APEC首脳会議・横浜開催で、横浜の中心部は厳戒態勢だ。
その喧噪を忘れ、秋を満喫しようと、出かけたくなる近場が鎌倉だけど、
どうも、鎌倉は、首脳のご婦人方が来訪するらしいというニュースを聞き、
それならばと、三渓園へ出かけた。
三渓園は、明治の実業家・原富太郎(三溪)が、その財により、本牧の地に造成した5万坪にも及ぶ庭園で、京都や鎌倉から歴史的建造物を移築し配した。
三溪は、造成途上の三渓園を明治39年に公開をし、また、新進の日本画家などを育成、支援するなど、日本文化の保護、向上にも寄与した。
生糸貿易で財を成した原善三郎の孫娘と結婚をし、実業家として成功を収めた三溪が建てた原家本宅。大きな車寄せがあり、鶴が羽根を広げたような外観から鶴翔閣と名付けられた。
豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられた臨春閣は、三渓園の顔といってもいい。内苑にあって、門をくぐり前庭に出ると、誰もでもが「おぉ!」といって、京都のどこかの庭園に空間移動したような錯覚を感じるはずだ。
最近の研究で、紀州徳川家の別荘・巌出御殿だといわれているけれど、昔は、名のある建物を解体すると、その部材を再利用するのが当たり前だったから、素人にしてみればどうでもいいこと。
重要文化財の建物が国宝になるための尺度として、今は徳川三代あたりらしいから、きっとそのあたりで揉めているんだろう。
許されるのなら、野点セットを持参して、一服したいところだ。
今は、風入れをしているらしく、戸が開け放たれている。
臨春閣の第三屋「天楽の間」をのぞくと、狩野派の襖絵もさることながら、上の欄間に、雅楽で使う笙と笛などがあしらわれている。わかるかな?
もし、これが紀州家の別荘だとすると、あの暴れん坊将軍・徳川吉宗が子どもの頃、かけずり回ったんじゃなかろうか。
三溪が最後に移築した建物・聴秋閣。
徳川家光が二条城内に建て、後に春日局に賜ったもので、江戸時代、普請奉行として、小堀遠州と作庭の腕を競った佐久間将監の作として伝わっている。
古建築は、まだまだ、たくさんある。
池には、エサを待っている鯉もたくさんいる。
そして、今、菊花展を園内各所で行っている。
大輪の菊もあれば、懸崖仕立て、盆栽仕立てのものもある。
紅葉にはまだ間があるが、見事な菊を見て、秋を満喫してみてはいかが?
goo地図
その喧噪を忘れ、秋を満喫しようと、出かけたくなる近場が鎌倉だけど、
どうも、鎌倉は、首脳のご婦人方が来訪するらしいというニュースを聞き、
それならばと、三渓園へ出かけた。
三渓園は、明治の実業家・原富太郎(三溪)が、その財により、本牧の地に造成した5万坪にも及ぶ庭園で、京都や鎌倉から歴史的建造物を移築し配した。
三溪は、造成途上の三渓園を明治39年に公開をし、また、新進の日本画家などを育成、支援するなど、日本文化の保護、向上にも寄与した。
生糸貿易で財を成した原善三郎の孫娘と結婚をし、実業家として成功を収めた三溪が建てた原家本宅。大きな車寄せがあり、鶴が羽根を広げたような外観から鶴翔閣と名付けられた。
豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられた臨春閣は、三渓園の顔といってもいい。内苑にあって、門をくぐり前庭に出ると、誰もでもが「おぉ!」といって、京都のどこかの庭園に空間移動したような錯覚を感じるはずだ。
最近の研究で、紀州徳川家の別荘・巌出御殿だといわれているけれど、昔は、名のある建物を解体すると、その部材を再利用するのが当たり前だったから、素人にしてみればどうでもいいこと。
重要文化財の建物が国宝になるための尺度として、今は徳川三代あたりらしいから、きっとそのあたりで揉めているんだろう。
許されるのなら、野点セットを持参して、一服したいところだ。
今は、風入れをしているらしく、戸が開け放たれている。
臨春閣の第三屋「天楽の間」をのぞくと、狩野派の襖絵もさることながら、上の欄間に、雅楽で使う笙と笛などがあしらわれている。わかるかな?
もし、これが紀州家の別荘だとすると、あの暴れん坊将軍・徳川吉宗が子どもの頃、かけずり回ったんじゃなかろうか。
三溪が最後に移築した建物・聴秋閣。
徳川家光が二条城内に建て、後に春日局に賜ったもので、江戸時代、普請奉行として、小堀遠州と作庭の腕を競った佐久間将監の作として伝わっている。
古建築は、まだまだ、たくさんある。
池には、エサを待っている鯉もたくさんいる。
そして、今、菊花展を園内各所で行っている。
大輪の菊もあれば、懸崖仕立て、盆栽仕立てのものもある。
紅葉にはまだ間があるが、見事な菊を見て、秋を満喫してみてはいかが?
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