日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

決して死を免れようとは思いません

2010-09-30 | Weblog
使徒言行録第25章  

  11節「もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。」(新共同訳)
 
   二年後フェリクスの後任者としてフェステゥスが総督に就任した(1節)。彼はパウロ問題解決のため事情を知ろうとエルサレムに行き、最高法院の指導者らに会う(2~3節)。しかし彼らの陰謀を知り、請願を拒否し不都合なこと(アトポス)があるなら、上訴せよと言ってカイサリアに帰った(4~5節)。
   6~12節に総督による裁判が開かれたことが記される。パウロは律法、神殿、皇帝に対して悪いこと(アトポス)をしていないと、無罪を主張し「…わたしは皇帝に上訴します」と訴えた(11節)。
  これは事実無根であることを明白にするためローマの法廷で裁判を受けるという申し出であった。彼がローマ市民権を行使することなく、上訴しなかったら、無罪放免であったろう(26章3節)。しかし、既に幻の中でローマ宣教を示されていたパウロの言動は、神の聖意にそったものだったのである(19章21節、23章11節)。彼の命は守られねばならない(11節、27章24節)。

   親ローマ派のアグリッパ二世が妻ベルニケを伴い、フェステゥスフェステゥスへの表敬訪問でカイサリアに来た(13節)。フェステゥスは「パウロの件」を話題にした(14~21節)。彼が上訴してローマ皇帝の判決を受けたいと言うので、護送するためにここに居ると話したので、アグリッパとベルニケは彼の話を聞きたいと申し出た(22節)。
   翌日総督の法廷が開催され、二人の来訪者は盛装して列席し、千人隊長や町の指導者も招集した。24~27節はフェステゥスの開廷の辞である。改めて彼に関して皇帝に訴状文を作成しなければならいので、「諸君の前に、特にアグリッパ王、貴下の前に引き出しました」と告げている(26節)。
26章に読み進む前に、公の席でパウロの弁明演説が始まる舞台が、整ったことを知る。
  ここで示される言葉はフィリピ1章20節であろう。
  『そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。』

世界中に騒動を起こす疫病のような人

2010-09-29 | Weblog
  使徒言行録第24章 
           
  5節「実はこの男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります」(新共同訳)

  五日の後、大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロを連れて来て、総督にパウロを告訴した(1節)。その訴状が3~8節にある。
  最初の挨拶は歯の浮くような賛辞になっている。「私どもは十分に平和を享受しております」(3節)とあるが、事実と反対で彼のパレスチナ統治は強奪、残虐、抑圧の限りを尽くしユダヤ人反乱の要因を作った人物と言われている。4節は語り手(当人)に好感を持たせる演説の常套句である。
  告発する人物とは「…疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引起こしている者『ナザレ人の分派』の首謀者であります」と言った(5節)。
   それに対するパウロの弁明が10~21節にある。12日しかたっていないのに論争したり群衆を扇動したりする者は誰もいないと反論する(12節)。「疫病」(ロイモス)とは言い得て妙、ユダヤ教徒たちには適切だったろう。英訳はpestilence、新改訳でも「ペスト」となっている。民に最も恐れられ、荒野の旅で疫病は四回も出てくる(民数記11章33、14章37、17章12、25章9節)。一夜にアッシリヤ軍の兵士18万5千人が死んだのもペストであろうと言われている(列王記下19章35節)。
   次に『ナザレ人の分派』の首謀者と言われたが、確かに「彼らが『分派』と呼んでいるこの道にしたがって、先祖の神を礼拝し、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じて」いることはこの訴えている人と同じだと答えた(14節)。『ナザレ人の分派』とはユダヤ人キリスト者伝道の批判で、福音宣教がユダヤ教の分派としてしか理解されていなかったのである。この「分派」は「仲間割れ」(第一コリント11章1節)とか「異端」(第二ペトロ2章1節)と訳されている。

  キリスト教が異端として歴史上に浮かび上がるのは、ユダヤ戦争(66年)以降で、エルサレム陥落によりローマ直轄領となった紀元70年から90年頃に一層明確な形で表われる。90年ヤムニヤ会議が開かれ、ユダヤ教社会では「ナザレ派と異端者が、一瞬にして滅ぶように。彼らが生命の書から消されて、正しい人々と共に書き入れられないように」という呪いの祈りとなった(コンチェルマン著「原始キリスト教史」参照)。

   この答弁は訴え出た原告団には文句の付けようのないものであった。フェリクスが「この道に付いてかなり詳しく知っていた」(22節)というのは、24節にあるユダヤ人の妻ドルシラからの情報であったろうと思われる。彼はローマ市民であるパウロをユダヤの宗教議会に渡すことは出来ないし、宗教上のことだからと言って無罪放免をするとユダヤの権力者から反感を買うばかりか、彼の失政を指摘され訴訟を起こされる危険もあり、千人隊長リシヤが来るまで裁判を延期することになった。


聖霊行伝

2010-09-28 | Weblog
   使徒言行録第23章 
 
   11節「…『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」(使徒言行録)

