙していられない。わたしの魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く

  1節「『立ち帰れ、イスラエルよ』と、主は言われる。『わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない』」。3章で繰り返して告げたように、ここでも続いて直訳「主に立ち帰るなら~」(イムナ-シューブ)と告げる。
  2節「もし、あなたが真実と公平と正義をもって、「主は生きておられる」と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする」。悔改めて主に立ち帰るならば、神の真実(エムナー)と公平(ミシュパート)と正義(ツェデク)をもって示さねばならない。
  3節「まことに、主はユダの人、エルサレムの人に、向かって、こう言われる。『あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな』」。口語訳「主はユダの人々とエルサレムに住む人々にこう言われる『あなたがたの新田を耕せ、いばらの中に種をまくな、あなた方の新田を耕せ。茨の中に種をまくな』」。荒れ地を耕せというのである。これは難事業で容易ではない。それは主から賜わる新しい契約によって実現する。それはこれまでの民族の特色を示す包皮の割礼ではない、主から与えられる新しい割礼である(4節)。包皮を「心の包皮を取り除け」という(19章24~25節see)。
  5節「ユダに知らせよ、エルサレムに告げて言え。国中に角笛を吹き鳴らし、大声で叫べ、そして言え。『集まって、城塞に逃れよう』」。小見出し「北からの敵」とある。避難せよ、足をとめるな。わたしは北から災いを、大いなる破壊をもたらすのだ と告げる(6節)。これは既に「煮えたぎる鍋の幻」(1章13~15節)で告げられていた。北からの敵はスクテヤ人による騎馬軍団が予想されている。
  9節「その日が来れば、と主は言われる。王も高官も勇気を失い、祭司は心挫け、預言者はひるみの日が来れば」。「その日」は王も高官も、祭司や預言者もうろたえあわてることになる。「あなたたちに平和が訪れる」との約束が偽りの言葉となり、荒れ野の裸の山々から熱風が吹きつけられる(10~11節)。「その日」「その時」には厳しい主の審判が下る。あなたの心の悪を洗い去って救われよと告げる(14節)。
  19節「わたしのはらわたよ、はらわたよ。わたしはもだえる。心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。わたしは黙していられない。わたしの魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く」。襲来の角笛の響き、鬨の声に彼の体が呼応し、身もだえする。その有り様を「わたしは見た」と四度も繰返し告げている(23~26節)。「はらわたよ」メイームは、内臓、胎とも訳される(歴代誌下21章15節、イザヤ49章1節)。ここは胃痙攣を起こし鼓動が激しく心臓が止まりそうな状態である。これほどまで、民と同じ身になって神の裁きに悶え苦しむ人がいただろうか。イエスのゲッセマネの祈り、十字架上での叫びを思う。ユダの民の無知、無分別で悪を行うことには長けて、善を行うことを知らないのである。北からの襲来の有様は、大地は混沌として闇となり(23節)、人も鳥も姿を消し、稔りの無い荒れ野の状態になる(25~26節)。
  27節「まことに、主はこう言われる。『大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない』」。それは地が喪に服し、上なる天は嘆く」状態なのだと告げる(28節)。19節で示されている通り、エレミヤは決して傍観者たりえない。それは丁度産婦が産みの苦しみを叫ぶように、「わたしは気を失う」と告げている(29~31節)。

背信の子らよ、立ち帰れ

2014-05-20 | Weblog
 エレミヤ3章 

  22節「『背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす』『我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です』」(新共同訳)

