日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

思い煩いは何もかも神にお任せしなさい

2016-03-30 | Weblog
  ペトロ第一の手紙5章 

  7節「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(新共同訳)。

  1節「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます」。小見出し『長老たちへの勧め』。「受難の証人」とは目撃証人と読み取れる。自らを「長老」(プレスビュテロス)と呼び使徒と云わなかった。長老の勤めは、自ら進んで羊の世話をすることである(2~3節)。それは(1)強制でなく自発的、(2)献身的、(3)群の摸範となることである(ヨハネ福音書21章15~17節)。
  4節「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります」。「大牧者」とは羊飼らの羊飼イエスである。
  5節「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになるからです」。「身に着ける」(エグコムブーマイ)は「上に」(エン)「巻きつける」(コムボウ)で、身分を示す前掛けである。今風(いまふう)に言えばトレードマークの服装。箴言3章34節が引用される。謙遜の最大理由は、神の力強い御手の働きの許で無力であること(6節)。
  7節「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。神の側に積極的な関心と配慮があるので一切の思い煩いを委ねて生きる(マタイ6章26~34節)。
  8節「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」。「身を慎む」(ネーフォン)は酔いを覚ますこと、NTD訳「冷静であれ」。1章13節、4章7節にもある。「吠えたける獅子」は隠喩で、サタンの狂暴性を表わす。神に一切を委ねることは敵なる悪魔(ヘブライ語サタン)に厳しく抵抗することとなる(9節)。サタンは信仰を妨げ真理に逆らう破壊性と凶悪性の力を持つものである。
  10節「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわちキリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」。苦難はしばらくの間である。栄光の永遠性が、苦難の一時性を圧倒する。神の栄光の約束が、手紙の中で繰り返されている(1章7、11節、3章9節、4章13節、5章1、4節)。苦難の中で信仰は次の四つのようになる。(1)癒す(カタルティゾウ)=修理する、繕う。(2)強める(ステーリゾウ)=堅固にする、固定する。(3)力付ける(スセノオー)=力で満たす、力を与える。(4)不動なものにする(セメリオオー)=基礎を固める、土台を据える、安定する。
  12節「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」小見出し『結びの言葉』。パウロと同様にペトロもシルワノに口述筆記させ、最後の挨拶を書いた(12節)。「バビロン」はローマを指す(黙示録17章5節)。「マルコ」はローマにいるパウロの許に行くことになっている(第二テモテ4章11節)。パウロ殉教後、ペトロの協労者となったのであろうか。マルコ福音書の著者といわれている。

愛は多くの罪を覆うからです

2016-03-29 | Weblog
  ペトロ第一の手紙4章 

  8節「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(新共同訳)

  1節「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」。3章18節のキリストの苦しみを受けて、同じ心構え(覚悟=口語訳)をしなさいと勧める。それは欲情に従わず、神の聖意に従って生きる生涯である(2節)。3節は過去の欲情に生きた時代の「悪徳表」である。これときっぱり訣別して生きると、周囲の異教徒との間に摩擦が生じる(4節)。
  5節「彼らは生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」。口語訳「やがて…」、新改訳「~すぐにも」。それがいつなのか。7節からすると間近い。
  6節「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」。再び3章19~20節にもどり、ユダヤ教伝承を根拠としたもので、死者の世界=黄泉(シェオル)にも神の支配があるということ。生前に福音に接する機会が無かった者の教理になっている。
  7節「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」。「終わり」(テロス・動詞テレオー)は「完了する、成就する」で、神の歴史の完成を示す。「身を慎む」は目覚めて平衡感覚を持つこと、この反対は酔いしれて分別を無くすること(1章13節、5章7節)。思慮深く冷静に祈る(NTD)。
  8節「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」。「心を込めて」(エクテネー)は「緊張して」「いよいよ熱く」(口語訳)である。「愛は多くの罪を覆う」は相手の過失に寛大で、自分に向けられた罪過を赦す(箴言10章12節、ルカ福音書7章47節、第一コリント13章7節)。貧しい信徒が来訪する旅人に対し不平を言わずにもてなす(9節)。
  10節「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。「賜物」(カリスマ)は、神からの恵み(カリス)である。管理者(stewards)には忠実が求められる(第一コリント4章1節)。その務めは神の言葉を語ることと、奉仕することに相応しくあること(11節)。
  12節「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」。「身に降りかかる火のような試練」とは、キリストの信仰にともなう苦難である(1章7節)。この苦難が大きければ大きいほど、喜びも大きいという。「喜びに満ち溢れる」を詳訳聖書「勝利をもって狂喜している」、KJEV(英訳)「素晴しい喜びをもって喜ぶ」(glad with exceeding joy)である。それは「キリストの苦しみにあずかる」ことだからである(13節)。「あずかる」(コイノーネテ)は「分け合う」「共有する」be sharingである。これはローマ8章17節、フィリピ1章29節にもある。16節「キリスト者として苦しみを受ける」、「キリスト者」(クリスティアノス)は「キリストの輩(野郎)」と揶揄した言葉だったが、ここでは一般に定着した呼称(使徒言行録11章26節)。
  18節「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです」。箴言11章31節の引用。福音を拒む者への警告である。19節「神の御心によって苦しみを受ける」というのも同じである。キリスト者は真実であられる創造者の前にその身をゆだね、その聖意に応えて善を行うのである(19節)。「善を行う」は、善行に固執すること(NTD)、この手紙には、2章12、15、20、3章6、13、17、19節と多く出ている。

