日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り

2013-02-28 | Weblog
  詩22篇
 
 28節「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように」(新共同訳)

2節「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか」。21篇とは対照的に弱さを一身に負う者の嘆きの詩が22節まで詠われる。「エリー エリー ラマー アザヴターニ」。これはイエスが十字架上で叫ばれた言葉である(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。
  3節「わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。夜も昼も呼び求めてやまないのに応えて下さらないと「わたしの神」に訴える。絶望のどん底にありながら、あなたへの信頼は絶えることはない(4節)。なぜなら、あなたは聖なる方、イスラエルの賛美の中におられる方、彼らがより頼むと苦難から逃れさせられた。あなたにより頼むと恥じを受けることはなかった(5~6節)
  7節「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」。人々から虫けらのように扱われ、軽蔑され、口をつき出して嘲笑され、頭を振って「お前を愛している神に任せて救われるがよい」とののしった(8~9節)。イエスの十字架上で受けた恥辱と嘲笑の有り様が、ここから示される(マタイ27章27~31節、39~40節see)。
  10節「わたしを母の胎から取り出し その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」。この叫びが母の胎内にある時から、全存在を賭けたものであることを訴える(11節)。そして苦難が迫り、助けてくれる者のいない今、わたしから離れないでくださいと祈る(12節)。
  13節「雄牛が群がってわたしを囲み バシャンの猛牛がわたしに迫る」。対象となる敵は「猛牛」だけではない、むさぼり食らう獅子(14、22節)、飢えた野犬(17節)と表現される。わたしの骨はバラバラ、心ははらわたの中で蝋のように溶け、力は壊れた陶器の破片、舌は顎の上に付き、わたしは塵と死の中に打ち捨てられる(15~16節)。わたしの体はさらしものとなって眺め、わたしの着物を分けて籤引きにしている(17~19節)。これも福音書に出てくる(ヨハネ福音書19章23節)。
  24節「主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ」。ここから状況が苦悩から讃美に変わる。一体何が起きたのか。言えることは神の奇跡が彼の内に起きたのだ。讃美と栄光を主に帰せること(24節)、貧しい人(苦しむ人)を受け入れられ、そして神が御顔を隠されなかったことである(25節)。神の沈黙と断絶がなくなった。
  26節「それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます」。「満願の献げ物をささげます」は意訳で口語訳「あなたがたの心がとこしえに生きるように」が原文に近い。
  28節「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように」。その結果、地にあるすべての人が主に立ち帰り、命に溢れて…主にひれ伏す(礼拝する)こととなり、この恵みの御業を世々に告げ知らせるのである(29~31節)。「成し遂げてくださった恵みの御業」とは何かを改めて問う。それは、キリスト者にとって、イエスの十字架の死よる罪の赦しと、復活による新しい命である。

あなたの御力を喜び祝う

2013-02-27 | Weblog
 詩21篇 

  2節「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 御救いのゆえに喜び躍る」(新共同訳)

  1節「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩」。20篇に続く王の詩である。20篇が執成しの詩であり、21篇は御救いの感謝の詩である。全体は2~8節と、9~13節に二分される。
  2節「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 御救いのゆえに喜び躍る」。讃美は、主の御力を喜び祝うというものである。「あなたの御力を」直訳(あなたの力の中で)とは20篇に三度繰り返された「神の名の力」(2、6、8節)である。主が王の心の願いに応え、聞き届けられ勝利が与えられたという確信が歌われる(3節)。
  4節「彼を迎えて豊かな祝福を与え 黄金の冠をその頭におかれた」。主がイスラエルの王位に就けられたことを喜ぶ。「黄金の冠をその頭に置く」は王の権威の再確認である。サムエル記下12章30節以下を参照したい。
 5節「願いを聞き入れて命を得させ 生涯の日々を世々限りなく加えられた」。戦いに勝利し命の安全が与えられたことを感謝し、地上の命のある限り主の御業を忘れることはないという。
  6節「御救いによって王の栄光は大いなるものになる。あなたは彼に栄えと輝きを賜る」。「栄光・栄え・輝き」はすべて主の救いの中にある。永遠の祝福という主の約束に基づく王の支配を喜び祝う。いと高き神の慈しみに支えられて、王位は揺らぐことはない(7~8節)。後半9~13節の《あなた》は「主」なる神である。
  9節「あなたの御手は敵のすべてに及び 右の御手はあなたを憎む者に及ぶ」。主はすべての敵対するものを打ち破られる。主の怒りは、主を憎む者に向けられ、燃える炉に投げ込まれるように滅ぼされる。その子孫は断たれ、悪事をたくらみ、陰謀をめぐらすが決して成功しない(10~12節)に向けられる。敗走する敵を《引き倒し》、正面から矢を射掛け、もはや逃れることが出来ないようにされる(13節)。
  14節「御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう」。は20篇と同様に結びの祈りと賛美である。「力ある御業」口語訳「大能」、新改訳「威力」。これは2節を受けている。

