日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

信仰によって義と認められ

2020-01-18 | Weblog
       
  ローマの手紙第1章16―17節
  

 聖書はバイブルというが、これはギリシャ語で「本」(書物)、英語ではザブック(ザ=大文字)といいます。唯一の本ということです。印刷技術が発達していなかった紀元16世紀マルティン・ルターの宗教改革があった時代には一般人には手にすることは出来なかった。印刷技術が発明された同じ時期に、宗教改革が置きて、ルターは、これに相まって誰でもルター訳聖書が読めるようになったのです。同じキリスト教でもルターの宗教改革を認めなかったローマカトリック教会では二十世紀になるまで、ラテン語聖書しかありませんでしたから、人々は礼拝で神父の話で聖書を彼らの都合のよい話として聞くだけで充分だったのでした。
 1987年になって日本で、初めてカトリック教会とプロテスタント教会が一緒になって「新共同訳聖書」が出版されたのです。
わたしの青年時代ではこれはありませんでした。所謂「文語訳聖書」でしたからこれでも難しくて小学校を出たばかりのキリスト者は田舎では少なくありませんでした。
毎週礼拝に出席した青年と話しましたが、彼は十数年間自分の聖書を持っていませんでした。聖書の話は聞くが聖書は読まない。聖書をフーと吹いてポンとたたくだけの「フーポン」信者と呼ばれる者もいました。
 聖書の時代エルサレム神殿の庭には大きな水盤があり、手足を洗い身繕いしていました。日本の神社にも似たような場所がありますが、ユダヤでは真鍮の水盤で鏡になっていました。そこで姿が映し出される。
 最も厭なことは人から指摘され、評価される事である。しかし誰もが同じであるとすれば、平気で居られる。「赤信号みんなで渡れば恐くない」という。榎本保郎牧師は「みんな病」というのが、実際はみんなでは無く、同じ仲間が二三人おれば、みんなになる。
福島原発事故で放射能汚染が二年八ヶ月経っても、周辺市町村ではまだその汚染は排除されていない。人体にうける放射能の被爆線量を表わす単位がシーベルト(百ミリシーベルト以下であれば影響は少ないが、これを越えて、五百、千、五千になると大変危険)。
聖書が罪を示す言葉は二百程あるといわれるが、最もよく知られるのは「的外れ」「脱落」「背き」です。「的外れ」とは、弓矢の的のことで、この場合力を絞れば絞る程手元が狂っていますから、決定的になる有り様を表現しています。現代風に言えば「ダーツ」(投げ矢)、あるいは迎撃ミサイルというのもあります。これは偽りの偶像に目を奪われて生きることです。
 「脱落」とは、道路を脱線することです。登山で起こる墜落がその例です。(乗客一〇六人と運転士が亡くなったJR福知山線「尼崎駅」脱線事故・二〇〇五年四月)。所謂「背き」の罪です。神に背を向けて生きることです。方向転換してキリスト者は神の前に歩んでいる生涯を視野に入れる時にところに自分の真実な姿が浮かび上がってくるのです。
神学者ケルケゴールは絶望が「死に至る病」であると言いましたが、この言葉の出所はヨハネ福音書十一章四節(ラザロの死)の主イエスの言葉でした。これは人間がみんな陥る罪の病です。この絶望は「自分自身を見つめること、から始まる」と言われます。
すべての関わりを失った単独者を指しています。孤独は地獄です。それは神から見放されることです。創世記二章十八節で、神はアダムに「一人でいるのは良くない。彼に会う助け」口語訳・相応しい助け手」をその体の一部分で創造されたが、その二人は神に背くことに共謀してしまいました。
 その聖書の記述は創世記3章1~7節に最初に神に創造された男と女が狡猾な蛇の誘惑にあって、神からの言葉に背いてエデンの園から追放されてしまう経緯が記されています。
神は究極の手段として、死刑が確定している者を、第三者が身代わりになって死んだので、その理由から恩赦で裁判長が『無罪放免』と宣告するのです。これは現実に起こり得る事柄では無いでしょう。これを神が義と認めるという表現になります。「信仰義認」とも言います。この手紙を書き送った使徒パウロは、実体験としています。この手紙をわたしは信仰に導かれる時、その後も繰り返し読みました。3章22―26節、5章15―16節を読むと、その意味がよく判ります。
 一般の裁判事件では冤罪による誤認逮捕で判決を受けたが、後にアリバイが成立し再審により無罪判決を受けた例があります(免田 栄事件二三歳の時から三十八年獄中・日本で最初の事例)。聖書の場合は恩赦ということになります。
2013年11月17日礼拝説教



それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ

2019-12-28 | Weblog
 ルカ10章 

 3節「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(新共同訳)

 1節「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。小見出し『七二人を派遣する』。ルカ福音書特有の記事である。6章で十二人の弟子を選ばれたイエスは、七十二人という数字の根拠は、民数記11章24~26節の故事に由来したものと考えられるが、そこでは七十人であった。理由は「収穫は多いが、働き手が少ない」(2節)という実情からである。福音書記者は宣教の視野を「全世界」(マルコ16章章15節、ルカ24章42節)に置いていたに違いない。主イエスとで弟子たちの周囲には多くの病人や貧しい者の数が多かったは当然伺える(2節)。4~10節は9章2~5節と同じである。
 3節「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」。既にイエスの受難予告の時にふれておられる(9章24~25節)。挨拶は弟子に告げた「シャローム」であり、御国の来臨である。然し応答しない者らには「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない」。コラジン、ベトサイダはガリラヤ湖畔の町、ティルスとシドンはガリラヤの北に隣接する国(ヨルダン川上流)である。小見出しにある通り、悔い改めを拒む群に向けられた警告である(14~15節)。七十二人の帰徒とその報告がされる。悪霊を追い出すとい病の癒しの成果は「蛇やさそりを踏みつける」ことであるが(19節)、その勝利の権利を喜ぶのではなく、あなた方の名が天に書き記されたことを喜べとイエスは彼らを諭す(20節)。
 21節「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。イエスは明確に「天地の主である父」と呼ぶことから「父と子」の関係を弟子集団、そして幼児のような者に示された。
 22節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」。「父からわたしに任せられています」とは何か。それは父が子を、子が父を知る(グノースコー)ことである。ここで「知る」とあるのは、思弁的な認識ではなく、ヘブライ的な体験的認識で、夫婦男女間の愛することを指している(マタイ福音書1章25節)。【NKJV】ではno one knows who the Son is except the Father, and who the Father is except the Son, and the one to whom the Son wills to reveal Him."となっている。このことを示された弟子たちこそ、喜ばしいことだとイエスは伝えたのである。
 25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』」。小見出し『善いサマリア人』。イエスはこの問いに答えず、問いをそのまま彼に返し自答させる。申命記6章5節と、レビ記19章18節による「神への愛と隣人への愛」を律法学者は答えユダヤ教の中心命題を述べた。模範的解答である。イエスはこれに同意しその実践を促した。
25節「するとある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐ事ができるでしょうか』。イエスは「律法に何と書いてあるか。それをどう読んでいるか」と言われた(26節)イエスは彼自身に答えさせる。神の愛と隣人への愛(申命記6章5節、レビ記19章18節)である。然し彼は自分を正当化して「わたしの隣人とは誰ですか」重ねて尋ねた。そこで主はその定義をせず、「善いサマリア人」の譬を語られた。ある旅人が追い剥ぎに遭い道に倒れたが、傍を祭司は死者かも知れとして通り過ぎる、レビ人は祭司に仕える部族で道の向こう側を通って行った(30~32節)ところがサマリア人の記述は詳細で「彼を見て憐れに思い」(スプラグゾマイ=腹(はら)綿(わた)が痛む)傷の手当てをして宿屋まで運んだという。ユダヤ人と敵対関係の彼をイエスは隣人とは誰かという定義をしないで「隣人になったのは誰か」と聞かれた(36節)。隣人になったその動機と憐れみ(神の属性・エフェソ2章4節)、隣人になる行動にイエスを見出すことが出来る(33~35節)。 
 38節「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」。ユダヤ教の教師ラビが女性だけに家に招くことは異例であるが、イエスと弟子たちが招かれるのであった。そこで姉のマルタは一行を迎えいれ接待の準備で忙しくしていたが、マリアは主の足元に座り話に聞きいっているのである(39節)。マルタが接待の手伝いを促していることは極めて自然である。しかし主はそれを知って「必要なことは唯一つだ」(42節)と言われる。One thing is needfulこれは神の国に通ずることである(12章31節 マタイ6章32~34節)。





