日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

主の熱情の火に焼き尽くされる

2015-03-27 | Weblog
 ゼファニヤ1章 

  18節「金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの日に 地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。主は恐るべき破滅を 地上に住むすべての者に臨ませられる」(新共同訳)

  1節「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。」。ゼファニヤの系図であるが、ヨシヤの宗教改革(紀元前639~609年・列王記下22章)前でエレミヤ、ナホムと同じ頃であろう。本書の視点は、神の力が全世界を支配し、アッシリアもまた、その支配にあるという信仰宣言である。
  2節「わたしは地の面からすべてのものを一掃する、と主は言われる」。小見出し『主の怒りの日』。それは人も獣も空の鳥、海の魚も断つのである(3節)。バール礼拝に仕える神官、祭司、天の万象を拝む者ら(4~5節)、主に背を向け、尋ねず、求めようとしない者を断つ(6節)。ノアの洪水物語りと似ている。
  4節「わたしは、ユダの上と エルサレムの全住民の上に手を伸ばし バアルのあらゆる名残とその神官の名声を 祭司たちと共に、この場所から絶つ」。手を上に伸ばすのは、審判の仕草である。屋上で天の万象を拝んで誓いを立てる。「マルコム」はアンモン人の天体の神である。主に背を向けて礼拝しない(5~6節)。
  7節「主なる神の御前に沈黙せよ。主の日は近づいている。主はいけにえを用意し、呼び集められた者を屠るために聖別された」。神の審判がなされる「主の日」を告げる。それは高官たちと王の子ら、また異邦人の服を着たすべての者に対して罰するという(8節)。その理由は、既に5~6節の偶像礼拝と妥協した信仰である。
  9節「主君の家を不法と偽りで満たす者すべてを 主君の家を不法と偽りで満たす者らを罰する」。理由の第二はこれである。その日が来れば、魚の門から、ミシュネ地区から、マクテシュ地区から、泣き叫ぶ声が沸き起こり、もろもろの丘からは、大きな崩壊の音が起こる(10~11節)。
  12節「そのときが来れば わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し 酒のおりの上に凝り固まり、心の中で『主は幸いをも、災いをもくだされない』と言っている者を罰する」。理由として挙げる第三はイスラエルの民の高慢で、神を無視することである。それは裏切りと背信のゆえである。
  14節「主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる」。その日は憤りの日、苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と濃霧の日であるという(15節)。ヨエル書2章にも「主の怒りの日」の預言がある。血は塵のように、はらわたは糞のように撒き散らすとは、何と激烈な神の怒りと審判であろう(17節)。
  18節「金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの日に 地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。主は恐るべき破滅を 地上に住むすべての者に臨ませられる」(18節)。「熱情」(キナアー・動詞カーナー)は妬み、熱愛、熱心、激情とも訳される。口語訳「ねたみ」、岩波訳「激情」。出エジプト20章4~5節を読む。


しかし、主の道は永遠に変わらない

2015-03-22 | Weblog
 ハバクク3章 

  6節「主は立って、大地を測り 見渡して、国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ 永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない」(新共同訳)

  1節「預言者ハバククの祈り。シグヨノトの調べに合わせて」。「シグヨノトの調べ」とはテンポの速い熱情的な歌。単数は「シガヨン」(詩7篇1節)。小見出し「賛美の歌」。
  2節「主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ、数年のうちにも、それを示してください。怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください」。神の怒りに依って苦役の中にあるイスラエルの回復を祈る。それを数年のうちにも示して下さいと繰り返し願う。
  3節「神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる。その威厳は天を覆い、威光は地に満ちる」。失われた神の威厳と威光がエルサレムに再び顕われることである(4節)。「威厳と威光」 詩4篇7節、イザヤ書10章17節 of
  5節「疫病は御前に行き 熱病は御足に従う」。意味不明 神が疫病と熱病を支配するということか。申命記32章24節、サムエル記下24章15節see
  6節「主は立って、大地を測り 見渡して、国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ 永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない」。全能の神は世界を支配し、すべては意のままである。「とこしえの山々」「永遠の丘」は異教の神々の住まう処を暗示させる。
  7節「わたしは見た クシャンの幕屋が災いに見舞われ ミディアンの地の天幕が揺れ動くのを」。神の怒りが怒涛のように襲ってくることを画く。山々は襲い来る弓と矢を見て震え、水は怒涛のように流れる(9~10節)。憤りをもって大地を歩み、怒りをもって国々を踏みつける(12節)。
  13節「あなたは御自分の民を救い 油注がれた者を救うために出て行かれた。あなたは神に逆らう者の家の屋根を砕き 基から頂に至るまでむき出しにされた」。
既に見てきた通り、神の審判はカルデア人だけでなく、神に逆らう者、高ぶる者に向けられ、その後に救いが来ることを示す。
  16節「それを聞いて、わたしの内臓は震え、その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び わたしの立っているところは揺れ動いた。わたしは静かに待つ 我々に攻めかかる民に 苦しみの日が臨むのを」。神の審判は果実や家畜にまで及ぶ(17節)。
  18節「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る」。神の怒りの中で静まって待望する時、裁きは救いに変えられる。ここに不退転の決意と信頼が示される。
  19節「わたしの主なる神は、わが力である。わたしの足を雌鹿のようにし 聖なる高台を歩ませられる」。力強い信仰告白と言えよう。雌鹿が躍るように、わたしは賛美と感謝を神にささげる。「高台」は異教の神々を礼拝する場所、これを踏みにじるという意味か。


