ペトロ第一の手紙5章
7節「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(新共同訳)。
1節「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます」。小見出し『長老たちへの勧め』。「受難の証人」とは目撃証人と読み取れる。自らを「長老」(プレスビュテロス)と呼び使徒と云わなかった。長老の勤めは、自ら進んで羊の世話をすることである(2~3節)。それは(1)強制でなく自発的、(2)献身的、(3)群の摸範となることである(ヨハネ福音書21章15~17節)。
4節「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります」。「大牧者」とは羊飼らの羊飼イエスである。
5節「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになるからです」。「身に着ける」(エグコムブーマイ)は「上に」(エン)「巻きつける」(コムボウ)で、身分を示す前掛けである。今風(いまふう)に言えばトレードマークの服装。箴言3章34節が引用される。謙遜の最大理由は、神の力強い御手の働きの許で無力であること(6節)。
7節「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。神の側に積極的な関心と配慮があるので一切の思い煩いを委ねて生きる(マタイ6章26~34節)。
8節「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」。「身を慎む」(ネーフォン)は酔いを覚ますこと、NTD訳「冷静であれ」。1章13節、4章7節にもある。「吠えたける獅子」は隠喩で、サタンの狂暴性を表わす。神に一切を委ねることは敵なる悪魔(ヘブライ語サタン)に厳しく抵抗することとなる(9節)。サタンは信仰を妨げ真理に逆らう破壊性と凶悪性の力を持つものである。
10節「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわちキリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」。苦難はしばらくの間である。栄光の永遠性が、苦難の一時性を圧倒する。神の栄光の約束が、手紙の中で繰り返されている(1章7、11節、3章9節、4章13節、5章1、4節)。苦難の中で信仰は次の四つのようになる。(1)癒す(カタルティゾウ)=修理する、繕う。(2)強める(ステーリゾウ)=堅固にする、固定する。(3)力付ける(スセノオー)=力で満たす、力を与える。(4)不動なものにする(セメリオオー)=基礎を固める、土台を据える、安定する。
12節「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」小見出し『結びの言葉』。パウロと同様にペトロもシルワノに口述筆記させ、最後の挨拶を書いた(12節)。「バビロン」はローマを指す(黙示録17章5節)。「マルコ」はローマにいるパウロの許に行くことになっている(第二テモテ4章11節)。パウロ殉教後、ペトロの協労者となったのであろうか。マルコ福音書の著者といわれている。
7節「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(新共同訳)。
1節「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます」。小見出し『長老たちへの勧め』。「受難の証人」とは目撃証人と読み取れる。自らを「長老」(プレスビュテロス)と呼び使徒と云わなかった。長老の勤めは、自ら進んで羊の世話をすることである(2~3節)。それは(1)強制でなく自発的、(2)献身的、(3)群の摸範となることである(ヨハネ福音書21章15~17節)。
4節「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります」。「大牧者」とは羊飼らの羊飼イエスである。
5節「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになるからです」。「身に着ける」(エグコムブーマイ)は「上に」(エン)「巻きつける」(コムボウ)で、身分を示す前掛けである。今風(いまふう)に言えばトレードマークの服装。箴言3章34節が引用される。謙遜の最大理由は、神の力強い御手の働きの許で無力であること(6節)。
7節「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。神の側に積極的な関心と配慮があるので一切の思い煩いを委ねて生きる(マタイ6章26~34節)。
8節「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」。「身を慎む」(ネーフォン)は酔いを覚ますこと、NTD訳「冷静であれ」。1章13節、4章7節にもある。「吠えたける獅子」は隠喩で、サタンの狂暴性を表わす。神に一切を委ねることは敵なる悪魔(ヘブライ語サタン)に厳しく抵抗することとなる(9節)。サタンは信仰を妨げ真理に逆らう破壊性と凶悪性の力を持つものである。
10節「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわちキリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」。苦難はしばらくの間である。栄光の永遠性が、苦難の一時性を圧倒する。神の栄光の約束が、手紙の中で繰り返されている(1章7、11節、3章9節、4章13節、5章1、4節)。苦難の中で信仰は次の四つのようになる。(1)癒す(カタルティゾウ)=修理する、繕う。(2)強める(ステーリゾウ)=堅固にする、固定する。(3)力付ける(スセノオー)=力で満たす、力を与える。(4)不動なものにする(セメリオオー)=基礎を固める、土台を据える、安定する。
12節「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」小見出し『結びの言葉』。パウロと同様にペトロもシルワノに口述筆記させ、最後の挨拶を書いた(12節)。「バビロン」はローマを指す(黙示録17章5節)。「マルコ」はローマにいるパウロの許に行くことになっている(第二テモテ4章11節)。パウロ殉教後、ペトロの協労者となったのであろうか。マルコ福音書の著者といわれている。