植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

コロナなのに五輪もお祭りもやろうとするから・・・

2021年07月11日 | 時事
お騒がせ大臣西村さんが、一発かましました。
緊急事態宣言に伴って、飲食店に自粛要請したまでは良かったのですが、これに従わない飲食店やお酒を販売する酒問屋・酒屋さんに、取引銀行から「働きかけてもらう」とやりました。政府の言うことを聞かない業者は、資金調達ができなくなっても知らんよ、というわけです。

 すでに、酒類販売を所管する財務省から通達まで出されたそうです。これは、西村大臣の一存、あるいはうっかり余計なことを口走ったはずがありません。オリンピック開催強行で逆風が吹く中、第5波が起きているので政府が血迷っているのです。内閣と役所で諮った上で、飲食店の感染防止対策の一つとして「強い態度」をみせたかったんですね。

 民間企業や事業者の正当な営業活動を阻害するには法的根拠が必要です。それなしに、民間を恫喝し有無を言わせず思い通りにさせる、という暴挙なんです。また、自らの責任を回避し飲食店への補償も無しにコロナ感染の元凶扱いをし、転嫁している姑息な手段でもあります。

 これを世間も当事者も看過出来るはずもなく、猛烈な反感を買いました。政府は、この2年間無策でコロナ対策を迷走していて経済対策すら場当たり的なのです。ちょっと沈静化したら緩め、オリンピックは確たる説明もコロナ防御態勢も取れず、感染者が増え始めたら慌てて緊急事態宣言を出す、の繰り返しで、国民は飽き飽きしてきました。

 西村発言が、あまりにも見当はずれな当事者の気持ちや生活を蹂躙することにやっと気づいたら、官房長官が「関係省庁から個別の金融機関などへの働きかけは行わないこととした」 と取り消しに走りました。菅さんに至っては「その発言は承知していない」としらを切っておしまい。

 こういう政府の対応というのは何なんでしょうか。ワタシの人生でこれだけお粗末で低レベル、傲慢にして国民を馬鹿にした内閣は初めてであります。テレビのCMの文句を借りれば「ワタシ史上、最悪」であります。ワタシ達から請託を受け税金を預かっている政府の傲岸不遜な姿勢をこれ以上許していいものでしょうか。

 ということはさておき、当地平塚ではあらかたの行事が昨年同様中止になっています。日本でも有名な「平塚七夕まつり」は本来なら一昨日から近隣の観光客が押し寄せ、押し合いへし合いになるはずだったのですが、実質的には中止になっています。花火大会も無しで、地元三島神社の例大祭も中止なのですが、地元の御神輿好き達がもう辛抱堪らず、担がなくても神輿を出そうということになりました。子供神輿は出さず、飲食や鳴り物もパレードも無し。大神輿を神酒所にトラックで運んで、神事のみ執り行うのです。

 花代と称して、お金を集め、みんなが集まって(遠慮がちに)酒盛りをするのが主たる目的です(笑)。ワタシは諸事情で3年前から評議員というメンバーに混ざっているので、基本的には御神輿の準備から打ち上げに至るまで6,7日は動員されます。規模を縮小してもやることは一緒、紅白のしめ縄を締め込み、紙垂貼りをいたします。テントを張って神酒所を立ち上げ、花代名簿を張る看板を立てます。

 今日これからその準備で設営に行きます。今週末が本番、まだコロナワクチン接種2回目も終えていないので、気が進みません。蒸し暑い中マスクをして大勢のオジサン方と作業するのは嫌なのですが、これも渡世の義理であります。ホント嫌なんですけど。
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蒸し蒸ししてるがムシムシ退治は無視できない

2021年07月10日 | 植物
昨日は雨模様ということで事前に予定のゴルフが中止、昨年同日のブログ記事の内容が届いていますがr、偶然去年も同じ日にゴルフの予定が雨天中止になっていました。ゴルフの日は、書道や篆刻、園芸もほとんどがパスとなります。それがキャンセルとなれば、残念ではありますが、やりたいことが丸一日出来るので一日得した気分になったりします。

 本日は久しぶりの晴天、明るい日差しがうれしいのです。地植えのスイカは昨年同様ほとんど収穫が見込めません。冷夏多雨日照不足で、ここ数年同じことの繰り返しです。昨年成功した屋上のスイカは土中の水の量をある程度調節できるので、なんとか育っていますが、雨続きで雌花が受粉出来ず、6つの苗から9個のスイカしか育っていません。もう、収穫時期になるので、これから開花してもちょっと収穫までいけるかあやしいのです。

