日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

世の終わりにご自身を生け贄として献げ

2019-11-14 | Weblog
  ヘブライ人への手紙第9章 

 26節「もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身を生け贄として献げて罪を除くために、ただ一度現れてくださいました」(聖書協会共同訳)

 小見出しにあるとおり「地上の聖所と天の聖所」について述べられている。最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました」。8章で旧新の契約についてであったが、9章から地上と天上の幕屋について展開する。第一の幕屋とは聖所、第二の幕屋は至聖所で、そこにある祭具とその間にある垂れ幕について述べる(2~5節)。
 6節「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります」。地上の幕屋での祭司の勤めがあり、続いて大祭司の勤めについて述べる(7節)。大祭司が年に一度だけ至聖所にはいるのはレビ記16章、23章にある通り「贖罪日」の時である。8~9節で、幕屋の存在は、供え物を献げても礼拝する者の良心を完全に出来ないことを示している。
 10節「それらは、食べ物と飲み物と種々の洗い清めに関するものであり、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません」(聖書共同訳)。
ここで新しい祭儀がなされることを「改革の時」としている。NTD「正しい秩序が導入される時」。つまりイエス・キリストの到来の時である。このお方は「恵みの大祭司」であり、手で造られたものでなく、完全な幕屋を通って来られる(11節)。
 12節「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。祭壇の流される血は罪を清める力を持つが、ご自身を瑕のない供え物として永遠なる神に献げられたイエス・キリストの血は罪に死んだわたし達の良心を清め、神を礼拝することが出来る(13~14節)。
 「新しい契約の仲介者」となられたキリストは、召された者たちが、約束された永遠の財産を受け継ぐ者として下さったのであり、それは罪赦された者に与えられる変らない栄誉である(15節)。
 16~22節 「遺言の効力」について述べる。これは8章7~8節で「契約」(原語は「遺言」と同じ)として明らかにされていた事である。遺言は遺言者が死んではじめて効力を持つ。遺言つまり契約は、罪を清める血を流すことで成立したのである(18節)。彼らは契約に従い出エジプト記24章6~8節に記されている通り、若い雄牛の血を祭壇と民に振りかけて罪の赦しの儀式を行った(19~21節)。
 律法によれば、ほとんどすべての者が、血で清められます。血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです(22節)。
 23節「…天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません」。これらは天にあるものの写しであり、影である。従って大祭司は度々ご自分のものでない血を携えて聖所にはらねばならない。キリストは何度もご自身を献げるようなことはありません(25節)。
もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかった筈です。ところが実際は、世の終わりにただ一度、(罪なき・4章15節)御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために(イエス・キリストが)現われてくださいました(26節)。キリストの罪の贖いの業は、「唯一一回限り」なのである(once for all!)。
キリストが再度地上に現われるのは、終末の時、救いをもたらすことを待ち望んでいる人々の為の完成の日である(28節)
 

大胆に恵みの座に近づこう

2019-11-13 | Weblog
 へブライ人への手紙第4章 

 16節「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(新共同訳)

 1節「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」。三章後半で神の民が不信仰で安息にあずかることが出来なかったことを知ったが、しかし神の約束はまだ成就していないので、安息に入りそこねないよう注意しようと勧める。
 2節「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。…」。「福音が告げ知らされている」とは神の安息に入ることを指す。彼らはこれを聞いても信じて受け入れなかった為に安息に与ることができなかった。しかし信じたわたし達は、この安息に与ることができる(3節)。詩95篇11節を再度引用し、民のカナン侵入による定着という理解を否定する。そして神が既に安息を用意していたことを告げる。それが「もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていた」ということである(3節)。それは創世記2章2節の「神の安息」で、地上のすべての人に約束したものである。
 5節「そして、この個所でも改めて、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と言われています」。創世記2章と詩95篇11節との結び付きを強調し、安息の意味の二面性を表わす。詩篇は神がイスラエルの民に、創世記は神が全ての人に示した約束である。6節は2節を繰り返し、安息に与りえなかったのは不従順のためであると告げる。
7節 詩95篇7節の「今日(きょう)」は、荒れ野から約四百四十年後のダビデを通して語られた「今日」である。ヨシュアが民に安息を与えたのであれば、このようには言わない(8節)。そこで「安息日の休み」が神の民に残されている(9節)。「安息日の休み」(サッバティスモス)は安息日の複合語、安息日の平安という内容を盛り込んでいる。
11節「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」。
これまで示された通り、神の言葉は生命と力に満ちており、両刃の剣より鋭くて精神と霊、関節と骨髄を切り離すまで刺し通し、心の思いと考えを判別することが出来るからである(12節)。人を解体する鋭利な刃物である。このことは旧約の預言者も語っている(イザヤ49章2節、エレミヤ23章29節)。
従って神の御前では隠れたところはなく、全てさらけ出されていて、何一つ隠し事はできない(13節)。喉仏に刃物をさし向けて、徹底した告白を迫る如くである。
14節からは「偉大な大祭司キリスト」について5章10節まで述べられる。
14節「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」。2章17節、3章1節で既にイエスが大祭司であることを伝えている。そこでは「神の御前に憐れみ深い、忠実な大祭司」とある。ここでは神の子イエスは、旧約レビ系の大祭司とはっきり区別される。聖所を通り至聖所に入る如く、イエスは諸々の天を通過された神の子(神性を有する)なる大祭司であるから信仰告白に固着しようと勧める。この大祭司は、「わたしたちの弱さに同情できる」方で、罪は犯さなかったがあらゆる点で同じ試練に遭われたので(15節)、憐れみを受け、恵みに与り、時宜を得た助けをいただくため、確信をもって御座に近づこうではないか(16節)。「同情する」(スンパセース)は共感すること。「大胆に」(カタノーエオ)はよく見る、よく考える、「恵みの座」に躊躇わず近づくことである。

『今日』という日のうちに~

2019-11-13 | Weblog
ブライの手紙第3章  『今日』という日のうちに

 13節「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」(新共同訳)

