外川 淳 著/日本実業出版社・63ページ目
平安京の中心に内裏が位置したのと同じように、鎌倉の中心には鶴岡八幡宮が鎮座する。そして、鶴岡八幡宮から由比ヶ浜へ向けて一直線に若宮大路が走り、この若宮大路を幹にして枝葉のように都市が拡大された、鶴岡八幡宮を中心に発展した鎌倉は、寺院や神社を中心として発展した門前町(鳥居前町)の一種としても区分できる。
鎌倉時代の鎌倉と京都の人口は、ともに10万人前後と推定されており、京都に匹敵する都市を創生するという頼朝の悲願はかなえられている。
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本のあとがきの一部には、
政治家たちが地方再生と叫んでも、地方都市は、人口の流出、高齢化など、多くの難問に悩まされている。その象徴がシャッター通り商店街と称される都市の中心部における空き店舗の増加であり、地方都市の停滞感は、旅をしていると痛感させられる。
と記述されています。
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なぜ、商店街がシャッター通りになるのか?
よくいわれることは「後継者がいない」という言葉でしたが、これは商売の先行きが不安定なので「子どもに継がせられない」または「子どもに継ぐ気がない」ということでした。
徒歩、もしくは余裕があれば自転車を持っている程度のみな貧しくも倹しい日々を過ごしていた時代には、現金収入次第で身近にある店舗で買い物をしていました。
それが、高度経済成長期に入り、一億総中流家庭を目指して白物家電3種の神器を揃えられるようになってくると、1店舗で必要な物が買える便利なスーパーマーケットが登場し、自由経済の本性「弱肉強食」時代がはじまります。
それに負けじと小売店は合同、商店会を結成して対抗しますが、そこに政府が介入し、商店会を守る名目で「大規模店舗規制法」という法律を作ります。
出店場所の近隣商店会の承諾を得なくては、ある面積以上の大型店舗を開業できないというものでした。
すると、承諾を得るために1商店会ごとに金と接待が相場となり、分裂や分派して小さな商店会に分散していきます。
駅前で商店街が続いているが、商店会がいくつもあるのはそれが要因といわれます。
そして、ある時点で法律が改正され、資金の注入が途絶えます。
団結力で対抗しえない商店会は魅力を失い、1つ消え、2つ消え、大型店舗と張り合えない小売店はシャッターを下ろすしかありません。
そして、残ったのは、大型店舗の出店を退けた団結力のある商店会と、人流の多い駅前商店会でした。
しかしそれさえも、周辺住宅地の高齢化や新型コロナによる在宅で人流が減少していき・・・あとはみなさんの目で確かめてくださいね。
>>>「100ページ目のことばたち」由来
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