  1節「もし人がその妻を出し、彼女が彼のもとを去って、他の男のものとなれば、前の夫は彼女のもとに戻るだろうか。その地は汚れてしまうではないか。お前は多くの男と淫行にふけったのに、わたしに戻ろうと言うのかと、主は言われる」。姦淫を行う背信の女への悔い改めの呼びかけが続く。神とイスラエルが夫と妻で譬えられる。バアル礼拝に陥ったイスラエルは姦淫行為になる。バアルは自然繁栄をもたらす神として山頂や野に祭壇を築き拝跪した(2~3節)。わが父、わが夫と呼びかけながら、悪を重ねて平気だ(4~5節)。
  6節「ヨシヤ王の時代に、主はわたしに言われた。あなたは背信の女イスラエルのしたことを見たか。彼女は高い山の上、茂る木の下のどこにでも行って淫行にふけった」。姦淫行為は初めに北イスラエルでなされ、夫が離縁状をもって離別したように神は民を見放したが、しかし、裏切りの女であるその姉妹ユダは恐れるどころか、その淫行を続けて立ち帰ることをしないので、彼女をも離別し、離縁状を渡した(7~8節)。怒りと嘆きの声が聞こえる。しかしそれでも主なる神は「背信の子らよ立ち帰れ」と呼び続ける(12節)。
  13節「ただ、お前の犯した罪を認めよ。お前は、お前の主なる神に背き、どこにでも茂る木があれば、その下で、他国の男たちと乱れた行いをし、わたしの声に聞き従わなかったと、主は言われる」。それに対する主の要求の第一は、背信を認めること、そして立ち帰ることである(14節)。
  15節「わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く」。主はこの心にかなう牧者を遣わして導く「その日」には、主の契約の箱について語ることはなく、エルサレムは主の王座と呼ばれ、諸国の民は皆、そこに向かい、主の御名のもとにエルサレムに集まる。彼らは再び、かたくなで悪い心に従って歩むことをしない(16~17節)。悪しき心が砕かれて、再びその道に歩まないという態度を主に示す。「その日」には、背信の女と呼ばれたイスラエル(8節)も裏切りの女ユダ(10節)と共に合流しエルサレムに帰ってくると告げる(18節)。この預言はバビロン捕囚後を指しているものである。
  22節「『背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす』『我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です』」。ここは、主の呼び掛けと民の応答である。立ち帰りを三度も示した(12節、14節)。立ち帰り(シューブ)は、引き返す、悔い改める、心翻す、離れる、向きをかえると訳せる。神の許に行くことから立ち帰りがはじまる。方向転換しなければならない。
  23節「まことに、どの丘の祭りも、山々での騒ぎも偽りにすぎません。まことに、我々の主なる神に、イスラエルの救いがあるのです」。若い時から誤ったバアル礼拝の罪を認める。
  25節「我々は恥の中に横たわり、辱めに覆われています。我々は主なる神に罪を犯しました。我々も、先祖も、若いときから今日に至るまで、主なる神の御声に聞き従いませんでした」。日本語の「後悔する、悔いる、深く反省する」と立ち帰りは違う。地獄への道には悔いるとの言葉が敷き詰められている。百万回悔いても、立ち帰りには至らない。

ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った

2014-05-19 | Weblog
  エレミヤ2章 

  13節「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」。(新共同訳)

  1節「主の言葉がわたしに臨んだ」。小見出しに「イスラエルの罪」とあるように、神が預言者の口を通して、罪を告発する(1章9節)。以下八項目に及ぶ。
  2節「行って、エルサレムの人々に呼びかけ、耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」。エジプト脱出の時の民は花嫁の純愛(ヘセド)で神に従順だったので、主に献げられた初穂であった(3節)。これまで「ヤコブの家」「イスラエル家」として守られて来たが、何故今は主から遠く離れ、空しいものの後を追う部族となっているのか(4~5節)。告発の第一である。
  7節「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き、味の良い果物を食べさせた。ところが、お前たちはわたしの土地に入ると、そこを汚し、わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた」。荒れ野の旅を終えて、豊穣な土地カナンに導き与えられたにもかかわらず、祭司は主を忘れ、指導者は律法に背き、預言者はバアルの預言をしている。それゆえ改めて告発するのだ(8~9節)。第二である。
  10節「キティムの島々に渡って、尋ね、ケダルに人を送って、よく調べさせ、果たして、こんなことがあったかどうか確かめよ」。周辺の国々を尋ねて見よ。神ではない神々と取り替えた国があろうか。ところがわが民はこの愚かなことをしている。天を驚け、地よ震えおののけ(11~12節)。これが第三である。
  13節「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」。無用の水溜とは「ナイルの水(エジプト)、ユーフラテスの水(アッシリア)である(14~18節)。この背信が如何に悪く、苦いことか味わい知るがよいと告げる(19節)。第四である
  20節「あなたは久しい昔に軛を折り、手綱を振り切って、『わたしは仕えることはしない>』と言った。あなたは高い丘の上、緑の木の下と見ればどこにでも、身を横たえて遊女となる」。その背反を、手綱を切った子牛、雌のらくだとろばが、発情しているようにイスラエルも情欲にあえぎ、異国の男を慕って後を追う(23~25節)。第五の告発である。
  26節「盗人が捕らえられて辱めを受けるように、イスラエルの家も辱めを受ける、その王、高官、祭司、預言者らも共に」。辱められても、木や石に向かって父よ、母よ救って下さいと言う。なぜいつまでも偶像礼拝と忘恩を続けるのか(27~32節)。
  33節「なんと巧みにお前は情事を求めることか。悪い女たちにさえ、その道を教えるほどだ」。情事に等しい背信に陥りながら、「わたしには罪がない、主の怒りは去った」という(34~35節)。第六、第七と続く。
  36節「なんと軽率にお前は道を変えるのか。アッシリアによって辱められたように、エジプトにも辱められるであろう」。第八の告発は、軽率に主の道を変えていることである。エレミヤは、北イスラエルの遥か100年も遡ってアッシリアに滅ぼされ属国となっているが、複眼的な目で時代を見ている。諸国の力と政治に頼る、主なる神への背信である(37節)。
 様々な偶像礼拝の告発は二つの背反であることが指摘された(13節)。神ならぬものを神とする罪と神を神としない罪である。日本の国土はこの二つの背反に覆われていることを知るべきである。ヨハネ福音書4章24節が強く示される。


よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける

2014-05-17 | Weblog
エレミヤ1章 見

  9節「主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける』」(新共同訳)

  1節「エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった」。彼の出生地と家系が示される。彼の預言者活動期間は、ヨシア治世13年からゼデキヤ11年迄とある。列王記下22章~25章、歴代誌下34章~36章から知ることが出来る。それはユダ王国の繁栄と滅亡の時代を背景にしている。
4節「主の言葉がわたしに臨んだ」。神からの召命は一方的であった(2節see)
  5節「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」。受胎と出産という事柄を超えて生かされているという実存的なあり方で、これは神から選ばれたことを表わす(ガラテヤ1章15節see)。
  6節「わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから』」。年齢に関わりないと主は告げる。だから誰のところに遣わそうとも、命じることをすべて語れという(7節)。
  8節「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」。主はエレミヤの唇に触れて「わたしの言葉を授ける」と告げられた(9節)。それは諸王、諸国民に対して権威を持って立たせる。そしてあるいは抜き、こわし、滅ぼし、倒し、建て、あるいは植えさせると告げられた(10節)。召命はまことに厳しい。
  11節「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます』」。これは「わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)」と語呂合わせになる(12節)。アーモンド(あめんどう)の春先に一番早く花芽は出す。ヨシア王在任13年(2節)はエジプトとアッシリヤが対峙している歴史の転換期で、その動向をいち早く知ることになる。
  13節「主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。『何が見えるか』。わたしは答えた。『煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています』」。第二の幻である。それは北から外敵が襲来することを予告させるものである(14~15節)。歴史的には広大なアッシリヤでの騎馬隊スキタイ族の内乱がユダの国に伝えられる。
  16節「わが民の甚だしい悪に対して、裁きを告げる。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき、手で造ったものの前にひれ伏した」。それは偶像礼拝の罪である。預言者としてエレミヤは彼らに向かい、覚悟して語れと神から告げられる(17節)。
  18節「わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて、堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として、ユダの王やその高官たち、その祭司や国の民に立ち向かわせる」。
  エレミヤはユダの全土に向かって預言活動をするが、石造の柱や城壁など恐れるにたりない、神は彼を鉄の柱、青銅の城壁として、ユダの高官たち、祭司や国民に立ち向かう者となる。予言活動に対して、彼らが戦いをいどんでも負けることはないというのである(19節

平和を大河のように

2014-05-15 | Weblog
 イザヤ66章 

  12節「主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう、平和を大河のように国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ抱いて運ばれ、膝の上であやされる」(新共同訳)