 1節「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」。既に2章17~18節からわたしたちが信仰を告白しているイエスは、民の罪を償うためにすべての点で同じ試練を受けられた使者であり、神の前に憐れみ深い忠実な大祭司であることを考えなさいという。「考えなさい」(カタノエオー)は充分に知ること、「思い見るべきである」(口語訳)、「見据えなさい」(岩波訳)。
 2節「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」。「神の家」とはイスラエルを指す。つまりモーセはイスラエルの中で民に忠実であったが(民数記12章7節)、イエスは神の前にすべての点で忠実な方であった。それは家を建てる人が家そのものより尊ばれるのと同じでイエスはモーセより大きな栄光を受けるに相応しい者とされた(3節)。家を建てる人とは万物を造られた神のことである(4節)。モーセは神の家に対して家僕として忠実に仕えたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのである(5~6節)。
 7~11節 ここで詩95篇7~11節を引用して述べる。この詩篇は4章11節まで展開されることになるが、この箇所では、12節にある「警告」について述べている。
 7節「だから、聖霊がこう言われるとおりです。『今日、あなたたちが神の声を聞くなら…』」。聖霊がこのように警告していると呼び掛ける。
 8節「荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」。出エジプト17章2~3節、民数記20章13節にある、民が荒れ野で水を求めた時のことである。カデシュではモーセは心頑なになり、神の言葉に忠実でなかったためカナンに入ることが出来なかった。9~10節では荒れ野40年間に陥った不信仰であった。「心を頑なにする」(スクレーロテース)は「厳しい」「烈しい」(スクレーロス)から来たことばで、金属の溶け難い状態を指す。
 10節「…『彼らはいつも心が迷っており』」の「迷う」は傾斜面を滑り落ちる状態を指し、神の道から離れ荒れ野を彷徨うのである。結論として
 12節「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」。不信仰に陥り生ける神から離れないようにと警告する。
 ここで、二つのことが求められ勧められる。
 先ず13節「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」。生ける神への信頼は日々新たでなければならない(第2コリント5章17節)。「一日一生」(内村鑑三)である。「きょう」という日々を再び巡り来ない貴重な生涯の一日として備えられた道を歩むのである。
 次に14節「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続ける…」。それは主イエスの再び来られる日を目指してである(フィリピ3章13~14節)。
 16~18節 三つの問答形式で、前述の詩篇から不信仰について説く。
 16節 だれが神の声に反抗したのか。エジプトを出たすべての者ではなかったか。
17節 だれに対して神は四十年間憤られたのか。罪を犯し死骸を荒れ野にさらした者ではなかったか。
18節 だれに対して神は安息にあずからせはしないと誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか

救いの創始者

2019-11-13 | Weblog
  ヘブライ人への手紙第2章 

10節「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(新共同訳)
1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。1章の勧めを受けてこれに応答すること。「注意を払う」(プロセケイン)、口語訳「心に留める」は、船の錨をおろすこと、もしそうしないなら「押し流される」(パラルノオーメン)、漂流することになる。
 2節「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば~」。「天使たちによって語られた」とは、旧約の啓示を指す。その違反や不従順に対して断罪されるなら、神の御子によって啓示された救いに無頓着でいてどうして断罪されないだろうかという(3節)。この救いは主イエスが語り、これを聞いて使徒たちが告げた確かなもの、神もしるし、不思議、力ある業で証したものである(4節)。
 5~9節 御子イエスの死と栄光について
 5節「神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです」。ここでも「天使たち~」は旧約であり、「来るべき世界」は新約の御子イエスの時を指している。そしてイエスの救いの出来事を詩8篇5~7節(ギリシャ語訳)を引用して証言する(6~8節)。
 7節「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け~」。「わずかの間、低い者とされた」とは、イエスの地上で人として虚しくなられたことを指す(14、17節)。それは十字架の苦しみと死というわずかの間で、死に勝利して「栄光と栄誉の冠を授けられた」のである(8~9節)。
 10節「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」。このイエスの死と栄光は、救いの「創始者」(アルケーゴス)となるためであった。アルケー(初め)とアゴー(導く)の合成語で「先導者」(12章1節)「導き手」(使徒言行録3章15節)とも訳せる。これは死と命の間の深淵に救いの命綱を渡すことである(ギリシャではこれをアルケーゴスと呼ぶ)。神はこのことを人類の究極目標として下さったのである。
 12節は詩22篇23節の引用
 13節はイザヤ書8章17~18節の引用
 この引用で、イエスがわたしたちの兄弟となられたことを証言する。
 14~18節 御子イエスが、わたし達と等しく死とその苦しみを味われた理由を説いている。理由の第一は「…それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼす」こと(14節)、次に死の恐怖で生涯、死の奴隷状態になっている者たちを解放することである(15節)。そして
 17節「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」ことが理由の第三である。大祭司は、神と民とに関わることを身に負うのである。
 「忠実な大祭司」としての働きは、更に3章以降で展開されている。

この終りの時

2019-11-13 | Weblog
ヘブライ人への手紙第1章  

1節「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。の終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。