   最高法院に引き出されたパウロは身の潔白を訴えた(1節)。大祭司アナニヤが彼の口を打てと命じると、その人物が大祭司職にあることを知らず、不当な命令に反発し「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる」(3節)と言った。白く塗った壁とは倒れかかった壁が漆喰で厚化粧し危険な状態を覆っていることを指す。彼は大祭司職を非難するつもりはないと弁明する(5節)。しかし彼は少しも怯まないで法廷に問題の火種を投じ、消すことの出来ない勢いに燃え広がり議会は混乱状態に陥る。この時大祭司の家系はすべてサドカイ派でエルサレムの政務はこの派の意のままになっていた。しかし多くのパリサイ派の人々が席を占める議会の開催では、そのようには行かなかった。パウロは議会の中にこの対立を見抜き、「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられている」と叫んだ(6節)。復活はパリサイ派とサドカイ派のもっとも悩ました教義上の相違点だったので、激しい論争と対立が起き、遂に最高法院は分裂した(7節)。
   この様な成り行きに千人隊長は会議では決着が出来ないと判り、パウロを力ずくで助け出し、兵営に連れ戻した。
   この時、主はパウロの宣教はエルサレムでなく、帝都ローマであることを再度示された(11節・19章21節cf)。どんな危険な状況に置かれようと、聖意の変らないことを信じさせたのである。彼に対するエルサレムでの危機は去っていなかった。それは(呪いで誓う)シカリ派と言われる40人の集団がパウロ暗殺計画を立てたことである。それは千人隊長にもう一度詳しく尋問するという口実で最高法院に連れて来る途中に、パウロを殺すというものであった(12~15節)。
   ところがパウロの姉妹の子が突然現れて、この暗殺計画をどうしてか聞き込んで兵営の中にいるパウロに伝える。この甥の存在は全く不明だが、ここでも危機一髪の中をかいくぐり難を逃れることになる。パウロは百人隊長からこの若者を千人隊長の元に連れていくように頼み、ユダヤ人たちが仕組んだ暗殺計画は実現しないことになる(16~22節)。
   この事件の結末が23~35節に出ている。彼はエルサレム在駐兵力の約半分に当たる歩兵、騎兵、軽装備兵ら470名の厳重な警護で100キロ先のカイサリヤにいる総督フェリクスの許に書簡を認(したた)めて移送された。書簡の差出人は千人隊長クラウデュウス・リシアだった。訴えられている者はローマの市民権を持つ人物だが、ユダヤの律法で死刑や投獄に相当する理由はない。しかし陰謀を企てているというので、ユダヤ教の指導者らが総督に告発するよう命じたものである(26~30節)。
   ここから、パウロの身柄は初代エルサレム教会から離れて、ローマ政府の統治下に置かれる。口語訳「使徒行伝」を「聖霊行伝」と呼ぶが、カイサリヤ幽閉生活(二年以上24章27節)とそれに続くローマ行きの背後に、聖霊の働きが強くあったことを示される(1章8節)。

パウロの弁明演説

2010-09-27 | Weblog
  使徒言行録第22章  

  18節「…主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け』」(新共同訳)

   パウロは、千人隊長により兵営に曳かれていく途中、階段の上に立って民衆にヘブライ語で話し始めた(21章40節)。1~21節にその弁明演説が出ている。
「兄弟であり父であるみなさん」と敬愛を込めて呼掛けた(1節)。そして先ずこの都で育ち、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていましたと言って、同じ立場であることを述べる(3節)。そして更に「この道を迫害する」という点でも同じであった客観的事実を大祭司、長老たちがするとまで言った(5節)。
   6~16節はダマスコの回心についての証しである。9章は著者ルカが書いているが、ここではパウロの口から語る直接話法で伝えている。26章にもあるが、彼が強調しているのは、かつては自分もユダヤ教徒と同じ迫害者であったが、今は全く反対の立場に変わったということで(19~20節で繰り返している)、被害者と加害者の立場が、ひっくり返った状態を示している。「ミイラ盗りがミイラになった」。捕えようと思っていた相手に捕えられた、コペルニクス的転回である。
   迫害者パウロに「なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(26章14節)という声を聴いた。彼は強い光に撃たれて、突然失明し一緒にいた人たちに手を引かれダマスコの町に行き三日間見えなくなった。強い光は今まで見えていたものが見えなくなり、見るべきものを見るという転換を身を持って経験する出来事であった。
  次にパウロはダマスコの町でアナニヤと出会うことになる。ここで彼は聴衆にアナニヤが「律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした」と紹介している(12節)。そして自分の身の上に起きたことの証人であると語る(13~15節)。新しい出発は「バプテスマを受けて、罪を洗い清められる」ことだったと結ぶ(16節)。
  17~21節で、異邦人伝道になった経緯を語っているが、言い方にはユダヤ教徒の心情を汲み取るような表現になっている。冒頭に語った通り、キリスト者らを激しく迫害し、ステファノ殺害に賛成した者だったので、主から「急いでエルサレムから出て行け」と言われ(18節)、遠く異邦人の地に遣わされたという(21節)。
  然しこの弁明は民衆を説得するものとはならず「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」とわめき立てて上着を投げ付けた」とある(22節)。
  アラム語が分からないローマの軍指令官には彼らの激怒は全く不何解だったので、真相を調べるため、城塞に入れて百人隊長に鞭打ちを命じた(24節)。
   ローマ帝国の市民権を持つ者を裁判にかけずに鞭打ってもよいのかと言われ、百卒長は驚き、千卒長のところに報告に行く(24~25節)。千人隊長は確認し、パウロの取り調べは打ち切られた。「ローマ市民権」は権威ある資格であり一般には容易に手にすることの出来ない事から、パウロへの対応を変えざるをえなくなった。そして23章からユダヤの最高法院を招集し、そこで裁判をすることになる。
   パウロはこの市民権を相対化し、福音宣教の手段として用いようとしたのである。何故なら彼には誰からも決して奪われることのない市民権を所有しているという確信があった。それはキリストを知る絶大な価値の故に、この世のすべての身分、家柄、出身、知識等々すべてを「塵あくた」(口語訳「糞土」)と見なす価値の転換である(フィリピ3章5~8節)。