 自分の十字架を背って従いなさい

2019-12-11 | Weblog
 ルカ福音書9章

 23節「それから皆に言われた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(新共同訳)

1~6節 12人を宣教に派遣する(並行記事マルコ6章7~12節)病気の癒しと神の国を宣伝える。遍歴の説教者であるが物乞いを禁じ、迎えられる家で共に食事をし、そうでない時は「足の塵を払う」(10章11節、使徒言行録13章51)。宣教の実践である。
7~9節 領主ヘロデの戸惑い。イエスの出来事を聞き、イエスは何者だろうと訝かしく思い、やがて敵意に変わる(13章31節)。この後イエスと弟子たちはベッサイダに退く。
10~17節 五千人への供食 押し掛けてきた群衆に神の国の説話と癒やしの業があるが、日没になり十二弟子に群衆への配慮を促す。「パン五つと魚二匹」しかないと言う。増食の奇跡は列王記下4章42~44節に類似(出エジプト16章、民数記11章see)。神の国の祝宴を示唆している(6章20~21、12章37節、14章15~25節)。
18~20節 ペトロ信仰を言い表す。(並行記事マタイ16章20~28節)ルカは極めて簡潔な記述となっている。ペトロの告白は、21~27節の死と復活の予告を経て明らかになる。これはイエスが第一回の受難予告をされた直後の言葉である。この時ペトロはイエスの十字架を否定し「サタン引き下がれ、お前は神のことを思わず人間のことを思っている」と厳しい叱責を受けている(マルコ8章33節)。イエスをメシア(キリスト)と告白とするのは、そのお方に一所懸命(命を懸ける)になることである(20節)。告白とは心底から出る言葉で、そこに些かの曖昧さや妥協があってはならない。告白が人間でなく天の父によっていることを知るなら(マタイ16章17節)、告白に生きるのは天の父による。
そこでイエスは「わたしについて来たい者は」と言われる。強制でも義務でもなく応答である。これは湖畔でなく、ヘルモン山上でなされた弟子たちに対するイエスの新たな召命である。
「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招かれる。これは一大決心を促しているのだろうか。そのように受け取られよう。しかし既に示された通り、イエスをキリストと告白して生きる者は、自分の道を歩むことを止めて彼のあとに従うので、そのほかには無い。「日々、自分を捨てる」とはこのことである。それはゴルゴタの丘に向かって十字架を背負って登られたイエスと共に「自分の十字架を背負って」登るのである。
その道はヤコブの階段につながる(創世記28章12節)。イエスはそのように予告し(ヨハネ福音書1章51節)、それを十字架上で告げている(ルカ23章43節)。ここにこそ滅びることのない救いがある。このほかには命の救いはない。
「たとえ全世界を手にいれても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があるか」。何も無いばかりか、虚しいことだ。
いみじくもこれを告白した言葉がある。「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(口語訳フィリピ3章8~9節)。
28~36節 イエスの姿が変わる(並行記事マタイ17章1~8節)。ルカは山に登る前と上ってから祈ると記している。そして31節、36節に祈りがある。35節は神のことばを「聞く」啓示である。
37~43節 悪霊に取りつかれた子を癒す(マタイ17章14~18節)。弟子たちは悪霊を追い出す権能が与えられているのにそれが出来ない。不信仰への叱責を受ける(41節)。イエスは汚れた霊を叱り子どもを癒し父親に返された。
43~45節 再び自分の死を予告する(マタイ17章22~23節)。弟子たちの二度の無理解と神の計画(必然)を説く(45節)。
49~50節逆らわない者は味方。並行記事マルコ9章38~40節。弟子グループ外の者がイエスの名によって悪霊を追い出しているという。弟子たちは自らの不信仰をイエスから叱責された(41節)ので、彼らも批判されると思いきや、イエスは排除の論理を拒否する。逆らわない者は味方であると諭される。弟子たちは18章15~17節で再度持ち出す事になる。
51~56節サマリヤから歓迎されない。ルカ福音書の固有な記事。前記49~50節との関連性から読み解くことが要る。
57~62節 弟子の覚悟。並行記事マタ8章19~22節。ここで三人は共通している態度が示されている。第一の人物は、ユダヤ社会では家族、取分け、父を葬ることは最優先であるが、神の国の宣教が家族に優先する。第二、第三はエリヤ、エリシャの例を引用して別れの挨拶をすることを優先しない。




 

良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞く

2019-12-10 | Weblog
  ルカ福音書第8章 

 15節「良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実をむすぶ人たちである」(聖書協会共同訳)