義人はその信仰によって生きる

2015-03-21 | Weblog
 ハバクク2章 

 4節「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる」(口語訳)

 1節「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語りわたしの訴えに何と答えられるかを見よう」。1章13節に対する主の解答を岩の上に立ってハバククは見ようとしている。
 2節「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ』」。その解答は「粘土板に走りながらでも読めるように書き記せ」と告げられた。大きな文字で明瞭に書けという。それは終わりの時の出来事で、必ず来る、遅れることはない(3節)。
 4節「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」。口語訳「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる」。TEV  And this is the message: "Those who are evil will not survive, but those who are righteous will live because they are faithful to God."' ここで「高慢な者」とはカルデア人である。神は彼らを用いてイスラエルの民に救いの道を開くという不合理な業をなされる。それは受け入れがたい出来事であるが、イスラエルに求められるのは、「ただ信仰によってのみ生きる」ことである。これは新約聖書ローマ人の手紙1章17節に引用される。一般に「信仰義認」と言われる。
 5節「確かに富は人を欺く。高ぶる者は目指すところに達しない。彼は陰府のように喉を広げ 死のように飽くことがない。彼はすべての国を自分のもとに集め、すべての民を自分のもとに引き寄せる」。カルデア人の高慢さに対する神の審判が告げられる。「災いだ」という言葉で不当な支配が糾弾される。
 6節「この人々は皆 彼に対して嘲りのことわざを歌い 謎の風刺を浴びせる。災いだ、自分のものでないものを 増し加える者は。いつまで続けるのか 重い負債を自分の上に積む者よ」。多くの国々を略奪したので、諸国の民の残りの者がお前たちを略奪する(7~8節)
 9節「災いだ、自分の家に災いを招くまで 不当な利益をむさぼり 災いの手から逃れるために 高い所に巣を構える者よ」。恥ずべきことを謀り、多くの民の滅びを招いたので、お前の家に災いを招くことになった(10~11節)。「災いだ」の言葉が繰り返される(12、15、19節)。
 12節「災いだ、流血によって都を築き 不正によって町を建てる者よ」。諸国の民や諸民族が力を尽しても、その都は火で焼かれ、徒労に終わる(13節)。水が大地を覆うように、主の栄光の知識で(主の栄光を知ることで=新改訳)、満たされている(14節)。イザヤ書11章9節see。
 15節「災いだ 自分の隣人に怒りの熱を加えた酒を飲ませ 酔わせて、その裸を見ようとする者は」。栄光の代わりに恥辱がくる(16節)。エルサレム(レバノンの木で建立したこと)対して血を流し、不法を行った報いがある(17節)。偶像を造っても何の役にも立たない(18節)。それは口の利けない石で、命の息は全くない(19節)。
 20節「しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ」。高慢と不当な支配をするカルデア人への罪の糾弾を預言するハバククであるが、その預言の背後には、新しい秩序の回復が示されている。神の実在と顕現は沈黙と静けさの中にある(詩46篇11節=口語訳、イザヤ30章15節)。

正義はいつまでも示されない

2015-03-20 | Weblog
  ハバクク1章 

  4節「律法は無力となり 正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(新共同訳)

  1節「預言者ハバククが、幻で示された託宣」表題。人物についての特定は難しいが、エレミヤの後の時代と言われる(紀元前7世紀後半)。
  2節「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに、あなたは助けてくださらない」。小見出し『預言者の嘆き』。ハバククは神に助けを求めて叫んでいる。それは民の中に不法と暴虐があり、争いが起きている(3節)。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない(4節)
  5節「諸国を見渡し、目を留め大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい」。小見出し『主の答え』。主の答えは驚くべき出来事で、信じられないだろうという。それは、冷酷で剽悍なカルデア人の軍隊が攻撃してくるというものである(6節)。
  7節「彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから裁きと支配が出る」。カルデア人の騎兵は遠くから素早く来て、獲物に襲いかかる鷲のようだ(8節)。彼らは来て暴虐を行い、砂を集めるようにとりこを集める(9節)。諸国の王や支配者たちを嘲笑う(10節)。風のようになぎ倒して過ぎ去る。あたかも己を神のように振舞っている。
  12節「主よ、あなたは永遠の昔からわが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために、彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため、彼らを立てられた」。小見出し『予言者の嘆き』。ここはハバククの二度目の嘆きである。主なる聖なる神は、我々を裁き懲らしめるために、己を神のようにするカルデア人(バビロン)を備えられた。しかし永遠に真の神なるあなたの目は正しく悪を見分け、人の労苦を無視されないお方である。しかし、何故人を欺き、神に逆らう彼らを黙認されるのですかと訴えている(13節)。「いつまで」(2、4節)、「どうして」(3節)、「何故」(13節)と重ねて問い掛けるのである。
  14節「あなたは人間を海の魚のように治める者もない、這うもののようにされました」。神はイスラエルを海の魚のようにして、それをカルデア人が釣り上げ、投網を打って集め喜び躍っている(15節)。こともあろうに、彼らは投網に向かって香をたき、生け贄を捧げる(16節)。投網から分け前を得て充分な食べものを得ているからだと、大間違いをしている。彼らが容赦なく殺害を続けていてよいのですかと訴える(17節)。この問い掛けの答えは2章にある。