あなたの勝利に喜びの声をあげ

2013-02-23 | Weblog
  詩20篇 

  6節「我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ、 我らの神の御名によって 旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところを すべて実現させてくださるように」(新共同訳)

  2節「苦難の日に主があなたに答え ヤコブの神の御名があなたを高く上げ」。「ダビデの詩」とあるが、民が王と共に戦いに出陣する時の歌、本詩はその祈りであり21篇は感謝。背景としてサムエル記下10章1~19節が考えられている。この時祭司が王に呼びかけ、執り成す祈りである。イスラエルを救出したヤコブの神」(出エジプト記19章3節see)の御名が崇められ、戦場で起り来る苦難に助けが与えられるようにと願う(2~3節)。
  4節「あなたの供え物をことごとく心に留め あなたのささげるいけにえを快く受け入れ~」。供え物といけにえ(燔祭)とが快く受入れて、計画が実行できますようにと求める(5節)。
  6節「我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ 我らの神の御名によって 旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところを すべて実現させてくださるように」。民の王に対する祈り。神の御名が崇められることを求めるのは、2節と同じであり、8節にもある(三回出て来る)。「旗を揚げる」のは戦場で、神の臨在が鮮やかに示されることである。
  7節「今、わたしは知った 主は油注がれた方に勝利を授け 聖なる天から彼に答えて 右の御手による救いの力を示されることを」。「わたしは知った」とは、戦いの態度表明である。王の勝利を確信する祈り。敵陣は最強の武力である戦車を誇り、馬を誇るが、我らは我らの神、主の御名を唱え、神の力を与えられて立ち上がると祈るのである(8~9節)。「彼らは力を失って倒れるが~」とあるが、直訳は「~屈しまた倒れる」で岩波訳「膝つき、くずおれた」となってリアルな表現。これに対して我らは「奮い立つ」「元気を回復する」のである。人の無力と神の威力が対比される。この詩編で一貫しているのは、主の御名を呼ぶことである。
  10節「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください」。「王に勝利を与え」は、直訳「王を救いたまえ」だが、英訳(TEV)では、Give victory to the King と訳され、英国歌に“God save the King”として取入れている。


天は神の栄光を物語り

2013-02-22 | Weblog
 詩19篇

 2節「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す」(新共同訳)

2節「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。―天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す」。本詩は、2~7節と8~15節と二つの詩が結び合わされている。前者は神(エル)の御手で、万物を創造し支配しておられることを讃美する。そして後者は神(ヤーヴェ)が最も善き者として創造された人間は、神の律法によって支配されていることを言い表している。天にある神の栄光は大空に昼は太陽、夜は満天の星と月に現われている(3~4節)。これは8篇2、4節にも詠われている。
  5節「その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた」。大空に張られた弦の響きは世界に伝えられるという。
  6節「太陽は、花婿が天蓋から出るよう、勇士が喜び勇んで道を走るように」。太陽の有り様が擬人化して表わされる。日の出は花婿が天蓋(部屋)から出るようであり、昼中の動きは天の果てを目指して、競技場を懸命に走る選手ように思われるという(7節)。
  8節「主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える」。神の聖意は、「主の律法」「と主の定め」(8節)、「主の命令」「主への畏れ」(9節)、「主の裁き」(10節)の五つである。そして人間の罪過を明確に指摘する。
 11節「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」。エゼキエル書3章3節にもある。神の言葉を心の奥底に飲み込むのである。そうするならば金銀では味わうことに様々な思いが湧き出る。ヨハネ黙示録10章10節では「…食べると、わたしの腹は苦くなった」とある。12節「熟慮し」(ニズハル)は「教えられる、戒めを受ける、照らす」という意味があり、口語訳「戒めを受ける」岩波訳「戒められた」である。 
  13節「知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください」。原文「誰が間違いを悟るだろうか、隠れた罪から私を清めてください」、口語訳「だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください」である。
  14節「…驕りから引き離し支配されないようにしてください」は口語訳では「…故意の罪からあなたの僕を引き止めてください」となる。「知らずして犯す罪」「隠れた罪」「故意の罪」「重い背きの罪」が律法によって徹底して暴露される。
 15節「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」。「わたし」の口の言葉と心と思いを主にすべて明け渡すことになる。そしてその時はじめて「わたしの贖い主よ」と御名を呼ぶことになる。

