散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

バスツアー・①富岡製糸場

2013年12月01日 | ★メタ坊タウン情報

売らない、貸さない、壊さない。
片倉工業株式会社が、昭和14年に原合名会社(横浜三溪園で有名な原富太郎(三溪)が営んだ会社)から買い取り、昭和62年に操業を中止したのちも、この3原則を守って、富岡製糸場の保全管理に努めてきた。
固定資産税など、1年に8千万円の維持経費がかかっていたという。
平成17年に国史跡に指定されたのを契機に、富岡市に寄贈したことを考えると、経済性ではなく、社会貢献性に重きを置いていたことがわかる。
「資本の蓄積を計り誠実を旨とし天職を完せよ。明朗なること太陽の如く不平は一掃せよ」で始まる今井五介(2代目社長)翁遺訓には、経費節減や能率向上など16項目の心得が説かれているそうで、今でも社風に残っているそうだ。

さて、正門を入るとすぐに、東繭倉庫につく。
中庭に続く通路の入口には、アーチの中ほどに「明治5年」と刻まれたキーストーンが見える。


木骨レンガ造といい、富国強兵・殖産興業を重点施策とした明治政府が、お雇い外国人のフランス人・ブリュナに建設を委ね、地元から調達できる礎石・木材・レンガ・瓦・漆喰を用いてつくられた。

初期につくられたレンガ壁と、


大正期につくられたレンガ壁を見ると、その差が歴然とわかる。


鎖国していた日本に開国をせまり、開港して貿易がはじまると、外国商人の取扱品目の1位に躍り出たのが「生糸」と「蚕種」だった。
当時、ヨーロッパでは、蚕に「微粒子病」が蔓延し、絶滅状態となったものの、シルクの需要は衰えなかったからだ。
しかし、家内制手工業(座繰製糸)では品質が一定でなく、また粗悪品や悪質な商人が横行したため、諸外国からは改善を強く求められた。
そこで、新政府は模範工場を富岡の地に建設し、全国から工女を集め、技術伝習をそれぞれに戻る地域で広めることを目的とした。


繭から糸をとる繰糸場。
これも、明治5年の建設当時のまま。
やはり、木骨レンガ造で、小屋組みはトラス構造、幅12m、奥行きはなんと140mもある。


団体は予約制、個人は定時で解説案内をしてくれる。約1時間の行程。


東繭倉庫内には、パネル展示解説もあり、売店(見出し写真)もある。


座繰製糸作業も体験できる。記念写真をパチリ。


高崎で利根川へと合流する鏑川が流れる。
清らかで豊富な水の確保が、製糸には欠かせない。


小さな島国・日本が、欧米列強の植民地にならなかったのも、生糸貿易による外貨獲得により富国強兵に突き進んだことにある。
また、この貿易が東西文化の交流を活発化させた。
もし、日本が生糸・蚕種の取引を維持できなかったなら、今とまったく違った服飾文化・貿易構造になったかもしれない。
富岡製糸場は、ユネスコ世界遺産の暫定リストに記載され、2014年夏、世界遺産登録の可否が決まる。


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