 これとは全く対照的に、漁を神の救いの出来事としてイエスは告げられた。それがマルコ福音書1章16~20節「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という弟子への召命である。

主の日は、すべての国に近づいている

2015-03-18 | Weblog
 旧約聖書で本書は「アモス書」と「ヨナ書」の間にくる預言書であるが、手違いから、「ナホム書」の次になってしまった。うっかりミスで、訂正できないので、ここに差し込むことにした。
  

 オバデヤ書 

  15節「主の日は、すべての国に近づいている。お前がしたように、お前にもされる。お前の業は、お前の頭上に返る」(新共同訳)

  1節「オバデヤの幻。我々は主から知らせを聞いた。使者が諸国に遣わされ、『立て、立ち上がって、エドムと戦おう』と告げる。主なる神はエドムについてこう言われる」。小見出し『エドムの傲慢と滅亡』。オバデヤ書がアモス書の次にくるのは、アモス9章11~15節に神の国回復の預言があり、そこで「エドムの生き残りの者」(12節)に言及していることが理由とされている。オバデヤの名前は旧約聖書に11名も出てくるが、この預言者については殆んど知られていない。エドムが糾弾されている箇所はエレミヤ49章14~17節、エゼキエル35章にも出てくる。
  2節「見よ、わたしはお前を諸国のうちで最も小さいものとする。お前は大いに侮られる」。最も小さい者とするとは、傲慢な心を砕くこと、それによって諸国から侮られる(3節)。 
  4節「たとえ、お前が鷲のように高く昇り、星の間に巣を作っても、わたしは。そこからお前を引き下ろすと主は言われる」。傲慢さを砕く誇張した表現。盗人が押し入り、宝を探し出し、所有物をすべて奪い取っていく。ブドウの収穫をする者が来ると、すべてを奪い取ってしまう(5~6節)。
  7節「お前と同盟していたすべてのものが、お前を国境まで追いやる。お前を欺き、征服する。お前のパンを食べていた者が、お前の足もとに罠を仕掛ける。それでも、お前は悟らない」。盟友に欺かれるが、彼らが裏切って罠を仕掛けていることを悟らない。知者と勇士もひとり残らず殺される(8~9節)。
  10節「兄弟ヤコブに不法を行ったので、お前は恥に覆われ、とこしえに滅ぼされる」。エドム滅亡の理由は、紀元前587年ユダとエルサレムにバビロンが侵攻した時、その混乱に乗じて略奪を行ったからだとされる。
  12節「兄弟が不幸に見舞われる日に、お前は眺めていてはならない。ユダの人々の滅びの日に、お前は喜んではならない。その悩みの日に、大きな口をきいてはならない」。エルサレム滅亡という「災いの日」(3回繰り返す)に行った敵対行為を糾弾する(13~14節)。
  18節「ヤコブの家は火となり ヨセフの家は炎となり エサウの家はわらとなる。火と炎はわらに燃え移り、これを焼き尽くす。エサウの家には、生き残る者がいなくなる」と まことに、主は語られた」。主は報復される。同族の愛の裏切りに対する復讐という偏狭な思想と解釈されるが、「目には目、歯には歯」(申命記19章21節)という原理、原則は公平な審判基準である。
  19節「彼らは、ネゲブとエサウの山、シェフェラとペリシテ人の地を所有し、またエフライムの野とサマリアの野、ベニヤミンとギレアドを所有する」。小見出し『イスラエルの回復』。捕囚となった土地は解放されるのである(20節)。
  21節「救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山を裁く。こうして王国は主のものとなる」。口語訳「こうして救う者はシオンの山に上って、エサウの山を治める。そして王国は主のものとなる」。偏狭な民族主義を超える平和思想がここに示されている。
預言者オバデヤは、エドム滅亡とエルサレム回復預言の結語に、21節「王国は主のものとなる」と語り、ここにアモスと同じ民族主義を超える思想が伺える。


慰める者はどこを探してもいない 

2015-03-18 | Weblog
  ナホム3章 

  7節「お前を見る者は皆、お前から逃げて言う。『ニネベは破壊された 誰が彼女のために嘆くだろうか』お前を慰める者はどこを探してもいない」(新共同訳)

