日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

 幸福とは何なのか  

2009-07-31 | Weblog
 コヘレト6

 コへレトは幸福とは何なのかを問いかけている。

  1~2節 富、財宝、栄誉が与えられて望むものはすべて満たされたとしても、突然の災禍によって死ぬならば、その生涯の労苦は全く徒労であるという。「他人がそれを得ることになる」が何なのかわからないが、敵に襲われるとか、病気不慮の事故なのであろうか。5章12~13節に同じことが問われている。

  3~6節 それとは対照的に多くの子を持ち長寿の生涯であっても、財産がなくて自らの葬儀もできないとしたら、流産の子のほうがましであり、幸福とは言えない。6節「すべてのものは同じひとつの所に行く」とあるが、これは3章20節と同じ「陰府」を指している。千年を二度繰り返す寿命とは人間の領域を超えることで、死には勝てない苦悩をしめす。

  7~9節 人間の欲望を満たすことでは際限のないことを示して、生きる意味を問いかけている。ここで「賢者」「人生の歩き方を知っている」ことが、「愚者」「貧しい者」と対比されるが、7節「口のため」(欲望)に労苦することでは同じで、何ら益するところはないという。9節「空しく、風を追うようなことだ」は、1章14節、2章11節、4章4節など本書で9回も繰り返されている言葉である。

  10~12節 「すべて名前を与えられている」とあるが、これは創世記2章19節に記されている通り、人間が支配する全てを神は掌握していることを示す。コへレトは、その事を認めながら、人生に様々襲い来るものを神に訴えることが出来ないとしている。「強いものを訴える」の「強いもの」は意味不明であるが、人間にとって抵抗できない力、運命とか死を指していると思われる。そして「人間とは何ものなのか」と問い、その得られる答えは12節「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間」ということである。
  問題は、何事であっても神に訴えるという信頼関係に生きる人生であるか無いかである。そのような積極的な生き方が出来ないために、空しさだけが残る。コへレトは6節と同様に、ここでも「幸福とは何なのか」という問いかけで終ってしまい、答えを見出し得ていない。

  幸福のことを、英語でハピネス(Happiness)と言うが、その意味は思い掛けない出来事(happening)を、否定的ではなく肯定的に受け取ることから来ている。日々の生活が、真に幸福であるかどうかは、それをどのように受容するかにかかっている。そして主イエスによって神への信頼関係に生きるかどうかが鍵となる。ここで今一度幸福とは何かを問い直す。

思い煩わない生活

2009-07-30 | Weblog
 コヘレト5

コへレトは正統的な信仰に懐疑的である。「空しく」「空しい」が27回も出てくるのは、信仰が因果関係によって受入れられない処にあるからだ。これはヨブ記にも共通する。4章17節に続いて神礼拝に対し慎重な態度を示す格言である。

1~2節「口数を少なくせよ」
神への祈りに少なからず消極的である。しゃべり過ぎるとよいことは来ない。忙しく働くと夢が多いということを引き合いにしたもので箴言10章19節にもある。これと同じ表現で、主イエスも語られたが(マタイ6章7~8節)、神を「天の父」と呼ぶ信頼関係の有無が大きく異なるところである。

3~4節「誓いを立てないほうがよい」。
欲張って多くの誓いを立て、果たさない愚か者よりよいからである。申命記23章22~24節にもあるが、そこでは神の断罪が告げられている。誓いに関してもマタイ5章33~37節にあり、人間の無力さと不信をイエスは指摘された。

5~6節「使者(祭司のこと)に『あれは間違いでした』などと言うな」。これは間違いや軽率な言葉で祭司に罪を告白することがないよう、身を慎めという。神の怒りにより生活が出来なくなるからである。

7~8節 腐敗した政治体制によって社会に正義が欠如していて、これを変革することは不可能であると考えている。

9~16節 富の空しさが示される。富が増すと消費も大きくなり、心配が多くて睡眠も取れない。いつ破産がくるか知れないし、その時には息子の期待も裏切ることになるというのである。富める者の没落を12節、15節で「大きな不幸」と言う。ヘブライ語は「悪い病気」。そうなると人生の日々は闇と悩みと怒りである(16節)。