憐れみ深く、謙虚になりなさい

2016-03-28 | Weblog
  第一ペトロの手紙3章  

  8節「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」(新共同訳)

  1節「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」。小見出し『妻と夫』。「同じように」とは2章の「僕(しもべ)たち」(口語訳)を指す。また「妻たち」はその夫が主を未だ信じていない。夫婦についての勧めは、エフェソ5章21節以下にもある。ここでは離婚を考えていたのか。「~導かれる」(ケルデーソ)は「獲得する、儲ける」という意味。岩波訳「(キリストに)勝ち取られる」。
  2節「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」。夫と妻が神に結ばれていることを知ることが「神を畏れる」ことである(マタイ19章4~6節see)。派手な衣服という外面の飾りでなく、内面的な装いこそ求めるべき女性の美しさだという(3~4節)。第一テモテ2章9~10節にある。箴言にも出てくる(31章25~26節)。6節「たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで…」は創世記18章12節である。この「たとえ」は果たして適切かどうか?「主人」(キュリオス)は広い意味があり、支配者、君主だけでなく、目上の者への尊敬語としても使われる。特に封建的な従僕の意味が強く、今日の奴隷制度のない時代、使用しない方がよい(私見)。
  7節「同じように夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」。ここに信仰の継承が約束されている。口語訳「~知識に従って妻と共に住み…」とあり、「カタ ギノーシン」が新共同訳は訳出していない。NTD訳は「理性的態度をもって共に生活し」である。つまり恣意的にならないのである。
  8節「終わりに皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」。小見出し『正しいことのために苦しむ』。この「終わりに」は、2章11節からの訓戒についての結びになる。困難な状況に立つ信仰者相互の一致と愛の交わりが求められる。9節は、ローマ12章14節にもあるが、悪や侮辱に対する祈りの態度である。これを10~12節で詩34篇13~17節を引用して促がす。善に熱心な者にだれが害を加えるだろう(13節)。期待を込めたことばである。
  14節「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」。万が一迫害に遭っても、主の目は注がれ、主の耳は祈りに傾けられているので、恐れて心乱すことはない。どうしてそんな希望に輝いているのかと問われたら、いつでも穏やかに弁明するように。それを見て彼らは恥入るであろう(15~16節)。
  18節「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」。ここでキリストの十字架の死と復活が取り上げられる。更にキリストは天上で、ノアの洪水の時に箱舟に入らない水で表わされた洗礼を受けていない「捕らわれていない霊たち」に救いの手が差し伸べられた(19節)。主イエスが「陰府」に降ったという信仰告白から、未信仰の死者に対する宣教の根拠とされる教義がある。また「煉獄説」など正統な教理として認められていない。「捕らわれていない霊たち」とはユダヤ教伝承からきている。今不従順な者らにも「水の中を通る」という洗礼で救いの手は差し延べられているのである(20~21節)。
  22節「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」。キリストは今も宇宙的な支配と権威勢力をもっておられることを明確にする。

神の僕として行動しなさい

2016-03-26 | Weblog
  第一ペトロ2章 

  16節「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(新共同訳)

  1節「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」。小見出し(聖なる国民)。1章終りに続き、神の言葉に新しくされた者は、兄弟愛に妨げとなるものは一切捨て今生まれた乳飲み子のように霊の乳を慕い求め、成長しなければならない(2節)。主が恵み深い方であると知ったならその許に来るようにと勧める(3節)。
  4節「この主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが神にとっては選ばれた尊い、生きた石なのです」。見捨てられた石は6~8節につながり、「尊いかなめ石」「隅の親石」であり、主イエスがつけられた十字架の隠喩である。キリスト者もそれを礎石にして建てられた石造りの神殿に組み込まれた「生きた石」だという(5節)。「聖なる祭司となる」は意味の飛躍がある。
  6節「聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない」。「~信じる者は慌てることがない」と刻まれた石である(イザヤ書28章16節see)。7節は詩118編22節、8節はイザヤ書8章14節からそれぞれ引用している。これは建物で不可欠な石だが、ユダヤの民は「つまづきの石」、不要で邪魔だと捨てたのである。
  9節「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」。ユダヤの民であった「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト記19章6節)という輝かしい使命は、今あなた方に与えられた。あなた方は「神の民」となったのだから、それに応えるようにという勧めである。10節はホセア書1章6節の引用である。
  11節「愛する人たち、…魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。小見出し『神の僕として生きよ』。「肉の欲」とは本能的な欲望に留まらず、この世に支配された罪である(第一ヨハネの手紙2章16~17節)。人々があなた方を悪人呼ばわりしても、主が来られる時にその真実な評価はなされるので、立派な生活をしなさいと勧める(12節)。立派な「行い」(アナストロフェー)とは「立ち振る舞い、付き合い」で、好感の持てる行動のことである。
  13節「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと」。世俗の制度に対する心構え。「人間の立てた制度」だから、皇帝でも総督でも悪を処罰し、善に報いる時にこれに服従すること(14節)、しかし自由人として、しかも神の僕として生活すること(15~16節)、神を畏れ、兄弟を愛し、すべての人を敬うようにと勧める(17節)。
  18節「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」。小見出し『召使たちへの勧め』。これはコロサイ信徒への手紙3章22~4章1節、エフェソ信徒への手紙6章5~9節にも出ている。本書では21節以下で、キリストを摸範として諭す。
  22節「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」。イザヤ書53章9節を引用している。不正な主人に従うことの矛盾を認めながら、魂の牧者であり、監督者である主イエスへの信頼を明確にしている(25節)。

朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました

2016-03-24 | Weblog
  ペテロ第1の手紙1章 

  4節「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(新共同訳)

  1節「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」。小見出し『挨拶』。受取人は小アジアのローマ属州にある諸教会の信徒である。既に厳しい迫害に遭い、一時的に郷里を離れている状況が伺える。霊により聖なる者とされ、選ばれたあなたがたに恵みと平和があるようにという挨拶(2節)。
  3節「わたし達に主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」。小見出し『生き生きとした希望』。そして朽ちず、汚れず、しぼまない天の資産を受け継ぐ者となった(4節)。天に宝を積む者のことである(マタイ6章19~20節)。終わりの時に準備されている救いを受けるために、神の力で守られるよう願っている(5節)。
  6節「今それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」。それによって信仰が本物であることが証明されるという。それは精錬で不純物が取り除かれ純粋なものになることである(7節)。そしてキリストが現われる時、称賛と光栄と誉れを受け、言葉では言い表せない喜びに溢れる(8節)。この救いについて言えば、あなたがたに与えられるキリストの苦難とそれに続く栄光の現われることが旧約の預言者によって示されていたことであり(10~11節)、聖霊に導かれて使徒たちが告げ知らせた福音であるという(12節)。
  13節「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」。小見出し『聖なる生活をしよう』。「心を引き締め」は意訳で「心の腰に帯を締め」(口語訳)である。平静な判断力を持ち、熱狂的にならないで主の再臨を待望するのである。「ひたすら」(テレイオス)は「完全に、絶対的にいささかも疑わないで」(口語訳)となっている。そこで欲望に引かれない従順な子となり(14節)、「聖なる方に倣って聖なる者」となれという(15~16節)。これは、レビ記11章14節からの引用。「~になる」(スケーマ)は「物差しにする」ことで、14節では「従順な子となる」、「欲情に従わない」(否定)に使われている。
  17節「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」。「畏れて生活する」とは、神の公正な審判にゆだねて生活すること。「仮住まい」(パイロキア)は比較的長期の生活をすることで、1節「仮住まい」(パレピデーモス)とは違う。18~20節は手紙の最初に述べた信仰の原点(3~5節)を再度確認する。この終わりの時、汚れなき小羊の血により虚しい生活から贖われたこと、そして死者の中から復活させ現わされた神の栄光と希望に生かされていることである。
  22節「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」。「兄弟愛を抱く」ことは繰り返されている(2章17節、3章8節、4章8節)。この愛は福音の真理を受け入れ、魂を清める(洗礼)ところから始まる。それは、「朽ちない種」つまり生きた神の言の普遍性と純粋性に懸かっている(23節)。24~25節はイザヤ40章7~8節からの引用である。25節口語訳「これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である」。

罪を告白し合い、互いのために祈りなさい

2016-03-22 | Weblog
  ヤコブの手紙5章 

  16節「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(新共同訳)

  1節「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」。小見出し『富んでいる人たちに対して』。4章終りからの続きであり、驕り高ぶる富める人々に対する終わりの時の審判を告げる。この悔改めは4章9節に出ている。「衣服には虫が付き、金銀も錆びてしまう」(2節)は主イエスも言われた(マタイ福音書6章19節)。
  3節「金銀も錆びてしまいます。この錆びこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした」。金銀が錆びているのは罪の証拠、審判の時貯め込んだ金銀とともにあなた方は滅ぼされるという意味。労働者らへの未支払いの賃金が、叫び声をあげて不正を訴えている。その叫びは万軍の主の耳に達している(4節)。
  5節「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ」。不正の富で贅沢の限りを尽くし、快楽にふけり主の審判の日に当たって心を太らせている。「屠られる日」とは神の審判を指す。「心を太らせる」は傍若無人に振る舞うことで、アイロニー(無知をあばく)である。その奢った態度は正しい人を罪に定めて殺すという暴挙なのである(6節)。
  7節「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」。小見出し『忍耐と祈り』この世の楽しみから締め出された兄弟たちに、再び慰めと忍耐の勧めをする(1章3~4節)。「秋の雨と春の雨」(口語訳「先の雨と後の雨」)とは、種蒔きと刈り取りの時であり、その時が来るなら忍耐は報われるというのである。
  8節「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」。この農夫のように主の再臨の時を待望する姿勢が示される。更に教会内で、互いに不平を言わないようにと注意する(9節)。4章11~12節にあった。
  10節「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」。ここで、旧約の預言者たちの辛抱と忍耐の模範を取り挙げる。それはヨブである。この忍耐は、受動的な忍耐ではなく、疑いと悲しみと悲惨の波に大胆に立ち向かう強い信仰を確保することのできるものである。ヨブの物語は42章から神が慈愛と憐れみに満ちた方であると述べている。12節は、主イエスの言葉を取り上げて(マタイ5章33~37節)、神の名だけでなく、天や地を指し、その他様々なものを引き合いに出して誓ってはならない。然りは然り、否は否という。それはキリストの言葉を生活の行動指針とする態度である。13節で教会での祈りと賛美が取り上げられ、14~15節は病気の癒しを祈ることが語られる。教会には「癒しの賜物」を持つ教師がいた(第一コリント12章30節)。
  16節「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」。「正しい人」(口語訳「義人」)として預言者エリヤを取り上げる(17~18節)。これは列王記上17章1節、18章1、45~46節に出てくる。
  20節「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」。これは主の愛と赦しの許に連れ戻すことである。愛は多くの罪を覆う(第一ペトロ4章8節)。罪を覆われた者の幸いが詩32篇1節にある。