 貴重な梅雨の晴れ間なので、早朝から外仕事蒸し暑いけれど、伸び放題の草に途方に暮れながらも滝の汗を流しながら一仕事してまいりました。蒸し蒸しムシムシ。

 朝の外仕事のルーティーンは、虫の駆除・ぼかし肥料作り・草取りであります。庭のブルーベリーはいつになく豊作でびっしりと実がつきました。ブルーベリーは大粒になればなるほど酸味より甘さが増して柔らかいのですが、沢山なったうちのは、小粒で酸っぱいのです。これはジャムにしよう、と思い立って小さなざるに一杯は収穫しました。

 その時右手の甲にピリッと痛みを感じたのです。ブルーベリーには棘が無いので刺さることはありません。そして木をよーく見たら「イラガ」を発見しました。注意して目を凝らすと4,50匹はいます。こいつは大変です。刺されると電気が走ったような痛みが続きます。以前バラ、ユリ、桜、柿などに発生したのを見つけて何度か刺されています。

 収穫は急遽中止、2種類の殺虫スプレーで駆除いたしました。ここ2週間ほど庭木や果樹、野菜などの世話が出来ず、害虫の駆除はぶどう棚のコガネムシだけでありました。コガネムシは、ブドウの葉が大好物で、毎朝群れをなしてやってきます。ピークでは一日2,30匹駆除します。今年はビニール天井を作ったのが奏功したのか、せいぜい4,5匹にとどまっています。

 すると今度は、3年目を迎えるブランド柿「花御所」の葉っぱにコガネムシを5匹見つけました。花御所はデパートで一個千円以上で売られている(と聞いた)日本一美味しい甘柿なのです。葉に食害が出れば光合成を阻害されますから一大事です。直ちに捕殺いたしました。

 ふしぎなことに柑橘類に集まるアゲハの幼虫、これが今のところほぼ皆無なのです。レモンにもデコポンにも幼虫はおろか卵も見つかりません。それでも秋口まで産卵するので安心はできませんが。

 食べ物ではありませんが「キスゲ」にアブラムシがしつこく集まってきます。白くてぷっくり膨らんだ種類でその名前もずばり、「キスゲフクレアブラムシ 」で、キスゲにしか興味が無いようです。毎日のようにキンチョール(フマキラーでもいい)を吹き付けるのですが翌日にはまた新たに吸着してきます。いやいやしつこい。
 梔子にもここ数週間鶯色の蛾「オオスカシバ」が飛来しております。こちらはクチナシ専門の害虫で、擬態して見つけにくい幼虫は大食漢であります。頭上の桑の葉っぱには葉巻虫も発生しているんです。

 そろそろネオニコチノイド系の農薬の出番です。葉っぱから吸収した成分が植物全体にいきわたり昆虫類のほとんどに効果がある神経毒性の薬です。ひと月ほどは持続性もあるので、農家さんはこれを好んで使います。身分証明とはんこが必要な毒性の強い農薬なんです。また、ミツバチの大量死に直接関係があると言われているので世界的には禁止・制限されています。

 ワタシは、「モスピラン」を使っていますが、年に2,3回それも開花していない植物と食用にしない木々に限定して撒いています。果樹も、よほどの場合収穫時期の数か月前にしか使いませんが、柑橘もブドウも今のところは人力駆除で間に合いそうであります。

 ムシムシしていますが、貴重な晴れ間の時間であります。今日は熱中症に注意しながら防護マスク・ゴーグル着用で①除草剤②モスピラン③殺菌剤と農薬散布いたします。
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野球に怪我は付き物だけど、故障は避けられる

2021年07月09日 | スポーツ
 松坂大輔さんが引退だそうです。40歳、年齢からみればとっくにやめていてもおかしくないのです。22年前夏の甲子園での彼の投球は鬼気迫るものがありました。準々決勝でPL相手に250球投げた翌日、1イニング救援登板したのに、決勝戦でノーヒットノーランという離れ業を見せました。

 高校生の松坂選手の姿は精悍で古武士を思わせるような風貌でした。灼熱の甲子園で泥と汗にまみれた松坂が黙々投げる姿に心を動かされた人も多かっただろうと思います。
 しかし、その時に感じた「違和感」あるいは懸念が払拭できませんでした。これは、投げさせすぎではないか、いつかそのツケをおわされるのではないかという思いでした。現在では肩は消耗品ということが常識で、メジャーリーグでは徹底した投球数の制限を行っていますし、子供たちに過剰な投球をさせないように規定があると聞きます。