主の御心が行われますように

2010-09-26 | Weblog
  使徒言行録第21章
            
  14節「パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、『主の御心が行われますように』と言って、口をつぐんだ」(新共同訳)

  「パウロ達は」とあるが、20章36~38節の別れの状況からすれば、「人々に別れを告げて船出し~」(1節)で、著者ルカが「彼らから引き裂かれることが起きて」(ギリシャ語本文)としたのも肯けよう。再び会うことのない訣別だったからだ。コス島からロドス島、パタラに渡り、キプロス島を左に通り過ぎて五日後、ティルスの港に着いた。出航準備が整うまでの七日間その町のキリスト者の群れを訪ねる。ステパノ殉教に際し散らされて行った信徒たちにより生れた教会である。そこで預言の霊感の賜物を持つ人がいて、「…エルサレムに行かないようにと、パウロに繰り返し言った」(4節)とある。パウロも既に聖霊に告げられて(20章22~23節)強い決心を持っていたので、それを留めることは出来ず、共に浜辺にひざまずいて祈り別れの挨拶を交わした(5節)。
   ティルスからプトレマイオス(アッコ)に寄港、一日の停泊中主にある兄弟らと過ごし、翌日出港しカイサリアに着いた。そこで旧友フィリポの家に行き泊った(8節)彼は「福音宣教者」(エバンゼリスト)と呼ばれている。
   カイサリアはローマ総督府があり、パウロが囚人として二年間幽閉されることになる。この町にかつてエルサレムの飢饉を預言したアガボ(11章27~28節)が来て、パウロの身の上に起きる出来事を彼の象徴的行為で、エルサレムでの逮捕と投獄の預言をした(11節)。ここでも彼の忠告を退け、「…主イエスの名のためならば、…死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」(13節)と応えた。結局パウロを取巻く弟子たちは「主の御心が行われますように」と言って口をつぐんだ(14節)。
   神の御旨を知ることと、神の御旨がなるようにという全幅の信頼は違う。ティルスの信徒たちも(4節)、預言者アガボも(11節)御旨は示されたが、パウロの「御旨がなるように」とは告げなかったのである。

  パウロたちはエルサレムに到着すると、予め手筈してあったキプロス出身のムナソンの家に迎えられた(16~17節)。翌日エルサレム教会を訪ね「自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した」(19節)。そこで人々は皆神を賛美したのである(20節)。
この時諸教会から集めた飢饉に対する義援金を手渡した筈である(24章17節)。イエスの救いの御業と、それに応答する愛の働きを示す(ガラテヤ5章6節)。
   続いてパウロの予想していた通り、誤解と非難に就いての話題が提出された。ここで使徒たちから今エルサレムにナジル人の誓願を立てた四人がいるので、その者らの頭を剃る費用を援助するということだった。この提案を受け入れ、彼も同行することになった。
  七日間の誓願が終わろうとした時、境内にいたユダヤ人達が群衆を扇動して彼を捕え、ギリシャ人を境内に連れ込んだといって騒動が起きた(27~30節)。「エルサレム中が混乱状態に陥った」(31節)とある。予期しない事態になり、結局ローマの千人隊長によって兵営に連れて行かれることになる。

主の恵みに委ねられ

2010-09-25 | Weblog
 使徒言行録第20章  

  32節「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます…」(新共同訳)

  20章は第三伝道旅行の終盤である。マケドニアの伝道は北西部イリリコン州(ローマ15章19節)からニコポリス(テトス3章12節)まで1年以上かけて巡ったと思われる。コリントで三カ月過ごし帰途についた(3~16節)。途中ミレトス港でエフェソ教会の長老たちを呼び寄せ、別れの説教をした(17節)。
   全体は三つに分けられる。区分の鍵ことばが「そして今」(22、25、32節)である。最初の21~24節は過去と現在、そして25~31節が未来、32節以降は結論となる。
先ず彼は伝道者としての姿勢を明確に言い表わした。
   最初に「…謙遜の限りをつくし、涙を流し…数々の試練の中にあって、主に仕えてきた」(19節口語訳)。「謙遜の限りを尽くす」ことなくしては「主に仕える」ことは出来ない。そこに宣教者の立場がありそして働きがなされる。そうでなければ「ユダヤ人の数々の陰謀に」対抗できなかった。「涙を流して」は新約聖書12回中、パウロの手紙に5回ある。31節にも出てくる。宣教の故に流される愛の涙でありバックストンはこれを「優しい心」(tender-hearted)と説いている。
  21節で彼の宣教内容を「神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシャ人にも力強く証ししてきたのです」と短く要約した。この思いは今も変わらないという。それは「主からいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすこと」(24節)である。エルサレム行きの動機がここにある。投獄と苦難とが待ち受けていると告げられているが(23節)、そうせずにおれない。何故なら「霊に促がされて」いるから(22節)。口語訳「御霊に迫られて」詳訳「霊に縛られて」。
   そこで勧めの第一は「どうか、あなた方自身と群れ全体とに気を配ってください」ということ。何故なら「残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らす」(29節)。次に「あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れる」(30節)からだ。群れ全体に気を配るとは、羊を飼い、養う牧会配慮である。
   第二は、「三年間、教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(31節)。暗闇を象徴する異端の教えの誘惑から身を守る呼び掛けである。
   そして第三は「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます…」(32節)。神の言葉は、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるというのである。
   パウロは伝道旅行出発に際して諸教会から「主の恵みに委ねられた」が、今度はパウロから諸教会に対して「神とその恵みの言葉にゆだねる」のである。ここに相互の聖徒の交わり(使徒信条)がある。これはキリストの教会が信仰の遺産を継承するという大切な責務を主から与えられていることを示す。そして 「群れの監督者」(エピコスポス・28節)は建築(キリストの教会)を完成させる統括責任者となる。
   第四は、生活の必要に対しては、主イエスの「受けるよりは与える方が幸いである」(35節)の言葉を受け、働いて弱い者を助けるようにと勧めている。