それは自分の全身を制御できる完全な人です

2016-03-21 | Weblog
   ヤコブの手紙3章 

  2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(新共同訳)

  1節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」。小見出し『舌を制御する』。これまでは行いを伴わない信仰について論じたが、ここから「わたしたち教師」とあるように、教会内の問題について述べる。裁きは神の家から始まるのである(第一ペトロの手紙4章17節)。
  2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」。口から出るものが人を汚すと主イエスも警告した(マタイ15章11、18節)。舌の制御が如何に困難であるかを諭す。
  3節「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます」 馬の轡(くつわ)で乗り手は全体を制御するのである。これと同様に船の舵を例に挙げ、舵取りは小さな舵で船を意のままに操ることができる。心が「強風に吹きまくられる」ことは1章6~7節にある(4節)。同様に舌は小さな器官だが、節操を失わないなら大言壮語することは無いであろう。
  6節「舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」。舌は体の一部であるにも関わらず、制御できないばかりか、人生を破滅に堕ち至らせるという(7節)。
  8節「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」。これは人の罪深さを示すものである。教会で神を賛美する同じ人が、キリストの結ばれた兄弟を呪うということはあってはならないし、あるはずがない(9~10節)。それは一つの泉から甘い水と苦い水が出てこないと同じである(11節)。無花果の木にオリーブの実を結ぶことが無いのと同じである(12節)。これもマタイ福音書7章17~20節にある。主イエスはこれを「羊の皮を身にまとう狼」だと言っている(同15節)。
  13節「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」。小見出し『上からの智恵』。口先だけ(舌)の言葉を否定し、ここで真実の知恵があるか否かを問う。この知恵は「柔和な行いで立派な生き方」を起こさせるものである。内心が問われないなら11~12節と同じである(14節)。
  15節「そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです」。「ねたみ」と「利己心」で混乱と悪い行いとなる(16節)。
  17節「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」。
「上から出た知恵」とは神から賜わる知恵である。旧約の箴言にある「神を畏れる知恵」(ホクマー)と同じである。
  18節「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」。平和の内に蒔かれた種は結果として「良い実」、つまり良い行為が生れるのである。

間違った動機で願い求めるからです

2016-03-21 | Weblog
  ヤコブの手紙4章 

  6節「『願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。謙遜な者には恵みをお与えになる」(新共同訳)

  1節「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」。小見出し『神に服従しなさい』。「戦いや争い」は平和の反対である。人体に暴れる欲望があり(1章14節)、教会の中に抗争を生んでいるという。欲望と争いに明け暮れるのは殺人行為である(2節)。だから求めても得られる筈がない。何故なら自分中心の間違った動機で求めているからだ(3節)。口語訳「悪い求め方をする」、NTD訳「邪(よこしま)な求め方をする」。
  4節「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」。「神に背いた者たち」(モイカリドス)は姦夫の女性形、NKJVでは「Adulterers and adulteresses!」(姦淫を犯す男女よ!)。神と民の関係を夫婦関係とみなすのである(ホセア3章1節)。世に恋々としているのは、神に対する不貞なのである。それは神に敵対することになる。5節の「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」は当時のユダヤの教訓詩からの引用とされている。6節は箴言3章34節の引用である。神は、謙遜な者を受け入れ。高慢な者を敵とする。
  7節「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」。悪魔を拒絶し抵抗し(第一ペトロの手紙5章8節)、神の支配のもとに近づき服するなら神はご支配して下さると勧める。「心の定まらない者たち」は口語訳「二心の者ら」である(8節)。神に近づくという主体的な努力が必要なのである。
  9節「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」。悔改めは、嘆き悲しみ号泣する情動をもって表明されるのである(エレミ書4章8節、ヨエル書1章13~14節)。神に心砕かれる者こそ、神に高く引き上げられる(10節)
  11節「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です」。小見出し『兄弟を裁くな』。悪口は相手を裁く行為となる(マタイ7章1~2節)。これは3章で「舌は不義の世界」(6節)と指摘されている通りである。「悪口」は、自分が善悪の判断を下す律法において、相手を悪として裁くことになる。律法を定め、裁きを行う方は唯ひとり神だけであり、隣人を裁くあなたは一体何者か(12節)。これはまことに手厳しい指摘である。
  13節「よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち」。小見出し『誇り高ぶるな』。13~16節 再び2章の「富める者」の主題に戻って教会に隣人愛を勧めた。この事例は地中海を舞台とした活発な貿易商人である。自分の命がどうなるか、明日のことは分からない。命のはかなさを忘れて富に執着する愚かさを指摘する(ルカ福音書12章22~32節)。人の生涯は消えゆく霧に等しい(14節)。
  15節「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」。「主の御であれば~」は格言で、「ヤコブの条件」(condition of Jacob)と言われるが、ヤコブが初めて打ち出したものではない。すべてのキリスト者には、自分の意志と神の御心との優先順位が求められる。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪である(17節)。

