銀の人魚の海

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福島、114号線

2017-01-13 | 日々の雑感
朝日新聞の昨年付録から。

みちのものがたり、国道114号。

震災から、6年経過しようとしている。

この記事を当時を思いつつ読むと、原発付近からの避難がいかに大変、

混乱したかが改めて確認され、原発はあってはならないと改めて感じた。

記事を引きながら、思いを入れ書いてみたい。

国道114号は、福島浪江町の人が原発から非難する時に使った道だ。

二つのルートがあるが、一つは北方向へ、津波で寸断されていて

安全な道はこれしかなかった。

12日朝、防災無線の音声が聞こえた。

原発から十キロ圏外へ避難してください、に皆、戦慄した、とある。

そうだろう。一体どうなるのか?原発はどうなっているのか?

地震から間も無く、眠れぬ夜、いきなり離れろ、と言われる。

浪江町役場は、自主避難可能な方は、北の山あい地区、

114号で津島へ避難というアナウンスをした。

車では渋滞し、人が歩くより遅かったかもしれないと語る住民。

逆方向は、警察自衛隊の車が多数通り、

皆、マスク、防護服、まるで戦争映画でも見ているようだった、と。

私には、その緊迫感はわからない。

どれほどのものだったろう。

大地震、津波から一日で、また逃げろ、と言われる。

それも、よくわからないまま。

SF映画の中に入ってしまった感じ、と語りあい、不思議な雰囲気だったとある。

311当日、浪江町長は、役場に避難してきた人とともに、

ダンボールをかぶり夜は少しだけ寝た。

町内では181人が津波の犠牲者となった。

電話は通じず、連絡はどこからもない。

TVで~十キロ圏内は避難をと知る。

83%が圏内にいる。

会議を開き避難を呼びかけ、津島に役場を移すことにし、

政府指示は十キロだが、二十キロ圏内にした。

午後三時に町長は役場を出て渋滞している114に入る。

三十分後、爆発の音を聞き、チェルノブイリが頭に浮かぶ。

二十キロにしておいて良かったと。

政府からは何もなく、町で決めていたのだ。

早い判断の遠い避難を。

前日の揺れで疲労している中、きびしい日々が始まった。

津島には町民が多数集まっていた。

昨日から何も食べてない。

津島は停電していないので、お米をたきおにぎりを作った。

人口1400人の津島に、八千人の浪江の人が避難してきた。

津島は三十キロ離れているので少しほっとした時だった。

が、14日の三号機爆発で、ここも危ないと判断、

さらに遠く二本松市へ避難を決め、五時に全員ひなん完了。

その頃、みぞれが降始めていた。

午後九時に、津島の線量が、四時間で基準を超える事を知った。

放射能雲は114号方向、逃げた方向、北西へ追いかけていて、

みぞれが線量を落とした。

物質が降ったのは、津島を皆が出た直後、

おそらく、すれすれ、と町長は表現し、ギリギリで大量被爆を何とかまぬがれた。

この判断は、町長、町の判断で政府は関与していない。

よく決断したと思う。

浪江町の役場は今も二本松にあり、津島は帰宅困難地域として封鎖されている。

これを読むまでは詳しい避難のことを知らなかった。

当時、記事を少し読んでいたかもしれないが、いろいろ記事も多く
忘れてしまったか。

町長、職員、町民の壮絶な四日間。

それは他の避難地域でも同様だろうが、

この地域は線量が降った方向へ逃げて行った事、

命カラガラという言葉がさまに当てはまる。

114号は約七十キロ。

津島地区はその途中の山間部。

原発事故前は450戸の農林畜産業があった。

町から津島までは三十キロ、普段は三十分だが、避難時は、三~六時間かかった。

浪江の避難困難地域は町内81%、許可者しか入れず、

イノシシなど野生動物に荒らされ続けている。

町の現在の様子なども書かれていた。

改めてあの日の原発事故を、東京にいて、蘇させる記事だった。

帰れない故郷。

安易には言えないが、他に安心できる地が、できるといいと思う。


当日、から14日までの可能な限りの避難先を求めての姿勢、小さい町で、政府の支持を超えての避難判断は、英断だと思う。


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