 1~2節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。著者は、冒頭の挨拶なしに、まず神の語りかけに注目させる。旧約時代は預言や夢、幻、自然、奇跡などで語られたが、しかし「この終わりの時代」には、もはや何の媒介もなく直接御子イエスを通して語りかけられた。口語訳「終りの時」TEV「the last days」ギリシャ語「エスカト―」から終末論(eschatology)が展開される。
 「…神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」。この御子がいかなる地位を占める方であるかを示す。それは「万物の相続者」であり、神の創造に参与されたという、空間と時間にわたる宇宙的なスケールで描き出す。
3節「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。「本質の完全な現れ」口語訳「本質の真の姿」(カラクテール テース フポスタセオース)。カラクテールはカラッソウ(刻む、刻印する)の名詞形で、印鑑と印影が一致するのと同じで御子は神の本質と一致し、神との一体性を示す。NTでは唯一回の使用でcharacterの語源になっている。このように神と等しい御子が「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。「人々の罪を清める」とは、受肉と贖罪という救いの業を指す。「右の座に着く」は、神と等しい栄光を受ける権威の座に就くことである。これは全ての天使に優ることである(4節)。
5~14節 御子は天使にまさる  
5節から七か所引用している。
(1)5節、詩2篇7節、
(2)サムエル記下7章14節からの引用。
(3)6節、申命記32章43節の引用。
(4)7節、詩104篇4節の引用。
(5)8~9節、詩45篇7~8節の引用。
(6)10~12節、詩102篇26~28節の引用。
(7) 13節、詩110篇1節の引用  
14節「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた…」。御使を天界の存在として崇拝すべきでなく、救い受け継ぐ者らに仕える者として遣わされたという。
本書は、御子キリストの卓越した存在をこれほどまで強調し、またその救いを受け継ぐキリスト者に対して励ましを与えようとしているのは、背景に激しい権力者による迫害が伺える。

新しい契約の大祭司

2019-11-13 | Weblog
 ヘブライ人への手紙第8章 
 
 6~7節「しかし、今、わたしたちの大祭司は、はるかに優れた務めを得ておられます。この方は、更にまさった約束に基づいて制定された、さらにまさった契約の仲介者だからです。もしあの最初の契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったでしょう」(聖書協会共同訳)

 1節「以上述べたことの要点は、わたしたちにはこのような大祭司がいて、天で大いなる方の玉座の右の座に着き~」。これまで論述してきたメルキゼデクに等しい永遠の大祭司イエスが、御座の右に着いておられること、そして人間ではなく神が建てられた真の幕屋で仕えておられる(2節)。
すべての大祭司は供え物といけにえとを献げる任命を受けているが、この方も何か献げ物を持っていなければならないであろう(3節)。しかしこの方が地上におられるとしたら、律法に従って供え物を献げる祭司たちは現にいるが、この方は決して同じ祭司ではない。何故なら、既にご自身を一回限りの罪の献げ物として献げられたからである(4節)。
 5節「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、『見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ』と言われたのです」。地上の祭司職は天上にある影であり模型だという。その論拠として出エジプト25章40節のモーセの言葉を引用する。わたしたちの大祭司イエスの天上の幕屋における務めは地上の務めより遥かに優れたもので、更にまさった契約の仲介者になられたのである(6節)。
「仲介者」(メシテース)は法律用語で裁判を受ける者の弁護人、また負債の保証人などの意味がある。NTD訳「保証人」、口語訳「中保者」。7章22節には「いっそう優れた契約の保証となられた」とある。
 7節「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったでしょう」(聖書協会訳)。最初の契約とは旧い契約を指す。これが十全なものであったなら、第二の契約、新しい契約は不必要であるという。これをエレミヤの預言(31章31~34節)から証明する。この「契約」(ディアセーケー)は、遺言とも訳され、対等でなく主導権は神にあり、人と人との間の契約(スンセーケー)とは違う。事実、神はイスラエルの人々を責めて次のように言われています。『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる」。これはエレミヤ31章31節を引用したものである。
 9節はエレミヤ31章32節からで、エジプト脱出の時に結んだモーセの律法による契約に対して忠実でなかったと指摘する。
 10~11節もエレミヤ31章33節から引用する。それは石の板に刻まれる律法ではなく、心の肉皮に書き記される神の言葉である(第二コリント3章3、7節see)。
これは、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく創造された者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです(第二コリント5章17節聖書協会訳)。
 12節「わたしは、彼らの不正を赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはしないからである」(聖書協会訳)。神はイエスによって新しい契約を結ばれたのだから、全ての民の不義を赦し、罪を思い出さないと告げるのである。
 13節「神は『新しいもの』と言われることによって最初の契約は滅びてしまったと宣言されたのです」。イエスは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのである(ローマ10章4節聖書協会訳see)

永遠に変わることのない祭司職

2019-11-12 | Weblog
 ヘブライ人への手紙第7章 

 24~25節「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それで、ご自分を通して神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。この方は常に生きていて、彼らのために執り成しておられるからです」(聖書協会共同訳)

 1節「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました」。本章はイエスがメルキゼデクに等しい大祭司であることを論証している。彼が聖書に登場するのは創世記14章17~20節である。まず彼の名前の意味を説く。「メルキ」はマルヒー(使者=王)、「ゼデク」はツェデカー(正義)で「義の王」である(2節)。同時に「サレム」はシャローム(平和)で「平和の王」である。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司である(3節)。これが彼の系図である。つまり、義と平和の王であるが、同時に永遠の神の祭司であることを表わす。
 彼がレビ族の家系の祭司でないことを論証する。先ずアブラハムが彼に十分の一を献げた(創世記14章20節)。アブラハムの子孫であるレビ族血統の者がこれを受ける筈なのに彼の場合そうではない(4~6節)。
 7節「さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです」。下の者とはレビ族血統も含むアブラハムの全ての子孫を指す。上の者はメルキゼデクである。
 次に死ぬはずのレビ族祭司が十分の一を受けるが、永遠なる方が受けるのは当然である(8節)。レビは「アブラハムの腰の中にいた」時だったので、アブラハムを通して十分の一を献げた事になる(9~10節)。
 律法による祭司制度は十分だった筈だが、アロンとは別な「メルキゼデクと同じ祭司」が立てられたことは、制度に変更があったことになる(11~12節)。「変更」(メタセイシス)とは「取り除く」(12章27節)と同じである。この方、つまりわたしたちの主は祭壇の奉仕に携わったことのないユダ族に属していたからである(13節)。
 14節「…この部族についてモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです」。従ってこの方は、肉の掟の(限界のある)律法によらない、命の力(死と復活)によって立てられた祭司であることを告げる(16節)。
ここで重ねて「永遠にメルキゼデクと等しい祭司」という詩110篇4節を引用する(11、15節、5章6節、6章20節)。その明らかなことを20~27節で次のように証明している。
(1)主は神の誓いによって祭司となられた(110篇4節・前半「主は誓い、思い返されることはない」20~21節。
(2)主は永遠に生きているので、変ることのない祭司職を持っている。世襲性の廃止を意味する。「変らない」(アパラバトス)とは法律用語で、判決が下されたら決して変らないという強い意味を示す。つまり神の決定である」20~21節。これは25節と関わる。 
(3)常に人々のため執り成しておられるもで、完全に救うことができる。「完全に」(パンテレス)は全く(パス)、終り(テロス)で「申し分なく」「決定的に」「いつも」ということ20~21節。執り成しの祈りはヨハネ福音書17章、ローマ8章33節に記されている。
(4)主は聖であり、罪なく汚れなき方であるから、わたしたちに必要な方である。)20~21節。「汚れのない」(アミアントス)は、神に近づくのを妨げる汚れがないこと(ヤコブ1章27節)。
(5)27節、主は他の大祭司と違い、ただ一度罪のためにご自身を献げることによって大祭司の業を成し遂げられた(5章3節)。