行いが伴わないなら、信仰は死んだものです

2016-03-19 | Weblog
  ヤコブの手紙2章 

  17節「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(新共同訳)

  1節「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」。小見出し『人を分け隔てしてはならない』。ここでも1章16、19節と同じ呼び掛けで、富める者と貧しい者との差別をしないようにと語る。集会に出席する者で、貧しい服装の人と立派な身なりの人とを見て、特別に扱うのは間違いであると注意する(2~4節)。「金の指輪」は議員階級の人々かローマの貴族を指している。貧しい人とは異なる。これは「誤った考えに基づいて判断を下した」ことになる(4節)。
  5節「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。初期の教会は貧しい人々が富みを共有した(使徒言行録4章32~35節)。主イエスは貧しい者の幸いを語られた(ルカ6章20節)。貧しい人々は天に富を積むのである(マタイ6章20節)。貧しい者を辱めるのは神の名を冒涜したことになる(7節)。
  8節「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているなら、それは結構なことです」。レビ記19章18節の引用。これを守ることは、律法全体を守ったことになる(9~12節)。王の律法(royal law)と呼ばれる。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されるが、憐れみをかける者は、終わりの裁きの時に神は憐れみをかけてくださるという。憐れみは裁きに打ち勝つからである(13節)。
  14節「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことが出来るでしょうか」小見出し『行いを欠く信仰は死んだもの』。1~4節の事例が前提となっていると思われる。その日の食べ物も事欠く者がいる時(15節)、口先だけで祝福を祈り、安心して行きなさいと言うだけである(16節)。
  17節「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。これは「信仰によってのみ神に義とされる」(ローマ3章22節)と説く「信仰義認」に対する挑戦といえる。ルターはヤコブの手紙を「藁の書翰」として批判した(後に撤回する)。行いを伴わない信仰はありえないからだ(18節)。
  19節「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」。『神は唯一だ』とはローマ信徒の手紙3章30節の引用とされている。著者ヤコブは、この手紙を知っていたのだろうか。行いの伴わない信仰とは何と愚かなことか(20節)。21~23節は、創世記22章1~19節のことである。同じ出来事をヘブライ人への手紙11章17~19節で信仰の行為として取り上げている。ローマの信徒への手紙にも信仰の証明として(ローマの手紙4章18~21節)。
  22節「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう」。問われている「行いを伴う信仰」は、アブラハムの信仰においてヤコブの手紙とローマの信徒への手紙を結び合わせている。
  23節「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです」。この創世記15章6節を、ローマの手紙4章23節でも引用している。「信仰のみ」と抽象的に説いて、行いを生み出さない信仰(霊肉二元論=ギリシャ思想)が批判されている(24節)。娼婦ラハブの物語はイスラエルの救済に結びついた事例となっている(25~26節)。