時がよくても悪くても

2010-09-24 | Weblog
  使徒言行録第19章 

 18節「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」(新共同訳)

   パウロの第三回伝道旅行は18章23節から始まる。第二回の時の同じガラテヤ地方を巡回し、内陸を通って約束していたエフェソに来た(1節)。
   彼はこの伝道旅行で最も心を用い、エフェソに三年近く滞在した(20章31節see)。パウロが先ずしたことは、伝道者アポロの信仰指導を受けた者たちに(18章24~28節)、イエスの名によるパブテスを受けさせた(5節)。そして彼らに聖霊の賜物が与えられたことである(6節)。
   彼は三ヶ月の間ユダヤ人の会堂でイエスの福音を大胆に語った。しかしその反応は決してよいものではなく、会衆の前で「この道」を非難する者があった為、会堂での宣教を中止した(8~9節)。
新しくティラノが所有する講堂を借りて毎日集まって来た人々にイエスの福音を伝えた。それが二年も続いたのである(10節)。「講堂」(スコレー)は、当時の学校(スクール)であるが、西方写本によれば「毎日第五時から第十時ここでパウロは論じていた」となっている。今の時間で11時から4時までであるが、この時間帯は当時この地方では昼休み(昼寝と休息)の時間で、パウロは天幕造りをしながら、この時間帯を借りて伝道した。これが決して容易な伝道でなかったことが、20章31、34節で語られている。
   人口二五万人のアジヤにおける中心都市エフェソを福音の発信基地のようにして三年間宣教した結果、「アジヤ州に住む者は、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」(10節)。これはヨハネ黙示録に出てくるアジヤの七つの教会の誕生になったことを予測させる。更に彼にとって使徒言行録1章8節の図式にある通りエルサレムから始まり、地の果まで福音が宣べ伝えられる御業が表われたことを自覚することになった。ここで最後の伝道地ローマ行きの幻を与えられている(21節)。
   また一方で様々な信仰の迫害が起きたことが11節以下に出てくる。問題の発端は12節「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」からである。確かに癒しの賜物は第二コリント12章8~10節にある。しかしこれは些か逸脱した行動ではなかったか。異教的迷信の中心地で呪術や魔よけ「お守り札」などが有名であったエフェソの市民には恰好な出来事、そこに各地から巡り歩いて来たユダヤ人の祈祷師たちが「イエスの名」を騙って悪霊を追い出し(13~14節)、他の悪霊に取り付かれている者が、この祈祷師を追放するという事態が起きた(16節)。これでイエスの名が崇められたという訳だ(17節)。
   21~40節には世界七不思議の一つアルテミス神殿で商いをしている者らが騒動を起こし、町の書記官によって騒ぎを鎮めたことが出ている。

   福音は「時がよくても悪くても」(第二テモテ4章2節)宣べ伝えられねばならない。

恐れるな、語り続けよ

2010-09-23 | Weblog
  使徒言行録第18章 

   9~10節「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。 わたしがあなたと共にいる…』」(新共同訳)

  1節「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った」。「去って」は「引き離されて」とも訳せ、聖霊が彼を文化都市に長く滞在しないで評判の悪かった商業都市コリントへと宣教の業を進めたと読み取る事が出来る。コリントはアカイヤ州の60万人の首都で、当時ローマ行の船の出入りする政治的に重要な港湾都市であった。また総督官邸もあり(18節)、近東の神々の神殿があり、アフロデェト神殿には多くの神殿娼婦がいた。第一コリント6章9~11から、退廃した倫理道徳や、宗教的混乱の有様を垣間見ることが出来る。
  パウロはここで「ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラ」と出会う(2節)。当時律法を教えるラビは職業を持って生計を立てることを誇っていたので、その例に倣いパウロも同じテント造りをしながら福音宣教をしたのである。ここでも彼らは「安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシャ人の説得に努めていた」(4節)。またベレヤに残して来たシラスとテモテが、パウロのもとに到着した(17章14節see)。そして「御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシヤはイエスであると力強く証しした」(5節)。
  「~専念し」は「苦しむ、閉じる、追いやる」で、御言葉を語ることに捕らえられ手逃げ出さないように押し込められたという意味になる。この時テモテらはフィリピの信徒から金銭の贈物を預かりパウロに手渡したと考えられ、この後宣教に専念できたと思われ、彼の率直な人柄が伺われる。
この時のユダヤ人の反応は然し否定的であった(6節)。そこで、彼は「服の塵を振り払いって」、絶縁の決意表明をし、異邦伝道の姿勢を明確にした。会堂の隣にあった神を崇めるティティオ・ユストの家に移った(7節)。これは不思議な光景だっただろう。そして会堂長クリスポと一家がパウロの説教を聞いてイエスを信じバプテスマを受けたのである(8節)。彼の名前は第一コリント1章14節にある。
   ここでパウロは、主イエスから「恐れるな、語り続けよ。黙っているな」(9節)「この町にはわたしの民が大勢いるからだ」(10節)と告げられた。ここでパウロの周辺には恐れるような状況があったと考えられる。一つはユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、地方総督のもとに引き立てて行き、法廷裁判にかけようとしていることである(12~16節)。それに、国際都市コリントの退廃した社会的宗教的状況の中での宣教の困難さがあったと考えられる。
   不道徳の代名詞にさえなっていた「コリント」の中に主イエスは「わたしの民」がいると言われたが、これは神の選民を表わしている(第一ペトロ2章9~10節)。ここに福音宣教の豊かな可能性を約束しているのである。彼らはこの約束に依って1年六ヵ月神の言葉を語り、教えたのである(11節)。