1~4節「婦人たちの奉仕」ルカ福音書特有な記事で12弟子に同行する。ユダヤ教社会では極めて異例であるが、奉仕(ディアコネイン)は持ち物を出し合って一向に仕える。イエスの死と復活に際して、初めに彼女らは出会う証人となる(23章51~24章10節)。
4~8節「種を蒔く人」のたとえ。この並行記事はマタイ13章10~17節、マルコ4章10~12節である。聞き手は群衆(オクロス)である。聞き手として様々な可能性を持つ。蒔く人は出来るだけ広い範囲に腕を広げて蒔いた。種は道端、石地、茨の中、そして良い土地に落ちた。「聞く耳を持つ者は聞きなさい」(8節)と大声がある。神の言葉を聞く耳があるかどうか(6章48節)。神の国の秘義(ミステリーリオン)は知識でなく、神の啓示である。この引用句はイザヤ6章10節(マルコ4章12節)である。
11~14節「種を蒔く人」のたとえの説明。「道端に落ちた種」とは心が頑なで悪魔に扇動され信じなくなる(使徒言行録13章7~10節)。「岩の上に落ちた種」は試練に遭うと落伍する、「茨の中に落ちた種」は思い煩い、富、快楽などで根を下ろさない。この結実を妨げる障害は群衆にも弟子たちにも影響を及ぼす。
15節「良い地に落ちた種」は試練や迫害を耐え忍ぶ者で、善き実を結びこととなる。「立派な良い心」とはギリシャ的な表現で「善美の思想」(カロス・アガトス)で行いも人格も立派で美しい人を表す。しかしルカはこのようなギリシャ的人格者を強調するのではなく、逆に御言葉を良く守り忍耐して保つ者が立派な善い心であるとしている。
16~18節「灯」のたとえ 並行記事マルコ4章21~25節 灯を入ってくる人に光が見えるようにする。神の言葉の宣教も同じである。「知られる」(未来形)とは、神の支配が弟子たちを通して知られること、信じられることで、マルコ4章23節「耳」を省いている。」正しく捉えて信じることをイエスは示されている。ここでも種まきの譬と等しく「よく守り忍耐して実をむすぶことが求められる(18節)。
19~21節「イエスの母、兄弟」並行記事はマルコ3章31~35節。中心は21節である。種蒔きの譬と共通して、御言葉をよく聞いて守るとは血縁、地縁で結ばれる者ではないとイエスは語られた。ルカが知る教会には祈る母、祈る兄弟がいたことは明らかである(使徒行伝1章14節)。イエス生前にマリアはこれを明確に表していた(1章38節、45節)。
22~39節 イエスの力ある行為 これはキリスト論的展開となっている。
第一 イエス突風を沈める(22~25節)。湖上で眠るイエスと突風で水没の危険が弟子たちに襲う。すり鉢状のガリラヤ湖では激しい突風が襲うのは少なくないでない出来事である。マルコ4章35~41節にもある。
 第二 悪霊に取り憑かれたゲレサの人を癒す 26~39節 悪霊に対してもイエスの主権を明確にする記事である。この墓場に鎖でつながれ住まいとする裸のゲレサの男は、イエスと出会うと大声で叫び苦しめないで欲しいと嘆願する。イエスの威力に屈服して底なしの淵(未来永劫に流刑になる場所)という放逐場が示された。この場所はゲレサ(直訳タラッサ・海)として、底なしの湖に夥しい豚の群が落ちて溺れ死んだ出来事と悪霊に付かれていた人が正気になった事と結びつく。
 第三 ヤイロの娘とイエスの衣の裾に触れた女。会堂長ヤイロはイエスに娘の病の癒しを求めた。娘は12歳で結婚適齢期だったが、然し家の者からそこに行く途中娘は死んだという知らせを聞いた(49節)。然しイエスはヤイロの家に行き、皆が泣き悲しんでいる中で、「子よ、起きなさい」と呼びかけ食べ物を与えるよう指示した。一方流血病の婦人が12年間医者への治療に全財産を使い果たす状態になっていた。双方12年という限界に陥っている。ところが、婦人は群集の中でイエスに近寄り服の裾にある「房」に触れて出血が止まり癒された。衣の裾の「房」(クラススペドン・民数記15章38節see)示している。然し二人が陥った状態の中でイエスは会堂長と婦人に「あなたの信仰があなたを救った」と告げている(48、50節。一途の信頼で新しい生き方が始まることを物語っている。


神の国で最も小さい者でも、偉大である

2019-12-06 | Weblog
ルカ福音書第7章 

 28節「言っておくがおよそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(聖書協会共同訳)

1~10節「百人隊長の僕をいやす」。ピラトに仕える百人隊長が危篤の部下のいやしを求めてきた。会堂を建てるユダヤ教の新派と考えられる(5節)。そこに出向くイエスに対して自らの権威に比較できない方として認める言葉に、イエスへの信頼を読み取っている。異邦人伝道はイエス復活後のコルネリウスの姿と重なって見える出来事である(使徒言行録10章1~40節)。
11~17節「やもめの息子を生き返らす」死者の復活記事は旧約のエリヤとエりシャの伝承(列王記上17章7~24節、下4章32~37節)を、イエスを「主」として記載されている(13節)。群衆は「大予言者が現われた」と言い、ユダヤ全土と周囲一帯に広まったと記されている(17節)。
18節「ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送った」。大予言者が我々の間に現れたという巷の噂さを耳にしたからだ(16節)。イエスのメシアなる確認を得ようとした。この態度はメシアに対する切実な期待を表す。イエスの回答は、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」という(22節)。これはイエスがナザレの会堂で宣言したメシアとしての働きと同じだが、彼らはこれを受け入れなかった(4章18~21節)。
イエスはその事実をユダヤ全土、またティルスやシドンから集まって来た群衆に示した(6章17~19節)。またナインの町のやもめの一人息子を死から生き返らせた(15節)。そして今ここで「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と告げた(22節)。事実に優る証言はない。
「貧しい人は福音を告げ知らされている」は、「幸いだ、乞食の心を持つ者たち、天の王国は、その彼らのものである」(マタイ5章3節岩波訳)と同じである。一切自分に信頼を置かずイエスに絶対依存する。これはメシア理解に大きな「つまずき」(スカンダリゾー)となると言われた(23節)。「わなを仕掛ける」という意味である。
24節からヨハネに対するイエスの言葉である。そこで三つの問いから話される。先ず「何を見に荒れ野に行ったのか。風にそよぐ葦ではない」(24節)。意志薄弱な時代の風潮になびく人物ではない。第二に「しなやかな服を着た人か。それなら宮殿にいる」(25節)。庶民とは縁遠い、栄華を極める宮殿の住人ごとき人物でもない。第三に「預言者か。そうだ。彼は預言者以上の者だ」(26節)。旧約最後の預言者で、メシアを世に送りだす道備えをした眞の預言者である(27節)。
しかし「神の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である」と言われる(28節)。これはどう云うことか。「最も小さい者」とはイエスの福音に生きる人である。ヨハネはメシヤヘの期待は熱心で、イエスによる神の国の到来を知ったが、彼のメッセージは罪の悔い改めである。しかしメシア(キリスト)との出会は罪の赦しと新たな救いと喜びとなる。「最も小さい者」がこの世で「偉大な者」に優るという神の国の秩序を明確に教え示す。この世の評価する権威や権力も、神の国では色褪せてしまうのである。
イエスは続いてファリサイ派と律法の専門家たちを鋭く批判された(30節)。彼らは、広場でこどもらが結婚ごっこや葬式ごっこをしたが、笑いもせず泣きもしない。それと同じで、ヨハネのヘロデによる逮捕と処刑を葬式ごっこのように、イエスの福音による喜びを結婚ごっこのようにしか受け取れない頑な態度を指摘した。子どもの囃子ことばで、彼らの不真面目さと無定見さとを揶揄したのである。現代でも滑稽な遊び感覚で捉える「お祭り行事」が何と多いことであろう。
36~50節「罪深い女を赦す」 34~35節の具体例である。彼女が罪深い女と言われるのは、この女がイエスに対して高価な香油を惜しげなく、泣きながら足に近寄り涙でぬらし髪の毛で拭う所作からファリサイ派の人が判断した処にあった。
然し、それを知ったイエスは彼女の容易ならざる行動は、悔い改めとイエスの無条件の慈愛に対する応答として表したのである(46~47節)。
give and takeではない。イエスの金貸しの譬(41~47節)でこれを否定し、「愛は計算ない」ことを示している(ルカ6章32~35節、第一コリント13章1~3節see)。人知を超えるのである。