御言葉を行う人になりなさい

2016-03-18 | Weblog
  ヤコブの手紙1章

  22節「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(新共同訳)。

  1節「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」。著者ヤコブは主の弟子ヤコブ(マタイ10章3節、使徒言行録12章2節=殉教)ではなく、イエスの兄弟ヤコブ(使徒言行録15章13、20章18節、ガラテヤ1章19、2章9節)と言われる。64年頃ペトロと前後して殉教したが、手紙の内容から疑問視されている。「離散している十二部族」とは迫害に遭っているキリスト者をユダヤ人のディアスポラ(離散の民)になぞらえて表わしている。
  2節「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」。小見出し『信仰と智恵』。迫害による苦難を喜べという。「試練」(ペラスモス)は「誘惑」とも訳せる。誘惑が試練と違うのは、神の意思ではなく、これを拒否することができる(14節see)。試練によって信仰が試されると忍耐が生れる(3節)。「知っている」(ギノウスコー)は継続を表わし「発見し続ける」ことになる。
  4節「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。ここにキリストと同じ生き方が示される(フィリピ2章8節)。信じないで疑う者は海の波に似ている(6節)。
  9節「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」小見出し『貧しい者と富んでいる者』。誇りが対比される。貧しい者は貧しさを共有する生き方で物を供給することは天に財を積む喜びとなるが、富む者は、その富みで身を滅ぼすことになる。
  12節「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」小見出し『試練と誘惑』。両者の違いは2節で述べた通りである。試練に耐え忍ぶ者には命の冠が約束されている(12節)。誘惑の発生源は、人の欲望にある(14節)。欲望は罪を生み、罪が熟して死を生む(15節)。思い違いをしないで欲しいのは、試練に伴う苦しみは、当座は喜ばしくなく悲しいが(ヘブライ12章11節see)、これらは御父からの良い贈り物となるということである(16~17節)。マタイ5章10~12節を参照したい。
  19節「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」。小見出し『神の言葉を聞いて実践する』。自分の中にある欲望(14節)をどのように自制でるかが問われる。難しいが、よく聞いて熟慮しそして話すことである。怒りの感情は会話を妨げ、神との関係を危うくする(20節)。悪を捨て去り、神の言葉を受け入れて心に植え付ける(21節)。これは明確な新生経験のことである。更に新生は聖化(愛の実践)に至るものである(22節)。「鏡に映した自分の姿を見る」とは、神の言葉を心に受け入れて、この御言葉で自分自身を吟味し照らし合わせることである(24節)。所謂黙想(メディテーション)である。これなしには、神の言葉は力を持たず、絵に画いた餅になる。ヘブライ4章12節ではもっと厳しく述べている。
  25節「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」。信心深いと思っても舌を制する事が出来ないなら、二枚舌で、その信心は無意味である(26節)。父なる神のみ前に清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、世の汚れに染まず、身を清く保つことである(27節)。

きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です

2016-03-17 | Weblog
  ヘブライ人への手紙13章 

  8節「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(新共同訳)

  1節「兄弟としていつも愛し合いなさい」小見出し『神に喜ばれる奉仕』。神の御國を継ぐ者として、地上の生活を確かなものとするという実践が勧められる。先ず愛の実践であるが、旅人をもてなすこと(2節)、投獄されている者と虐待されている者の慰問(3節)。この旅人も虐待されている人々も概ね巡回伝道者を指している。
  4節「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は淫らな者や姦淫する者を裁かれるのです」。健全な結婚生活である。また金銭に執着しないで神から与えられるもので満足する(5節)。「わたしは決してあなたを離れず~」は申命記3章6節の引用。
  6節「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」118篇6節の引用である。
  7節「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」。罪と戦って血を流すまで抵抗した指導者(12章4節)である。殉教者が想定される(12節see)。イエス・キリストは変ることのないアルケーゴス(先導者)である(8節)。「異なる教え」に惑わされないこと(9節)。
  10節「わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません」。既に9~10章で示された大祭司イエスの御業を思い起こさせる。「一つの祭壇」とは、唯一一回限りの犠牲を献げる(キリストの)祭壇である。「宿営の外で苦難に遭われ」(12節)「辱めを担われた」(13節)とは、十字架による罪の贖いをなされたイエス・キリストを指し、その御許(みもと)に赴こうではないかと勧めている。天の御國を仰いで賛美のいけにえ、唇の実をたえず献げるのである(14~15節)。17節「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい…」とは、既に地上の働きを終えた指導者(7節)でなく、今立てられている指導者である。その執り成しと導きに信頼して従うのである。
  18節「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています」。わたしたちは明らかな良心をもっていると確信しているので、見倣うことができると思うという。7節と同じ勧めである。
  20節「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスが死者の中から引き上げられた平和の神が」。小見出し『結びの言葉』。永遠の大祭司イエスが罪の贖いを完成し、更に羊の大牧者として天の栄光へと導き牧して下さるという喜ばしい名が崇められるようにという祝福の祈りで(復活の主と平和の神が讃える21節)。
  22節「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから」。まだ言い足りない処があったと思われる。テモテへの言及があるが、何処に投獄されていたのか不明である(23節、3節参照)。
  24節「あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちに宜しく」。1章のはじめには挨拶の言葉はなく、場所と時と宛てた人々については推定の域を出ない。確かなことはユダヤ人キリスト者を念頭に書かれたことと優れた指導者たちとの交流(7、17節)があったことが知られる。

聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません

2016-03-15 | Weblog
  ヘブライ人への手紙12章 

  15節「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」新共同(訳)

