生物はその状態としてあるのであって、外部と閉鎖された個体ではない。
といわれても、実感が無い。
身体を構成する要素はどんどこ入れ替わっており、形態として存続している。
つまりは、電光掲示板の文字と同じで”あ”という文字は明滅するランプによって
横なり下なりに流れていくわけだけれどもそれ自体はランプの明滅でしかない。
私という形はエントロピーと戦っているんだと考えていたけれどそうじゃなくて
流れの中で等価交換を繰り返せばいいというわけだろうか。
ここででて来る、シュレディンガー。
かの猫。そして、音頭もある。プサイにファイ!
ゆれ幅を抑えるためには生物は巨大ユニットとならねばなるぬという。
それがコピー不良を最小限に抑える。
さすがシュレディンガー先生。
そうなると、私というシステムは外部に開放されているはずなんだけれど
私はやっぱり閉じた系としての感覚しかない。
古い人間なんだろうか?
といわれても、実感が無い。
身体を構成する要素はどんどこ入れ替わっており、形態として存続している。
つまりは、電光掲示板の文字と同じで”あ”という文字は明滅するランプによって
横なり下なりに流れていくわけだけれどもそれ自体はランプの明滅でしかない。
私という形はエントロピーと戦っているんだと考えていたけれどそうじゃなくて
流れの中で等価交換を繰り返せばいいというわけだろうか。
ここででて来る、シュレディンガー。
かの猫。そして、音頭もある。プサイにファイ!
ゆれ幅を抑えるためには生物は巨大ユニットとならねばなるぬという。
それがコピー不良を最小限に抑える。
さすがシュレディンガー先生。
そうなると、私というシステムは外部に開放されているはずなんだけれど
私はやっぱり閉じた系としての感覚しかない。
古い人間なんだろうか?
「細胞レベル」で考えるならば、爪は生え替わるが、ニューロンは変わらない。だからめるつさんに変わったという実感がないのですね。神経、神経。
分子レヴェルでは変わっているけれど
細胞レヴェルでは変わっていないのでしょうか??
構成設計図は変わらないけれど(経年劣化はあるのでしょうけれども)構成する物質は変わっているのかと思っていました。
むぅ??
分子レベルでは替わっているのでしょうが、それだって完全に替わっていると言い切るのは難しいですよね。たとえば骨なんかは殆ど替わらない。
哲学的に言えば、分子的レベルの話から派生して思考を飛ばすもよし、変わらないと仮定して「我思う故に我あり」でも良しなんでしょう。
駄文ですいません。
私には"現実味”っていうのか実感がないのです。
”我思う”と誰か(プログラムした誰か)に
思わされているだけで、こういった疑いも
そういう風に仕込まれている・・
無限後退なんですが・・。
理由としてはドーキンスの本について書いているが解釈が(というかどうやったらそう読める?)
ていうヘンテコさん。
活字やTVが正しいとは限らないと考えていても
ついついそれらに頼ってしまう自分にたいして
自戒をこめて。
しかし、わたしは”面白さ”のみで科学を感じてしまう。
いつか、似非科学に侵食されてしまいそう。