ヘブライ人への手紙第9章
26節「もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身を生け贄として献げて罪を除くために、ただ一度現れてくださいました」(聖書協会共同訳)
小見出しにあるとおり「地上の聖所と天の聖所」について述べられている。最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました」。8章で旧新の契約についてであったが、9章から地上と天上の幕屋について展開する。第一の幕屋とは聖所、第二の幕屋は至聖所で、そこにある祭具とその間にある垂れ幕について述べる(2~5節)。
6節「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります」。地上の幕屋での祭司の勤めがあり、続いて大祭司の勤めについて述べる(7節)。大祭司が年に一度だけ至聖所にはいるのはレビ記16章、23章にある通り「贖罪日」の時である。8~9節で、幕屋の存在は、供え物を献げても礼拝する者の良心を完全に出来ないことを示している。
10節「それらは、食べ物と飲み物と種々の洗い清めに関するものであり、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません」(聖書共同訳)。
ここで新しい祭儀がなされることを「改革の時」としている。NTD「正しい秩序が導入される時」。つまりイエス・キリストの到来の時である。このお方は「恵みの大祭司」であり、手で造られたものでなく、完全な幕屋を通って来られる(11節)。
12節「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。祭壇の流される血は罪を清める力を持つが、ご自身を瑕のない供え物として永遠なる神に献げられたイエス・キリストの血は罪に死んだわたし達の良心を清め、神を礼拝することが出来る(13~14節)。
「新しい契約の仲介者」となられたキリストは、召された者たちが、約束された永遠の財産を受け継ぐ者として下さったのであり、それは罪赦された者に与えられる変らない栄誉である(15節)。
16~22節 「遺言の効力」について述べる。これは8章7~8節で「契約」(原語は「遺言」と同じ)として明らかにされていた事である。遺言は遺言者が死んではじめて効力を持つ。遺言つまり契約は、罪を清める血を流すことで成立したのである(18節)。彼らは契約に従い出エジプト記24章6~8節に記されている通り、若い雄牛の血を祭壇と民に振りかけて罪の赦しの儀式を行った(19~21節)。
律法によれば、ほとんどすべての者が、血で清められます。血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです(22節)。
23節「…天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません」。これらは天にあるものの写しであり、影である。従って大祭司は度々ご自分のものでない血を携えて聖所にはらねばならない。キリストは何度もご自身を献げるようなことはありません(25節)。
もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかった筈です。ところが実際は、世の終わりにただ一度、(罪なき・4章15節)御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために(イエス・キリストが)現われてくださいました(26節)。キリストの罪の贖いの業は、「唯一一回限り」なのである(once for all!)。
キリストが再度地上に現われるのは、終末の時、救いをもたらすことを待ち望んでいる人々の為の完成の日である(28節)
26節「もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身を生け贄として献げて罪を除くために、ただ一度現れてくださいました」(聖書協会共同訳)
小見出しにあるとおり「地上の聖所と天の聖所」について述べられている。最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました」。8章で旧新の契約についてであったが、9章から地上と天上の幕屋について展開する。第一の幕屋とは聖所、第二の幕屋は至聖所で、そこにある祭具とその間にある垂れ幕について述べる(2~5節)。
6節「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります」。地上の幕屋での祭司の勤めがあり、続いて大祭司の勤めについて述べる(7節)。大祭司が年に一度だけ至聖所にはいるのはレビ記16章、23章にある通り「贖罪日」の時である。8~9節で、幕屋の存在は、供え物を献げても礼拝する者の良心を完全に出来ないことを示している。
10節「それらは、食べ物と飲み物と種々の洗い清めに関するものであり、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません」(聖書共同訳)。
ここで新しい祭儀がなされることを「改革の時」としている。NTD「正しい秩序が導入される時」。つまりイエス・キリストの到来の時である。このお方は「恵みの大祭司」であり、手で造られたものでなく、完全な幕屋を通って来られる(11節)。
12節「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。祭壇の流される血は罪を清める力を持つが、ご自身を瑕のない供え物として永遠なる神に献げられたイエス・キリストの血は罪に死んだわたし達の良心を清め、神を礼拝することが出来る(13~14節)。
「新しい契約の仲介者」となられたキリストは、召された者たちが、約束された永遠の財産を受け継ぐ者として下さったのであり、それは罪赦された者に与えられる変らない栄誉である(15節)。
16~22節 「遺言の効力」について述べる。これは8章7~8節で「契約」(原語は「遺言」と同じ)として明らかにされていた事である。遺言は遺言者が死んではじめて効力を持つ。遺言つまり契約は、罪を清める血を流すことで成立したのである(18節)。彼らは契約に従い出エジプト記24章6~8節に記されている通り、若い雄牛の血を祭壇と民に振りかけて罪の赦しの儀式を行った(19~21節)。
律法によれば、ほとんどすべての者が、血で清められます。血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです(22節)。
23節「…天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません」。これらは天にあるものの写しであり、影である。従って大祭司は度々ご自分のものでない血を携えて聖所にはらねばならない。キリストは何度もご自身を献げるようなことはありません(25節)。
もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかった筈です。ところが実際は、世の終わりにただ一度、(罪なき・4章15節)御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために(イエス・キリストが)現われてくださいました(26節)。キリストの罪の贖いの業は、「唯一一回限り」なのである(once for all!)。
キリストが再度地上に現われるのは、終末の時、救いをもたらすことを待ち望んでいる人々の為の完成の日である(28節)