アテネ伝道

2010-09-22 | Weblog
  使徒言行録第17章 
 
 19節「彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか」(新共同訳)

   第二伝道旅行はエーゲ海を渡り、最初の伝道地はフィリピだった。続いて第17章テサロニケ伝道があり、そこからベレアへと旅を続けた。ベレヤにシラスとテモテを残して更に360キロ南下してアテネの町に来た。アテネは紀元前5五世紀から4世紀にソクラテス、プラトーン、アリストテレスなどの哲学者が輩出し学問の都として有名だった。また多くの神々を祭る神殿や彫刻、建築物が至る所に見られたという。パウロは二人を待つ間にアテネの町を歩いたが、「至る所に偶像があるのを見て憤慨した」という(16節)。彼はテサロニケで、偶像から離れて神に立ち帰ることに腐心したとある(第一・1章9節)。彼はアテネの人々を支配している虚しい、いつわりの宗教心に激しい反発で語らずにおれなかった。
   その町のアゴラと呼ばれる広場に行き「居合わせた人々と毎日論じ合っていた」(17節)のである。そこには「エピクロス派」や「ストア派」と呼ばれるソフィストたちがいた。
パウロは彼らと直接的に「対立」「批判」「否定」の言葉を用いなかった。つまり議論に議論で応える方法を取らなかった。「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになり、律法を持たない人には律法を持たない人のようになる」(第一コリント9章20節)という宣教の姿勢を示した。
   パウロは先ず「イエスと復活について福音を告げ知らせていた」。これに対して「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」という反応を示した(18節)。彼らはイエス(イエスース)をイオニヤ語の健康の女神イエソウ()を想像したかも知れない。また「復活」(アナスタシス)は耳新しい言葉で、従ってアナスタシスを神々の名前と受取ったとも思われる。そこでソフィストたちは、「マールスの丘」アレオパゴスに彼を連れて行き弁明の機会を与えた。
   22~31節は彼の「アレオパゴスの説教」である。それはきわめてすぐれた当時のギリシャ哲学者に向けた宣教のことばとなっている。
   まず話の導入として「あらゆる点においてあなた方が信仰の篤い方であることをわたしは認めます」(22節)と言った。すこぶる宗教熱心だとして、彼らの自尊心を傷付けないで先ず受入れる、次に「道を歩きながら、あなたがたの拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神』と刻まれた祭壇さえ見つけた」(23節)と語る。彼らの心を開き、対話の姿勢つまり共通項をつくり本論に持って行く。多くの「祭壇」を指摘し、先ず自らの知識の限界を悟り、真実なる神を求めていること、次に真実の神は、神々の中の今一つ別な神ではない、そしてその神の本質を告げ知らせる。
  パウロの説教の内容は(1)「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」(24節)。神殿祭壇の否定、
 (2)「人の手によって仕えてもらう必要もありません」(25節)。神は人に命と息と、その他すべてのものを与えられる方で歴史を導くお方である(26節)。
  (3)神は人との出会いの機会を待っておられる(27~28節)。
  結論は「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられる」と説いた(30節)。
これに対するアテネの人々の反応は二通りで「あざ笑い」いずれまた聞こうと言って恵みの機会を失った。しかし少数ながら「アレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々」がこれを受入れた(34節)。
アテネ伝道は決して失敗ではなかったと言うべきであろう。

聖霊に禁じられた

2010-09-21 | Weblog
使徒言行録第16章 

   6節「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」(新共同訳)

