横浜で「桑の木」といえば、開港後の日本の財政を担った、外貨獲得の要「生糸」と深い関係がある。
大さん橋の入口、海岸通りに面した山下町1番地、シルクセンター前にある「桑の木」が有名だ。
ところが、本町通りから北仲通りを歩いていると、ただっ広いアスファルト打ちっ放しの空地の奥まった隅のところに、剪定された木が1本寒そうに立っているのを見つけた。
かろうじて、枝にしがみついている葉を見ると、桑の木だった。
なぜ、こんなところに1本だけ、桑の木が残っているのだろう?
位置的には、下の航空写真で赤く囲ったところだ。
昭和30年の地図では、第三管区海上保安本部となっている。
昭和24年の地図では、奥が海上保安本部、手前が第八軍接収地とある。
第八軍とは、米軍、つまり日本が敗戦して、やってきたアメリカの進駐軍のことだ。
昭和21年に、米軍により撮影された航空写真を見ると、上の地図とよく相応している。
よくよく眺めてみると、こんもりとした木が生えているのが確認できる。
昭和19年に、日本陸軍が撮影した航空写真を見ると、レゴブロックのような帝蚕倉庫が4つ並んでいる北側は空襲で焼失した一方、西側の小さな建物群は、焼夷弾の投下を受けずに意図的に残されたものだということがわかる。
桜木町の駅舎もまた無傷のように見えるところを見ると、占領時の作戦計画に、横浜の港湾施設と鉄道をすぐに使えるように爆撃を行ったようだ。
そして、やはり、ポツンと木があるように見える。
昭和7年の地図では、この辺りは、燈台局が使っていたようだ。
これより遡っていくと、どうなのだろうか?
日本大通りと富士山を被写体として、定点観測中です。
大さん橋の入口、海岸通りに面した山下町1番地、シルクセンター前にある「桑の木」が有名だ。
ところが、本町通りから北仲通りを歩いていると、ただっ広いアスファルト打ちっ放しの空地の奥まった隅のところに、剪定された木が1本寒そうに立っているのを見つけた。
かろうじて、枝にしがみついている葉を見ると、桑の木だった。
なぜ、こんなところに1本だけ、桑の木が残っているのだろう?
位置的には、下の航空写真で赤く囲ったところだ。
昭和30年の地図では、第三管区海上保安本部となっている。
昭和24年の地図では、奥が海上保安本部、手前が第八軍接収地とある。
第八軍とは、米軍、つまり日本が敗戦して、やってきたアメリカの進駐軍のことだ。
昭和21年に、米軍により撮影された航空写真を見ると、上の地図とよく相応している。
よくよく眺めてみると、こんもりとした木が生えているのが確認できる。
昭和19年に、日本陸軍が撮影した航空写真を見ると、レゴブロックのような帝蚕倉庫が4つ並んでいる北側は空襲で焼失した一方、西側の小さな建物群は、焼夷弾の投下を受けずに意図的に残されたものだということがわかる。
桜木町の駅舎もまた無傷のように見えるところを見ると、占領時の作戦計画に、横浜の港湾施設と鉄道をすぐに使えるように爆撃を行ったようだ。
そして、やはり、ポツンと木があるように見える。
昭和7年の地図では、この辺りは、燈台局が使っていたようだ。
これより遡っていくと、どうなのだろうか?
日本大通りと富士山を被写体として、定点観測中です。
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