  1節「災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち、人を餌食にすることをやめない」。災いなるかな、ニネベの町は人々を不当に扱い、強奪と偽りとで満ちていている。
  2節「鞭の音、車輪の響く音、突進する馬、跳び駆ける戦車」。その報復で、今や町に戦車と騎兵が侵入して死者は山のようになっている(3節)。
  4節「呪文を唱えるあでやかな遊女の、果てしない淫行のゆえに、彼女がその淫行によって国々をとりこにしたゆえに」。口語訳「これは皆あでやかな遊女の恐るべき魔力と、多くの淫行のためであって…その魔力をもって諸族を売り渡したものである」。遊女を、経済的富の繁栄を非難する比喩として表わしている。諸国の民はアッシリアの繁栄に魅せられた。しかし艶やかにまとっている衣装の裾を顔の前まで上げ裸を見せ辱め見せ物にする(5~6節)。破壊されたニネベを嘆く者はいない(7節)。
  8節「お前はテーベにまさっているか、ナイルのほとりに坐し、水を城壁としていたあの町に」。ナイル川上流の町テーベに比べ優っているかと問う。しかしこの町も破壊された(9~10節)。
  11節「お前もまた、酔い潰れて我を失う。お前もまた、敵を避けて逃げ場を求める」。ニネベは破壊され、民は逃げ場を失う。要塞は破壊され(12節)、門の閂は火で焼かれる(13節)。
  15節「その所で、火はいなごが食い尽くすようにお前を喰い尽す。いなごのようにお前は数を増せ。移住するいなごのように数をませ」。破壊の有様。
  16節「お前は空の星よりも商人の数を多くした。しかし、いなごは羽を広げて飛び去るのみ」。かつてニネベは商人の町で繁栄したが、今は跳びいなごのように遠くへ跳び去る。町を守る軍隊も跳び去り、どこへ行ったか知らないようになる(17節) 
  18節「アッシリアの王よ、お前の牧者たちはまどろみ、貴族たちは眠りこける。お前の兵士たちは山々の上に散らされ 集める者はいない」。牧者も貴族、兵士たちも王の周辺からいなくなり、重い傷を癒すことはできない。それを見て手をたたき喜ぶものがいる(19節)。

  滅ぼされるべき理由を南ユダに対する復讐として画いていない。それは偽りと略奪と人を餌食とし(1節)、偶像礼拝を諸国に持ち運び(4節)、空の星数のように商人を増やしたこと(16節)としている。これは、富の繁栄の為には手段を選ばない、人が犯してきた罪過である。7節に富の繁栄を喜び、それを頼ってきたニネベが、丸裸にされた時、「お前を慰める者はどこを探してもいない」(7節)とある。ナホムの語根はナーハムで「慰める」「悲しむ」「悔改める」であるが、預言者ナホムは、真の慰めがどこにあるかを問いかけている。

 「うちしおれている者を慰める神」という言葉が第二コリント7章6節(口語訳)にある。 

平和を告げる者の足は山の上を行く

2015-03-14 | Weblog
ナホム2章 

 1節「見よ、良い知らせを伝え 平和を告げる者の足は山の上を行く。ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。二度と、よこしまな者が お前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた」(新共同訳)

 1節「見よ、良い知らせを伝え、平和を告げる者の足は山の上を行く。ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。二度と、よこしまな者が、お前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた」。小見出し『ニネベの陥落』。口語訳では1章の終りになり、ユダに新しい時代の到来を告げている。同じ預言の言葉がイザヤ40章9節にある。「よこしまな者」とは1章11節と同じで、アッシリアと企む者らである。
 2節「襲いかかって来る敵がお前に向かってくる、砦を守り、道を見張れ。腰の帯を締め、力を尽くせ」。外敵の襲来に対して主は報復されるので、武装を整えよといわれる。
 3節「主はヤコブの誇りを回復される、イスラエルの誇りも同じように。略奪する者が彼らを略奪し その枝を荒らしはしたが」。失われたイスラエルの誇りは回復される。
 4節「勇士の盾は赤く、戦士は緋色の服をまとに、戦いの備えをする日に 戦車の鋼鉄は火のように輝き 槍は揺れる」。ここでイスラエルとアッシリアとの戦闘が始まることが描かれ、いよいよ戦いが勃発する(5節)。城壁が崩されようとしているので防御車を据える(6節)。ついに門は開かれ王妃は引き出され、侍女たちは嘆き、悲しみに胸を打つ(7~8節)。
 9節「ニネベは、建てられたときから、水を集める池のようであった。しかし、水は流れ出して『止まれ、止まれ』と言ってもだれも振り返らない」。池の水が流れ出すように、金銀財宝が流れ出ていき、破壊と荒廃で人の顔はおののきを示す(10~11節)。
 12節「獅子の住家はどこに行ったのか。それは若獅子の牧場だった。獅子がそこを去り、雌獅子と子獅子が残っていても脅かすものは何もなかった」。アッシリアが獅子に譬えられる。獅子の洞穴に、子獅子のために得物を満たしていた(13節)。しかし万軍の主は洞穴を襲って若獅子を殺し、得物はすべて無くなる(14節)。ここで、何故アッシリアの滅亡が「平和を告げる」(1節)ことになるかを問わねばならない。ナホムは既にアッシリアの滅亡を知っていたのかもしれない(紀元前614年頃)。彼の予言は単なる復讐ではなく、復讐劇を繰り返すことに終止符を打ち、「もはや戦うことを学ばない」(ミカ4章3節see)平和でなければならない。

 使徒パウロは、エフェソへの手紙2章14~17節に主イエス・キリストは敵意を取り除き、和解をもたらすという真実の平和を示している。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。 二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました~」。

主に身を寄せる者を御心に留められる

2015-03-13 | Weblog
  ナホム1章 

  7節「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる」(新共同訳)