   パウロの第二回伝道旅行は、15章36節から始まるが、第一回の時途中で引き返したマルコの同道を認めなかった為、バルナバとマルコは別行動となる(37~40節)。パウロはシラスを連れて出発し、陸路で以前に宣教したデルベ、リストラを回った。リストラではテモテを見出し、弟子として同行に加えた(1~4節)。
   一行がアジア州と呼ばれる西海岸伝いにコロサイ、ラオディキアを通りエフェソ伝道を考えていたが「聖霊から禁じられた」という(6節)。そこで今度は進路を北に向けてフルギア地方からミシア地方、そしてピティニヤ州に入ろうとすると、今度は「イエスの霊がそれを許さなかった」(7節)。
   パウロは宣教計画の挫折を経験させられた。聖霊が臨む時に聖言が語られる伝道の基本を見失う出来事と取られる。地の果てまで宣べ伝えよとの宣教命令に矛盾しているように思われる。しかしこれは宣教が人間本位の計画によらず、聖霊の主導であり、主イエスの霊の働きを証明する積極的な意味を見出すことになる。彼らは一層謙遜にされたに違いない。実際はパウロの手によらなかった(第一ペトロ1章1節)。
   彼のエフェソ伝道は第二伝道旅行の終わりにエフェソ港に立ち寄っているが、短い滞在で終わり、第三回伝道旅行の時に二年半腰を据えてなされた。
   ここで彼らに「トロアスに下る」という第三の道が開かれた(8節)。これは神の設定であり、彼らの予定行動ではなかった。全く未知の世界へと導かれる聖霊の主導をここに見る。「トロアス」とはトロイの近くという意味で、同名の港があり、特定するためトロイから20キロ離れた「アレキサンドリアのトロイ」で、ローマ植民地都市、黒海とエーゲ海との境界部に当たる。パウロに夜の夢で「マケドニヤ州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という幻が示された。これを「福音を告げ知らせる為に、神がわたしたちを召されているのだ」と確信した(9~10節)。
   「助けてください」(ボエセーソン)はボエー(叫ぶ)とセオ(走る)の合成語で、助けを求めて走りながら叫んでいる有様を示し、マケドニヤの人々の切実な願いが伺える。
   ローマの主要なマケドニヤ州に渡ることは、広くヨーロッパへと福音が拡大する第一歩を踏み出すことになる。
   そしてここから主語が「彼ら」から「わたしたち」に変り、「神がわたしたちに示された」と書くことで、この歴史的出来事を出発点にして著者ルカが宣教の働きに参加することになる。ルカは医学の町フィリピ出身で、この「マケドニヤ人」とはルカではないかと言われる。
   パウロが旅行の途中で二度進路変更を強いられた時、もし一行が西に向わないでピティニヤ州から東のポント、カパドキヤに向っていたなら今日ヨーロッパ人、アメリカ人は日本やインドの宣教師たちから福音を聞くという逆の周り方であったかも知れないという興味深い仮説がある(A・Cウイン)。
   パウロとテモテ、シラス一行はエーゲ海を渡って対岸のマケドニヤ州ローマ植民地都市フィリピでの伝道門戸が開かれる。そればかりか同行者に医者ルカが加わることになった。

教会会議と聖霊の一致

2010-09-20 | Weblog
   使徒言行録第15章   

  25節「…わたし達は満場一致で決定しました」(新共同訳)
          
  パウロとバルナバは第1回伝道旅行を終えて、シリアのアンティキアに帰ってきたが、そこで新しい問題が起きた。それはユダヤから「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」(1節)と説く者がいたのである。
   これはこれまで直面していたユダヤ教との対立とは違う、異邦人伝道に関わることで激しい議論となった。そこで、使徒や長老たちと協議するためパウロとバルナバと数名がエルサレムに上った(2節)。使徒や長老たちに歓迎されたが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って「異邦人で信者になった者にも割礼を受けモーセの律法を守るよう命じるべきだ」と主張したので、問題を解決するために「使徒会議」が開催された(4~6節)。
   使徒会議で最初にペトロが登場し意見を述べている(6~11節)。彼は異邦人伝道の正統性を主張した。「人の心を見通しになる神は…異邦人にも聖霊を与えて…受け入れたことを証明なさった」と説いた(8節)。これはカイサリアのコルネリウスの家で起きたペンテコステ的経験を指す(10章44~48節)。
   彼は「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じている…異邦人も同じ」(11節)であり、先祖もわたしたちも負い切れなかった律法の軛を懸けて神を試みるのかと説いた。
全会衆は静かになり、パウロとバルナバは第一伝道旅行で異邦人の間にあった神の業を立証した(12節)。
   続いて会議の裁定者として主の兄弟ヤコブが語った。16~18節は旧約のアモス9章11~12節の引用である。「倒れた幕屋を建て直す」とは、主の名を呼び求める異邦人も加わる幕屋(使徒教会)が建設されるという意味になる。終わりに「わたしはこう判断します」(19節)と言って、はじめに救いの前提となる「恵み」を明確にし(11節と同じ)、次のような「禁止規定」を提案した(20節)。
規定の内容は、ファリサイ派からの入信者を配慮してモーセ律法の中の「偶像に供えて汚れた肉」と「絞め殺した動物の肉と血」を避け、「みだらな行い」(性的不品行)を禁止するというものであった。これを問題の発端となったアンティオキア教会とシリア州、キリキア州に文書で伝達すること、その使者としてパウロ、バルナバにユダとシラスを同伴させることである(22~23節)。これは「満場一致」(25節)で採択された。
   その手紙の文面が23~29節に出ている。その中に「聖霊とわたしたちは~決めました」とある(28節)。そして派遣先の様子が30~35節にあり、これが「励ましに満ちた決定」(3節)であることを喜んでいる。「励ましに満ちた決定」は一語で英語encouragement、原文はパラクレーシス(慰め)である。

   ここから教会会議のモデルとして学びとることができる。
会議に集まった人々が先ず「議論を重ねた」(7節)。次に問題点を歴史的に検証した(8節)。そして当事者の証言を全会衆が聞いた(12節)。終わりに議長は総体的な話で締めくくり、最終提案を出した(13~20節)。そして採決し「満場一致」で決定し、これを裁定書として公表した。そこには聖霊の働き(28節)と、「慰めに満ちた」結果が得られた。

