日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

顔覆いは除かれる

2006-05-31 | Weblog
 3章では「エジプト脱出」の洋画でモーセがシナイ山で刻まれた十戒の石板を掲げていた光景を思い出す。聖地旅行の土産に買ったパピルスの十戒を額にして書斎に掲げてある。
 3節「石の板ではなく人のここの板に」とある通り、この律法が新しい契約としてキリストにより、わが内に刻まれるということである。
 モーセの顔が輝いていたので石の板を読む時民は顔覆いをしたが、キリストによる新しい契約に仕えるわたし達は、顔覆いは除かれて栄光を帯びることができる(8~11節)。
 18節「 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
 これが3章の結語であるが、主の栄光を映し出していただく者になれないのは未だ顔覆いが除かれていないからであろう。
 主の方に向き直れ!(16節)
 (写真 ルカ23.28 エルサレムの娘たちと呼びかけるイエス)
 

神への誠実

2006-05-30 | Weblog
 2章4節に「涙ながらに手紙を書いた」とあるが、それが第一の手紙の内容に当る箇所がないので、どこにあるのか議論を呼んでいる。いずれにしてもパウロは問題解決のためにテトスを派遣している(13節)。
 悲しいニュースを耳にして悩みや憂いに心が満ちるという経験をするのである。
 その様子を見て、周囲から「それでもキリストを信じていると言えるのか」と言われて批判され、誤解されるだろう。
 人から何と言われようとも、その時に表明されねばならないのは、神への誠実である。17節が示される。
 「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」
(写真 第2station イエス鞭打たれ十字架を担う)

喜悦を助くる者

2006-05-29 | Weblog
 発信者の中にテモテ(1節)が出てくるので、第一の手紙4章17節から推察すると彼はコリント教会の様子を報告したのだろう。そこでパウロはコリント訪問を願ったが(15節)、今また延期しようとしている。これは2章にある。
 教会問題が色々あり指導者を悩ませた。そこで問題を糊塗したり、曖昧な態度であると一層深刻になる。
 これはいつの時代も変らない。身近に実感していることである。
 しかし相互の信頼関係を失ってはならない。二つの聖句が響いてくる。
 6節「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」
 教会は慰めの共同体であり、苦悩に傷ついた人々が癒される。そこにはキリストの御父、慈愛に満ちた神(3節)の支配があるということ。
 第二に24節「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。」
 この「喜びのために協力する者」は元訳「汝らの喜悦を助くる者なり」とあった。
 実はこれが、わたしの召命を決定付けた聖句である。
 (写真 ヴィア・ドロローサの道 第1 station)
 
 
 
 

マラナ・タ

2006-05-28 | Weblog
 手紙の最後に記された挨拶が16章である。ここで今日のキリストの公同教会の原型ともいえることが出てくる。
 2節「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。」
 この募金はエルサレム周辺に起きた飢饉の義捐金であるが、援助献金と目されよう。「週の初めの日」とは日曜日を指す。既に土曜日でなく日曜日に礼拝が守られ一週間の収入の中から献金を準備していたのである。これは基本的に2千年後の今日も変らない。
 次に22節「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」
 マラナ・タ(主よ、来て下さい)は、アラム語で礼拝の中で唱和されていたようである。特に聖餐とか愛餐などであったと思われる。
 神から見捨てられるというのは、排他的な事柄であるが、ユダヤ教徒の社会ではキリスト者に「神から見捨てられるがいい」と呼ばれていた事と併せて理解するとよい。
 主イエス・キリストの愛に強く結び合わされた信仰共同体がここにある。
 (写真 神殿から出てアラブ人市場通りを歩く)

罪の死と復活

2006-05-27 | Weblog
 15章は復活信仰について58節にわたって述べている。ここでは多くのことを示されるが、肝心なことは復活が、ただ死者が生き返ったということではない。
 死と復活という時、その死は3節「罪のために死んだこと」56節「死の棘は罪」である。従って復活は、26節「死を滅ぼす」こと、54節「死に勝利する」ことである。
 ローマ帝国の激しい弾圧を受けていた時代キリスト者たちは、カタコンベと呼ばれる地下壕の墓場で礼拝を守っていたといわれる。死に勝利したキリスト信仰だから出来たことである。
 キリスト者の墓石に十字架が刻まれるのも、罪と死の勝利を表わすシンボルだからである。人々はこの意味をあまり理解していないだろう。
(写真 イエスが復活したといわれる空の墓穴)  