  1節「ニネベについての託宣。エルコシュの人ナホムの幻を記した書」。表題。ニネベはアッシリアの首都。アッシリアは北イスラエルを滅ぼし、南ユダを長期にわたって苦しめた仇敵だった。「幻」とは、神から伝えられた啓示を指す。「ナホム」は慰めという意味がある。
  2節「主は熱情の神、報復を行われる方。主は報復し、激しく怒られる。主は敵に報復し、仇に向かって怒りを抱かれる」。小見出し『主の怒り』。ヨナ書と対照となる。「熱情の」口語訳「ねたみ」(出エジプト記20章5節、申命記4章24節see)。
激しい報復をなされる神の預言である。旧約にある報復思想は、神学的な考察を要する事柄である。
  3節「主の忍耐は力強く、その道はつむじ風と嵐の中にあり雲は御足の塵である」。「忍耐強い」は口語訳「怒ることおそく」の方が良い。報復の舞台は雲と嵐であり、海と川(4節)である。熱風が干上がらせる状況を示している。
  5節「山々は主の御前に震え、もろもろの丘は溶ける。大地は主の御前に滅びる 世界とそこに住むすべての者も」。更に山々と丘と大地に及ぶ。ヨナの「海と陸とを創造された天の神」(1章9節)と共通する。
  6節「主の憤りの前に、誰が耐ええようか、誰が燃える御怒りに立ち向かいえようか。主の憤りが火のように注がれると、岩も御前に打ち砕かれる」。主の怒りと憤りを免れる者は誰もいない。
  7節「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる」。ただ免れることができるのは、主に身を寄せる者だけである。主のもう一つの側面である。
  9節「お前たちは主に対して何をたくらむのか。主は滅ぼし尽くし、敵を二度と立ち上がれなくされる」。ユダに対する呼び掛け。神に逆らう者はことごとく審かれ、立ち上がることはできないで、荊や藁のように焼き尽くされる(10節)。ここでは二人称で呼び掛けている。
  11節「主に対して悪事をたくらみ、よこしまなことを謀る者があなたの中から出た」。「よこしま(ベリヤアル)なことを謀る」とは無価値、無益、邪悪なことを企む者で、アッシリアと通じることである。しかし主は悪事を断ち切る(12節)。
  13節「今、わたしは彼の軛を砕いてお前から除き、お前をつないでいた鎖を断ち切る」。主は二度と苦しめることなく、アッシリアの軛を取り除き、鎖を断ち切る。
  14節「主はお前について定められた。『お前の名を継ぐ子孫は、もはや与えられない。わたしは、お前の神の宮から、彫像と鋳像を断ち、辱められたお前のために墓を掘る』」。口語訳「主はあなたについてお命じになった、『あなたの名は長く続かない。…あなたは罪深い者だから~』」。新改訳「主はあなたについて命じられた。『あなたの子孫はもう散らされない…』」。「あなた」をアッシリアと理解する解釈もあるが難解な個所である。

  報復の物差し=判断・基準を人の側に置くと偏狭な民族信仰になるが、神中心にすると普遍的な真理になる。聖書はそれを示している。本章からは「主に身を寄せる者」(7節)には恵み深い方であることを示される。

咎を除き、罪を赦される神

2015-03-12 | Weblog
  ミカ7章 

  18節「あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに」(新共同訳)

  1節「悲しいかな、わたしは夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、わたしの好む初なりのいちじくもない」。小見出し『民の腐敗』。預言者ミカは神の告発とその宣言(6章15節see)に深く悲しむ。慈しみ(ヘセド)と正しさ(ミシュパート)に生きる者はなく(2節)、彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人も裁判官も報酬を目当てに働き、名士 (新改訳=有力者)は私欲で語りしかも彼らは悪事を隠す(3節)。自らを善人とし正しいとする彼らは茨の垣根であり、今や刑罰の日が来て大混乱が起こる(4節)。
  5節「隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも お前の口の扉を守れ」。隣人や親しい者との信頼関係が失われるので、不用意に語るな。家族関係も壊れてしまう(6節)。
  7節「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」。わたしはこの不義不正、信頼の失せた状態から主を仰いで、救いを求める。ここには民の為に執り成すミカが示されている。ここに信仰の表明がある。7節と8節とを結ぶ混乱から希望への転換点となる。
  8節「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても 主こそわが光」小見出し『新しい約束』。主は敵に報復されると告げる。敵がだれを指すか特定できないが、不義と不正を働き他の神々を拝跪するた民である(オバデヤ書see)。
  9節「わたしは主に罪を犯したので 主の怒りを負わねばならない ついに、主がわたしの訴えを取り上げ わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ わたしは主の恵みの御業を見る」。 民の罪を告発し神の審判を告げるだけの預言者ではない。「恵みの御業」は口語訳「主の正義」(ミシュパート)である。この救いの望みはただ神に依拠するのであり、わたしの側は絶無である。これは新約聖書に示される「信仰義認」である。
  14節「あなたの杖をもって、御自分の民を牧してください。あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に ただひとり守られて住み 遠い昔のように、バシャンとギレアドで 草をはむことができるように。」。回復の賛美である。神の赦しと慈しみを告げる終末預言である。これは18~20節で一層明らかになる。
  18節「あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに」。主は再び我らを憐れみ我らの咎を抑えすべての罪を海の深みに投げ込まれる(19節)。
  20節「どうか、ヤコブにまことを アブラハムに慈しみを示してください。その昔、我らの父祖にお誓いになったように」。厳しい審判に始まる本書は、結びには神の慈しみを希う言葉で結ばれる。
  ロマの手紙11章22節「神の慈愛と峻厳とを見よ」(口語訳)が示される。

正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと

2015-03-09 | Weblog
  ミカ6章 

  8節「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(新共同訳)


