ローマの手紙第1章16―17節
聖書はバイブルというが、これはギリシャ語で「本」(書物)、英語ではザブック(ザ=大文字)といいます。唯一の本ということです。印刷技術が発達していなかった紀元16世紀マルティン・ルターの宗教改革があった時代には一般人には手にすることは出来なかった。印刷技術が発明された同じ時期に、宗教改革が置きて、ルターは、これに相まって誰でもルター訳聖書が読めるようになったのです。同じキリスト教でもルターの宗教改革を認めなかったローマカトリック教会では二十世紀になるまで、ラテン語聖書しかありませんでしたから、人々は礼拝で神父の話で聖書を彼らの都合のよい話として聞くだけで充分だったのでした。
1987年になって日本で、初めてカトリック教会とプロテスタント教会が一緒になって「新共同訳聖書」が出版されたのです。
わたしの青年時代ではこれはありませんでした。所謂「文語訳聖書」でしたからこれでも難しくて小学校を出たばかりのキリスト者は田舎では少なくありませんでした。
毎週礼拝に出席した青年と話しましたが、彼は十数年間自分の聖書を持っていませんでした。聖書の話は聞くが聖書は読まない。聖書をフーと吹いてポンとたたくだけの「フーポン」信者と呼ばれる者もいました。
聖書の時代エルサレム神殿の庭には大きな水盤があり、手足を洗い身繕いしていました。日本の神社にも似たような場所がありますが、ユダヤでは真鍮の水盤で鏡になっていました。そこで姿が映し出される。
最も厭なことは人から指摘され、評価される事である。しかし誰もが同じであるとすれば、平気で居られる。「赤信号みんなで渡れば恐くない」という。榎本保郎牧師は「みんな病」というのが、実際はみんなでは無く、同じ仲間が二三人おれば、みんなになる。
福島原発事故で放射能汚染が二年八ヶ月経っても、周辺市町村ではまだその汚染は排除されていない。人体にうける放射能の被爆線量を表わす単位がシーベルト(百ミリシーベルト以下であれば影響は少ないが、これを越えて、五百、千、五千になると大変危険)。
聖書が罪を示す言葉は二百程あるといわれるが、最もよく知られるのは「的外れ」「脱落」「背き」です。「的外れ」とは、弓矢の的のことで、この場合力を絞れば絞る程手元が狂っていますから、決定的になる有り様を表現しています。現代風に言えば「ダーツ」(投げ矢)、あるいは迎撃ミサイルというのもあります。これは偽りの偶像に目を奪われて生きることです。
「脱落」とは、道路を脱線することです。登山で起こる墜落がその例です。(乗客一〇六人と運転士が亡くなったJR福知山線「尼崎駅」脱線事故・二〇〇五年四月)。所謂「背き」の罪です。神に背を向けて生きることです。方向転換してキリスト者は神の前に歩んでいる生涯を視野に入れる時にところに自分の真実な姿が浮かび上がってくるのです。
神学者ケルケゴールは絶望が「死に至る病」であると言いましたが、この言葉の出所はヨハネ福音書十一章四節(ラザロの死)の主イエスの言葉でした。これは人間がみんな陥る罪の病です。この絶望は「自分自身を見つめること、から始まる」と言われます。
すべての関わりを失った単独者を指しています。孤独は地獄です。それは神から見放されることです。創世記二章十八節で、神はアダムに「一人でいるのは良くない。彼に会う助け」口語訳・相応しい助け手」をその体の一部分で創造されたが、その二人は神に背くことに共謀してしまいました。
その聖書の記述は創世記3章1~7節に最初に神に創造された男と女が狡猾な蛇の誘惑にあって、神からの言葉に背いてエデンの園から追放されてしまう経緯が記されています。
神は究極の手段として、死刑が確定している者を、第三者が身代わりになって死んだので、その理由から恩赦で裁判長が『無罪放免』と宣告するのです。これは現実に起こり得る事柄では無いでしょう。これを神が義と認めるという表現になります。「信仰義認」とも言います。この手紙を書き送った使徒パウロは、実体験としています。この手紙をわたしは信仰に導かれる時、その後も繰り返し読みました。3章22―26節、5章15―16節を読むと、その意味がよく判ります。
一般の裁判事件では冤罪による誤認逮捕で判決を受けたが、後にアリバイが成立し再審により無罪判決を受けた例があります(免田 栄事件二三歳の時から三十八年獄中・日本で最初の事例)。聖書の場合は恩赦ということになります。
2013年11月17日礼拝説教