最後まで希望を持ち続ける

2019-11-09 | Weblog
ヘブライ人への手紙第6章 

 11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」(新共同訳)

 1~2節「だからわたしたちは、…基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」。基本的な教えとしてここに六項目が挙げられているが、5章終りの未成人の状態にある読者に対する言葉である。なぜこの六項目はキリストの教えの初歩であるが、何故これが初歩なのか。ユダヤ教の指導者ラビから学んだ共通の教えだからである。「成熟を目指して進みましょう」は意訳。これは3節の神からの呼び掛けに対して応えること。TEVでは Let us go forward!となっている。
 4~5節 知識と実際とが離れては、厳しい時代状況にはついて行けない。棄教、背教が起きることを警告している。その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからで、それは生ける神から離れることになるからである(3章12節see)。これは議論を呼ぶところである。人の側には悔改めが不可能でも神は可能であることをイエスは告げているからである(マタイ18章21~22節)。然し「天からの賜物を味わい、聖霊にあずかった者」(4節)の場合は、それは故意に聖意に逆らう罪であり、悔い改めて立ち帰る余地はない(第一ヨハネ5章16節)。
 7~8節は畑の作物を育てても、その管理を怠るなら茨やあざみが生えてくるからである。創世記3章18節を反映している。役に立たなくなり、やがて呪われ、ついに焼かれてしまうからである。
 9節「しかし、愛する人たち…わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」。性急な判断はしない。あなた方に少しでも救いに関わることがあるならそれを評価する。それは何か。
 10節「…あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」という。聖徒に仕えるという愛の交わりである。これはコリント教会がエルサレム教会に贈り物をしたことがある(第一コリント16章15節)。
 11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」。これを最後まで続けて欲しい。このために「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしい」(12節)、として「神の確かな約束」(小見出し)としてアブラハムを取り上げる。第一の場面は14~15節「ハラン出立の時の神の約束とイサク誕生」である。「根気よく待って」は直訳「忍耐したことによって」。それには25年という忍耐した歳月だった(創世記12~18、21章)。第二の場面は16~17節「イサク奉献の物語」である(創世記22章16~17節)。
 18節「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません」。二つの不変の事柄とは、神がアブラハムに示した約束と誓いである。これを航海にの例えで語る」。
 19節「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」。錨は船舶の安全装置、潮に押し流されて座礁しない為のもの、同様に神の望みは魂の安全にし、欠くことが出来ない。この不動の望みに関して言えば、大祭司が年に一度至聖所の垂れ幕の内側に入って犠牲の動物の血を祭壇に注いだことを指している。
 20節「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」。ここから本格的な大祭司キリスト論が開始する。「先駆者」という語は新訳聖書全体で、ここしか用いられていない。この語は祭儀とな結びつかず、寧ろ救済論と関係する。

成熟したキリスト者の生活

2019-11-08 | Weblog
ヘブライ人への手紙第5章
  
乳を飲んでいる者は皆、幼子ですから、義の言葉を味わったことがありません。固い食物は、習慣によって善悪を見分ける感覚を鍛えられた大人のためのものです」(日本聖書協会訳ヘブライ5章13~14節)

  1節「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」。ここで大祭司の資格が明らかにされる。
第一に人間の中から選ばれ、人々のために神に仕える役に任じられることである。それは「弱さを身にまとっている」ので、罪にいたる無知と迷いにある人々を「思いやる」ことが出来ねばならないからである(2節)。「弱さを身にまとう」とは、人としての脆弱で壊れやすい「土の器」である。「思いやる」(メトリオパセイン)とは「判断する、測る、思い測る」ということである。
第二に大祭司は罪を犯す弱さを持つ人々のために、また自分自身のために、罪の贖いの供え物を献げねばならない(3節)。「…この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく…神から召されて受けるのです」。
この大祭司となる栄光ある任務をキリストも受けられた。それは詩2篇7節「神の子」であること、110篇4節「永遠にメルキゼデクに等しい祭司」であることによって証される(5~6節)。なぜなら罪なきイエスがわたしたちの弱さを思いやり、罪の贖いの供え物をする大祭司としての任務を受けられるからである(4章15節see)。
第三は7節「キリストは肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。ここにはキリストの生涯が凝縮して表現されている。神の御子が地上であらゆる試練を受け、その最後はゲッセマネと十字架上で激しい叫び声をあげられた。それは死と苦しみに勝利する御父に対する完全服従であった。御子であるキリストは真実の人として従順を経験されたのである(8節)。そして死に勝利する「完全な人」として、復活され永遠の救いの源となり(9節)、メルキゼデクと等しい大祭司と呼ばれた(10節)。
 第四は11節「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」。大祭司キリストについての勧めはまだ多くあるが、耳が鈍くなっている今は容易に語れない。誰かから神の言葉の初歩を教えて貰わなければならない。それは消化が難しい固い食物ではなく、乳を必要とするからだ(12節)。固い食物である「義の言葉」を理解できないのである(13節)。
第四は、14節「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」。「一人前の大人」(テレイオーン)、「充分に成長した人」「完成した人」、口語訳「成人」、NTD訳「成熟した者」。宗教的信仰的に、善悪の区別ができるよう訓練されているのである。ここに本書のキリスト者に示された霊的な働きを祈り待ち望む生活が示されている。
  因みに小見出しは共同訳「一人前のキリスト者の生活」、日本聖書協会訳では「成熟したキリスト者の生活」となっている。