主は命の神

2013-02-21 | Weblog
  詩18篇 

  47節「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ」(新共同訳)

  1節「指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた」。同じ詩がサムエル記下22章に出てくる。サウル王から逃れて読んだ詩は52、54、57篇にもある。全体を五つに区分できよう。
 ①苦難の中から神に呼ばわる(2~7節)。
 ②神の顕現(8~16節)。
 ③救いは正しい者に与えられる(17~31節)。
 ④神こそわたしの力、敵を滅ぼす(32~46節)。
 ⑤感謝と讃美(47~51節)。

  2節「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う…」。以下九つの表現で神を告白する。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔(2~3節)。いつもわたしは褒めたたえる主の名によって敵から救われる(4節)。
  5節「死の縄がからみつき 奈落の激流がわたしをおののかせ…」。死、陰府、苦難からの救いを祈る(6~7節)。更に神は地震、密雲、風雨、雷鳴の中に顕現される(8~16節)。
  17節「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ 大水の中から引き上げてくださる」。口語訳「滅びの大水」(=ノアの洪水)から救い出されることである。「わたしは主の」が繰り返され、自ら罪のない事を述べ、主の道を守り(22節)、主の裁き(義=ミシュパト)を前にし(23節)、無垢(口語訳=欠けたところがない)として罪から身を守った(24節)。
  26節「あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に~」。神が人を扱われる態度は、人が神に向う姿勢と比例する(27~31節)。28節「高くを見る目を引きおろされる」は高慢な者の態度に対する神の御業。29節「わたしの灯を輝かし」は家の繁栄、幸福、長寿を表わす為火を灯す習慣から出た言葉。
  32節「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない」。3節にもある。ここで主なる神から直接「わたし」(ダビデ)に大いなる力を賜り、敵と対戦して滅ぼすことが出きることを証言する。それは体力「足とくるぶし手」(34~35、36~37節、「力」(38~41節)、「支配力」(42~46節)においてである。
  47節「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ」。ここら結論部分で、感謝と賛美を献げる。「主は命の神」(47節)とあるが、これは「ハイー・アドナイ」(主は生きておられる=口語訳)で新共同訳は意訳になり、すべての存在の根拠を表わしている。ここで「わたし」(ダビデ)の救いと敵への報復をはるかに超えて、すべての国の民に主の御名が讃美され崇められることとなる。

一歩一歩、揺らぐことなく進みます

2013-02-20 | Weblog
  詩17篇 

  5節「あなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます」(新共同訳)

  1節「祈り。ダビデの詩。主よ、正しい訴えを聞き わたしの叫びに耳を傾け 祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません」。無実の訴えである。ダビデの生涯では、マオンの荒れ野に逃れた時(サムエル記上23章24~29節が想定される。神の義(ツェデク)を持って訴えを聞き、公平(ミシュパト)をもってご覧くださいと強く迫る(2節)。あなたがわたしの内面を火で精錬して汚れ(不純物)があるかどうかを試しても、何ひとつ無いでしょうと言う(3~4節)。「…暴力の道を避けて~」は口語訳「あなたのくちびるの言葉によって、わたしは不法な者の道を避けました」とある。このほうが判りやすい
  5節「あなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます」。これまで神の言葉(律法)によって不法な者の道を避けたが、これからも定められた命の道(16篇11節)を一歩一歩揺らぐことなく進むと決意を述べる。
  6節「あなたを呼び求めます、神よ、わたしに答えてください。わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください」。救いを求める祈り。1節と同じである。「慈しみの御業を示してください~」(7節)は、原文を忠実に訳すと「救う方よ、逃げ込む者達にあなたの慈しみを分けてください」となる。「分けて下さい」は驚くべき業をするという意味もあり、岩波訳「~不思議な恵みの業をなさってください」としている。「右の御手」は16編11節にあった。
  8節「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください」。瞳は顔の最も大切な処で細心の注意を払って守るようにということ。原文は「目の娘、瞳」である。悪しき者らがわたしを虐げ(荒し)自分の肥え太った心(脂肪)に閉じ込めて高慢に語っている(9~10節)。太った心のとりことは脂肪で太り、心が鈍くなった状態を意味し、口語訳「その心を閉じて」新改訳「鈍い心を堅く閉ざし」である。彼らはわたしを取り囲んで攻め、捕えて地に倒そうとしている(11節)
  12節「そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子、待ち伏せる若い獅子のようです」。その有り様を獰猛な獅子に譬えている。
  13節「主よ、立ち上がってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち わたしの魂を助け出してください」。公平な審判は逆らう者を撃ち、彼らの分=嗣業地を絶ち、神を避け所とする者に繁栄を与えられる(14節)。
  15節「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み 目覚めるときには御姿を拝して 満ち足りることができるでしょう」。1節の祈りは応えられ、満ち足りた喜びが与えられる。これは16編11節と同じである。神に義(ツェデク)と認められた者は御顔を仰ぎ見ることが出来るが、逆らう者は、御顔を仰ぐことは出来ない。