  1節「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。小見出し『主による鍛錬』。「こうゆうわけで」とは11章終りを指す。駅伝で次の走者にたすきを渡すことである。証人とは旧約の信仰の先人たちが競技場の観客席で声援をおくっている状況を示す。罪という不要な重荷を捨て身軽になり目標に向かって完走することである。
  2節「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」。「創始者」(アルケーゴス)は2章10節に出ているが、「開拓者」pioneerとか「水先案内」pilot、「先導者」という意味もある。キリストのご生涯は困難と試練に出会っている人々に最も適切なadviceを与え、かつ完成者となられた。そこで、気力を失い疲れはてないように、この方が耐え忍んで反抗し忍耐したことをよく考えよとある(3節)。
  4節「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。神は、あなたがたを子として取扱っておられるのだから、箴言3章11~12節の引用し『なぜなら、主は愛する者を鍛え,子として受入れる者を皆、鞭打たれるからである』という(5~6節)。これを愛する者に対する「鍛錬として忍耐しなさい」と勧める(7節)。鍛錬がないのは、子としての扱いをされていないことになる(8節)。
  11節「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」。その時すべての人々に準備し供えられているのが「平和な義の実」である。だから萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにせよという(12節)。
  14節「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」。小見出し『キリスト者に相応しい生活の勧告』。聖なる生活とは、再臨の主を仰ぎ見ることである。それは地上の生活に囚われて自己本位に生きることを止めなければならない。15~17節で、ヤコブとエサウの物語を取り上げる。エサウは一飯の食事のことで長子の権利をヤコブに渡した(創世記25章27節以下)。彼は神よりの祝福(天の資産・第一ペトロ1章4節)を追い求めることが出来なかった。18~20節はシナイ山でモーセが神の律法を授かった時の情景を描き(出エジプト19章13節)、近寄り難くてモーセさえ怯え震える程のものであった(21節)。しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まりであった(23節)。そこは、新しい契約の仲介者イエスがおられる処である(24節)。だからあなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。「天に登録されている長子たちの集い」とは、終末の時地上の教会に属するキリスト者に約束されていることを指す。「地上で神の御旨を告げる人」とはモーセであり、「天から御旨を告げる」キリストと対比する(25節)。「あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう』」このハガイ2章6節の預言はイエスによって成就し、すべてのキリスト者は揺るがない御国を受け継ぐ者とされているのである(28節)。

信仰とは見えない事実を確認することです

2016-03-14 | Weblog
  ヘブライ人への手紙11章 

  1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し見えない事実を確認することです」(新共同訳)。

  1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。小見出し『信仰』。先ず信仰の本質を二つの言い方で表現する。「望んでいる事柄を確信する」と「見えない事実を確認する」である。前者は歴史的時間的な捉え方、後者は場所的空間的な捉え方となる。つまり信仰と、神によって刻まれる時と神が見つめてくださる眼差しに導かれて生きていくことである。
  3節「この世界が神の言葉によって創造され、見えるものは、目に見えているものから出来たのではないことが分かるのです」。これは創世記1章で「神は言われた『…』そのようになった」の記述から確認できる。神のことばによる最も優れた働きとして男と女の創造がされた。3節から信仰によって生きた証人が登場する。3~7節で「アベルとカイン」、「エノク」、「ノアと子孫」を取り上げる。これはイスラエル前史の出来事である。アベルとカインは創世記4章にある。カインは献げ物が神に顧みられなかったことに立腹してアベルを殺した。神が喜ばれるのは献げ物より砕かれた心であること知るべきだった(詩51篇18~19節)。アベルは殺されたが「血が地の中からわたしに向って叫んでいる」を信仰によってまだ語っているという(4章10節)。エノクの名前は創世記5章24節にある。「神と共に歩んだ」がギリシャ語訳「神に喜ばれた」となっている。長寿族の中で、彼ひとり死を経験しなかったのは、神が共におられることを知っていたからである(6節)。ノアの物語は創世記6章9節~10章にある。神が告げられた言葉に応答して箱舟を造り、洪水による審判に信仰で応答した。他の人々は無関心であった(マタイ24章38~39節)。ノアと一族は救われ、神の義を表わした(第二ペトロ2章5節see)。
  8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」。彼も神の言葉に応えて出発した。約束のものを受け継ぐイサク、ヤコブと共に地上の幕屋に住み、堅固な土台を持つ神の都を待望した(9~10節)。不妊の女サラも神の約束を信じ、その結果空の星のように、浜辺の砂のように数え切れない多くの子孫が生れた(11~12節)。
  17節「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです」。創世記22章イサク奉献の物語である。これは信仰の決断を促され、これを受け入れ死者を生き返らせて貰う信仰を与えられた(18~19節)。ヤコブは臨終に際して十二の部族の祝福を祈ったことは創世記48章にある(20~21節)。ヨセフが祝福を祈ったのは創世記50章24~25節である(22節)。23~28節はモーセの物語である。29節は出エジプト14章「紅海を渡る」時のモーセの信仰である。30節はヨシュアがエリコの城壁を攻めた信仰(ヨシュア記6章1~20節)。32節のギデオン、バラク、サムソン、エフタは士師たちである。33~34節「獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、戦いの勇者となり敵軍を敗走させた」ダビデやダニエルが示される。35節はエリアとサレプタの女(列王記上17章22節)、36節「あざけられた」預言者はミカ(列王記上22章24節)、エレミヤ(20章2節)、鞭打たれた僕(イザヤ50章6節)、37節「石で撃ち殺されたゼカルヤ」(歴代誌下24章21節)、「のこぎりで引かれた」(イザヤ?)、鞭打たれ投獄された人々(アンテオカス二世の時代)は皆信仰をもって生涯を終わった。この人たちはその信仰のゆえに神に認められたが、約束されたものを手に入れなかった。それは更にまさった計画を、キリストの信仰によって実現するためだったからである(40~41節)。

信頼しきって、真心から神に近づこう 

2016-03-13 | Weblog
  ヘブライ人への手紙10章 

  22節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(新共同訳)