恐れる生活出なく、神を畏れる生き方

2019-11-04 | Weblog
 「神はすべてを時宜に適うように造りまた、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(コヘレテの言葉3章11節)

 1 聖書協会訳では、「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた」となっている。「永遠を思う」ということは、現実主義ではなく、様々な事柄に出会った時にその先に「何かがある」ということである。本書では「全てが空しい」という無情と虚無に陥ることでなく、人生を大切に生きるということにつながる。
 2 仏教にも「般若心経」という教本がある。「色即是空、空即是色」というが、ここで「空」というのは、実体を欠いた現象は常に変化し無情だというのである。その現実に適応して生きるのである。「空」というのはヘブライ語で「へベル」は「蒸気」「息」で実体を備えていないが、それを無視しないのである。
 3 昨今の出来事を私たちは、どの様に受け止めているかを考えて見ると、それは「天災」ということでは受け入れことはできない。この自然災害に出会っている多くの人々のことを知ると心が痛む。突然家や土地を失い、親しい肉親、家族を失い、途方に暮れている人を、テレビ映像や様々なニュースで知る。その悲しみと怒りをどこに持って行くのでしょう。
4 昨年の17号台風で、真備地区の三百所帯が水没し、多くの死者がでた。本年の19号台風で河川の氾濫、堤防の決壊による数多くの災害を受け、その復興が容易でない。ボランテア活動の要請に応えられない。そこには政治の問題もある。貧困に途方に暮れている人も多いであろうと思う。自治体の出番であることははっきりしている。再生のエネルギーが必要である。
 5 決して虚無的に陥ってはならない。そこで祈りと活力を得て生きるということが求められよう。キリスト者の社会的な活動がなされることである。
 6 日本語で「畏れ」と「恐れ」と区別することができる。見えない唯一神を「畏れる」ということである。これをヨブ記から学ぶことが出来る(1章1節、8節、2章3節)。6章14節畏敬、37章23節)。聖書協会共同訳も同じある。
7「神は我らの逃れ場、我らの力、苦難の時の傍らの助け、それ故私たちは恐れない。地が揺らぎ、山々が崩れ落ち、海の中に移るとも」詩編46編3節。
 「主に信頼しているならば力を得る」イザヤ書30章15節
 「主を喜ぶことはあなたがたの力である」ネヘミヤ書8章10節

『主の栄光を仰ぎ見る』

2019-10-25 | Weblog
 
聖書  民数記21章4~9節
第二コリント3章12~17節 
     
1 「信仰」という日本語の漢字は、「人偏」がついていますが、これは人が生まれた時から、信じ仰いで生きる者という意味が込められているように思います。それは乳幼児のことを考えてみると納得できるでしょう。それは母親の乳房が乳幼児の顔と向き合ってあるということです。喉の骨格が特別に出来ていると言われます。類人猿のゴリラやチンパンジーも同じだと思わるでしょうが、何時襲われるかも知れない外敵から子猿を守る為に、哺乳の仕方が違っていて骨格が人と異なっている訳です。
2 乳幼児は安心しきって乳を飲んでいて、時々休み母親の顔を見つめます。「信じ仰ぐ」という生き方を身に付けています。八木重吉の詩に「あんあんあん、あんあんあん、あんあんあん、うるさいよ、うるさいよ、うるさか(く)ないよ、神さまを呼んでいるんだよ」とあります。人は神を信じ仰いで生きるのですから、信仰は祈りから始まっていると言えるのです。
3 きょうの説教題は「主を仰ぎ見る」としていますが、旧約聖書・民数記に出てくる出来事を先ずみることにします。ここはホレブ山(シナイ山)から、ハランの荒れ野を北上したが、カナン人の反撃に遭いカデシで四十年の荒れ野の放浪生活を送ることになった。エドムの領土を迂回して一度南下し葦の海(アカバ湾)北端から今一度北上する場面です。
4 しかし民は耐え切れなくなり神とモーセに逆らい、エジプトから導き上ったのは荒れ野で死なせる為なのかと、またしても不信に陥ってしまう(4~5節)。「粗末な食物」とはマナである。主は炎の蛇を民に向って送られた。蛇は民をかみ、多くの死者が出た(6節)。民はモーセに、わたしたちは主とあなたを非難し、罪を犯しましたと悔い改め、蛇を取り除いて下さいと願った(7節)。「主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命をえる」。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人を噛んでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た(9節)。
5 遊牧民は毒蛇が災いをもたらす象徴としていた。そして、不信の罰として登場させ、炎の蛇の像を造り呪うことで、死を免れるとしたのです。このユダヤ教の故事をヨハネ福音書3章13節で主イエスは ユダヤ最高法院の議員だしたニコデモとの会話の中で引用されました。「十字架は呪いの木」でしたが、しかし、主は天に昇られました。それは信じる者がだれも永遠の命を得ることができるからでした。3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない」と主イエスは言われたのは、この実現を指しているのです。つまり「十字架」から「復活と昇天」という神の約束がニコデモに与えられていたのですが、この新生経験(キリスト者となること)は、使徒言行録の弟子たちによって実現したのです。
6 よく問題となるのは、弟子たちの新生経験は何時だったかですが、主イエスご昇天とそれに続くペンテコステの出来事によってでした。彼らは聖霊の降臨(聖霊のバプテスマ)によって、旧約のベールが取り除かれ、「十字架と復活、そして再来の栄光のイエス」の証人となったのです。
7 きょうの聖書箇所は栄光の主の御顔を仰ぎ見るには、旧いわたし達の罪のベールを取り除いて頂いかなければ、不可能であることを示された箇所でした。この箇所で、旧約聖書・出エジプト記34章29~33節でモーセがシナイ山で「石の板」に書かれた律法を持ち帰った時に彼の顔が輝いていて、人々は「顔覆い」をしなければ彼の顔を見ることが出来なかった場面を取り挙げて、束の間の消え去るもの、一時的なものであった。これは旧約の律法に囚われた生き方を指しているという。律法主義者だったパウロ自身の経験が証明しているのであった。
8 ≪14しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです≫。
9 ウオッチマン・ニー著『幕屋のキリスト』にこのような記事があります。エルサレム神殿の広場には「丸い形の大きな表面が磨きあげられている銀製の水盤が置かれています。礼拝者は自分の有りのままの姿がその鏡のような水盤に映し出されます。醜さや汚れ、穢い「われ」です。嫌だと思ってそこから去ると、惨めな自分しか残らないのです。然し一歩前に進み出て身を洗いきよめて、祭壇に近づくと、素晴らしい神の栄光を見ることが出来るのです。私たちが主の礼拝を主日毎に守り、そこで罪の悔い改めと新しい主イエスの出合いの経験をすることがどんなに重要であり必要なことかを、これから示されるのです。