  1節「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか」。新しいエルサレム神殿を示す。それは地上に建てる神殿ではない。主が顧みるのは、霊の砕かれた、謙って心慄く人である(2節)。これは神殿から告げられる言葉である。
  3節「牛を殺してささげ、人を打ち倒す者、羊をいけにえとし、犬の首を折る者、穀物をささげ、豚の血をささげる者、乳香を記念の献げ物とし、偶像をたたえる者、これらの者が自分たちの道を選び、その魂は忌むべき偶像を喜ぶように」。偶像礼拝は徹底して排除される。神は彼らを見放し、叫んでも聞かれない(4節)。
  5節「御言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。あなたたちの兄弟、あなたたちを憎む者、わたしの名のゆえに、あなたたちを追い払った者が言う、主が栄光を現されるように、お前たちの喜ぶところを見せてもらおう、と。彼らは、恥を受ける」。ここで神の言葉に心砕かれて聞く人に呼び掛けられる。それは神殿から響く神の声である(6節)。
  7節「産みの苦しみが臨む前に彼女は子を産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした」。妊婦の出産と乳児の譬。妊婦は新しいエルサレムの都を指す。陣痛が臨むや否や、神は妊婦の胎を開く(8~9節)。乳房に養われる乳児も産婦も喜びと慰めに満たされる(11、13節)。ここに素晴らしい予言の言葉が響く。
  12節「主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう、平和を大河のように国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ抱いて運ばれ、膝の上であやされる」。岩波訳「流れのように平安を、あふれる川のように国々の栄光を」。ここは新共同訳が良い。「平和を大河のように」という。「平和」の預言は52章7節、54章10節、61章1節等に示されている。
  13節「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける」。この慰め「ナハムー」(comfort)も既に11節で告げられている(40章1節see)。心は喜びで満たされ、主の慰めの手が絶えず差しのべられているからだ(14節)。
  15節「見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを、叱咤と共に火と炎を送られる」。その時、周囲の国々は、粛清されることになる。異教徒たちの群像礼拝は除かれることになる16~17節)。
  18節「わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る」。民族と国境を越えた新創造が示される。西の端タルシシから北アフリカ「プルとトバル」、黒海東南「トバル」、ギリシャの「ヤワン」に栄光が伝えられる(19節)。これらの遠い国々から献げ物を携えて人々が集まって来る。彼らもイスラエルの子らと同じ祭司、レビ人の業に就く(20~21節)
  22節「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前に永く続くように、あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと主は言われる」。これは預言者イザヤを通して告げられる神の終結の言葉となっている。

わたしは新しい天と新しい地を創造する

2014-05-13 | Weblog
  イザヤ65章 

  17節「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」(新共同訳)

  1節「わたしに尋ねようとしない者にも、わたしは、尋ね出される者となり、わたしを求めようとしない者にも、見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも、わたしはここにいる、ここにいると言った」。小見出し「救いの約束」。神の招きに背く反逆の民に対して神は呼び掛けられる。
  2節「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」。神は忍耐をもって背く民を招いている。それは何か。
  3節「この民は常にわたしを怒らせ、わたしに逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき」。それは園で犠牲をささげ、墓場に座り、豚の肉を食べ、肉の汁を器に入れながら「わたしに近づくな、清いのだ」といって甚だしい偶像礼拝に陥っているのである(4節)。神の怒りの火は絶えず燃え(5節)、その行為に黙することなく必ず報いがある(6節)。それは今に始まったことではない(7節)。
  8節「主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな、そこには祝福があるから、と人は言う。わたしはわが僕らのために、すべてを損なうことはしない」。新改訳「主はこう仰せられる。ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない」。ぶどうの木に酸っぱい実でなく、美味しい実の房がある。つまり、その背ける民の中に選ばれた「わたしの僕ら」がいるというのである(9節)。選びの民と反逆の民とが対照となる。
  11節「お前たち、主を捨て、わたしの聖なる山を忘れ、禍福の神に食卓を調え、運命の神に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ」。「禍福の神」・ギリシャのティケー神、「運命の神」・アラビアのマレード神。新改訳では、「ガド」、「メニ」と訳している。
  13節「それゆえ、主なる神はこう言われる。見よ、わたしの僕らは糧を得るが、お前たちは飢える。見よ、わたしの僕らは飲むことができるが、お前たちは渇く。見よ、わたしの僕らは喜び祝うが、お前たちは恥を受ける」。わたしの僕らは糧を得、飢えることも渇くこともなく、喜びの声をあげるが、反逆の民は飢え、渇き、心の痛みに泣き叫ぶ。それは真実の神が下す裁定である。神の選びの根拠は民の側にはない(16節)。
  17節「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」。選ばれた主の僕らになされる約束で、それは新しい天と地である。
 そこに五つの祝福がある。
 ① エルサレムに喜びと楽しみの声があがり、泣き叫ぶ声はない(19節)。
 ②年老いて長寿に満たされない者はいない(20節)。
 ③家を建て、ぶどう畑に豊かな実を結び、労苦は無駄になることはない(21~22節)。
 ④子孫の繁栄が約束される(23~24節)。
 ⑤祝福の結果として動植物との共生である(25節)。最早弱肉強食の世界ではなくなる(11章6~8節see)。

わたしたちは粘土、あなたは陶工

2014-05-10 | Weblog
 イザヤ64章 

  7節「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業」(新共同訳)
 