わたしの心は喜び、魂は躍ります

2013-02-19 | Weblog
 詩16篇           

9節「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います」(新共同訳)

   1節「ミクタム。ダビデの詩。神よ、守ってください、あなたを避けどころとするわたしを」。「ミクタム」の意味は明らかでないが、カタムが「金の飾り」から最高に美しいと解説される。直訳「わたしはあなたの中に逃げ込みます」は11篇1節と似ている。真の保護者、助言者であり、あなたのほかにわたしの幸はないと告白する(2節)。
  3節「この地の聖なる人々、わたしの愛する尊い人々に申します」。この地にある聖徒たちとは誰か、わたしの喜びが彼らの中にある力強い者たちと誰を指すのか。大きく二つの解釈に別れる。一般的にはイスラエルの共同体であり、神によって聖別された人々と理解されるが、4節で告げている異教の神々を否定する言葉との文脈からすると今ひとつの解釈ができる。つまり「地の聖なる人々」とはカナンの偶像礼拝を行なっている人々であり、岩波訳は「…わが喜びの無い偉大な者らには」としている。
  4節「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず、彼らの神の名を唇に上らせません」。彼らに向けた呼び掛けとなる。他のものを追う者は悲しみ(口語訳)が増すのである。わたしは彼らの灌祭に犠牲の血(人身御供)を注がず…神々の名を唱えることをしない。 
  5節「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方」。主はわたしに与えられた「分け前」(口語訳=嗣業)を守られる。わたしに授かったものすべてを受け容れ、わたしの生涯を支配されるお方である。
  6節「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」。もう一つの比喩。「測り縄は麗しい地を示す」は、神からの嗣業地は最高のものであったと告白する。このことを神は夜ごとわたしに諭してくださった(7節)。
  8~11節は、神とわたしの関係が5~7節で示されている通り、生涯変わることはないという確信を告白する。
 ①「絶えず主に相対し決して揺らぐことはない」(8節) 15章5節see
 ②「右にいます」=攻撃、訴えの時の守り
 ③「わたしの心は喜び、躍り、安心して憩う」(9節)
 ④ 「陰府」(死者の世界)に見捨てない(10節)
 ⑤「命の道」を知らせてくださる(11節)
 ⑥ 御顔の輝きと永遠の命の喜びを頂くことができる。
  11節「命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます」。口語訳では「…あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」。イエス復活として証言として8~11節が引用されている(使徒言行録2章25~28節、13章35節)。


神を知らぬ者は心に言う、神などない

2013-02-17 | Weblog
 詩14篇 

  1節「神を知らぬ者は心に言う、神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」(新共同訳)