罪を取り除いてくださる方法

2019-10-24 | Weblog
 聖書 ヘブライ人の手紙9章23~28節

 「もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、只一度現われてくださいました(26節日本聖書協会訳)          

1 わたし達は、大祭司キリストがかつてのレビ族の大票司にはるかに優れた資質を持つお方であることを示されましたが、9章ではそのことを、罪を清める力の違いによって明らかにします。まず罪の清めを行う場所のことです。かつての大祭司は、手で造られた幕屋で犠牲をささげました。幕屋は聖所と幕で仕切られた至聖訴に分けらました。通常は聖所で犠牲をささげましたが、至聖所には年に一度贖罪日に大祭司が入り、民の罪の清められることを祈りました。従って幕屋、後のエルサレム神殿は、ユダヤ教徒にとって神との正しい関係を保つ根拠であったのです。しかしAD70年エルサレム神殿はローマ軍によって破壊されました。民はこれを激しく悲しみました。現在「嘆きの壁」といわれる所は崩壊した城壁の一部です。
2 ここで本書は、この聖所は人間の手で造られたものであって、v24「ほんとうのものの模型」にすぎないと言い切るのです。キリストを通して出会った神の臨在の素晴らしさに比べるなら、神殿は影のようなものです。生ける神の面前に立つ礼拝が真の礼拝であるとすれば、神のいます天こそまことの聖所です。地上の大票司イエスは、天の諸層からなる聖所を通り至聖所へと入られました。その最も奥に臨在される神の面前に立ったのです。
3 聖所に携える「血」を取り上げて、大祭司イエスとレビ系の大祭司の罪を清める力の違いを明らかにしています。聖書では、血は人や動物の生命力であり、罪を犯した人の命を贖うには、命なる血によらねばならないのです(Lev17:11)。従ってv22「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」のです。かつての大祭司は、毎年贖罪日には自分の罪を清めるための雄牛の血と、民の罪を清めるための雄山羊の血をたずさえて聖所に入りました。v10~13 動物の血によって、自分と民の罪の赦しを祈ったのです。しかしそれは人間の内面の「良心」を清めることはできません(v9)。神への不従順やはかない楽しみにふける罪は取り除かれなかったのです。10:4「雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができない」とあるように罪の清めは人間の努力によってはどうにもならなかったのです。人間の側からの救いの道は完全に閉ざされています。
4 しかし今や新しい大祭司キリストは、ご自分の血をたずさえて天の聖所に入られました。キリストは十字架で流されたご自分の血をたずさえて人びとの罪のゆるしを祈られたのです。このキリストの血という代価によってはじめて、罪の赦しが成し遂げられ、閉ざされていた救いの道が開かれたのです。すなわちキリストの血は、人の「良心」を清め、罪と結びついた行いから自由にして、私たちをv14「生ける神に仕える者」とするのです。
5 v12「あがない」とは、代価を払って奴隷を買い戻すことです。罪の負債による奴隷を解放するには、罪の代価を支払う必要があります。動物の血は人間の罪の十分な代価となりえませんでした。しかし神の御子キリストは、ご自身の血というこれ以上ない高価な代価で私たちを買い戻してくださったのです。自らを差し出されたキリストの姿と、過越祭でほふられる小羊のイメージを重ね、キリストをRev1:18~19「ほふられた小羊」だと告白します。御子キリストは大祭司になられると同時に、罪を贖う小羊となられたのです。
6 かつて年一度の贖いの日、大祭司が至聖所で犠牲をささげ終えると、民は喜んで彼を迎えました。自分たちの罪が清められたからです。そのように大祭司キリストは天の聖所にて神の前で犠牲をささげ終えて、再び民の前に姿を現すべき時を待っておられます。それは再臨のことですが、v28大祭司キリストが再び来られる時、それは救いが完成する日です。大祭司キリストの救いの業は、私たちの身分を完全に変えました。私たちは罪赦され、v15「永遠の財産」を受け継ぐ者とされたのです。
7 ここで大繁司キリスト論をもって結ばれます。v18「これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない」。私たちの救いに必要な代価をすでにキリストが支払ってくださったので、もはや救いのためにいけにえを、ささげることはありません。ただ成し遂げられた十字架の救いを御言葉と主の晩餐で繰り返し思い起こしつつ、約束された地を目指してキリストに従うのです。v19 このような確信は、迫害と試練の最中で希望を見失いかけている者たちを励まします。

