散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

陸にあがった海軍

2015年03月01日 | ☆横浜じゃん

風邪をひいて、安静にしていようと思っていたのですが、
娘が見たいというので行ってきました。

「連合艦隊司令本部日吉地下壕から見た太平洋戦争」
キャッチコピー次第で、観客動員が決まる、
検索キーワードで、ホームページやブログのアクセスランキングが決まる、
そんな世の中になってしまったので「陸にあがった海軍」というお題で、
メインテーマが説明文のように表記されています。

地下壕

横須賀生まれ、横須賀育ちのメタ坊は、
=海軍鎮守府・軍港都市を遊び場にしていたので、
「それが、どうした?」という感覚なのですが、
映画「永遠の0(零)」にハマった娘は、太平洋戦争に関心を寄せたようです。

日吉地下壕は、東急東横線・日吉駅周辺にある、
旧日本帝国海軍関係の遺構・遺跡です。
陸軍登戸研究所とともに、戦後70年を経て、保存される方向で今に至っています。


海軍は、島国・日本の要として、列強に脅かされる幕末から創設された歴史を持ちます。
しかし、開港当時の日本は、鎖国していたために貧乏国でした。
富国強兵を第一に掲げ、欧米と生糸の通商により軍備・軍艦を整えます。
転換点となるのは、当時世界中が恐れていた無敵のロシア・バルチック艦隊を、
日本帝国海軍連合艦隊が撃破したことでした。

そのとき、連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、
旗艦・三笠の掩蔽艦橋ではなく、丸裸の艦橋から指揮を執りました。
この先例から、連合艦隊の司令部を旗艦に置き、陣頭指揮を執る倣いとなります。
「指揮官先頭、率先垂範」
が伝統だった海軍も、ついに司令部を陸上に移します。
昭和19年9月、慶應義塾大学日吉キャンパスの地下壕に。
同年10月、フィリピン・レイテ沖で米軍と海戦し、主力艦艇に大損害を被るに至り、
以後、連合艦隊は事実上、消滅しました。

それ以降、零戦や回天など特攻作戦へと転換し、敗戦を迎えます。

米軍による本土空襲は、
軍需工場、鉄道、港湾施設などへ爆弾を投下して破壊する攻撃から、
軍需を支える町工場は住宅密集地にありとして、焼夷弾による焦土作戦に転換します。
大学キャンパスの地下壕の移転は、それを考慮してのことだったのでしょうが、
皮肉なことに、占領後の施設使用を作戦計画に入れていた米軍は、
鎮守府・横須賀軍港に対する攻撃を、機銃照射ぐらいで爆弾投下は行わず、
無傷のまま、戦後接収したのでした。
連合艦隊司令部が横須賀にないことを知っていたのかもしれません。

ぜひ、一度、ご覧ください。3月22日まで

展示品に関連ある博物館のグッズが売店にありました。


神奈川県立歴史博物館・外観



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