  1節「指揮者によって。ダビデの詩。神を知らぬ者は心に言う 『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」。この詩は53篇と殆ど同じであるが、両者の神名が異なることから、時代的背景の相違が推測される。「神を知らぬ者」は口語訳「愚かな者」。原語「ナーバール」英訳はfoolsである。無神論者ではなく、神の創造的な知恵の欠落した考えを持つ者で、その心は腐敗した状態で、憎むべき行い=偶像礼拝に陥っている。神の善を行う者はいない。
  2節「主は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と」。これと対照されるのは、賢い者=神の知恵を有する者、神を求める人=神を礼拝する人)の有無を「天に御座を置かれる方」が(11編4節)見渡し、探しておられる。しかし現実は違う。
  3節「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。ここも口語訳「みな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない」が原文に近い。堕落した現実である。彼らは「みな迷い=背き去った」は、「一緒に脇にそれた」(原文)ということである。だれもかれも背き去り、腐れたというのである。わき道にそれるというのは、罪の実態を表わす。罪とは神の道を踏みはずすことだからである。
  4節「悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい 主を呼び求めることをしない者よ」。彼らは経済的な搾取をするのである。そして神に従う人々の群れ、貧しい人々の計ることを挫折させ、辱めようとする(5節)。しかし主なる神はこれを見過ごしになさらず、必ず、「避けどころ」(逃れ場=岩波訳)となって下さるのである(6節)。
  7節「どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」。神による回復の希望を賛美する。「捕われ人を連れ帰られる時」を口語訳は「主がその民の繁栄を回復されるとき」と訳している。
  3~5節に伺われる堕落した腐敗の現実は、歴史の支配者であり、天の御座にいます方がイスラエルの民に向けられたものであり、厳しい審判を下される。それは異国バビロンに捕囚の民としてつながれることになった。しかしその彼方に回復の時の到来が約束されていることを示すものである。1~3節は、人間の罪の現実として、ローマ3章10~12に引用されている。
  昨今の社会の報道は、殺人と暴力、詐欺と抑圧、不正と不義、逸脱と迷走、不慮の事件、事故、人為的災害、国内外の争い等々、罪の深さの測り知れないものばかりである。ここで改めてローマの信徒への手紙3章9~30節を読む。


慈しみに依り頼みます

2013-02-16 | Weblog
  詩13篇 

  16節「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います 『主はわたしに報いてくださった』と」(新共同訳)

  2節「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか」。嘆きの詩であるが、その直面している事柄が示される。それは四度も「いつまで…」と繰り返し問う。何か。「わたしを忘れておられるのか」「御顔を隠しておられるのか」「日々の嘆きが心を去らないのか」「敵が誇っているか」である。「日々の嘆きが心を去らない」は原文では、日々のわが心の悲しみがわたしの魂の計画になっているとある。動かし難い事柄だという意味であろう。これはダビデ個人の経験にとどまらない。ヨブもそうだったが、信仰者が陥る嘆きの現実である。
  4節「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え わたしの目に光を与えてください死の眠りに就くことのないように」。死に直面した重い病と考えられる。「顧みる」は熟視するということ、Look at me, O Lord my God、and answer me。新改訳「わたしに目を注ぎ、わたしに答えてください」となっている。続いて「わたしの目に光を」となる。“神の眼差しで目が開かれることになる”というダイナミックな表現を読み取る。
  5節「敵が勝ったと思うことのないように わたしを苦しめる者が 動揺するわたしを見て喜ぶことのないように」。敵が「あいつに勝った」ということがないようにしてくださいと祈るのである(岩波訳)。そうしないと、彼らは喜び踊るようになるが、そうではない。
  6節「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り 主に向かって歌います 『主はわたしに報いてくださった』と」。敵は《わたしに向って》誇った」(3節)が、今は、わたしは「《主に向って》歌いますとなる。彼らは《喜んでいる》が、今は「あなたの慈しみに依り頼み、御救いによって、わたしの心は《喜び躍る》と歌うのである。
  嘆きを喜びに替えられる主を賛美する詩である。

御顔を心のまっすぐな人に向けて

2013-02-08 | Weblog
   詩11篇 

  7節「主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」(新共同訳)

  1節「主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか『鳥のように山へ逃れよ…』」。主を、わたしは避けどころとする詩篇は7、16、31、57、71篇など多い。ここではそれに反対する者がいる。
  2節「見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ 闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている」。鳥のように山に逃れて自分の才覚で戦いを避けようとする選択だが、真っ暗闇の中で待ち構えて弦に矢をつかえ射落とされてしまう。世の秩序が覆っているのに(3節)。「世の秩序」とあるが、ヘブライ語「ハシャトット」は、直訳は「土台」で、口語訳=基、新改訳=拠り所。岩波訳では「根元が崩れようとしている」となっている。神を中心にした信頼の土台が壊れているということである。だから義人に何が出来ようかと、彼らは讒(ざん)言(げん)するのである。
  4節「御顔を心のまっすぐな人に向けて」。これに反論する。「山」ではない!聖なる宮が避けどころだと。更に闇に待ち構えてなどいない。御目は人の子らを“凝視し”、精錬で“金滓を分けるように”、調べる。そして主に従う人と逆らう者を峻別する(5節)。それは不法を愛する者を憎み、恵みの業を愛する者である。
  6節「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り 燃える硫黄をその杯に注がれる」。ソドムとゴモラの破滅を思い起こさせる記述である(創世記19章24節see)。
  7節「主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」。「恵みの業」とは「義しい行為」(ツェダコット)で、神の義を実現することである。「御顔を心のまっすぐな人に向けて」は口語訳「直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう」となっている。この違いは「顔を見る」(凝視する=4節と同じ言葉)の接尾語を単数と取ると「神の顔は真っ直ぐな者を見る」となるが、複数なら「真っ直ぐな者は主の御顔を見る」となる。新共同訳は前者、口語訳は後者である。旧約では神の顔を見ることは出来ない。しかし神の救いの実現を言い表す時は御顔を表わされるのであるから、口語訳も間違いではない。試練に出会い、その中から主なる神が凝視してくださり、信頼を回復し義人とされたのであるから、今ここで主の輝かしい御顔を仰ぎ見ることが出来るなら何と幸いなことであろう。

