20年間無敗 伝説の雀鬼の最新刊を買って、早速読んだ。
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・はじめに
現代社会に生きる多くの人は、一度得たものをなかなか手離そうとしない。それが苦労したものであればあるほど、握りしめる力はよりいっそう強くなる。
そして人は、得たものを強く握りしめるということが、どれだけ自分を苦しめているかにも気付かない。そうやって人間は自らを窮地へ追い込んでいるのである。
手離すことは「終わり」ではない。手離すことから、すべてが「始まる」のである。
・こだわりの心から自由になる
学問にしろ仕事にしろ、人は努力して手に入れたものを手離そうとはしない。自分で手にした優越感に必死にしがみつこうとするから、それが固定観念やこだわりとなっていく。
「こだわり」というのは、妄想の中に確証を見つけようとすることから生まれる。
・人生を窮屈にするイコールの発想
多くの人たちは、恋愛にしろ、人間関係にしろ、会社関係にしろ、すべてがイコールで結ばれないと納得できない。つまり、「これだけやったのだから、これだけ見返りをよこせ」というわけである。その見返りがちょっとでも少ないと、不平不満を口にすることになる。
人間は、自分をコントロールすることはできても、他者をコントロールすることはできない。自分が「これだけの量」と思っていても、それが他者にとってどれだけの量になるかは、人それぞれまちまちである。
そうならないために必要なのが、イコールではなく「≒」、すなわち「大体でいいよ」という感覚なのである。
返ってきた量がちょっとくらい少なくても「いいよ、いいよ」と許せれば、その余裕が次への一歩を踏み出す力となり、その人の人生をより豊かなものにしてくれる。
・自分を許し、他人をも許す
あなたが誰かを許したとする。でもそれは、相手を許しているのではなく、結局のところ自分を許しているにすぎない。
・一日一回、自分の「負」を出す
「負の部分を確認したら、それをまわりの人たちに曝け出す」
曝け出したことで去っていく人がいたとしたら、その人との関係は所詮その程度のものだったということである。
・「身につける」感覚を持つ
「身につける」感覚は、「持っているけど持っていない」「あるんだけどない」くらいの塩梅がちょうどいい。鎧ではなく、絹の衣をまとっているような感覚である。
そうなるには、頭でものごとを消化してはいけない。なにごとも体で消化していく感覚を持つことが大切である。
多くの人は、「自分の中に溜め込んだものが財産である」という考え方、価値観を持っている。しかし、「身につける」感覚を保つには、情報や知識のみならず、固定観念や信念といったものも含め、それらをいつでも捨てられる状態にしておかなければならない。
人間は食べたものから必要なものだけを吸収し、余ったものは尿や便として体の外に排出する。情報や知識のみならず、価値観やプライド、権利、そういったものも食べ物同様、必要なものだけ取り入れて、余ったものは排出する感覚を持つことが大切で、それこそが「身につける」感覚なのである。
口に入れたものは全部、とっておこう、吸収しよう、利用しようというのでは欲張りすぎである。そんなことをしていたら、いつか体が壊れてしまう。
・自分で動いて「答え」を出す
書店をのぞけば、ハウツー本があふれている。多くの人が何か問題に直面するとその答えをマニュアルやハウツー本に求める。悩み事を自分で解決しようとせずに、ほかのものから安直に答えを求めようとしてしまうのである。
問題を問題のまま自分の中に抱えておくと不安になる。そんな不安な状況を打破するには、とにかく自分で動くしかない。
・劣等感は「間違った勝ち」を生む
優越感を持ちたがる人は、その対極にある劣等感もたくさん抱えている。その劣等感を隠そうと、必要以上に優越感を手に入れたがるのである。
コンプレックスというものは、長い年月をかけてその人に染みついたものであるから、簡単にその色を抜くことはできない。コンプレックスを捨てる、或いはコンプレックスから解放されるには、「なぜ自分がコンプレックスを抱えるようになったのか」その原点にまで立ち返る必要がある。