  1節「柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように、あなたの御名が敵に示されれば、国々は御前に震える」。63章に続く祈りである。それは神の威光が国々に示されることである(63章19節)。それは山々が揺れ動くという恐るべき業である(2節)。詩144篇5節see
  3節「あなたを待つ者に計らってくださる方は、神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も、目に見た者もありません」。天と地を裂くような解放はあなたの外にないと訴える。
  4節「喜んで正しいことを行い、あなたの道に従って、あなたを心に留める者を、あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました、わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって、わたしたちはとこしえに救われます」。岩波訳「あなたは会って下さいます、喜んで義を行う者に、あなたの道を歩み、あなたを想い起す者に。ご覧下さい、あなたは憤慨されましたが、我らは罪を犯し(続け)ました」。この方が判りやすい。われらは皆穢れた者となり、月経で汚れた(不潔な)着物のようになり、悪がわれらを風のように運んで行く(5節)。
  6節「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し、わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた」。岩波訳「…われらをとろけさせて、われらの咎の手へと渡されました」。
  7節「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業」。「しかし、主よ」は大きな否定=Great but。何かが起きなければ出来ない。激怒しないで、わたしたちのすべてに目を留めてくださることである(8節)。63章15節にそれは主の「たぎる思いと憐れみ」が示されることだと出ている。「たぎる思い」(ハマッハ)とは「はらわたの痛み」を指している。神学者北森嘉蔵はこれを「神の痛み」といっている。
  9節「あなたの聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し」。エルサレムの荒廃した状況が出てくる。これが何時の時代か不明であるが、預言者はエルサレムの繁栄を思い描いて、神の救いとその威光を願い訴えるのである(10節)。

 ここでは、7節で神と民との関係を陶工の手の中にある粘土として示す。これは既に29章16節、45章9節にあり、またエレミヤも取り上げている(13章1~23節)。創世記2章に象徴的に記されている通りである。神との本質的関係である。しかし機械的従属ではなく、徹底した自己否定であり、絶対者への自己放棄を示すものである。重要なのは「あなたは我らの父」と呼ぶ人格的関係で、そこからの神の救済は始まる。ここから主の僕(イエス)による贖いへの光が射してくる。


わたしたちの贖い主

2014-05-09 | Weblog
 イザヤ63章
 
  16節「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です」(新共同訳)。

  1節「『エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き、勢い余って身を倒しているのは』『わたしは勝利を告げ、大いなる救いをもたらすもの』」。小見出し「主の報復」。主の報復の対象はエドムで既に34章にある。主は「義(ツェデカ-)をもって語り、救を施す力ある方」(口語訳)である。何故赤い衣なのかを問う(2節)。
  3節「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した」。34章5~6節にも、主の剣は血にまみれ浸されるとある。この場面は酒ぶねを踏んで、衣に真赤な液が血のように浴びる表現である。神の報復の理由がここで示されている。諸国の民は神の義(口語訳・新共同訳¬=大いなる救い 1節see)に関わりがない態度を取ったからである。神は「報復の日、贖いの年」を定めたが、見回すと誰も助けたり支えたりする諸国の民はいなかった(4~5節)。
 6節「わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血を大地に流れさせた」。エドムは諸国を代表しているのであり、報復は諸国の民に及んでいる。
  7節「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を、主がわたしたちに賜ったすべてのことを、主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを」。小見出しは「執り成しと嘆き」。イスラエルの民に主から賜わった憐れみと豊かな慈しみを賜わったこと、苦難を常に御自分の苦難とし、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に彼らを負い、担ってくださったことを心に留めるという(8~9節)。主が憐れみ深い、贖い主であることを示している。
  12節「主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ、民の前で海を二つに分け、とこしえの名声を得られた」出エジプトの出来事を想い起させる(出エジプト記14章)。
  15節「どうか、天から見下ろし、ご覧ください。あなたの熱情と力強い御業は。たぎる思いと憐れみは」。岩波訳「あなたの熱愛と、あなたの大能は。あなたの、腸(はらわた)のたぎる思いと憐れみとは」。そのような神の腸の痛む聖意が抑えられて示されていないと預言者は訴えている。
  16節「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です」。9節と同じ、「贖い主」の予言は44章、47章にあった。53章「受難の僕」も自らを償いの献げ物(10節)とした予言である。何故あなたの道から迷い出させ、心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってくださいと訴える(17節)。これは罪の責任転嫁である。岩波訳「帰って来て下さい」。口語訳「お帰り下さい」。民の自力救済の不可能さを表現する稀な箇所。捕囚の期間が長いことを示す(19節)。
 神の血による罪の贖いの御業を新約聖書から見る。それはエフェソ1章7節「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」。ヘブライ9章22節にもある。