  第二コリント3章18節が示される。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

御手に労苦と悩みをゆだねる人

2013-02-07 | Weblog
  詩10篇 

  14節「あなたは必ず御覧になって 御手に労苦と悩みをゆだねる人を 顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。」

  1節「主よ、なぜ遠く離れて立ち 苦難の時に隠れておられるのか」。9編の続きでアルファベット後半部分(ラメド~タウ)の歌。岩波訳「なぜ」(ラマー)が最初に来る。そのように翻訳すべきだろう。本詩は立場の相違が一層明確になり、神に強く不義不正を訴える祈りとなっている。
  2節「貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて その策略に陥ろうとしているのに」。詩人の立場は「貧しい者」(2、9、17節)、「不運な者」(10、17節=口語訳寄るべなき者)、「みなしご、虐げられている人」(18節)である。
  3節「神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている」。これに対して神に逆らう者の横暴な振る舞いは、あまりにも酷い。貪欲で高慢になり神を無視し、自分に反対する者に自らを誇示する(4~5節)。「高慢で」は口語訳「誇り顔で」、岩波訳は「鼻(アボー)を高くし」と直訳し、鼻高々に悪事を働く。彼は幸せで災いに遭わないと思い、呪いと詐欺、搾取を吐いて、悪を隠す(6~7節)。
  8節「村はずれの物陰に待ち伏せし 不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す」。獅子が茂みに隠れて獲物を取るように、潜んで貧しい人を捕らえて人権を奪うという(9節)。彼は不運に陥り、うずくまって、神は御顔を隠されたと思ってしまう。そしてもう顧みてくださらないという(10~11節)。1節の繰り返しで、ヨブ記と同じ問題提起である。
  12節「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください」。9篇20節と同じである。神を侮る者に罰などないと思っている。しかしこの祈りは闇雲に捧げるものではなく、神は労苦と悩みをゆだねる者を必ずご覧になって、顧みてくださるとの確信がある(13~14節)。「すべてお任せします」を岩波訳「あなたの上に身を棄て~」と訳している。体を投げ出して任せる態度表明なのである。これらの不運な人、みな子を助け、悪事を働く者の腕を挫かれるということである(15節)。「腕を砕き、彼の反逆を余すところなく罰してください」(岩波訳=不法を追求してください)」と激しく神に訴える。
  16節「主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう」。主は耳を傾け、その願いを聞き、心を確かにして下さるのである(継続をあらわす未完了形)のである(17節)。必ずご覧になって、顧みてくださいますという、ギリギリの祈りがここにある。

主は正義をもって世界をさばき

2013-02-05 | Weblog
  詩9篇 

  8節「主は正義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれます」(口語訳)