永遠の救いの源

2019-10-23 | Weblog

聖書箇所 ヘブライ4章14~5章10節              

1 全く人性を持つ方として来られたイエス・キリストが神の本質の姿を持つという第1章の最初の部分で示されたわたし達は、その働きが神と人との間に祭司的働きを持つということを更に学ぶことが出来ます。旧約聖書に記されている祭司職は、イスラエルの民の中から選任されましたが、同時にその選任は神の指示によるものでした。イエス・キリストが終わりの時として来られるまでは、その任務は重要でした。
2 祭司は12部族の中でレビ族から立てられ、世襲で継承されました。最も大事な務めは、祭壇に犠牲をささげ、罪の赦しを神に祈ることでした。個人でも民族でも罪の赦しの為に焼き尽くす捧げ物をささげました(Lev1、4)。ですから祭司は、罪の問題を解決するために人びとが頼りとする専門職だったのです。今やこのレビ族の祭司たちとは別に、神自らが御子キリストを祭司として立てられたのです。7:22~28に、レビ系の祭司とイエスとを比較し、4つの違いを挙げています。
① 任期(v23~25) レビ族の祭司は死によって働きが中断されますから、替わりが立てられます。最初の大祭司アロンからAD70年のエルサレム神殿崩壊まで、83人の大祭司が立てられたと言います。しかしイエスは復活して常に生きておられるので、唯一人で永遠に祭司の務めを果たすのです。
② 罪の有無(v26) レビ族の祭司は、贖罪日には先ず自らの罪のために犠牲を捧げ、その後に民のために犠牲をささげました(Lev16:6)。しかし罪なきイエスは、直接民の罪を取り除くことに取り組むことができます。
③ 罪を除く力(v27) レビ族の祭司は日々罪を贖う犠牲を捧げました。それは毎日いけにえをささげても本当の意味で罪の贖いができなかったということです。しかしイエスは、十字架で唯一度ご自分を捧げることによって完全に罪を取り除かれました。
④ 任命の方法(v21、28) レビ族の祭司は律法の指示によって立てられましたが、イエスは神ご自身のv28「誓いの御言葉」によって祭司とされました。
3 このように見ますとイエスこそ「偉大な大祭司」と呼ばれるに相応しい方なのです。この大祭司イエスは4:15「わたしたちの弱さを同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」方です。これは人間が地上で経験する様々な苦悩や痛みです。これを5:7「肉において生きておられたとき激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と記しています。由木康作詞・讃美歌121番1節「貧しき憂い、生くる苦しみ、つぶさになめし、この人を見よ」という歌詞がありますが、そこには飢えることや病むこともあったに違いありません。それは憐れみ深い大祭司として神の前に執成すために外なりません。だからv16「時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」という招きの言葉があるのです。
4 大祭司イエスが永遠に変らない資格を与えられているということが、次の聖句で証明されます。一つはPsa2:7から、5:5「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」です。王の戴冠式の詩ですが、それはキリスト預言詩でもあるのです。今一つはGen14:17~22、Psa110:4からの引用、v6「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」です。メルキゼデクの祭司については、7:1~18に詳細に述べられています。この聖言の確証に立つ方としてイエスはv9「永遠の救いの源」と呼ばれるのです。この「源」とは創始者the authorとも訳されます。これは罪の源流に対比して新しい救いの源流ということになります。

神の決定的な語りかけ

2019-10-22 | Weblog
            

神はかつて予言者たちを通して、折に触れ、様々な仕方で先祖たちに語られたが、この終わりの時には、神子を通して私たちに語られた(聖書協会共同訳ヘブライ1章1節)