岩の上に土台を置いて家を建てる人

2019-12-05 | Weblog
 ルカ福音書第6章  

 48節「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てる人に似ている。洪水になって水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、びくともしなかった」(聖書協会共同訳)

1~5節安息日に麦の穂を摘む。他人の麦畑から麦穂を摘みとることは律法で許されていた(申命記23章26節)。しかし安息日律法は重要であり、その違反は死罪に相当する(レビ記15章32~36節)。ここでは食事の準備で労働に値するとした。イエスはダビデの故事に言及し(サムエル上21章1~7節)律法の柔軟性を要求。安息日律法の解釈をする権威を主張した。
6~11節手の萎えた人を癒やすこと(マタイ12章9~14節)、12~16節十二人を選ぶ(マタイ10章1~4節)記事である。ルカ6章12節では人の選びに先立ち徹夜の祈りをイエスはされた。ルカ福音書の特徴である(3章21、5章16、9章18、28~29、22章40~46節)。初代教会も任命に先立ち祈る(使徒言行録1章24節)。ここは十二部族からの象徴的行為で、原始教団の基礎となる。
 17~49節は「平野の説教」と呼び,マタイ福音書5~7章「丘の上の説教」と対比される。
20~26節「幸いと災い」(マタイ5章1~12節)四の幸いと四つの不幸である。貧しいのは経済的でなく、社会的に阻害されている人々で、彼らこそ、神の国に招かれ終末の時の逆転が起きる。
27~36節「敵を愛しなさい」。愛敵の教えの三例であるが、限定ではない。31節は黄金律と呼ばれる報復を避ける互恵的な行為である。36節は愛と憐れみの神に促される働きである。
37~38節「人を裁かない、罪人と決めるな」と「赦しなさい、与えなさい」の二つの否定形と肯定形で、憐れみ深くある具体例である。神の寛大さは人の思いを遙かに超えている。39節「盲人」は洞察を欠く隠喩的表現である。他人を裁くことの誤りを指摘する。
41~42節他人の欠点を指摘しながら自らの欠点に気づかない偽善を示している。
43~49節 ここでは、外側は同じに見えても真実は違っていることが明らかになるという三つの譬から示される。第一は「木はそれぞれ、その結ぶ実によって善悪が判る」(44節)という譬であり行為と行為者の関係があきらかになるというのである。第二は「心の倉にあるものが悪いか良いかは口から出てくる言葉でわかる」(45節)というのである。俗に「心は口ほどにものをいう」と言われる。第三は家と土台である。地面を深く掘り下げて岩の上に家を建てるなら洪水という試練に遭っても動じないということである。「主よ、主よと呼ぶだけで終わってしまう者は最後の裁きに耐えられないのである(46節、マタイ福音書7章21節see)。
これは信仰の深い検討を促される譬である。人が何かをしたその行為によって救いは与えられるものでは決して無い。この点では「信仰のみ」ということが明確にされる。これは「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)ということで要約される。しかしこれは定見のない安易なご都合主義に陥る。さらに無律法の道徳廃棄論にまで至る。「天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とイエスは言われた。これに対する厳しい指摘がなされる。「行いが伴わない信仰は何の役にも立たず、虚しく死んだものだ」と記されている(ヤコブの手紙2章14、17、20節)。問題は家を建てる時に「地を深く堀り、岩の上に土台をすえるか、「土台なしで、土の上に直接建てる」かである(49節)。「土の上」に家を建てることは共通している。イエスの召命に従って生きていく信仰は同じである。違いは土を掘り起こす作業をするかどうかだ。
ユダヤでは夏の六ヵ月も続く乾期には沢(ワディ)は固くなり地表を10メートルも掘り起こさねば他と区別できなくなるところもある。しかし雨期になると洪水になって流れる川床に変化する。マタイ福音書では大雨と暴風も起きている。この譬は先々を考えないで手抜きし、深く掘り下げるという労苦を厭い、安易な生き方をする愚かさが問われるのである。一時の間に合わせでは、試練に耐えることが出来ない。
聖書では、神を「わが岩」と言い表す。詩18篇2~3、32、47節。その他にも19篇15、27篇5、28篇1、31篇3~4、61篇3、62篇7、94篇22、95篇1、144篇1節。イエスは岩であり、土台である(第一コリント10章4節、3章11節)。地を掘り起こすとは岩なるイエスにしっかり結ばれるために日々隠れた、練達と忍耐が必要である。順境でも逆境でもすべての時に対応する柔軟な生き方、信仰のありようは、心砕かれ罪の告白をし、日々主に信頼して希望を得る祈りである。

何もかも捨てて立ち上がり従った

2019-12-04 | Weblog
ルカ福音書第5章  

28~29節「その後、イエスは出て行き、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(聖書協会共同訳)

