
(1月16日)小野田寛郎死去
終戦から30年以上もフィリピン・ルバング島に潜伏し〈戦争〉を続けていたことで有名な小野田寛郎氏が、入院先の都内病院で亡くなった。
享年91。
1942(昭和17)年12月、応召。
1944(昭和19)年9月、スパイ養成機関として有名な陸軍中野学校の二俣分校(静岡県)に入学、ここでゲリラ要員となる教育を受ける。
同年12月に予備陸軍少尉としてフィリピンに派遣され、ルバング島に着任した。
過酷な状況でも任務を遂行すべく特別な訓練を受けたことが、長年に渡るゲリラ戦に耐えられた物理的要因と思われるが(普通の兵なら餓死するか、絶望して自決するか、或いは投降する)、それ以上に精神的に支えたのは、配属となった第8師団の師団長・横山静雄陸軍中将の「玉砕は一切まかりならぬ」との訓示が大きいと考える。
上官の命令には絶対服従の帝国陸軍にあって、どんなことをしてでも生きろというこの訓示がなければ、全く違う成り行きになっていた筈だ。
そういう意味で小野田氏は上官に恵まれたと言えるし、また、30年以上それを守り続けるとは、恐ろしいまでに規律正しい軍人だったとも言える。
実際、1974(昭和49)年に冒険家の鈴木紀夫と接触しても直ぐには心を開かず、上官の命令があれば帰国すると告げ、宮崎県で本屋を経営していたかつての上官・谷口義美元少佐が現地にまで赴き、任務解除を命じたことで漸く帰国の途に着いた程だ。
1972(昭和47)年にグアムから帰国した横井庄一氏が、どこか庶民然とした印象があるのに比べ、帰還直後の小野田氏に生粋の軍人魂を感じるのは、ぼろぼろになった軍服に身を包み敬礼するあの姿の影響ばかりではないだろう。
1974年3月12日、無事日本に帰国するが、マスコミによる過剰な取材攻勢や実家の両親とのいざこざ等に嫌気が差し、兄(小野田家次男、寛郎氏は四男)の住むブラジルに移住し、牧場を営んだ。
が、ずっと行ったきりという訳ではなく、日本とブラジルを行き来する日々を送り、その中で、1984(昭和59)年に『小野田自然塾』を開校。
30年に渡るジャングルでのサバイバル経験を活かし、子供達に野外教育を施した。
極めて特殊な状況下を生き抜いた彼の目に、戦後の日本の子供達にはやはり何か足りないものを感じていたのかも知れない。
最初に帰国した時、僕はまだ幼かったので当時の記憶はまるでなく、後年、テレビで先の自然塾が紹介されるのをたまに見かけるというかたちでしか知り得なかったが、そこにかつての帝国陸軍軍人の面影はなく、どこにでもいる(と言っては失礼だが)本当に優しそうなお爺さんという佇まいだった。
この、温和な表情を浮かべる御老人のどこに、あれだけの強靭な精神力があるのか、疑わずにはいられなかった。
人はどんな存在にもなり得る、そして、環境が人をつくるのだという真理を垣間見た思いがした。