  1節「聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ」。口語訳「あなたがたは、主の言われることを聞き、立ちあがって、もろもろの山の前に訴えをのべ、もろもろの丘にあなたの声を聞かせよ」。小見出し『主の告発』。告発とは、主なる神が審判者として、イスラエルの民を呼び出し、山々を傍聴者として訴えを語れということである。
  2節「聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発しイスラエルと争われる」。口語訳「もろもろの山よ、地の変ることなき基よ、主の言い争いを聞け。主はその民と言い争い、イスラエルと論争されるからである」。ここでは告発者は主なる神である。
  3節「わが民よ、わたしはお前に何をしたというのか、何をもってお前を疲れさせたのか、わたしに答えよ」。反論があれば応えよと言われる。「~疲れさせたか」は「煩わせたか」(新改訳)である。
  4節「わたしはお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを、お前の前に遣わした」。民がエジプトの奴隷であった時に、モーセとアロンを遣わして救い出した時の神の恵みの御業を思い起こせと言われる(5節)。
  6節「何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか」。民の反論である。形骸化した祭儀を述べて、自己正当化しようとしている(7節)。
  8節「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」。神が求めておられるのは、そうではない。それは先ず「正義」(ミシュパート)と「慈しみ」(ヘセド)であり、次に「謙って(ツァーナ)神と共に歩む」ことである。「謙る」は、ここにしか出てこないヘブライ語である。
  10節「まだ、わたしは忍ばねばならないのか 神に逆らう者の家、不正に蓄えた富 呪われた、容量の足りない升を」。民の不正が厳しく告発される。不正な天秤、偽りの重り石の袋(11節)、不正に満ちた金持ちと偽りを語る住民、欺く舌がある(12節)。
  13節「わたしも、お前を撃って病気にかからせ 罪のゆえに滅ぼす」。更に告発に対する刑の宣言が告げられる。飽きても空腹になって飢え(14節)、オリブ油も葡萄酒も収穫することなく、それを飲むこともない(15節)。オリムの定めとアハブの習わしに従った報いに、都は荒れ果て、諸国から嘲られる民になる(16節)。「オリムの定め」とは南北に分裂に至ったオムリの業(列王記上16章16~28節)、「アハブの習わしとは、彼のイゼベルとの政略結婚でバアル礼拝を導入したことである(列王記上17章以下)。

 使徒パウロは、訣別説教(使徒言行録20章)と言われるところで、自らの宣教の姿勢として「謙遜の限りを尽した」(19節口語訳)と言っている。心砕かれて主の前に出ることこそ、キリスト者の徳性ではないか(詩51篇19節see)
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彼は立って、群れを養う、主の力

2015-03-08 | Weblog
  ミカ5章 

  3節「彼は立って、群れを養う、主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ」(新共同訳)

  1節「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。新しいメシアの来臨を予告する。ベツレヘムはダビデ誕生地であり、マタイ福音書2章6節に引用された。
  2節「まことに主は彼らを捨ておかれる。産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者はイスラエルの子らのもとに帰って来る」。4章9~10節に伝えられているようにアッシリアの苦役の時はしばし続くが、やがて、その解放の時がくるというのである。
  3節「彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ」。彼は羊の群を導くことができる力がある。それは主の力、権威をもって安らかに住まうことができる。その支配は限りないものである。
  4節「彼こそ、まさしく平和である、アッシリアが我々の国を襲い、我々の城郭を踏みにじろうとしても、我々は彼らに立ち向かい、七人の牧者、八人の君主を立てる」。口語訳「これは平和である」。新改訳第3版「平和は次のようにして来る」。NKJV「And this One shall be peace」。アッシリアが襲っても、これを支配し救う。「七人の…八人の…」と数字を重ねる手法はこれまでにもある(アモス書1章3節、箴言6章16節)。ここでは「七」が重要である。彼らは「ニムロド」(創世記10章8節・神話的な人物)の国アッシリアが襲ってきてもこれを踏みにじる(5節)。その平和は6~14節に示されている。
  8節「お前に敵する者に向かって、お前の手を上げれば、敵はすべて倒される」。
  9節「その日が来れば、と主は言われる。わたしはお前の中から軍馬を絶ち、戦車を滅ぼす」。これらはたの預言者も否定してきたことである(イザヤ書2章7節、ホセア書10章13節)。
  10節「わたしはおまえの国の町々を絶ち、砦をことごとく打ち壊す」。
  11節「わたしはお前の手から呪文を絶ち、魔術師はお前の中から姿を消す」。
  12節「わたしはお前の偶像を絶ち、お前の中から石柱を絶つ。お前はもはや自分の手で作ったものにひれ伏すことはない」。
  13節「わたしはお前の中からアシェラ像を引き抜き、町々を破壊する」。
  14節「また、怒りと憤りを持って、聞き従わない国々に復讐を行う」。これらは4章2~3節と同じだ。

  戦争放棄の平和憲法を変え、天皇制を復活させて、国歌斉唱を強要する指導者の誤った国家主義には、かつての誤った戦争を再び起こす悪しき政治志向であり真の平和はない。彼は平和と安全主義を唱え軍靴を鳴らして平和行進をする。


剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする

2015-03-07 | Weblog
 ミカ4章 

  3節「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(新共同訳)。

  1節「終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい」。小見出し『終わりの日の約束』。1~3節はイザヤ書2章1~4節と同じ預言である。新しい国の到来を告げる終末預言である。シオンの丘エルサレムに諸国の民が、主の教えを聞こうと集まって来る(2節)。
  3節「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。正義と慈しみ公平を持たれる主なる神は民の争いを沈め、御力をも持って治める。民はもはや戦うことを止めて、剣は大地を耕す鋤に打ち直し、槍を鎌に作りかえる。日本も十五年戦争が終結し、戦後の露天に兵士たちが戦地から持ち帰った飯盒や衣服などが並べられ日常品として売られていた。国連本部のロビーの壁画にこの聖句後半が刻まれている。
  4節「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた」。神の民の結集である。外敵に脅かされることがないので、ぶどうや無花果の木の下で平和に過ごす、と主は言われるのである。そして人々はそれぞれの言葉で主の御名を呼んで歩むことになる(5節)。「いちじくの木の下」は平和の象徴として表現されることがある(ヨハネ福音書1章48~49節see)。
  6節「その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた」。終わりの日が来ると、主は足の萎えた弱者や、貧しく追いやられた者を集めて、癒しと安心とを与えられるという(7節)。娘エルサレムの王権が再び返って来る(8節)。
  9節「今、なぜお前は泣き叫ぶのか。王はお前の中から絶たれ、参議たちも滅び去ったのか。お前は子を産む女のように、陣痛に取りつかれているのか」。神の御計画が示される。今、娘シオンは泣き叫んでいるが、それは出産前の陣痛と同じである。胎内の子が出てくる時と同じ状態だ。だが、そこで救いが来て苦しみは消え去る(10節)。これはイスラエルが捕囚の民となり苦悩に陥るがやがて解放される預言(二百年後)としているようだ。
  12節「だが、彼らは主の思いを知らず、その謀を悟らない。主が彼らを麦束のように、打ち場に集められたことを」。人々は敵対して集まり、イスラエルの苦悩(捕囚)を傍観しているが、神のご計画は、彼らを集めて、麦束を脱穀するのと同様の苦しみに合わせる。イスラエルは脱穀機になる(13節)。
  14節「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ」。今一度9~10節にある娘シオンの苦悩に言及している。口語訳、新改訳は5章1節になっている。

 娘シオンへの呼びかけで、突然苦痛が襲来する比喩として「子を産む女の陣痛」(10節)を語っているが、これは終末の日の約束である(2節)。ヨハネ福音書16章21節を読むと、これを主イエスも語っている。

力に満ち、公義と勇気とに満たされ

2015-03-04 | Weblog
  ミカ3章 

  8節「しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、ヤコブにその咎を示し、イスラエルにその罪を示すことができる」(口語訳)

  1節「わたしは言った。聞け、ヤコブの頭たち、イスラエルの家の指導者たちよ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか」。小見出し『指導者たちの罪』。指導者に対する罪の糾弾が続く。善を憎み、悪を愛する者で、動物の皮をはぎ骨から肉をそぎ取るように、弱者を扱っている(2~3節)。もはや主に助けを求めても、主は御顔を隠され、応えられない(4節)。 
  5節「わが民を迷わす預言者たちに対して、主はこう言われる。彼らは歯で何かをかんでいる間は平和を告げるが、その口に何も与えない人には戦争を宣言する」。自分に利益となるものにはそれに喰いついて、その人に平和を告げる。しかし何ら得ることがない時は戦争が起こるというのである。この種の偽預言者に対して、主は託宣を与えないので何が起きるかは不明となり(6節)、恥をかき絶望する(7節)。
  8節「しかし、わたしは力と主の霊、正義と勇気に満ち、ヤコブに咎をイスラエルに罪を告げる」。口語訳「しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、ヤコブにその咎(とが)を示し、イスラエルにその罪を示すことができる」。口語訳が直訳に近い。主の霊によって「わたし」は語るのであり、偽預言者のようではない。「わたし」は正義(ミシュパート)と勇気(ゲブラー)をもって国の罪を告発し、名声や富に惑わされないで主の霊によって語るという。
  9節「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ」。血を流し、不義をもってエルサレムを建てている者よ「聞けよ!」(シェマー・ナー)と呼び掛ける(10節 1節see)。
  11節「頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない』と」。イスラエルの富と権力を持つ指導者と祭司と預言者らが、等しく賄賂を取り、不正不義を行う。そして民の歓心を買って、外敵からの災禍はないと告げている。
  12節「シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる高台となる」。神の審判は確実で、最早避けようもない。これを引用して、預言者エレミヤも同じことを語っている(26章18節see)。

 「わたしは力と主の霊、正義と勇気に満ちて」(8節)、イスラエルに罪を告げるとの確信と大胆さは、使徒言行録2章のペンテコステに弟子たちの上に起きた。それはペトロの説教に伺える。彼は大胆に罪を指摘し、人々は心を打たれている(23、36~37節)。「 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(第二テモテ1章7節)とあるが、キリスト者は、時代と社会に対して、大胆さを欠き、臆することの多いことを示される。

群れのように、牧場に導いてひとつにする

2015-03-03 | Weblog
  ミカ2章 

  12節「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく」(新共同訳)

