ちょっと調べものをしていたら、
尋常小学地理書(大正7年発行)というものにいきあたりました。
広島大学図書館の教科書画像データベース(ここをクリック)です。
その中の関東地方・交通・航路(下写真)には、
外国に至る航路には、東の方太平洋を横ぎりて、北米・南米に至るものあり、
又西或は南に向ひて、支那・印度・欧州・濠州の諸港に至るものもあり。
との記述とともに、横浜港の繋船岸として挿絵(見出し写真)がありました。
大さん橋かな?と思いましたが、念のために調べてみました。
すると、国立国会図書館デジタルコレクションに、
「国定新地理書挿画の研究(ここをクリック)」という解説書を見つけました。
略図を見ると「新港ふ頭」ということが確認でき、
この解説書で、現在の赤レンガ倉庫2棟があったほかに、14の上屋があったこともわかります。
新港ふ頭は、当時「新港町」と名付けられました。
「横浜の町名(昭和57年版)」には、
新港町(明39・5・22)
横浜税関長(水上浩躬税関長)であった大越成徳の稟請により埋立工事が行なわれ、
明治38年埋立は完成し、翌39年新設された町・・・。
「横浜の町名(平成8年版)」には、
新港町(明治39年5月22日設置)
明治38年12月28日に横浜税関第一期埋立工事が竣工し、
新港岸壁東半分と万国橋が完成し、明治39年に新設した町・・・。
と記載があります。
「横浜市町名沿革調(未定稿)」には、
中区新港町 しんこうちょう の呼称の根拠として、
昭和12年4月6日発行の横浜市報「横浜市町名沿革」を示しています。
その「横浜市報」には、
新港町 シンカウチヤウ 戸数 七 人口 二七
明治三十九年五月二十二日町名を付す。
の記述のみです。なお戦後の現代仮名遣いに改められています。
ちなみに、昭和14年3月発行の「横浜市町名沿革誌」には、
新港町 シンカウチヤウ 世帯数 一〇 人口 二九
明治三十一年、時の橫濱税關長大越成德は、税關地先の海面埋立並に諸施設等、税關規模擴張計畫を立て、後水上浩躬税關長となるに至り、之を實施すべく主務省に稟請したる結果、政府の容るゝ所となりて、議會の協賛を經、翌三十二年七月より五ケ年繼續事業として實地測量に着手の上、三十三年五月第一期擴張工事を起工せり。爾來設計並に工事に幾多の變遷を重ね、明治三十八年十二月満七ケ年の日子と二百三十四萬五千餘圓の巨費を費し、埋立を完成したり。依て明治三十九年五月二十二日新港町の町名を付したり。
と記述されています。
さて、挿絵の辺りの現在の様子をグーグルマップの航空写真で確認してみるとこんな感じ。
たしか、耐震化強化工事をしているほかに、
9号バースに、さん橋を増設する計画もあるようなので、どう進化するのか楽しみです。
明治43年発行の尋常小学地理書では「横浜港の桟橋」の挿絵(下写真)で、
「大さん橋」が描かれています。線路のようなものは、トロッコのレールでしょうか?
関東大震災後の大正14年に発行された尋常小学地理書の挿絵はというと、
大正7年のものと同じ挿絵に「大正12年9月の地震前」というカッコ書き付きになっていました。
その地理書の「関東地方・都邑・横浜」には、震災により、
市の大部分は破壊されたが、間もなく復興されるはずであるから、
将来も我が国の大貿易港として栄えるであらう。
と、国定教科書に書かれているとおり、昭和初期には元通りの姿を取り戻します。
首都圏に物資を運ぶための大型船舶を接岸できるのは横浜港しかなかったからです。
「みなとみらい21新港地区」として再開発が行われ、
平成12年10月23日住居表示実施に伴い、
新港一丁目・新港二丁目が新設され、新港町は廃止になりました。
もともと国有地で無番地の土地がほとんどを占めていたためと、
再開発により、換地処分が完了するまで土地の表示(地番号)ができないことから、
住居表示を実施することで住所を表わすことができるメリットを採用したのでしょう。
ただ、大きな区画で大きな建物しか建たない計画なのに、
なぜわざわざ二つの丁目を設定しなければいけなかったのか憶測がつきません。
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