福音宣教と教会形成 

2010-09-19 | Weblog
   使徒言行録第14章 
 
  23節「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」(新共同訳)。

  パウロとバルナバの第一回伝道旅行は13章から始まった。彼らはアンティオキアから80キロ東のイコニオンに進み安息日に会堂に行った。ユダヤ人らは異邦人を扇動して妨害したが、しかし勇敢に語った。
  「…主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされた」とある(3節)。しかし町は反対派と賛成派に二分し、彼らに危険が迫ったので難を逃れてリカオニア州のリストラとデルベに行き、そこでも福音を告げしらせた(7節)。
  リストラの町で生れつき足の不自由な男と出会う。彼はパウロの話を熱心に聞いていたが、パウロと目が合った。そして「いやされるのにふさわしい信仰があるのを認めた」という(9節)。福音は聞くことから始まる(ローマ10章17節)。二人の間に何があったかは判らないが、パウロは「いやされるにふさわしい」と見た。「いやし」(ソーセーナイ)は、「救い、健康」(ソーテーリ)と同じ語源であり、全人格的な応答があったと考えられる。「自分の足で真っ直ぐ歩け」と大声で告げると、彼は躍り上がって歩き出した(10節)。
  これは第3章の「美しい門」の前で足の不自由な男が癒された出来事と似ている。しかし、その時は「ナザレのイエス・キリストの名によって~」と告げ、神の救いがイエスによって実現したという福音が前提になっていた。それが理解されないと人間賛美と偶像礼拝の誤りに陥る。バルナバは「美しい王なる神」ゼウス、パウロは「雄弁なる神」ヘルメスの再来だとして犠牲の供物を彼らの前に捧げようとした。
  ここでパウロはこれを退け「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です」(16節)と語った。
   人間の神格化に陥る罪は、キリストの教会はへロデ・アグリッパの事件で充分に知っていることである(12章23節)。
   この後、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人反対派が押し掛けて来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げて瀕死の目に合わせて、一行は難を逃れてデルベに向かっている(19~20節)。リストラの宣教がどのような結果になったのかここでは知られていない。然し16章1~5節を読むと、第二伝道旅行で再びこの町に来た時、主は驚くべき御業を備えておられたことが判る。それはテモテを見出してパウロは弟子として連れて行くことになる。ここに福音の不思議な働きを発見する。

  二人はデルベで福音を伝えリストラ、イコニオン、アンティオキアへと、もと来た道を引き返した。その道が容易なものでなかったことを察することができる。パウロたちは「弟子たちを力づけ、『神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない』と言って、信仰に踏み留まるようにと励ました」(22節)。
   特に注目したいのは、「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」(23節)とある。第一伝道旅行で困難な中に福音宣教を続けた二人はこれらの四つの教会に対し「教会ごとに長老を任命し」基礎を固めて、主の信任のもとで教会形成がなされていることである。

信じる者はみな神に義と認められる 

2010-09-18 | Weblog
  使徒言行録第13章  

  39節「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(新共同訳)

   先ずアンティオキア教会の陣容が述べられる(1節)。教会からバルナバとサウロは按手による祝福の祈りを受け「聖霊によって送り出された」(4節)。第1伝道旅行と呼ばれる。最初の宣教地はキプロス島でした。パフオスにいた地方総督ルギクス・パウルスが彼らの説教によって信仰に導かれた(5~12節)。パンフイリア州のペルゲに到着した(13節)。そこでバルナバの甥と考えられる弟子ヨハネ・マルコが戦列を離れた。これは後で問題となる(15章38節)。
   そこからピシディア州のアンティオキアに到着したとある(14節)。その距離は160キロだが、ペルゲ港に沿ってタクルス海岸山脈という難所を超えねばならなかった。この時パウロはマラリヤに罹ったのではないかと言われる(ガラテヤ4章13節see)。しかし辿り着いたアンティオキアは標高1220mの高原地にあり住むには最適な都市であった。皇帝アウグストがこの町を征服しコロニヤ・カイサリヤと呼称した。彼らはこのローマ征服植民地の伝道を重要視した。ユダヤ人居留民団があり安息日に会堂に集まって礼拝が守られていたのである(14節)。
   二人は安息日に会堂に行くと会堂長から「励ましのお言葉を」と求められ、パウロ立ち上がって」語り出した。ここからサウロがパウロになる。彼の説教は16~41節である。先ず16~22節で旧約の信仰を明確に語った。これはイエスの福音へと展開する前奏曲に過ぎない。ダビデ即位から約千年を飛び越えてバプテスマのヨハネに移り「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださった」と説いた(23節)。しかし人々はイエスを認めず理解しないで裁判にかけて殺した(28~29節)。しかし神はイエスを死者の中から復活させて下さった(30節)。「私たちも、あなた方に福音を告げ知らせています」と伝えた(32節)。ここに使徒宣教=新約のケーリユグマが明らかにされている。使徒信条の原型である。宣教はキリストの復活証言締めくくられる(33~41節)。そこには詩2篇7節、イザヤ55章3節・70人訳、詩16篇10節が引用されている。
   結論として「だから兄弟たち知っていただきたい」と勧め、「この方による罪の赦しが告げられた」こと(38節)、「信じる者は皆、この方によって義とされる」(39節)として決断を求めた。十字架によって罪ゆるされ、神に義と認められ、復活の命に生きる者となるのである。そして「神の恵みの下に生き続けるように」と勧めた(43節)。信仰の停滞はゆるされない。
その結果ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た(44節)。だがユダヤ人らの妬みと反対に出合った(45節)。
   福音の宣教は聖霊の働きに依るが、これを拒否することは「自分自身を永遠の命を得るに値しない者にする」ことになる(46節)。
   パウロたちはここで「わたしたちは異邦人の方に行く」と告げ、「永遠の命を得るように定められた」者への宣教ということになる(47~48節)。
   ユダヤ教徒の躓きが福音宣教の拡大になったという歴史的な出来事をここにみる。

わき腹をつつく天使

2010-09-17 | Weblog
  使徒言行録第12章 
 
   7節「主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた」(新共同訳)

