近隣図書館の広域利用制度(ここをクリック!)があるけれど、なかなか足を伸ばすのは難しく、閲覧の上、貸出したもらい、それをまた返却するのは容易なことではありません。
郷土資料となると、それぞれの自治体固有なものになるので、たまたま瀬谷図書館に「藤沢・今田鯖神社再建記念誌」があるのは、これもまた謎です。
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今田村は、明治の初め頃は戸数25、人口143人の小さな村で、近隣の亀井野、石川、西俣野、円行、下土棚の5村と合併して六会村となった明治22年当時でも、戸数35、人口233人でした。
昭和59年に藤沢市北部開発事業完了とともに、一部を除き、湘南台六、七丁目(1380世帯、4千人)になりました。
祭神 源義朝
元禄15(1702)年9月、井上瀬兵衛が「鯖大明神」を創建。享保5(1720)年2月に村の鎮守として拝殿を造立しました。やはり棟札に「寛永11(1799)年秋に諏訪山玉蔵院が護摩供養を行った」と記録があり、片瀬の上下諏訪神社の別当寺も修験の寺・玉蔵院であるので関係あるのかどうかが謎とされています。
昭和59年にボヤ、平成7年に不審火で社殿焼失、平成9年再建、再び平成13年に放火により社殿焼失となり、平成14年に再々建されて今に至っています。
この記念誌には、サバ神社がこの辺り一帯に集中している理由として、源義朝を謀殺した長田忠致の子孫という旗本・長田氏が江戸時代の初めこの辺りを領したためではないかと推測しています。
また「相模七サバ」について、子どもの疱瘡、麻疹、百日咳などの疫病が流行った時、子どもを負ぶって弁当持参、近所のサバ神社をふりだしに川沿いを歩き、橋を渡り、あぜ道をたどって、1日がかりで7社をお詣りするという風習が、江戸時代末期から大正中頃まであったそうです。
以上「今田鯖神社再建記念誌」からの引用・要約です。
(鳥居と長い参道)
(扁額)
今田鯖神社の鳥居前には、今田境川遊水地の管理センターがあります。
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疫病(新型コロナウィルス)の無事な収束を願って、七サバ参りならぬ、十二サバ参りの九社めサバ神社。
なお、この十二サバ参りは、3月初めに集中的に参拝したものです。
なお、七サバ巡りと言われていたという、7つの神社がどこかという説は、ここにあります。
http://www.city.yamato.lg.jp/bunnka/hyakka/img/file8.jpg
私が廻ったサバ神社12社巡りのマップもあるのでご参考に!
https://qr.paps.jp/h7v7b
今まで見聞きした中にもいくつかあるので、
何の根拠もないまま、
それを何かに残すべきか迷うことがあります。
父が亡くなる間際に、
先祖から言い伝えられたことをポロリと語りました。
歴史好きの私にとっては、
これまで抱いてきた疑問を氷解させる話でしたが、
それを子や甥・姪に話してみても、
今となっては意味不明の事柄にすぎないようです。
ファミリーヒストリーではないけれど、
自分の一族の謎がいちばんミステリーなのだと思います。
新型コロナウィルスの関係で親戚と集まる機会が失われてしまい、
言い伝えられることはもっと激減するんでしょうね。