1 ヘブル人への手紙は、手紙の形式として冒頭に挨拶の言葉がなく、いきなり主題に対する序文がきます。著者と宛先がわかりませんが、ヘブライ人という題名は後から付けられたものです。それは手紙の内容がユダヤ人キリスト者であろうと言うことからでした。著者はパウロ説がありますが、手紙の背景から見て妥当ではありません。バルナバ説やアポロ説などもあります。
2 この序文はヨハネ福音書に匹敵するようなものです。誰に宛て書かれたか明確ではありませんが、背景としてキリスト共同体に危機が迫っていることが伺われます。その困難に対応するもので、説教をまとめて書き送ったものだと考えられます。年代的には紀元80~90年頃に書かれ、現在残されている最古の説教と言うことができます。
3 著者は、まず神の語りかけに注目させます。1~2節に「神はかつて預言者たちによって、多くの形で、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。ここに旧約聖書と新約聖書とが対応しています。神は旧約時代を通じて、預言や夢、幻、自然、奇跡など様々な方法で語りかけられましたが、しかし「この終わりの時代」、すなわち新約時代には、御子イエス・キリストを通して語りかけられました。それはもはや何の媒介もなく直接語りかけるものであり、また多くの機会や方法によらず、御子イエスの言葉と生涯による決定的な語りかけでした。誕生(受肉)、宣教活動、受難、そして昇天に至る御子キリストと言葉は、私たちへ決定的な神のメッセージなのです。「終わりの時代」とありますが、これは終末last dayでギリシャ語はエスカト―という言葉です。終末論はここから展開されるものです。従ってわたし達は終末の時代を生きているのです。
4 続いて著者は、v2「御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」とある通り、この御子がいかなる地位を占める方であるかをすべての空間と時間にわたる宇宙的なスケールで描きだそうとしています。そしてv3「神の本質の完全な現れであった」としています。御子こそ神の輝きを伝える唯一の方であり、神の本質の真の姿なのです。口語訳「神の本質の真の姿」で、「真の姿」the representation of the realityをNEVは、the express image of the personと訳しています。ギリシャ語)は「彫刻する」 engrave)いう言葉と共通語で、印鑑と印影がまったく一致しているように、御子は神の姿をあますところなく映し出しているということです。Characterの語源になりますが、NTでは唯一回の使用です。それは父なる神との一体性を言い表しているのです。「彼は人間性において神の印章を押されたものであり、蝋に刻むように宇宙に刻まれた神のサインである」(John W Bowman)。
5 そしてこのように神と等しい方である御子がv3「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」とあり通り、神の救いという大事業を成し遂げてくださったのです。「人々の罪を清められた」は、Ch2:14~17「悪魔を御自分の死によって滅ぼし…民の罪を償うために」と記されます。続いてv5「いったい神は、かつて天使のだれに『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』といわれ」とある様に、この御子が御使にまさる方であることを明らかにします。この個所の引用は詩2編7からです。NTでは多く引用される聖句で5:5、Act4:25、Rev2:37当時の人びとは、御使を神の世界に属する霊的存在として崇拝していました。そしてイエスも御使の一人だと考える人びとがいたようです。これは由々しき問題でした。そこで御子が御使をはるかに越える方であることを、旧約聖書を引用しながら明らかにしているのです。v5b=ⅡSam7:14、v6=Deu32:43、v7=Psa104:4、v8-9=Psa45:7~8、v10-11=Psa102:26-28、v13=Psa110:1 v14「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕える」存在とされています。つまり御使はわたし達に仕える者であり、その意味で私たちより下だと言い切っているのです。これは御使を天界の存在として崇拝していた人びとにとっては驚くべき言葉だったことです。
6 なぜ本書は、御子キリストの卓越した存在をこれほどまで強調するのでしょうか。それは迫害と葛藤にさらされていたキリスト者に、御子キリストの救いの確かさを示し、励ますためです。ローマ皇帝ネロが口一マの大火(AD64年)をキリスト者のせいにしたため、大迫害が起こりましたが、本書の読者はこの危機を乗り越えてきました(10:32~33)。しかしその後も、自らを「主にして神」と呼ばせた皇帝ドミティアヌス(在位81~96年)のもとで、キリスト者は反社会的だとレッテルを貼られ、いいしれない偏見や迫害にさらされました。激しい迫害の延々と続く中で、弱り果て(12:3)、集会をやめるものがおり(10:25)、神から離れ去る危険にさらされたのです(3:12)。
7 そこで著者は、2:1「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」と勧めたのです。「押し流される」は、本来「漂流する」という意味です。そこで私たちは聞かされた救いの言葉にしっかりと錨をおろさなければなりません。御子を通して語られた救いこそ、神ご自身と使徒たちが証ししている通り、どんな嵐の日にあっても永遠の救いをもたらす港だからです。
8 終わりにわたし達人間の持つ視覚と聴覚について述べたい。わたしが前にいました教会に、視覚障害の方や聴覚の障害の方がいました。その方々との交わりで、わたしは多くのことを教えられ学んだのです。特に視覚と聴覚の不自由でした栂 月恵姉、大田さわの姉がおられました。しかし体は不自由でも心の目と耳はハッキリしていました。福音書に只1回耳の不自由な人を主イエスが癒された個所があります。Mk7:31~34 主は「エッファタ」(開け)と言われて聞こえるようにされました。わたし達も耳を開いて頂き、御声を聞く者にしていただきたいと願います。説教題に「決定的に聞く」と付けましたが、それは主イエスご自身が神の言となられ、この方以外にもやは神は語られないということです。それはどこまでも聖書を開き、聖書から聞くことです。その理解はイエスの光です。「66巻の聖書」という著書がありますが、66巻それぞれにキリストが示されている意味です。聖書全体は、キリストにより神の言葉を聞くことが出来る訳です。

救いの導き手

2019-10-20 | Weblog
というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの導き手を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(聖書協会共同訳ヘブライ人への手紙2章10節)

 1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。1章の勧めを受けてこれに応答すること。「注意を払う」(プロセケイン)、口語訳「心に留める」は、船の錨をおろすこと、もしそうしないなら「押し流される」(パラルノオーメン)、漂流することになる。
 2節「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば~」。「天使たちによって語られた」とは、旧約の啓示を指す。その違反や不従順に対して断罪されるなら、神の御子によって啓示された救いに無頓着でいてどうして断罪されないだろうかという(3節)。この救いは主イエスが語り、これを聞いて使徒たちが告げた確かなもの、神もしるし、不思議、力ある業で証したものである(4節)。
 5~9節 御子イエスの死と栄光について
 5節「神は、わたしたちが語っている、来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです」。ここでも「天使たち~」は旧約であり、「来るべき世界」は新約の御子イエスの時を指している。そしてイエスの救いの出来事を詩8篇5~7節(ギリシャ語訳)を引用して証言する(6~8節)。
 7節「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け~」。「わずかの間、低い者とされた」とは、イエスの地上で人として虚しくなられたことを指す(14、17節)。それは十字架の苦しみと死というわずかの間で、死に勝利して「栄光と栄誉の冠を授けられた」のである(8~9節)。
 10節「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの導き手を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」。このイエスの死と栄光は、救いの「導き手」(アルケーゴス)となるためであった。アルケー(初め)とアゴー(導く)の合成語で「先導者」(12章1節)「導き手」(使徒言行録3章15節)とも訳せる。これは死と命の間の深淵に救いの命綱を渡すことである(ギリシャではこれをアルケーゴスと呼ぶ)。神はこのことを人類の究極目標として下さったのである。
 12節は詩22篇23節「私は兄弟たちにあなたの名を語り伝え~」」の引用
 13節はイザヤ書8章17~18節の引用
 この引用で、イエスがわたしたちの兄弟となられたことを証言する。
 14~18節 御子イエスが、わたし達と等しく死とその苦しみを味われた理由を説いている。
理由の第一は「…それは、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、死の恐怖で生涯、死の奴隷状態になっている者たちを解放されるためでした(15節)。
理由の第二は天使たちを助けるので無く、アブラハムの子孫を助けられる為でした。
そして17節「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」ことが理由の第三である。
大祭司は、神と民とに関わることを身に負うのである。
 「忠実な大祭司」としての働きは、更に3章以降で展開されている。