  1節「アルファベットによる詩 指揮者によって。ムトラベンに、合わせて。賛歌。ダビデの詩」。標題「アルファベットによる歌」とあるが、これは10篇に連続し、アルファベットの頭文字、21字を二節置きにアーレフからカフ迄と、10編ラメドからタウ迄にした技巧的な詩。「ムトラベン」(「息子の死」)の曲の意味は判らない。
  2節「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ 驚くべき御業をすべて語り伝えよう」。「わたしは感謝する」(オデー)で始まる。「心を尽くして」は、心のすべてをもって(TEV・with all my heart)である。それは何か、8篇と同じ、天に輝く神の威光である。
  3節「いと高き神よ、わたしは喜び、誇り 御名をほめ歌おう」。岩波訳は「わたしは喜び、喜ぼう」で原文通り意味を強調している。神が御顔を向けると敵は倒れ滅びると歌う(4節)
  5節「あなたは御座に就き、正しく裁き わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる」。神の厳しい審判の対象に挙げられるのは異邦の民である(6節)。16、18、20節にも出てくる。彼らは神に逆らう者であり、18節では神を忘れる者とある。神を忘れる者らは神から見はなされ、彼らの町々は廃墟となりその記憶も忘れ去ってしまう(7節)。主は裁きのために御座を固く据え、公平をもって世界を正しく治められる(8~9節)。口語訳は「主は正義(ミシュパット)をもって世界をさばき、公平(メシャリーム)をもってもろもろの民をさばかれます」である。この正義と公平は、世界に対する神の絶対的な法の基準となる。予言者がしばしば取上げるものである(イザヤ33章5節、エレミヤ9章23節、エゼキエル18章5節、ホセア2章19,20節=新共同訳は公平を恵みの業と訳している)。虐げられ苦しみに遭う時に砦の塔となって守られ、見捨てられることはない(10~11節)。
  12節「シオンにいます主をほめ歌い 諸国の民に御業を告げ知らせよ」。アルファベットの形式を取っているので、語順としては「褒め歌え」(ザルメール)を最初にすべきであろう。シオンで流された殉教の血に報いて下さることを歌う(13節)。これは14~15節に共通している。
  16節「異邦の民は自ら掘った穴に落ち 隠して張った網に足をとられる」。罪を犯す者は自縄自縛となる。7編13~17節と同じでる。これはローマの手紙1章28節に出てくる。詩人は「乏しい人、貧しい人」に自らの身を置いて決して希望は失われない、神は顧みてくださると語る(19節)。
  20節「立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず 御顔を向けて異邦の民を裁いてください」。「立ち上がってください」は救いの為に神に出動を乞い求める祈りで、3篇8節にもある。このような祈りの表現は「耳をそばだてて聞き分けてください」(5篇2節)、「引き返してください」(6篇5節)などあり、ただひたすら神の義を求めて激しく迫っているのである。 



 幼子、乳飲み子の口によって

2013-02-03 | Weblog
  詩8篇

  1、2節「天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」(新共同訳)

  1節「指揮者によって。ギティトに 合わせて。賛歌。ダビデの詩」。ギティトに合せた賛歌とは、ガテの兵士が楽器を奏して行進した曲とか。他に81、84篇がある。2節で始まり10節で同じ歌を繰り返して終わる。これも42、46、57、103篇にある。
  2節「主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます」。わたしたちの主よ、契約の神ヤハウェよ、わたしたちの主アドナイよと呼びかける。その名は全地に満ちていて、その威光を讃えることは、7編18節と結びつく。それはどのようにしてか。3~7節で示していて、大きく二つに分かれる
  3節「幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き 報復する敵を絶ち滅ぼされます」。一つは「幼子、乳飲み子の口の賛美」(口語訳参照)よって、いま一つは天と地を創造されたその御業によってである(4節)。これは19篇でも歌われている。幼子、乳飲み子は無力な存在を表わすが、その口の賛美をもって主なる神は敵対する者に立ち向かわせ、撃退させるのである。口語訳では「静めさせる」となっている。7編までの敵対者に対するのとは異なり、人の想像をこえた神の業がなされることである。これを主イエスはマタイ福音書21章15~16節で引用された。これらの二つによって神が表わされる威光は、5~7節で結び合わされて歌われる。
  5節「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」。幼子、乳飲み子で象徴されている人間は脆弱な存在で、何ら栄誉も功績もないのにも関わらず、創造主なる神は御心に留め、顧みていてくださるというのである。「人間」(エノーシュ)は脆弱性を指す。「人の子」(ヴェン アダム)は非造性を示す。ヘブライ人への手紙2章6~9節に人の子となられたイエスとして引用されている。
  6節「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ~」。神が人間を創造された時のことを思い起こさせる(創世記1章26~27節)。神は人間を足もとに置かれて、すべての御手で造られたものを治めるようにと言われた(7節)。それは羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、波を動かす海の怪物もすべてである(8~9節)。人は決して奢ってはならないのである。そして、始めにかえって、主の御名を賛美することになる(10節)

正しく裁く神

2013-02-02 | Weblog
 詩7篇 

  11節「正しく裁く神、日ごとに憤りを表す神」(新共同訳)

