広島市で大規模な土砂崩れが発生し、多くの被害をもたらした。
結婚して、横浜市瀬谷区に移り住んでから、集中豪雨による被害というと、河川の氾濫と、それに伴う電車の運転見合わせ程度にしか影響を感じない。
瀬谷区は、ほぼ丘陵地の割合平坦な地形で、海抜40~90m、神奈川県の中央部、旧鎌倉郡の最奥部、境川水系の支流に形成された浅い谷戸地系が連続する。
だから、境川の流れはどうしても気になる。(見出し写真、下写真)
それに対して、結婚前に生まれ育ってきた横須賀市は、山と海が迫る急峻な谷戸地形が山折谷折りした折り紙のような半島で、谷あいを流れる川沿いに田園と沼地だったところが、高度成長に伴って埋め立てられて、多くの人が家を建てた。
高度成長期前は、終戦前の海軍鎮守府のあった軍港都市にふさわしく軍関係の施設が平坦部を占めていたため、人々は山の斜面を切って家を建て、その点を結ぶかのように道筋が付いているところが多い。
今回の広島の土砂崩れは「激甚災害」に指定されると聞く。
横須賀でも、平作川という2級河川が、昭和49年と56年に氾濫し、合わせて300ha、9000軒の浸水家屋を出し、激甚災害に指定されたことがある。
高校の友達が無事かどうか確かめにいったとき、眼下に広がる一帯が泥水に浸かっているのを目の当たりにして呆然としたこと、川の上に蓋をしたように建ち並んでいた商店街が氾濫した川に押し流されていたことなどを記憶している。
そのせいか江戸時代からあるという本家は山の頂を切り開いたような場所に建っている一方、田畑の一部を相続して建てた実家は背後に山を背負った、それこそ今回の広島のような地勢にある。
風呂を薪で焚いていたというと驚かれるかもしれないが、周りに建ち並び始める家々がプロパンのガス風呂という最中にあっても、父は薪で焚くことにこだわり、山に入っては木を伐り、斧で割って薪を山のように軒下に積み上げた。
当然、手伝わされるのだけど、そのときに耳にタコができるほど聞かされた言葉がある。
「山の木はすべて切ってはいけない。だからといってまったく切らないままにして茂り放題にさせていてもいけない。山崩れが起きるからだ。両手指で作った輪以下の太さの木は残し、それ以上の木を太いものから切り倒す。その際に、切株を残しておけば、また幹が伸びてくるので、山の片斜面分あれば、台所の煮炊きと風呂の燃料に事欠かない。」
よく里山の風景は自然のままの姿が美しいなどと形容されるが、水を引き入れる田んぼは遊水機能を果たし、山の木々は適度に間引かれて崩れないように管理されていた。昔の人の生活の知恵には、かなわない。
広島の惨状を伝える映像を見ていると一抱えもあるような大きな木が流れてきている。
この木の重さが少なからず土砂の流出に影響を与えたと私は思っている。
だから、根が抱えた岩盤が一緒に巨石となって転がり落ちてきて家を押し流したに違いない。
超リサイクル社会だったとして江戸時代の仕組みが見直されているけれど、重機もコンクリートもない時代に自然をコントロールしていることにも注意したい。
やはり、歴史や民俗・習慣には学ぶべきものがある。
そういえば、昭和49年に横須賀市で大雨による土砂崩れを目の前で見、その後、晴天が続くにつれて、山崩れ、崖崩れが頻発したことに驚いた。
父に確かめると「大雨の後、晴れたからといって、斜面に取り付いてツタや木をひっぱると崩れることがある」といっていた。
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