1節「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来た、イエスはゲネサレト湖のほとりに立っておられた」というのは4章の終わりに見られた状況に「続く事柄であった。席の温まる間もない忙しさが伺える。イエスの宣教に弟子を選任することは急務であった。
2~11節 この時ガリラヤの漁師たちが夜通しの漁を終えて網を洗っていた。その内漁師シモンの舟に乗り込んで陸から少し離れたところで群衆に教え始めた。マタイ福音書では小高い丘の上から宣教が始まるが、ルカ福音書にはそれはない。人が選ばれている(5章1~11節)。沖へ漕ぎ出して網をおろして見よと告げると、「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と答えた。予想もしない大量の魚にシモンペトロは心の底も見通すイエスの鋭い眼差しに驚き罪を告白し、「人間を取る漁師にする」*生け捕りにする・言葉に従うこととなる。仲間のヤコブとヨハネも従った。先ずアンデレが召命を受けて従った(ヨハネ福音書1章see)。そしてイエスは湖畔に行き三人を弟子にされた。再び湖畔で群衆に教えられたが、その通りがかりに収税所に座っているレビという徴税人を見て呼び掛けた(マルコ福音書2章14節)。路傍伝道である。
12~16節 規定の病(ハンセン病でなくレビ記に記されている様々な皮膚病を指す)の癒やしで、イエスは手を差し伸べてその人に触れ「わたしは望む。清くなれ」と告げると病は去った。祭司に社会復帰の証明をもらう。イエスの評判はますます広がるが、しかし人里離れた所に退き祈っておられた。
27~32節 当時ユダヤ社会ではローマの支配下にあり、国境に近いカファルナイムの町で交通税や人頭税、荷車や牛馬での搬入税等々を徴収する彼らはローマの犬として嫌われ、「アムハーレツ」(罪人)と呼ばれ差別されていた。イエスはあえて、この徴税人レビ(マタイ)に目を留めて声を掛けられた。「わたしに従いなさい」との招きに何らためらうことなく応じた。「なにもかも捨てる」は職業と身分の縁を切ること、つまり解雇と退職を指す。この決断は漁師らの場合とは少し違う。配水の陣である。彼はこの召命を明確に家族知人、そして民衆に言い表すために、イエスと弟子らを家に招き入れて盛大な宴会を催した(29節)。
「わたしに従ってきなさい」は「わたしの仲間に加わりなさい」という意味になる。新しい交わりが創られる。主にある愛と赦しの始まりであり、これは敵対感情を持つ人々との和解に至らせる第一歩である。イエスの福音は「和解の務め」であり(第一コリント5章18節)。また「敵意という隔ての中垣を取り除く事である」(エフェソ2章14節)。
しかしこの時律法による様々な食事規定を遵守する「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて」、その律法違法に対してイエスを批判し抗議する(30節)。それに「医者を必要とするのは、健康なひとではなく病人である」と諺を用いて応える。律法を厳格に遵守する者は健康人で神に受け入れられるのであり、異教徒や罪人は病人であり、交わりを断ち食事を共にしないという偽善的な差別意識を持っていることを鋭く指摘した。エレミヤは「医師が手軽に傷を癒して、平安が無いのに平安、平安という」病める指導者を批判した(エレミヤ6章14節)。同じことが昔も今も起きている。
33~38節 断食についての問答・並行記事マタイ9章14~17節、マルコ2章18~22節 宴会は神の国の比喩的表現である。婚礼の席に招かれた客に断食させないように、花婿が取り去れる日がくるなら断食をすることになる。ファリサイ派の弟子たちが断食をするのは古い革袋に新しい葡萄酒を入れることである。今は違う。祝いの日で新しい革袋に新しい葡萄酒を入れねばならない(38節)。イエスの福音とファリサイ派の鋭い対比を語っている。この背景には、ユダヤ主義的キリスト教への警告も示されている(使徒言行録11章1~3節)。


貧しい人に福音を告げ知らせるため

2019-12-03 | Weblog
 ルカ福音書第4章 

 18~19節「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(聖書協会共同訳)

 1~13節 イエス荒野の誘惑で、平行記事はマタイ4章1~11節、マルコ1章12~13節にある。40日の断食はイスラエル荒野40年と重なる。悪魔の存在は天使の顔を持つ(ヨブ記1章)。誘惑の第一は飢餓で、奇跡でなく神の言(ロゴス)で応える。第二は権力と繁栄、第三は神殿だがイエスはこれも神の言葉で応える(申命記6章13節、6章16節)。イエスのメシア性が証明された。
14~15節 イエスは育ったナザレで、安息日に会堂に入り立ってイザヤ61章1~2節を読み上げた。ヨベルの年、圧迫された民が解放される出来事を記した箇所だが、大胆にもその使信は「今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と告げた(21節)。人々はこの恵みの言葉に驚き、このひとはヨセフの子ではないかと言った。
耳にする人々とは誰か。貧しく喜びのない日々を送る者、罪と心の痛みに縛られ捕らわれている者、行く先の見えない不安な生活を送っている身体しょうがい者、そして様々な重圧におしつぶされている者がそれら一切から解放されるという宣言である。会堂に集まったユダヤ教徒はイエスの口から出る恵み深い言葉に驚いたが、他人事として受け取った(22節)。「医者よ、自分を治せ」の諺を引きイエスは彼らの態度に対して、エリヤの時代の大飢饉に際して独りの寡婦にだけ餓えを癒やし(列王記上17章1~24節)、エリシャは多くの病人の中からナアマンだけが独り癒やした(列王記5章1~15節)ことに触れた。
この譬を聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、彼らは総立ちになってイエスを歓迎しないばかりか、シドン人や、アラム人と比較してその不信を責められたため、町の外に追い出し、町がたって山の崖から突き落とそうとした(29節)。しかしイエスは人々の間を通り抜けて立ち去った。
31~37節 イエスが神から遣わされたメシアである理解はどうして得ることになるのか。ガリラヤの町カファルナウムに行き、安息日には人々に教えておられた。汚れた霊につかれた男が大声を出して「ナザレのイエス、構わないでくれ、我々を滅ぼしに来たのは分かっている、神の聖者だ」と叫ぶ。イエスは「黙れ、出て行け」と命じ正気に戻った。
38~41節 会堂から立ち去りシモンの家に行き、シモンの姑の熱病に苦しんでいたところで、枕元で熱を叱りつけて癒やされる。さらに日暮れになると安息日がおわり、病人を抱えた人々が集まり、その一人一人に手を置いて癒やされた(マルコ1章21~28節)。
42~44節 翌朝にはイエスは寂しい所に出て行かれたが、群衆は探し回り、イエスを見つけて集まり、一人一人に手を置いて癒やされ悪霊を追い出されが、人々の引き留めることを退け、「ほかの町にも福音を、告げ知らせねばならない」と語り、諸会堂に行って宣教した。
この見える「しるし」によって、ユダヤの人々はイエスが権威と力を持つメシアであることを初めて認めることになるが、しかしこれはイエスの本心ではない(11章29~30節see)。

その方は聖霊と火でバプテスマを授ける

2019-12-01 | Weblog
  ルカ福音書3章 

 16節「ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなた方に水で洗礼(バプテスマ)をさずけているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる」(聖書協会共同訳)

