わたしの記憶のなかで普段は出てこない、表面化しないものがある。
中山可穂の「サイゴン・タンゴ・カフェ」を読んでいて、一気にそれが
再生してしまった。”しまった”と思う間もなく。
油断していたといえばその通りで、中山はわたしの苦手な作家だ。
苦手といっても”嫌い”とか”相性が悪い”のではない。
短編集でしかも比較的ゆったりとした滑り出しだったから緊張感も無く
読みはじめてしまった。
ワン・ワード。一つの単語にわたしは強く反応してしまう。これはあの時から
定められてしまっているようだ。記憶は劣化しないのだろうか?
記憶はデジタルではないと思う。にもかかわらず圧倒的な感情がわたしのなかに
再現され、いや再現ではない。もしかすると幻覚なのかもしれない。
機械でしかないわたしの脳にこんなクオリアがあるのだろうか。
あの時に感じたと同等の感覚と同等の混乱がわたしの内にある。
それは今も在り、未来にも在り続けるのだろう。ただ普段は封印されているだけの
ことであり、何かのきっかけでこのように幻覚をみさせてしまうのだろう。
しかし。これはわたしだけのものでわたしだけが出来る供犠なのだとも感じる。
わたしの脳が消滅した後には永遠に失われることだろう。
あの人の匂い、声の質感、触れた感触。今はもうわたししか持っていないのだから。
中山可穂の「サイゴン・タンゴ・カフェ」を読んでいて、一気にそれが
再生してしまった。”しまった”と思う間もなく。
油断していたといえばその通りで、中山はわたしの苦手な作家だ。
苦手といっても”嫌い”とか”相性が悪い”のではない。
短編集でしかも比較的ゆったりとした滑り出しだったから緊張感も無く
読みはじめてしまった。
ワン・ワード。一つの単語にわたしは強く反応してしまう。これはあの時から
定められてしまっているようだ。記憶は劣化しないのだろうか?
記憶はデジタルではないと思う。にもかかわらず圧倒的な感情がわたしのなかに
再現され、いや再現ではない。もしかすると幻覚なのかもしれない。
機械でしかないわたしの脳にこんなクオリアがあるのだろうか。
あの時に感じたと同等の感覚と同等の混乱がわたしの内にある。
それは今も在り、未来にも在り続けるのだろう。ただ普段は封印されているだけの
ことであり、何かのきっかけでこのように幻覚をみさせてしまうのだろう。
しかし。これはわたしだけのものでわたしだけが出来る供犠なのだとも感じる。
わたしの脳が消滅した後には永遠に失われることだろう。
あの人の匂い、声の質感、触れた感触。今はもうわたししか持っていないのだから。