 名将と謳われた渡辺監督が過酷なまでのプレーを強いたのは、松坂はじめ高校生球児に優勝させたかったからだ、と賛辞の声を贈る人もいます。高校の監督は学校から優勝しろとプレッシャーをかけられるでしょう。また自分の名声を得るために、生徒を犠牲にしてもいいと考えてるのではないか、そんな疑念が払拭できないのです。高校野球では,かつてから頭抜けた好投手を擁するワンマンチームでほとんどの試合に一人で投げぬくということがよくあります。そして、怪物とも呼ばれるようなその才能を生かしきれないまま野球人生を終わる投手もたくさんいます。その多くは酷使による肩や肘の故障が影響します。
 

 古くは昭和の怪物江川投手、藤浪晋太郎などを思い出します。登板過多、投げすぎは徐々に体に蓄積し、いつか怪我・故障を引き起こします。休養・治療、手術などを繰り返すようになるとほとんど元の様には投げられなくなります。特に肩の故障は治りにくいのです。

 高校野球夏の大会で過去30年の中で最も球数を投げたのはあのハンカチ王子斎藤佑樹、2位が日ハムに行った吉田輝、3位川口知哉、今井重太郎、島袋と続きます。大野倫はプロに進みましたが甲子園の過剰登板で投げられなくなり、野手に転向しました。投球数の多い10人のうち、まともにプロで活躍できたのはわずか二人です。他の選手は怪我に悩ませられて野球をやめた人が多いのです。

 松坂選手は西武に入った後、8年間エースとして頑張りましたが目立ったのは最初の二年くらい、あとは彼のポテンシャルにしてはさほど抜きんでた活躍をしたとは思えません。そして、2007年ボストンに移籍します。

 その時の記者会見の得意満面の笑顔が印象に残りました。その頃はすでにあの甲子園の風貌とはうって変わりまん丸のふっくらした顔でありました。無邪気な笑顔を見せた松坂を見て、おそらくメジャーでは大した成績を残さないだろうと感じました。MLBへのチャレンジャーのはずが、成功者になったような態度だったからです。案の定、故障に苦しみ8年間で通算56勝43敗という凡庸な成績を残して帰国しました。その後日本の球団で投げてますが昔日の勇姿は消え、球威の無い球しか投げられなくなっていました。

 かつて怪物江川は、何度も他球団のドラフトを拒否し大学などで回り道をするうちに劣化し故障を起こし選手生命を縮めました。巨人引退前の数年間は、投球動作に入る前に不調の肩を回すしぐさが目立ちました。今、田中マー君がヤンキースを解雇され、楽天で投げています。彼はMLB挑戦が決まっていた日本シリーズで何試合も投げさせられ星野監督に潰されたと思っています。

 いずれ野球選手は、家族やチームメイト、監督や球団の協力や指導・援助によって成長すると同時に、それらに翻弄され人生を左右されるリスクもあるのです。

 エンジェルスでは、世界を驚嘆させるほど大谷翔平選手が大活躍してます。高校の時は何度か故障し、甲子園に出場できませんでした。日ハムからエンジェルスに在籍する間も、何度か怪我に見舞われ肘にメスを入れることになりました。本人の希望もあり、エンジェルスやMLBの事情で二刀流を続けてはいますが、バッター一本に絞っていくべきだろうと思います。彼の選手生命を考えたら、体に負担の大きい投手は、あと数年で断念すべきでしょう。あれだけのホームランを打てるのですから。


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いしがかたい 印材色々

2021年07月08日 | 篆刻
 ワタシは、若い頃諸国を旅いたしました。といっても、ほとんどが外国でも、飛行機で数時間で到着する近場であります。台湾、香港からサイパン、シンガポール、タイ、ベトナムなど、東南アジアではほとんどの国を旅行しましたが、中国、ミャンマー、フィリピンには一度も行きませんでした。理由は行きたくないから(笑)であります。

 衛生的でないこと、治安が悪いこと、旅行者が安全に過ごせそうもないところは避けてきました。とりわけ中国は、都市部の大気が汚染されている、トイレが不衛生で、食べ物も何が入っているか安心できません。汚らしいイメージなんです。不誠実、道徳心も乏しく日本人からぼったくる、なにより公安が目を光らせる監視社会であることが致命的です。誘われたことはありますが、ワタシは中国だけは絶対行きません。意志が固いのです。