 平和と秩序の神

2006-05-26 | Weblog
 13章で示された神の愛を追い求めよと告げられたが、次に14章では霊的賜物について述べている。霊的賜物が何かは12章の終わりにある。ここでは「異言を語る者」が問題になっている。異言は使徒言行録2章4節にあるが、当人の理性を超えて他国語で語ることである。
知らない外国語は、聴く者には異言と同じである。
 現代では数千の国や民族の言語があるだろう。意味不明の言語でも解釈する者がいれば相互の意思疎通が可能だ。
ここでは解釈する者が居ないところで、異言がひとり歩きし周囲から23節「気が変だ」と思われることが起きたようだ。そこで解釈する者がいなかれば教会では黙っていなさい(28節)という。
 古今東西を問わず、集団的ヒステリー状態で歌ったり踊ったりする擬似宗教がある。理性をマヒさせて恍惚状態に陥る。
 様々な色のサーチライトで激しい音量の楽器を演奏し、踊り歌う若者の映像を見ると異様に感じるが、これも共通した現象ではないか。
 結論は33節「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように」。
 (写真 墓の中を覗く)

愛は決して絶えない

2006-05-25 | Weblog
 13章は「愛の章」と呼ばれるところだが、前半に「愛がなければ~」が三回出ている。続いて「愛は~」が十六回ある。
 結婚式で読まれるが、一般には本来的に人はこれを所有していると錯覚する。そこで読めば読むほど、自らの愛の足らなさを自覚することになる。
 ここで示されている原語「アガペー」は神の性質を表わす。つまり神から賜る愛である。愛を「キリストの愛」と置き換えて読むと良いという。
 そして、この愛をわが内に与えて下さいと祈ることになる。
 あるホテルが印刷した結婚式次第を見たら、「愛はすべてに絶える。愛は決して耐えない。」と、絶えると堪えるの字が入れ替わって印刷ミスしていて驚いた。これでは大変なことになる。
 (写真 コルゴタの丘 イエス復活した墓)

キリストの体

2006-05-24 | Weblog
 12章はキリストの体と一人一人がその部分という比喩である。中心点は25~27節である。
 「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
 体に分裂が起らず、各部分が互いに配慮し合うという健全な信仰共同体が示される。これは理想だろうか。
 努力目標ではない。
 組織体としてそれぞれの機能が十分に働くには全体を統一しているもの、身体でいえば、血液とか神経である。「キリストの体」にはそれが前提となっている。
 6~11節にある「霊の働き」が全体を統一している血液、あるいは神経である。
 この霊(聖霊)が働くところに分裂は起きない。各部分は互いに配慮し合うことになる。
 様々な分裂や対立があるのは、キリストの共同体とはいえない。
 コリントの教会が、そのモデルとして示されている。
 (写真 復活の丘に向かう 庭園) 

秩序が乱れる

2006-05-23 | Weblog
  11章前半は頭にかぶりものをする是非が問われているが、現代人には意味がないことであろう。ユダヤ人社会では女はかぶり物をしたが、ギリシャ社会ではなかったので、意見の衝突があったのだろう。これは16節「習慣」とすれば、地域や時代で、いろいろ異なる習慣があるので、囚われる必要はないだろう。
 かぶり物のことで3節「男の頭は神、女の頭は男」と説いているが、これは創世記2章18、22節「男のあばら骨の一部でふさわしい助け手を造った」という神話的表現から創造の秩序を述べたものでる。パウロはこれに対し9節で男女の共助を書いている。
 後半は最後の晩餐について記された貴重な聖書箇所である。これは教会の聖餐式のテキストとなっている。ここでも18節「仲間割れ」、21節「各自が勝手に~」とか、聖餐を混乱させる事態が起きていたようだ。ここでも29節「わきまえずに飲み食いする」秩序の乱れが伺える。
「神の教会」(22節)の証しされる聖餐が求められる。
そしてこれは遠い昔のことではなく、今直面している実際問題-知る人ぞ知る-である。
 (写真 二階座敷 明り取り窓・ステンドガラス)  

楽しい食卓

2006-05-22 | Weblog
 8章で扱われていた偶像の供え物を食する問題が10章で再度語られる。
 31節「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」
 これが結論になる。
 このところには16、17、21節に「主の食卓」についてもふれている。日常では色々な会食に列することがあるが、主なる神を讃美する食卓を囲むのが一番楽しいことである。
 平素酒を嗜まない者には、居心地の悪い食卓に座ることもあるが、上掲の31節を心掛けることにしている。
 (写真 エルサレム城内 二階座敷)

福音に共にあずかる

2006-05-21 | Weblog
 9章23節「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」
 ここから、「~のようになる」の四つの立場が示される(19~22節)
 これがパウロの生き方に対する基本信条である。手ずから働いて無報酬で福音を伝えることもである。25節の比喩からすると、天の報酬を目指していたということか。地上の栄達の道を願わない。
 キリスト教界には、栄誉や豊かな財力を誇る人々も居ない訳ではないが、聖書のメッセージとは違っている。世俗的な考え方がキリストの共同体に入って来ることは避けたいものだ。
 牧師、教師、伝道者はその為に不断に26節「朽ちない冠を得るために節制する」必要がある。
 (写真 聖霊降臨を表わすレリーフ)