 1~3節 歴史的背景を先ず述べる。サマリアの総督ポンティオ・ピラトはユダヤ、サマリアの総督(28~36年)でヨハネが登場する。イエスの受難の時と重なる。彼は罪の赦しと悔い改めを洗礼(バプテスマ)によって示した。群衆はヨハネがメシアであると誤解した。彼は解く必要があり「わたしより遥かに権威ある方が来られる」と語り、その方の前には身を屈めて靴の紐を解き、外出の時には持ち運ぶ役目にも及ばぬ僕だと伝える(16節)。
 彼は水のバプテスマをヨルダン川で授け、罪の悔い改めを厳しくユダヤの群衆に求めた(7~14節)。「蝮の子らよ」と呼び、斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれると叫んだ(9節)。
 この厳しい神の審判の矛先は、領主ヘロデにまで向けられ、その悪事を責められたヘロデはヨハネを牢に閉じ込めた(19節)。
 ヨハネは遥かに権威ある方イエスに、民衆とともにバプテスマを授けた。彼はそれを思いとどませようとしたが、この時イエスは「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」と答えた(マタイ3章16節see)。更に言うならば、幾度も繰り返し犯し続ける人の罪の根源を断ち切るには、イエスの唯一一回限りの燔祭(焼き尽くす献げ物)によることを示している。つまり十字架による罪の贖いである。「聖霊と火のバプテスマ」とはこのことである(16節)。水のバプテスマは十全ではない。水の中に沈められ死んでいるようだが、また息を吹き返す。繰り返されるのはその為である。
火のバプテスマは焼き尽され塵灰になり罪の根は絶たれる。そこで神は新しく人を創造され、これに霊を吹き込み生きる者として下さる。明確な神の御業がここで啓示されるのである。
21~22節 神の国に入るには罪の赦しのバプテスマが要ることを、罪無きイエスは身をもって証しされた。この矛盾の解き明かしは、「あなたはわたしの愛する子、心に適う者」との天来の声とともに、聖霊がイエスに降ることで示された(22節)。
 次の聖句がそれを示す。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(聖書共同訳・第二コリント5章17節)。
 ヨハネが荒れ野で叫ぶ声(4~6節)は、メシアの出会いに至る道備えであった。彼は「この人を見よ」とイエスを指差す者であった(ヨハネ福音書1章29節)。
23~38節 イエスが宣教を開始したのは。およそ三十歳の時であり、人々はヨセフの子と思われていた(4章22節see)。この系図は歴史的関心に寄せて、民族的系譜を積極的に示唆している(使徒言行録17章26節see)。
マタイ福音書と異なり、ヨセフからダビデを経てアブラハムに至り、全人類の始祖であるアダムにまで至るのみならず、更に「神に至る」として結んでいる(38節)。つまりアダムは誘惑に負けたが、イエスは神の子として悪魔の誘惑に勝利する。これは4章のイエスが誘惑を受ける記述と関わっている。

天に栄光神に、地に平和人に

2019-11-30 | Weblog
 ルカによる福音書第2章 

11節「いと高き所には栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(聖書協会共同訳)

キリスト誕生を十二月二五日に定められたのは、ローマの皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教を公認した紀元三世紀以降であるが、その根拠にはローマ人の冬至祭で太陽神ミトラから取って替ったことによっている。いつの時期にキリスト誕生があったかという議論があるが、羊飼いらが野宿する季節は、ユダヤ地方の冬の雨期では無い筈と言われる。然し羊飼いらが常識論に当てはまらない様な生活を強いられ野宿する生活から軽蔑され、羊の群を牧する為に雇われ労働者でした。ここで大切なことは、十一節「あなたがたのために、救い主がお生れになった。この方こそ主メシヤである。」という天使らの告知である。当時のユダヤ社会で、軽蔑され疎外され、季節はずれでも働かねばならない羊飼いに「あなたがたの為に」という、神の宣言があったことである。
同じ常識では考えられない様なことが、ナザレ村に住んでいたヨセフとマリヤの若い夫妻の上にも伺われる。ローマ帝国が征服していた全ての国々に向けて、人口調査のために「住民再登録」(1~3節)という勅令を出した。ローマ皇帝が、その支配する全地域の住民登録をして人民の数を掌握し、徴税と徴兵の機構を一層完備しようという願いから来たのである。「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と言われる当時の社会平和は、この強固は国家権力に上に築かれた平和だったのです。この大きな社会情勢の中で、彼らは出産が真近いにも拘らず、ガリラヤから本籍地ベツレヘムに登録のために帰って行かねばならなかった。そこで当然予想される旅先の出産という事態を強いられる形で、ヨセフ・マリヤの二人はナザレから百二十キロの「ダビデの町」ベツレヘムに行き、その町に滞在することになる。ところが宿泊客が多くて部屋が塞がっていて休む場所がない。初子を産むのにやむを得ず「飼い葉桶」に寝かせる形となる。常識を越えた「イエス誕生物語」がここに記されている。
嬰児イエスに、十一節「救い主」と「主」の二つの称号を与えている。この「救い主」とはローマ社会では、ギリシヤの神々や、エジプトの神などに向けられた称号であり、「主」はローマ皇帝、アウグスト・アグリッパ一世、二世を呼ぶ時に使いました。「メシヤ」(キリスト)も、旧約聖書に示される場合、ユダヤ再建の指導者としての王、イザヤ書ではでは、クロス王を指していた。つまり誰の目にも客観的に、その様に呼べる形である筈の呼称が、それとは全く掛け離れた姿の「救い主」であり「主」「メシヤ」ということである。
その誕生物語に天からの協賛が響き渡る。それは夜空を彩る星空から天使たちの大軍が大合唱となって響くのであった。
11節「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」これに応答したのは羊飼いたちである。出かけて行く先は、貧しい羊飼いらに示された飼い葉桶に寝ている乳飲み子である。彼らは、「産声を上げている」ということが、探し当てる根拠であるとしている(12節)。
代々のキリスト教会は、キリストとの出会いを告白する「栄光の讃美」(グローリア)としてしている(ルカ福音書19章38節・賛美歌21:93-2参照)。

わたしの魂は救い主である神を喜びたたえます

2019-11-29 | Weblog
ルカ福音書第1章 
 
  47-48節「わたしの魂は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に目を留めてくださったからです」(聖書協会共同訳)

 1章はマリアとエリサベトの二人の女性が描かれている。3~7節エリサベトはアロン家の娘で神の前に正しく主の掟を守る、夫は祭司ザカリアで、二人とも神の前に正しく主の戒めを守り、非のうちどころがなかったがエリサベツトは年老いて不妊の婦人であった。{正しい人}とは神の祝福を受けて嫡子を得ると思われていたのである。祭司の勤めをしていたザカリアに妻エリサベトが男子を産むと告げられ、またエリサベトにも同様の告知があり、驚く(8~25節)。そしてナザレに住むダビデの家系ヨセフと婚約している年若い乙女マリアにも6ヶ月後、身分も育ちも異なるが、この二人にも神から男の子を授かるという物語(26~39節)である。
 エリサベトはアブラハムの妻サラと同じで、神から祝福されて懐妊した。これに対してマリアは全く違っている。天の使いから「恐れるな、神から恵みを頂き、身ごもって男の子を産む」と告げられ驚愕する。婚約中なら懐妊しても誰からも問われないが、まだ男の人を知らないと応えた。しかしエリサベトとは異なり「聖霊があなたにくだり、いと高き方の力があなたを包む」(35節)という。口語訳は「覆う」だが、NKJは the power of the Highest will overshadow youである。これは神の臨在を表わす雲が幕屋を覆うのと同じで(出エジプト40章35節)、聖霊の働きの象徴的な表現であり、ヨセフの子であることが否定される。そして「聖なる者、神の子」と呼ばれる。
 ここで二人には共通した困難が待ち受けることとなる。不妊と云われた老女と、父親がはっきりしない乙女は、噂の的となり興味本位の好奇心に晒されるが、何よりやがて生れ来る子の生涯に神から与えられた使命についての思いである。それは15節と32節に示されている大変な事柄である。しかし彼女らは「主が告げられたこと」をはっきり受容した(38、45節)。
 マリアはこの時、六ヵ月前に懐妊したエリサベツのことを告げられ、会いにユダの町へ出かけた。この時の三カ月の滞在はエリサベツ、ザカリアそしてマリアらが、やがて産まれてくるイエスとヨハネの、神から与えられる働きを予見することとなった。それがキリストの教会で高らかに賛美することばとなって記されている。
46~55節にあるマリア讃歌(マグニフカート=ラテン語「あがめよ」)であり、67~79節のザカリア讃歌(ベネディクテゥス=「ほめたたえよ」)である。
 マリアの挨拶をエリサベトが聞いた時、胎内の子がおどった(41節)。これは神の子の誕生を喜び認める預言である。エリサベトはマリアを「わたしの主の母」と呼び(43節)、年齢や身分の相違を超えて、敬意と親愛を表わした。
 この時マリアの口から「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」という讃歌が出てきた(47節)。それは、救いの到来の喜び(47~48節)、神の偉大な力が主を畏れる人々に及ぶこと(49~50節)、権力者はその座から引き下ろされ、身分の低い者を高く上げ、飢えている者を良いもので満たすという逆転がなされること(51~53節)である。 ここにマリアの絶対依存の信仰、不可能を可能にする神への信頼が示される。 