 旅行に行った人の話や紀行文などから推察するに、観光地は圧倒的に古寺が多く、土産物屋には書道関連の店がたくさんあり、土産用に筆、書画、硯、墨などが置かれ、総じて質が悪い(偽物・粗悪品)わりには高価なんです。ヤフオクで集めた印材にもそれらしいものが多数紛れております。特に「鶏血石・田黄石・芙蓉石」などの超高級な印材は、人工的に練物として作られたり、安物の表面にフィルムを張って「本物」として公然と高値で販売されているのです。

 聞くと篆刻・印章の店も多く、観光者はその場で何分も待つことなく印を彫って貰えるそうです。下書きも無しでいきなりごりごり彫って、ハイできた、みたいなノリのようです。彼らはただの町のはんこ屋さんで、手馴れてるので逆さ文字をあっという間に機械的に彫ることが出来るのでしょうね。

 そもそも、篆刻が一つの芸術や技巧としてのジャンルに認められるようになってたかだか500年ほどだそうです。紀元前から中国では書画や公文書に印を押すという文化がありましたが、それまで職人さん職工さんが制作して、官庁や文人・書画家に納品するということだったようです。現在残されている名筆・歴史的文書のほとんどが石碑・石板に刻まれたもので、腕のいい石工が、書かれた書を転写、石に刻んだものであります。
 それが印を作ることを数千年もの間、名も無き石工や印職人が漢字文化を支え、貴重な歴史的文書や芸術的書の保存に貢献してきたのですね。
 
 一般の人に印を彫ることを容易にしたのは「印材」であります。中国の田舎や山岳地帯で独特の柔らかい均質の石が採石されるようになりました。寿山石、青田石などです。特殊な道具(石鑿など)と金槌みたいなもので時間をかけて彫っていたものを、簡単な刃物で刻むことが出来るようになったのです。書道や山水画を描く人たちは、落款印としていくつもの印を必要とします。安上がりということもあって 多くの文人が、手軽に自身の芸術的センスで印を自作するようになったのは想像に難くありません。

 そして、ワタシが知っている数少ない中国の篆刻家「呉昌碩」先生などが活躍し、篆刻というジャンルが確立していったのです。それがあって呉先生の「臨石鼓文」という書籍を以前買い求めました。この法帖をだいぶ練習して、篆書の基礎になる書体を学びました。
 
 印として使われる素材は石だけでなく、水牛や象牙、ガラス、竹、木などもあります。しかし、それらは「印鑑用」と見做しております。彫りやすさや入手しやすさからすると「石材」に優るものはありません。ワタシの手元に無数にある印材の中でも、そうした骨材・メノウなどは硬くて印刀などの歯が立ちません。これらは、印鑑用高速回転の精密ドリルで彫るしかありません。
 
 また、印材として流通してる石は、ほとんどが中国で産出されるものですが、種類から材質からもう千差万別ピンキリであります。指で傷つくくらい柔らかい「凍石」とか粉を固めたようなもろもろした石質などの柔らかな石から、刃先が入らないホントの石や宝石用のものまで硬さもまちまち、中に細い金属質の層(ヒビ)があったり砂が混じっているものも散見します。ある程度の硬さは、細密な極細線を彫るのにいいし、耐久性もあるのでこれを頑張って征服する価値はありますが、印刀が表面を滑っていくようなものは「無理」、処分いたします。

 石の産地や種類はともかく、半透明で灰白色、見た目に層や色の変化の少ないすべすべしている石に彫りやすいものが多いですね。全体が均質であること、柔らかさが適度にあって粘りがあり、崩れにくい強度もあると言うのが理想です。柔らかければいいというものでもなく、彫っている傍から周囲が崩れていくのでは印には向きませんからこれもポイ。

 例えば、広東緑石は、深い緑色の透明感があるきれいな石ですが、彫るとガリガリジャリジャリして、細工が難しい素材です。青田石は彫りやすく安い普及品で、昔は重宝されていたようですが、だんだん良質なものは掘りつくされ、砂が混じって刃先が引っかかってしまうような固いものが多いようです。おそらく一昔前には、採掘しても打ち捨てられたようなものまで売られてるのでしょう。

 今主流の普及品は切石「寿山石」の安物であります。茶色が主流でほとんどが滲んだような赤っぽい模様入りです。練習用・初心者用にはこれで十分なのですが、これも硬さや彫りやすさは均質でなく当たり外れが大きいのです。