  1節「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ、悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ」。1章で外敵からの攻撃が迫っていることを告げたが、その原因を暴露する。権力者らは夜中眠らないで悪事をたくらみ、夜明けとともに畑を奪い、家々を取り上げ、嗣業の地を強奪している(2節)。
  3節「それゆえ、主はこう言われる『見よ、わたしもこの輩に災いを企む』お前たちは自分の首をそこから放しえず もはや頭を高く上げて歩くことはできない。これはまさに災いのときである」。そこで主も災いを計画する。それは奴隷の軛を負い、頭をあげて歩けなくする。
  4節「その日、人々はお前たちに向かって嘲りの歌をうたい…」。敵国の者らは嘲笑し、“我らは打ちのめされた、~手に入れた土地は奪われた”と嘆きの声でもの真似し、奪われた土地は取り戻すことはできない(5節)。
  6節「『たわごとを言うな』と言いながら、彼らは自らたわごとを言い『こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない』」。小見出し『ユダの混乱』。偽預言者が「たわごとを言うな」とミカを非難するが、彼らこそ“主は気短な方だろうか、これが主のなされる業なのか”とたわごとをいう者だと反論する(7節)。偽りの楽観主義である(エレミヤ6章14節see)。
  8節「昨日までわが民であった者が敵となって立ち上がる。…」。ミカは再び不義不正の行われている国の状態を直視させる。それは民の衣服をはぎ取り、子どもや女たちを家から追い出していることである(9節)。
  10節「立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない…」。ミカは捕囚の民としてユダの地から出て行くようにと告げる。これは3節でも預言している。
  12節「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする彼らは人々と共にざわめく」。小見出し『復興の預言』。神の審判としての捕囚という滅びの預言(10節)は、同時に新しい時の到来をも見据えている。それは散らされた羊の群れを、再び牧場に呼び集めるように「残りの民」を呼び集めるのである。
  13節「打ち破る者が、彼らに先立って上ると、他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み 主がその先頭に立たれる」。主なる神は捕らわれた民の囲いの門を打ち破り、先頭に立って平安の地へ導かれると告げている。預言者は民の不義不正に厳しく神の審判を告げるが、絶望に終わらせることでなく、やがて来る時には悔い改める民に、新しい救済の手が差し伸べられていることを預言している。暗夜にやがて来る暁光を見るのと同じだ。預言書を読むと一層そのことが判る。
 

諸国の民よ、皆聞け。耳を傾けよ

2015-03-02 | Weblog
 ミカ1章 

  2節「諸国の民よ、諸国の民よ、皆聞け。大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。主なる神はお前たちに対する証人となられる。主は、その聖なる神殿から来られる」(新共同訳)

   1節「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェトの人ミカに臨んだ主の言葉。それは、彼がサマリアとエルサレムについて幻に見たものである」。(ヨタム-紀元前741-742、アハズ・741-726、ヒゼキヤ・725-697年)各王治世中の預言者として活躍したとされるが、イザヤと殆ど同じ頃であることが判る(イザヤ1章1節)。農村地帯の出身とされる。エレミヤ書26章17~19節にミカの言及が出ている。
  2節「諸国の民よ、皆聞け。大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。主なる神はお前たちに対する証人となられる。主は、その聖なる神殿から来られる」。小見出し『神の審判』。神の顕現はこの世の秩序を蝋のように溶かし、破壊する(3~4節)。
  5節「これらすべてのことは、ヤコブの罪のゆえに イスラエルの咎のゆえに起こる。ヤコブの罪とは何か、サマリアではないか。ユダの聖なる高台とは何か エルサレムではないか」。神の告発は先ずイスラエルに向けられ、サマリアの町の城壁は崩壊し、彫像や偶像は粉砕される(6~7節)。
  8節「このため、わたしは悲しみの声をあげ、泣き叫び、裸、はだしで歩き回り、山犬のように悲しみの声をあげ、泣き叫び、裸、はだしで歩き回り 山犬のように悲しみの声をあげ 駝鳥のように嘆く」。これは預言者自身のことば、北イスラエルに続いて南ユダ王国も神に告発されることになる(9節)。
  10節「ガドに告げるな、『決して泣くな』と。ベト・レアフラで塵に転がるがよい」。隣接するペリシテの町々、ガド、ペト・レアフラ、シャファル、ツァナン、ベト・エツェル、マトロの住民に敵国の侵略が及ぶことを、神は警告している(11~12節)。ユダの南東の町々である。
  13節「ラキシュの住民よ、戦車に早馬をつなげ。ラキシュは娘シオンの罪の初めである。お前の中にイスラエルの背きが見いだされる」。先ずエルサレム南西にある砦の町ラキシュにある偶像礼拝の罪を糾弾する。
  14節「それゆえ、モレシェト・ガトに離縁を言い渡せ。イスラエルの王たちにとって アクジブの家々は、水がなくて 人を欺く泉(アクザブ)となった」。ミカの郷里メレシェト・ガドも侵略される。
  15節「マレシャの住民よ、ついにわたしは 征服者をお前のもとに来させる。イスラエルの栄光はアドラムを去る」。神から与えられたイスラエルの富も繁栄も奪われてしまう。アドラムはダビデが難を逃れて潜んでいた洞窟(サムエル記上22章1節see)。神の審判の預言は2章5節まで続く。

 預言者ミカの預言には、北イスラエルがアッシリヤに侵略されて滅ぼされ(紀元前711年)、南ユダもその攻撃の手が伸びているという状況が見られる。この時ミカは民の苦難を、自ら捕虜の姿になって体現している。傍観者とはなりえなかったことが8節でわかる。これはイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセアら預言者に共通した生き方であった。神の召命が無くてこれは容易に出来ることではない。