  1節「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」。人の手で造られた幕屋で、年毎に犠牲を献げて神に近づく人たちを完全な者にはできない。出来たなら、生贄を献げることは中止される筈だが、実際は繰り返されて、罪の記憶が甦るだけである(2~3節)。ここで詩40篇7~9節を引用し、キリストが来られた時「罪を贖ういけにえを好まない、むしろわたしのため、体を備えて下さった」(5~6節)という。「体を備えて下さった」は、ヘブル語原典では「わたしの耳を開いた」だが、これをギリシャ語訳では「どんな事にも従う」意味として、聖意を行うために「体を備えて下さった」とした(7節)。また詩40篇8~9節も「御旨を行うためにわたしは来ました」として、律法に従って献げることを廃止し(9節)、キリストが罪の贖いのために、ただ一度ご自身の体を献げられたことだと説いている(10節)
  11節「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます」。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着いておられる」(12節)。そして敵どもが彼の足もとに服する時を待っているのである(13節)。キリストの唯一の献げ物により永遠に完全な者とされたことを、改めてここでエレミヤ31章33~34節を引用して確認する(15~16節)。「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」との預言(17節)から、罪を贖う祭司らの供え物は不要なのだと説いた(18節)。
  19節「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」小見出し『奨励と勧告』。イエスの肉体なる垂れ幕から、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道に、はいって行くことがでる(20節)。更に神の家を支配する偉大な祭司がおられるのである。
  22節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」。先ず信頼の確信に満たされることである。「信頼しきって」(プレーロフォリア)は「満ち満ちている、充満する」、NTD訳「信仰の全き確かさにおいて~」。分裂状態でなくひたむきな心である。そして告白するものをしっかり持ち続けること(23節)。NTD訳は「希望の信仰告白に固着しよう」となっている。互いに愛と善行に励まし合うことである(24~25節)。
  26節「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません」。「故意の罪」とは、民数記15章27~31節に出ている。「過失罪」と区別し、神を冒涜する者として断罪される。ここでは「恵みの霊を侮辱する」こととなっている(27~29節)。神の裁きの論拠として申命記32章35節と詩135篇14節が引用される(30節)。神の復讐については、パウロも記している(ローマ12章19節)。32~36節は回顧と展望について。
  32節「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください」。これまでの教会内外の困難さに耐えてきたことを思い出させる。「苦しめられて見せ物にされた」こと(33節)、「捕えられた人たちと苦しみを共にした」「財産を奪われても耐えた」ことなどである(34~35節)。
  36節「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」様々な困難に耐えることができるのは、来たるべき方への信頼によると、ハバクク2章3節を引用して告げる(37~39節)。

ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた

2016-03-12 | Weblog
  ヘブライ人への手紙9章 

  11節「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(新共同訳)
 
  1節「さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました」。小見出し『地上の聖所と天の聖所』。8章では旧新の契約についてであるが、9章から地上と天上の幕屋を展開する。第一の幕屋は聖所で燭台、机、供え物のパンが置かれ、第二の幕屋は至聖所で、そこにある祭具とその間の垂れ幕について述べる(2~3節)。
  4節「もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう」。また箱の上ではケルビムが償いの座を覆っていた(5節)。
  6節「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります」。地上の幕屋での祭司の勤めがあり、続いて大祭司の勤めについて述べる(7節)。大祭司が年に一度だけ至聖所にはいるのは「贖罪日」の時である(レビ記16章、23章)。幕屋の存在は、供え物を献げても礼拝する者の良心を完全に出来ないことを示す(8~9節)
  10節「これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません」。新しい祭儀がなされることを「改革の時」としている。NTD「正しい秩序が導入される時」。つまりイエス・キリストの到来の時である。この方は「恵みの大祭司」で完全な幕屋を通って来られる(11節)。
  12節「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。祭壇の流される血は罪を清める力を持つが、ご自身を瑕のない供え物として永遠なる神に献げられたイエス・キリストの血は罪に死んだわたし達の良心を清め、神を礼拝することが出来る(13~14節)。「新しい契約の仲介者」となられたキリストは、召された者たちが、約束された永遠の財産を受け継ぐ者として下さったのである(15節)。それは罪赦された者の変らない栄誉である。16~22節では「遺言の効力」について述べる。これは8章7~8節で「契約」(原語は「遺言」と同じ)として明らかにされていた事である。遺言は遺言者が死んではじめて効力を持つ。遺言つまり契約は、罪を清める血を流すことで成立したのである(18節)。彼らは契約に従い出エジプト24章6~8節に記されている通り、若い雄牛の血を祭壇と民に振りかけて罪の赦しの儀式を行った(19~21節)。「こうしてすべてのものが律法に従って血で清められた。血を流すことなしには罪の赦しはない(22節)。
  23節「このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません」。小見出し『罪を贖う唯一のいけにえ』。従って大祭司は度々ご自分のものでない血を携えて聖所にはらねばならない(25節)。もしそうだとすれば天地創造の時から度々苦しまねばならない。然し実際は、世の終わりにただ一度、(罪なき・4章15節)御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために(イエス・キリストが)現われてくださいました(26節)。キリストの罪の贖いの業は、「唯一」で「一回限り」(once for all!) である。再度地上に現われるのは、終末の時、救いの完成の日である(28節)