17~19節 コヘレトは、神から与えられた今の時を満足して飲み食いするだけという結論に至っている。既に2章24~25節、3章12~13節で繰り返された。

思い煩わない生活について、主イエスはルカ福音書12章13~21節と、22~34節で示された。キリスト者は「信仰による楽天家」と呼ばれることがある。
 

社会問題 

2009-07-29 | Weblog
 コヘレト4章

 本章は社会悪から問題を見る。

  1~3節 虐げと権力
  世の権力を持っているものは人を踏みにじり、そしてのし上がる。この世の支配原理は虐げと権力、弱肉強食であり、そんな中で人はもっとも大切なものを失っていく。コヘレトは1節「見よ、虐げられる人の涙を」という。失ってはならないものは悲しむものの涙を見る心である。

  4~6節 労苦について
  4節「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだ」と言う。これまた空しく、風を追うようなことだ。仲間同士の妬みや競争心が仕事を成功へ導くことがある。対抗意識は圧制と同じく非人間的なもの、ただ形が異なるだけ。人は隣人と限りなく張り合い競い合う。しかし働かない怠け者は自分を滅ぼす。成功を人生の目的とし、隣人への競争心を原動力として6節「両手を満たして、なお労苦する」生き方は「空しい」のである。むしろ、「片手を満たして、憩いを得る」ほうが良いのである。憩いとは静けさ、安らぎを指す。

  7~8節 孤独な富の追求
  富に魂を奪われ、暖かい人間的な関わり…仲間・家族をいっさい排除して際限なく労苦することは「空しい」ことだ。これでは何のために、誰のために富を得て喜びと幸いを持つというのか。

  9~12節 二人は一人に優る
  人は交わりに生き者として神に造られた。創世記2章18節「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう」とある通りだ。
主イエスの十字架は神と人との交わりを回復し、人と人の隔てを取り除くためであった。
 
  13~17節 名声の空しさ
  貧しくても、知恵と慎みを持って正しい勧告に従おうとする少年は、老いてどのような忠告にも耳を貸さなくなった王よりも良い(ヘブライ語=トーブ)。15節「太陽のもと、命あるもの皆が代って立ったこの少年に味方するのをわたしは見た」。民衆は英雄を求める。しかし民衆の人気や評価、支持など当てにならないものはない。これも風を追うようなことで、社会の評価や人気もこのようなものである。

   社会の様々な評価は権威や富、名声であるが、コヘレトは真に価値あるあるもが何かを鋭く追及する。そして結語は「空しい」ものと否定的であるが、しかしその判断基準を全く放棄しているのではない。

 ここで誰に「聞き従う方がよい」(17節)のかを読者に問いかけている。

神は創造主 

2009-07-28 | Weblog
 コヘレト3章

  1~2章では、快楽を得るために地上の富や宝を得ても、また知恵と知識とを究めることも人生に究極的な目的とはならないことを述べ、王ソロモンを歴史の鏡として描き出していた。「太陽の下に、益となるものは何もない」(11節)という空しさの中で、神の働きは一体どうなるのかという問いが起きてきた。3章は、その疑問にこたえる形でコヘレトの言葉が出てくる。

  1~8節には、天の下の出来事にはすべて神の支配があるとして14節の対句になる「時」が示されている。「生まれる時、死ぬ時」(2節)は極めて非情な言葉のように思われるが、神と人との信頼と服従の関係があるなら受入れることが出来よう。
しかし「殺す」「破壊する」「戦う」時などは理解の範囲を超える言葉で、このような宿命論に対して人は判断停止に陥る。
  ここで一条の光明を得るのは、10節「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」ということである。人は本質的に神を信じ求める存在として造られている。この求道の道には紆余曲折がある。浅薄で弱い人間は「最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ」と思うのである(12節)。しかしそれは既に2章でその結論が「空しいこと」となっている。
14節「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」こととは異なる。14節は10節と内容的に同じである。

  16~17節 権威の座にある者らの不正な裁判に空しさを覚えるが、すべてを掌握される神による真実な裁きをコヘレトは信じている。その時がいつかを聖書は明確に記している(第Ⅰペトロ4章5節)。そして「使徒信条」で告白している。

  人が創造主なる神との関係を離れて罪に呪われた状態であるなら、それは単なる被造物として生き、動物と同じであり、「すべては塵から成った。すべては塵に返る」(20節)ということである。これは創世記3章19節からきた言葉。

  ここで、22節からもう一度14節に立ち返り、創造主との関係を明確に問い直さねばならない。その関係回復は御子イエスの十字架による罪の贖いによる。