未熟な信仰

2006-05-20 | Weblog
 8章には、コリントの偶像神に供えられた肉が市場に出回っていたのだろう。そればかりか神殿の境内でその肉料理が提供されていたことも伺える(10節)。ユダヤ教の改宗者ではないだろうが(パウロはそうだが)、偶像の神など存在しない(4節)と割り切って自由に振舞うキリスト者(9節)がいてもおかしくない。
 現代でもそのような考えで「すべて自由だ」として飲み食いする者がいる。

 しかし問題なのは、その考え(知識)が信仰の未熟さから偶像になじんできた習慣に未だ囚われている者の心に混乱を与えてしまうことである。「弱い人」とか「弱い良心」とあるが(7、9節)、信仰理解が足らないで生活訓練が未だ出来ていないということであろう。キリストの共同体としては弱い者を悩ませて信仰につまずきを与えてはならない。牧会者パウロは彼らのためには、このような肉は決して口にしないと告げている。

 「神供米」と称し町内会を通して氏子でないのに米粒を包んで配ってきたことがあるが、体よく断った。
 神々の国出雲地方で生活した頃、このような問題と向合うことが多かった。集落で森の鎮守さんの境内を当番制で掃除する。キリスト者の家庭も氏子だと割り当てられる。断ったらと勧めたが出来ないようだった。
 初期の頃、信仰の未熟なままで、生活訓練が出来なかったのがその一因だ。 
 9節「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」
 (写真 城内 二階座敷に向かう)

結婚

2006-05-19 | Weblog
 7章はコリント教会で論議されていたと思われる結婚問題が取り扱われる。ここにキリスト教の結婚観があると見るのは早計である。
 パウロが独身であったこと、個人的に独身であることを勧めているが、その前提として25節がある。
 「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。」
 危機が何を指しているかよく判らない。
 結婚が神の導きであることを示しながら、結婚生活を絶対化していない。
 パウロに倣う独身主義や独身制は否定される。
 修道院時代にルターがカタリーナと結婚したことを思い出す。
 キリスト教の結婚式で読まれるのはエフェソの信徒の手紙5章21~33節である。
 結婚の意義が見失われつつある現代、聖書から問い直す必要があると思う。
 (写真 厳しい所持品チェック)

あなたがたの体

2006-05-18 | Weblog
 6章で裁判ざたになっている事柄は、教会内で処理できる信徒間の問題であろう。世俗の裁判を否定している訳ではない。9~10節にあるような人物がいたが、しかし今は11節「神の霊によって洗われ聖なる者とされ、義とされています」とある。現代のキリストの共同体では考えられないような不道徳な状況に晒されていたのだ。
 12節以下「聖霊の住まいである体」について、個人倫理的に理解し説く向きがあるが、熟読すると少し違う。
 15節「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」
 「自分の体」がキリストの体の一部ということは、体なる共同体の中に生きる部分ということになる。個人問題として解決する不倫(娼婦と交わる)でなく、体全体がこの罪をきよめねばならない。なぜなら体は聖霊が宿る神殿(19節)だから。
 ホーリネスの教会形成である。
 ここでパウロはコリントの女神アフロディテ礼拝を「娼婦と交わる」と比喩的に述べたかも知れない。
 ヨハネ福音書15章にある農夫がぶどうの樹の無駄な枝を切り捨てるのと同じである。
 結論として求められるのは、20節である。
 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
 (写真 六日戦争の時の弾痕が城門にある) 

純粋で真実のパン

2006-05-17 | Weblog
 5章で指摘されている不倫問題(1節)はパウロの耳にも噂として伝わった。これはコリントにおけるキリストの共同体が純粋な交わりであることを願う彼には放置できない。
 8節「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」
 当時の人口60万の植民地都市、ローマとの交易が盛んな港を擁し、女神アフロディテ神殿は遊興淫乱の場だったという。この風潮と対峙しなければならないキリストの教会であったことは容易に判る。
 この問題は、この手紙の背景にある。
 (戦後パチンコの事をコリントゲームと言っていたのを思い出す)
 神学生が挫折する話題で「純粋培養」のせいだとされる。これは逆な事態として非難されるべきだ。バイ菌を振り撒いた人々(11節に明記)こそ裁かれる必要がある。
 9節「以前の手紙」は行方不明である。
 (写真 シオン門からエルサレム入城)