散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

江戸東京をあるく・深川

2011年11月20日 | ★メタ坊タウン情報

大雨の天気予報にもかかわらず、京急の「東京1DAYきっぷ」で深川に出かけた。
「東京1DAYきっぷ」は、京急の往復と、京急が乗り入れている都営浅草線をはじめ、同じ都営の大江戸線、三田線、新宿線、都電荒川線、日暮里舎人ライナーに、都バスが1日乗り放題になる。

散歩のふりだしは、奥の細道の松尾芭蕉ゆかりの場所から・・・ということで、大門で乗り継いで、大江戸線森下駅に降りた。




駅を降り、地上に出ると直ぐに、カトレア「旧名:名花堂」がある。
いわゆる、元祖カレーパン(下写真)の店で有名だ。
パン屋を継いだ2代目が、関東大震災でパンを焼く窯を失ったため、パン生地にカレーを詰めて油で揚げ、洋食パンとして売り出したのが始まりなのだそうだ。
1個160円。
次から次に売れるので、揚げたてが並んでいるらしく、旨い。
これが元祖と思うと感慨もひとしお、とすると、あんドーナツはどこが元祖なんだろう?


深川神明社の前を通って、芭蕉記念館へ。
俳聖・松尾芭蕉が、草庵を結び、芭蕉(バナナ)を植え、芭蕉庵と名付けた。
深川の芭蕉庵は、八百屋お七で有名な天和の大火で焼失し、場所は不詳。
しかし、大正6(1917)年の大津波の際、松尾芭蕉が愛好していたと伝えられていた石の蛙(下写真)が発見されたため、この一帯を旧跡として指定した。
300mほど南に、芭蕉稲荷神社があり、ここで石の蛙が発見されたので祀られたといい、記念館を建てるにあたって手狭なために、別の適地に建てたのだという。
いずれにしろ、隅田川の形状からいえば、記念館も神社も川の土手に相当する場所と考えられ、やはり庵のあった場所は特定できていなさそうだ。
館内は、書簡、俳句や図像、松尾芭蕉の生涯、奥の細道、深川の古地図などが展示されている。


記念館の庭を裏手に抜けると、隅田川に出る。
ゼロメートル地帯ともいえるコンクリートの高い護岸が続く。
階段を登った護岸の向こう側には、川に沿って遊歩道が整備されている。


小名木川と合流するところに、史跡展望公園があり、芭蕉の銅像(下写真)とともに、ドイツライン川に模せられる清洲橋の優雅な姿を見ることができる。


震災復興後に建設されたために堅牢そのものといった感じのアーチ橋「萬年橋」を渡ると清澄公園にたどりつく。
その隣が、江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷とされる清澄庭園(下写真)だ。
明治に三菱の岩崎弥太郎が買い取って整備したという。
全国から集められたという名石がいたるところに配置されている。
この庭園は、関東大震災後に東京都へ公園として寄付されたものだといい、当時の豪商の社会貢献に対する考え方の一端が知られる。
(写真をクリックするとパノラマ写真になります)


霊巌島(れいがんじま)の由来となった霊巌寺(明暦の大火で深川へ移転)の隣に、深川江戸資料館がある。
吹き抜けの広い館内には、江戸深川の町並みの一角が再現(下写真)されている。
現在は、特別展として「木曽街道六十九次」展を開催中、英泉・広重の浮世絵がずらりと並んで壮観。
じっくり見ているだけで1日かかりそうだ。




ここで、昼食。
大江戸線で、清澄白河駅から築地市場駅へ。
もちろん、お寿司(下写真)だ。
地下鉄をうまく利用することが東京を楽しむコツだというけれど、うなづける。


築地と来れば、お隣の築地本願寺に行こう!
インド様式で、いつ来てもエキゾチックな感じがいい。




さて、再び大江戸線を使って、門前仲町へ。
神仏混交だった江戸時代は、富岡八幡宮も深川不動尊も一緒だっただろうから、かなりの敷地を有していた。
富岡八幡宮(下写真)は、江戸最大の八幡宮で、よく勧進相撲が行われたことから力士に関係する石碑が多く残る。


その隣が深川不動尊(写真下)、おねがい不動とも呼ばれているだけに、憤怒の顔ではなく、どこか優しい。




大雨に大風。
靴もびしょぬれ。
今度は、じっくりと拝観しようと、はやばやと帰途についた。


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