詩22篇
28節「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように」(新共同訳)
2節「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか」。21篇とは対照的に弱さを一身に負う者の嘆きの詩が22節まで詠われる。「エリー エリー ラマー アザヴターニ」。これはイエスが十字架上で叫ばれた言葉である(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。
3節「わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。夜も昼も呼び求めてやまないのに応えて下さらないと「わたしの神」に訴える。絶望のどん底にありながら、あなたへの信頼は絶えることはない(4節)。なぜなら、あなたは聖なる方、イスラエルの賛美の中におられる方、彼らがより頼むと苦難から逃れさせられた。あなたにより頼むと恥じを受けることはなかった(5~6節)
7節「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」。人々から虫けらのように扱われ、軽蔑され、口をつき出して嘲笑され、頭を振って「お前を愛している神に任せて救われるがよい」とののしった(8~9節)。イエスの十字架上で受けた恥辱と嘲笑の有り様が、ここから示される(マタイ27章27~31節、39~40節see)。
10節「わたしを母の胎から取り出し その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」。この叫びが母の胎内にある時から、全存在を賭けたものであることを訴える(11節)。そして苦難が迫り、助けてくれる者のいない今、わたしから離れないでくださいと祈る(12節)。
13節「雄牛が群がってわたしを囲み バシャンの猛牛がわたしに迫る」。対象となる敵は「猛牛」だけではない、むさぼり食らう獅子(14、22節)、飢えた野犬(17節)と表現される。わたしの骨はバラバラ、心ははらわたの中で蝋のように溶け、力は壊れた陶器の破片、舌は顎の上に付き、わたしは塵と死の中に打ち捨てられる(15~16節)。わたしの体はさらしものとなって眺め、わたしの着物を分けて籤引きにしている(17~19節)。これも福音書に出てくる(ヨハネ福音書19章23節)。
24節「主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ」。ここから状況が苦悩から讃美に変わる。一体何が起きたのか。言えることは神の奇跡が彼の内に起きたのだ。讃美と栄光を主に帰せること(24節)、貧しい人(苦しむ人)を受け入れられ、そして神が御顔を隠されなかったことである(25節)。神の沈黙と断絶がなくなった。
26節「それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます」。「満願の献げ物をささげます」は意訳で口語訳「あなたがたの心がとこしえに生きるように」が原文に近い。
28節「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように」。その結果、地にあるすべての人が主に立ち帰り、命に溢れて…主にひれ伏す(礼拝する)こととなり、この恵みの御業を世々に告げ知らせるのである(29~31節)。「成し遂げてくださった恵みの御業」とは何かを改めて問う。それは、キリスト者にとって、イエスの十字架の死よる罪の赦しと、復活による新しい命である。
28節「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように」(新共同訳)
2節「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか」。21篇とは対照的に弱さを一身に負う者の嘆きの詩が22節まで詠われる。「エリー エリー ラマー アザヴターニ」。これはイエスが十字架上で叫ばれた言葉である(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。
3節「わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。夜も昼も呼び求めてやまないのに応えて下さらないと「わたしの神」に訴える。絶望のどん底にありながら、あなたへの信頼は絶えることはない(4節)。なぜなら、あなたは聖なる方、イスラエルの賛美の中におられる方、彼らがより頼むと苦難から逃れさせられた。あなたにより頼むと恥じを受けることはなかった(5~6節)
7節「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」。人々から虫けらのように扱われ、軽蔑され、口をつき出して嘲笑され、頭を振って「お前を愛している神に任せて救われるがよい」とののしった(8~9節)。イエスの十字架上で受けた恥辱と嘲笑の有り様が、ここから示される(マタイ27章27~31節、39~40節see)。
10節「わたしを母の胎から取り出し その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」。この叫びが母の胎内にある時から、全存在を賭けたものであることを訴える(11節)。そして苦難が迫り、助けてくれる者のいない今、わたしから離れないでくださいと祈る(12節)。
13節「雄牛が群がってわたしを囲み バシャンの猛牛がわたしに迫る」。対象となる敵は「猛牛」だけではない、むさぼり食らう獅子(14、22節)、飢えた野犬(17節)と表現される。わたしの骨はバラバラ、心ははらわたの中で蝋のように溶け、力は壊れた陶器の破片、舌は顎の上に付き、わたしは塵と死の中に打ち捨てられる(15~16節)。わたしの体はさらしものとなって眺め、わたしの着物を分けて籤引きにしている(17~19節)。これも福音書に出てくる(ヨハネ福音書19章23節)。
24節「主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ」。ここから状況が苦悩から讃美に変わる。一体何が起きたのか。言えることは神の奇跡が彼の内に起きたのだ。讃美と栄光を主に帰せること(24節)、貧しい人(苦しむ人)を受け入れられ、そして神が御顔を隠されなかったことである(25節)。神の沈黙と断絶がなくなった。
26節「それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます」。「満願の献げ物をささげます」は意訳で口語訳「あなたがたの心がとこしえに生きるように」が原文に近い。
28節「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように」。その結果、地にあるすべての人が主に立ち帰り、命に溢れて…主にひれ伏す(礼拝する)こととなり、この恵みの御業を世々に告げ知らせるのである(29~31節)。「成し遂げてくださった恵みの御業」とは何かを改めて問う。それは、キリスト者にとって、イエスの十字架の死よる罪の赦しと、復活による新しい命である。