 篆刻の最初の作業が印面磨きで、出来る限りひずみや凸凹が無い鏡面に近ようにサンドペーパーをかけます。大体この時に、硬いかどうか砂粒などの不純物の有無の見当はつきますが、実際は印刀を当ててみないとわかりません。

 結論から言えば、印材は最近のものは外れが多く品質が悪いのです。すでに彫られているものを再利用するなど古い印材を選びます。彫りはじめたら、多少硬くてもよほどのことが無い限り彫り進めます。どのみち練習なので、彫りにくくても我慢、石の質によって線が変わってくるのを「経験値」として積んでいけばいいのです。
 

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「秋艸道人 」に触れようと思います

2021年07月07日 | 書道
書道や篆刻を学ばなければ知りえなかったことが山ほどあります。このブログの大半はその恩恵を受けていて、ワタシにとって大いなる知的栄養であり、収穫であります。

 今日は新潟県出身の歌人「秋艸道人(しゅうそうどうじん)  」であります。本名の会津八一さんと言った方が有名かもしれません。名前だけは聞いたことがありますが、ワタシがこの人のことを実際に知ったのはごく最近のことです。尾崎紅葉や正岡子規、坪内逍遥さんなどとの親交や知遇を得て、早稲田大学英文科を卒業し、中学校の教師をしながら創作活動を続け、書家や美術史家としても活躍された方です。まだ少年の頃は、「習字」があまりに下手で教師に残念がられたそうです。

 ヤフオクで落札した「篆刻入門」という本の中で、著名な篆刻家川合東皐さんの記事に「日日新面目あるべし」という八一さんの言葉を引用していました。今までの自分に満足することなく常に新しい姿を模索すべし、というような意味でしょうか。

 その名前は頭の片隅に残っていて、たまたまヤフオクで篆刻用の印材などを探している時に「秋艸道人遺墨集 」というのを見つけました。「因縁」を感じました。書道をやり始め、作品作りに欠かせない落款印を求め、自分で彫るうちに篆刻家になりたいという突飛な願いを持ちました。独学に必要な知識を得るために購入した入門書にその名を見つけ、作品集が偶然目に留まる、これはもう必然と言っていいと思います。ずっと見えない糸が繋がってる、そんな思いにとらわれヤフオクで入手したのが昨日届きました。

「日日新面目あるべし」という言葉は、会津さんが母校早稲田大学の学生に説いた心得「学規」の一節です。

 自分の今あるを大事にし、自省の気持ちを忘れず、学芸に励んで品性を涵養し、常に新たなものに取り組みなさいと解釈いたしました。

 この「新面目有可」はワタシの心に刺さりました。昨日終活したり身辺整理するとブログに書きましたが、それを恥じ入る気持ちであります。なんのこれしき、老いや忙しさを理由にして、達観し現状に満足したり歩みを止めることがあってはならない、と諭されたような気持になりました。まだ向上心を失ってはならぬのだと老骨に鞭打つ気分であります。

 早速、気を取り直して、昨日はきっかけを作ってくれた川合先生の作品を「摸刻」し、新面目有可を自分の感覚のまま彫ってみました。これも篆刻の練習でありますが、もう少し手入れをして仕上げようと思います。

さらに、秋艸道人の書です。会津八一さんは、若い頃から同郷の「良寛」さんに心酔し、その書風もまた良寛さんの影響を受けているように感じます。どこにも力を入れず、なにも技巧を用いず、一見細く弱弱しい線に、自然の風雅と繊細さが伝わってくるような書であります。良寛さん自体も、その書の卓越した精神性や芸術性が評価されるようになったのは近年だそうです。

 ここのところずっと「漢字」の書の練習に傾注しておりましたが、この機に少し仮名の練習も再開したいと思います。さすがに歌を学ぶにはワタシは素養と才能が枯渇しておりますが、良寛さん会津さんの書を学び、稽古するなら私にもできます。

 秋艸道人は75歳で病没しています。戦火に焼かれ、その貴重な研究文書や作品、膨大な資料は、彼の仕事場であった「秋艸堂」とともに灰燼に帰した後、亡くなるまでの10年間は書道・制作に猛烈に取り組んだそうです。

 代表的な短歌の一つ「天地に われ一人ゐて 立つごとき この寂しさを 君は微笑む」 こんな心境を歌った「秋艸道人 」の書を学びたい、そして、ワタシの倅が住む新潟に行く予定もあるので、その折にはぜひ会津八一記念館・良寛記念館に足を運びたいと思います。
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