昨日も今日もまた永遠に変わることのない方

2019-11-20 | Weblog
 ヘブライ人への手紙第13章 

8節「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」(聖書協会訳)

 1節「兄弟愛をいつも持っていなさい」。(小見出し=神に喜ばれる奉仕1~19節)。神の御國を継ぐ者として、地上の生活を確かなものとするという実践が勧められる。先ず愛の実践であるが、旅人をもてなすこと、気づかないで天使たちをもてなすことがあるという(2節)、迫害で投獄されている者と虐待されている者の慰問(3節)。この旅人も虐待されている人々も概ね巡回伝道者を指している。
 4節「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」。貞節が問われている。健全な結婚とは夫婦間の性的生活を指している。「汚す」とは男女の性的不道徳を犯すことで、一夫一婦の関係が質される。他人の目を誤魔化しても神の目は誤魔化せない。また金銭に執着しないで神から与えられるもので満足する(5節)。「わたしは決してあなたを離れず~」は申命記3章6節の引用。6節「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」も詩118篇6節の引用である。
 7節「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」。罪と戦って血を流すまで抵抗した指導者(12章4節)である。殉教者が想定される(12節see)。イエス・キリストは変ることのないアルケーゴス(先導者)である(8節)。「異なる教え」に惑わされないこと(9節)。これはエッセ派の混合したキリスト教、グノーシス派を指している。
 10~13節は、既に9~10章で示された大祭司イエスの御業を思い起こさせる。「一つの祭壇」とは、唯一一回限りの犠牲を献げる(キリストの)祭壇である。「宿営の外で苦難に遭われ」(12節)「辱めを担われた」(13節)とは、十字架による罪の贖いをなされたイエス・キリストを指し、その御許(みもと)に赴こうではないかと勧めている。天の御國を仰いで賛美のいけにえ、唇の実をたえず献げるのである(14~15節)。
 17節「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい…」。既に地上の働きを終えた指導者(7節)でなく、今立てられている指導者である。その執り成しと導きに信頼して従うのである。
 18節「わたしたちのために祈ってください…」。わたしたちは明らかな良心をもっていると確信しているので、見倣うことができると思うという。7節と同じ勧めである。
 20~21節 頌栄
 20節「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを死者の中から引き上げられた平和の神が、御旨に適うことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように」。イザヤ書63章11節に基づいている。永遠の大祭司イエスが罪の贖いを完成し、更に羊の大牧者として天の栄光へと導き牧して下さるという喜ばしい名が崇められるようにというのである(21節)。本書全体でキリストの復活に直接ふれている唯一の箇所である。
 22~24節 終りの挨拶
24節「あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちに宜しく」。1章のはじめには挨拶の言葉はなかった。場所と時と宛てた人々については推定の域を出ない。ただ確かなことはユダヤ人キリスト者を念頭に書かれたことと優れた指導者たちとの交流(7、17節)があったことが知られる。

信仰の創始者また完成者イエスを見つめながら

2019-11-19 | Weblog
 ヘブライ人への手紙第12章 


2節「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとはないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(新共同訳)

 1節「こうゆう訳で」は11章の「証人の群れ」に登場した信仰の英雄たちを示しながら、今や信仰の馳せ場を走らなければならないと促すのである。絡みつく重荷をかなぐり捨て、身軽になるのである。それは罪の重い外套を着ていては定められた各自の競走を完走することは出来ない。
 2節「信仰の創始者」は2章10節では「救いの創始者」(アルケーゴス)となっている。この語は「先導者」という意味もある。イエスいて信仰が開始し、信仰が完成するという事になる。このお方のことをよく考え、罪と戦い抵抗したことに導かれているなら、迫害の恐怖と信仰の挫折と倦怠などに陥ることはもはやない(4節)。
 5~6節は「箴言3章11~13節かの引用である。子が父親の鍛錬(パイデイア=子を育て鍛える)を軽んじないことである。鍛えないことは無関心で、正当な親でない(庶子扱い)こととなる(7~8節)。人生が一種の霊的訓練の場とみて、平和の実をむすばせる事になるという(ヤコブ書3章18節参照)。
 12節「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」イザヤ35章3節。13節「足の不自由な人が踏み外すことなく、寧ろ癒やされるように、自分の足でまっすぐな路を歩みなさい」箴言4章26節。
14~29節・小見出し「キリスト者にふさわしい生活の勧告」
14節「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」主を見るとは祭儀的な意味と同時に終末論的な生活を求めることになり、同時に再臨のキリストとの出会いを待望することとなる。
15節「三つの警告が語られる。第一は神の恵みから除かれることのないようにということである。恵みとは基本的な選ばれて神の態度であり、すべての人の行為に先たち、人の側に応答を要求する。第二は「苦い根が現われて人を悩ますことである。申命記29章17節。信仰から遠ざかる者、神に不従順な者に対してである。第三はそれによって多くの人が汚れることのないように。背教がひとびとに影響を与えることである。16~17節はエサウが約束の継承権を一杯の食物で放棄し神の祝福を拒否した物語(創世記25章34節)である。後悔したが事態を変えることはできなかった。
 18~24節はシナイ山の麓での経験で聖なる神の顕現である。モーセが信仰的決断でイスラエルと共に苦しむに至った事を示す。「地も天も揺り動かす」はイエスの死と復活の出来事が、ハガイ書2章6節の預言が成就した現象であると説いている。キリスト者はこの「揺り動くことのない」御国が約束されていることを感謝するのである(28節)。この感謝の念をもって、主を恐れ敬いながら、神の使えていくのである。