   これまでの迫害はユダヤ教社会からの宗教的信仰的なものだったが、ここでは政治的社会的な迫害という深刻な事態となる。
  「ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(1節)。このヘロデは、イエス誕生の時の「大ヘロデ」の孫でヘロデ・アグリッパ1世。彼は失われたヘロデ家名誉挽回を計ってユダヤ教徒たちへの親和政策を取る。これはユダヤ人を喜ばす手段だった。その反応を見て第2弾としてペトロを逮捕し過越祭の後で民衆の前に引き出し処刑しようとした(4節)。
   権力を乱用し自己の地位保全を図る不正は権力者の常套手段で祖父へロデと同じだ。ヤコブ受難はイエスが予告しておられた(マルコ10章38節)。牢内の警護は異常なほどに厳しく4人1組で4交替体制で監視していた。牢獄脱出の不思議な前例を知っていたからか(5章)。
   この時「教会では彼のために熱心な祈りが紳に捧げられていた」(5節)。この教会は「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリヤの家」である(12節)。この危機の中、イエスの名が崇められよう、大勢の者が真夜中集まり祈っていた。
   牢獄では何が起きたか。夜半に二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていたペトロのわき腹を天使がつついて起こした(6~7節)。わき腹をつつかれて目を覚ましたペトロは、非常事態にも熟睡できた。殉教の死を受容するペトロである。鎖が解け靴をはき上着を着て、第一第二の門を抜けて町に出た時、彼は我にかえり主の救いの業を知る(8~10節)。
   家の教会に姿を現わしたペトロの声を聞いた取り次ぎの女中ロダは喜びのあまり門を開けないで家に駆けこみ告げた。すると「あなたは気が変になっているのだ」と言い、本当だと言い張ると「それはペトロを守る天使だろう」と応えました。信じられない出来事が起きたからである(12~15節)。
   ここに苦難を恐れない信仰が示される。苦難を排除しない、苦難を通し、苦難の只中で主の聖名を賛美する信仰である。
   原始キリスト教会の歴史は迫害の中を潜ってきた。これは「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然と崇められるようにと切に願い、希望する」(フィリピ1章20節)という基本的な生き方である。

   この後ペトロは「この事をヤコブと兄弟たちに伝えなさい」(17節)と伝えて、公の席から姿を消している。初代教会の指導者は主イエスの兄弟ヤコブに替わり、15章「使徒会議」の時に出るだけで、使徒言行録ではこれ以降彼の名前はない。伝説ではアンティオキア説とローマ説がある。歴史的経緯からすれば、ペトロの解放は紀元64年皇帝ネロの迫害の時まで延期されたことになる。神がその時を定めていた。

   キリスト者は苦難にどう対応するかを学ぶ。聖書が示している真実の解放は、苦難からではなく、苦難の中での解放だった。

わき腹をつつく天使

2010-09-17 | Weblog
  使徒言行録第12章 
 
   7節「主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた」(新共同訳)

   これまでの迫害はユダヤ教社会からの宗教的信仰的なものだったが、ここでは政治的社会的な迫害という深刻な事態となる。
  「ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(1節)。このヘロデは、イエス誕生の時の「大ヘロデ」の孫でヘロデ・アグリッパ1世。彼は失われたヘロデ家名誉挽回を計ってユダヤ教徒たちへの親和政策を取る。これはユダヤ人を喜ばす手段だった。その反応を見て第2弾としてペトロを逮捕し過越祭の後で民衆の前に引き出し処刑しようとした(4節)。
   権力を乱用し自己の地位保全を図る不正は権力者の常套手段で祖父へロデと同じだ。ヤコブ受難はイエスが予告しておられた(マルコ10章38節)。牢内の警護は異常なほどに厳しく4人1組で4交替体制で監視していた。前の牢獄脱出の不思議な前例を知っていたからか(5章)。
   この時「教会では彼のために熱心な祈りが紳に捧げられていた」(5節)。この教会は「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリヤの家」である(12節)。この危機の中、イエスの名が崇められよう、大勢の者が真夜中集まり祈っていた。
   牢獄では何が起きたか。夜半に二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていたペトロのわき腹を天使がつついて起こした(6~7節)。わき腹をつつかれて目を覚ましたペトロは、非常事態にも熟睡できた。殉教の死を受容するペトロである。鎖が解け靴をはき上着を着て、第一第二の門を抜けて町に出た時、彼は我にかえり主の救いの業を知る(8~10節)。
   家の教会に姿を現わしたペトロの声を聞いた取り次ぎの女中ロダは喜びのあまり門を開けないで家に駆けこみ告げた。すると「あなたは気が変になっているのだ」と言い、本当だと言い張ると「それはペトロを守る天使だろう」と応えました。信じられない出来事が起きたからである(12~15節)。
   ここに苦難を恐れない信仰が示される。苦難を排除しない、苦難を通し、苦難の只中で主の聖名を賛美する信仰である。
   原始キリスト教会の歴史は迫害の中を潜ってきた。これは「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然と崇められるようにと切に願い、希望する」(フィリピ1章20節)という基本的な生き方である。

   この後ペトロは「この事をヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と伝えて、公の席から姿を消している。初代教会の指導者は主イエスの兄弟ヤコブに替わり、15章「使徒会議」の時に出るだけで、使徒言行録ではこれ以降彼の名前はない。伝説ではアンティオキア説とローマ説がある。歴史的経緯からすれば、ペトロの解放は紀元64年皇帝ネロの迫害の時まで延期されたことになる。神がその時を定めていた。

   キリスト者は苦難にどう対応するかを学ぶ。聖書が示している真実の解放は、苦難からではなく、苦難の中での解放だった。