  1節「シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの」。標題。敵の迫害に苦しむ人の嘆きの歌である。表題にダビデがアブサロムの反逆に遭い逃亡中登場したクシュの名がでてくるが、その関連性は乏しい(サムエル記下18章see)。
  2節「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください」。敵はあたかも獅子が獲物を追い掛けて引裂こうとするが、誰も助けてくれないと訴える(3節)。
  4節「わたしの神、主よ もしわたしがこのようなことをしたのなら わたしの手に不正があり~」。敵から攻撃を受けることを甘んじると言い、身の潔白を訴える(5~6節)。「仲間に災いをこうむらせ」を口語訳「もし、わたしの友に悪をもって報いたこと」と訳している。つまり裏切り行為である。事柄の内容は不明だが、敵対している相手が、これを理由に責めて攻撃を仕掛けるというなら甘んじて受け、地に引き倒され踏まれてもよいと言う。
  7節「主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり 憤りをもって身を起こし わたしに味方して奮い立ち 裁きを命じてください」。神の法廷で原告の「わたし」と被告の「追い迫る敵」が引き出されて審判を受ける場面が想定されている。法廷には諸国の民が証人となって、裁きを行い、御座から判決を告げてくださるなら、身の潔白は明らかになると主に求めている(8~9節)。口語訳では9節「わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください」となっている。
  10節「あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方、神は正しくいます」。あなたは心の正直な者を救われる方であり、正しく裁く神、日ごとに憤りを表す神であるという(11~12節)。「はらわたを調べる方」は、預言者エレミヤも身の潔白を訴える祈りとなっている(11章20節、20章12節see).
  13節「立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし 弓を引き絞って構え~」。主語をどこに置くかによって、解釈が二つに分かれる。新共同訳は、神に「立ち帰らない者」に向って神の告げる厳しい審判である。岩波訳もこのようになっている。口語訳は「もし彼が立ち帰らず、おのが剣を研ぎ、おのが弓を張って構えるなら、おのがために彼は死の武器を備えたのだ…」と訳して、主語は神で、審判に対して悔い改めない者に向けられる判決となっている。
  15節「御覧ください、彼らは悪をみごもり 災いをはらみ、偽りを生む者です」。悪しき者が自業自得で、「仕掛けたその穴に自分が落ちますように、災いが頭上にふりかかりますように」ということも明確になる(16~17節)。いずれにしても、神の正しい裁きは変わらない。
  17節「正しくいます主にわたしは感謝をささげ いと高き神、主の御名をほめ歌います」。神の正しい審判に対する感謝と聖名への賛美で本詩はしめくくられている。

 

夜ごと涙は床に溢れ

2013-02-01 | Weblog
   詩6篇 

  7節「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです」(新共同訳)

  1節「指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩」。「第八調」は口語訳「シュミニテ」で八弦の最低音階を指すとか、意味は不明。悲嘆の調べなのか。七つの悔い改めの詩のひとつ。
  2節「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください」。悔い改めの祈りである。主の怒りは烈火の如くであるが、赦しと憐みを求める内容は何なのか。「癒してください」とあるが、それは罪過のゆえに心が千々に乱れ打ち沈んだ状態に陥っている。それはいつまで続くのかと問う(3~4節)。
  5節「主よ、立ち帰りわたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。」。岩波訳「引き返してください、ヤハウェ、わが魂を助け出して下さい~」とある。引き離された神との断絶を回復してくださいという願いである。神との断絶は「死の国」に赴くと同じである(6節)。
  7節「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです」。嘆き疲れはて、寝床で漂っている、目は憂いによって衰え、老人にようになっていると訴える(8節)。これは敵の前で、身心が萎え気力を失い、老いた状態だというのである。
  9節「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き」。突然、深夜の暗闇が開かれる。苦悩を呼び起こした敵=闇と罪の支配者に対する決別宣言のようだ。そして主はわたしの泣く声を聞き…、嘆きを聞き…、祈りを受け入れてくださると告白する(10節)。わたしの側が無力になった時、神の御業が起きる。「聞き…」は完了形、「祈りを受け入れてくださる」は未完了形、つまり神は絶えず聞き続けてくださるという確信である。
  11節「敵は皆、恥に落とされて恐れおののき たちまち退いて、恥に落とされる」。岩波訳はこうである「恥をかき、ひどくおびえよ、わが敵はみな、引き返し、恥をかけ、たちまちに」。ここから疲れ弱り果てて戦意喪失の状態だった者が、突然のように変わって「離れ去れ!」という檄を聴いた敵は、慌てふためいて逃げて行く有り様が伺える。正に信仰の勝利である。
ここで、不断の祈りが示される(第一テサロニケ5章17節)。