望むところの実質と、見えない事実の確証

2019-11-16 | Weblog
 ヘブライ人への手紙第11章 

1節「信仰とは、望んでいる事柄の実質であり、見えないものを確証するものです」(日本聖書協会訳)

 1節でまず信仰の内容と前提が示される。信仰とは、望んでいる事柄の実質であり、見えないものを確証するものという。「信仰」には定冠詞がないので、定義的な文体となっている。「望んでいる事柄」は人間の側の態度と関係なく、存在する客観的なものを意味する。「確証」は1章3節では「本質」と訳されている。
 「信仰によって~」が3~12節までに七回繰り返して述べている。3節は1節後半の主張が別な角度から述べているといえる。「この世界」とは1章2節に述べている世界でなく、神の言葉により創造されたという。
 まず創世記4章2節以下のアベルとカインの物語である。「勝れる犠牲」は「豊かな」という意味であるがその種類と選択においてカインにまさっているという考えで証人の血が後代に及ぶというのである。次にエノクが登場する(5節)。これは創世記5章24節の関連による。信仰は神に近ずく必須条件である。神との関係に入る前に神がなしてくださるということになる(6節)。「ノア」(7節)は1節後半の実例として登場する。
 8~12節はアブラハムと妻サラである。最高の模範者としてアブラハムは新約書に引用されるが(ローマ4章3節、ガラテヤ3章6節)、服従と待望の信仰としてである。ここでの「幕屋」は遊牧民の滞在の場所、彼は仮住いとし、堅固な土台はない。サラは不妊だが約束の方が真実な方である信じたので(11節)、もうける力を得ていた(聖書協会訳参照)。
 13~18節はイサクの献げる記事であるが、「献げました」「献げようとした」と完了形と不完了形が、対照的に用いられている。神の命令にアブラハが如何に答えようとしたかが伺われる。18節は創世記21章12節の引用で、ローマ9章7節にも引用されている。
 23~31節はモーセの物語である。信仰の決断により「神の民」としてイスラエルと共に苦しむに至ったことが示される。26節はキリストの受難の予形として示されている。29節は出エジプト記14章であるが、この信仰はイスラエル全体の信仰となる。30節はヨシュア記6章1~20節である。
 「ギデオン、バラク、サムソン、エフタ」は士師で士師記に詳細が記される。ダビデはイスラエルを代表する王、サムエルは士師であるが、預言者の代表として上げられる。祭司の名が挙げられないのは、メルキゼデクこそが真の祭司であるとの確信から来ていると思われる。「国々を征服し、正義を行い、約束のものを手にいれる」とはイスラエル統治を示している。
 33節「獅子の口を塞ぎ」サムエル記上17章34節以下のダビデとダニエル書6章25節に出てくる。34節「燃え盛る火を消し」もダニエル書3章25節である。
 35節「サレプタのやもめ」列王記上17章22節、「シュネムの女」(列王記下4章34節)「更にまさったよみがえりに達するために」は預言者たちによって生き返らせた者たちは、最後には死ななければならなかったのに対して「拷問にかけられた」信仰の英雄たちは、死そのものの克服としての復活を信じて忍耐したということを指している。
 37節「石で打ち殺され」たのは祭司ヨヤダの子ゼカルヤ(歴代誌下24章20節以下)「のこぎりで引かれた」といわれるイザヤと考えられる。エリヤの時代のイスラエルの預言者たち(列王記上19章10節)。剣で切り殺された預言者ウリヤ(エレミヤ26章23節)たちといわれる。「羊の皮や山羊の皮を着て放浪した」のはエリヤ、エリシャ。
 信仰者たちは最後の拠り所を天に持つ者であったと言われる「世は彼らに相応しくなかった」といわれる。「信仰によって神に認められながら約束のものを手に入れることがなかった」(39節)。
さらに優ったものとは、キリストによって確証された新しい約束、福音を指している(40節)。旧約時代の信仰者も新約時代の信仰者も神の教会に属する者であるから、わたしたちを抜きにして完全な状態に達することは、なかったのであ

信頼しきって、真心から神に近づこう

2019-11-15 | Weblog
 ヘブライ人への手紙第10章 

 22~23節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう」(新共同訳)

 1節「律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。ですから、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」。人の手で造られた幕屋で、年毎に生け贄を献げて神に近づく人たちを完全な者にはできない。出来たら生け贄を献げることは中止される筈だが、実際は繰り返されて、罪の記憶が甦るだけである(2~3節)。
ここで詩40篇7~9節を引用し、キリストが来られた時「罪を贖う生け贄を好まない、むしろわたしのため、体を備えて下さった」という。「体を備えて下さった」はヘブル語原典では「わたしの耳を開いた」だが、これをギリシャ語訳ではどんな事にも従う意味として、聖意を行うために「体を備えて下さった」とした。また詩40篇8~9節も「御旨を行うためにわたしは来ました」として、キリストが罪の贖いのために、ただ一度ご自身の体を献げられたことだと説いている(8~10節)
 11節「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じ生け贄を、繰り返して献げます」。しかしキリストは、罪のために唯一の生け贄を献げて、永遠に神の右の座に着いておられ、そして敵どもがご自分の足台となる時まで待っておられるというのである(13節)。
キリストの唯一の献げ物により永遠に完全な者とされたことを、改めてここでエレミヤ31章33~34節を引用して確認する(15~17節)。もはや「私は彼らの罪や不法を思い起こすことはない」との預言から、罪を贖う祭司らの供え物は無用なのだと説いた(18節)。
 19~25節は奨励と勧告の部分である。22節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」。約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょうという。先ず信頼の確信に満たされることである。「信頼しきって」(プレーロフォリア)は「満ち満ちている、充満する」、NTD訳「信仰の全き確かさにおいて~」。分裂状態でなくひたむきな心である。そして告白するものをしっかり持ち続けること(23節)。NTD訳は「希望の信仰告白に固着しよう」となっている。互いに愛と善行に励まし合うことである(24~25節)。
 26~31節は警告になる。26節「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません」。「故意の罪」とは、民数記15章27~31節に出ている。「過失罪」と区別し、神を冒涜する者として断罪される。ここでは「恵みの霊を侮辱する」こととなっている(27~復讐が29節)。神の裁きの論拠として申命記32章35節と」詩135篇14節が引用される(30節)。「復讐は私のすることである。私が復讐する」については、パウロも記している(ローマ12章19節)。
 32~36節 回顧と展望について。「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい試練に何度も耐えた初めのころのことを、思い出してください」(32節)。これまでの教会内外の困難さに耐えてきたことを思い出させる。「苦しめられて見せ物にされた」こと(33節)、「捕えられた人たちと苦しみを共にしたこと」「財産を奪われても耐えた」(34節)ことなどである。
 36節「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」。もう少しすれば、来るべき方がお出でになる。遅れることはない。私の正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者は私の心に適わない。しかし、私たちは、ひるんで滅びる者ではなく、信じて命を得る者なのです(37~39節)。様々な困難に耐えることができるのは、来るべき方への信頼によると、ハバクク2章3節を引用して告げる。