そもそも、身の丈以上のものを求めるから、それが成し遂げられなかったときにコンプレックスが生まれてくる。しかし、人間には向上心というものがあるから、どうしても身の丈以上のものを求めたくなってしまう。
・コンプレックスを減らす方法
等身大の自分に戻れば、己の馬鹿さ加減や劣っているところなど、それまでマイナス要素としか感じられなかった部分を許せるようになる。「自分って、こうなんだよな」と認めることができれば、それまで覆い隠すことだけに必死になっていたのが、修正を加えることができるようになる。
無理矢理コンプレックスを排除したり、覆い隠したりせずに、そのコンプレックスと向き合い、認めてやるということが「自分を許す」ということである。
・プライドは「埃」のようなもの
誇りを持つにしても、社会的な制度や価値観に則った誇りではなく、自分でつくり上げた誇りを持つ方がいい。他の人に認めてもらえなくても、結果として自分が納得できることをしたのならば、それは誇りとしてもいいだろう。
そもそも誇りをたいそうなものとして考える必要はまったくない。「誇り」は「埃」のようなもの-そのくらいの認識でちょうどいい。
幾重にも覆われた殻の中で一番頑丈な殻であるプライドを脱ぎ捨てれば、人は素の状態に近づくことができる。人間は素の状態でいるのが一番気持ちいい。
世間体とか、バカに見られたくないとか、そんないらぬプライドは捨ててしまえばいいのである。
・「信念」を捨てれば自由になる
思い通りにならないから楽しい。「思い通り」とは結果である。そして、その「思い通り」の前には「思い込む」という経過が必ず存在する。
思い通りにならないと悩む人が増えているのは「思い込みやすい人」が増えた結果だということもできる。「思い込みが激しい」といわれる人はそれだけ迷いや悩みも多いだろうし、それが行き過ぎると錯覚、幻想、妄想の世界から抜け出せなくなってしまう。
・幸福は求めない
幸せというのはそもそも、求めるものではなく、与えるものなのだ。摑み取るものではなく、誰かに分けてあげるものなのである。「まわりの人を楽しませたい」「あの人の笑顔が見たい」、そんな純粋な気持ちで動ける人が、真の意味で「幸福な人」なのである。
・自分を捨てれば与えられる
得たものは必ず失う運命にある。これはこの世に存在するありとあらゆるものに共通していえることである。
著者が喪失感を感じずに生きてこられたのは、「終わりは始まり」という気持ちを常に持ち続けているからである。終わりが終わりなのは「生命の終わり」だけであって、そのほかの終わりはすべて始まりある。たとえ何かを失ったとしても、「今度得ることの始まりだ」と思っている。
失ったものを嘆いているだけでは、残された部分に気付くことはできない。失ったときこそ前を向く。それが「終わりは始まり」の第一歩となる。
・自分を捨てると新しい自分を得る
「自分を捨てる」という感覚の究極は「命を懸ける」ということである。自分のためではなく、人のために命を懸けられるか?
何か大切なものがあれば、人は「このためなら」という気持ちになれる。命を懸けるとまではいかずとも「自分の一番大切なものを捨てる」という心構えを持つことは大切である。
・手離さないと心のバランスを失う
人は、毎日の生活の中で食物を体内に取り入れ、いらなくなったものを体外へ排出している。「入れたものは出す」という行為。これはこの世に生を受けた動物として当たり前の行為である。しかし、人間は手に入れた知識や情報といったものをなかなか排出しようとしない。利益や利権、権力といったものにも、いつまでもしがみついている。
自分で獲得したあらゆるものは、手離す運命にある。
いいことも悪いこともいったん自分の中に取り入れ、消化したうえで手離していくことが大切である。自分の都合に合わせて「これは残しておこう」としがみついてしまうと、心のバランスはどんどん崩れていく。
・過去を捨てることは可能か?
「自分を捨てる」と似たような意味で「過去を捨てる」というようないい方もする。しかし、過去というのは、わざわざ捨てるようなものだろうか?
過去とは、もう終わってしまったことであって、それに対してとやかくいってもしようがない。「捨てるもなにも、すでに終わってしまったもの」でしかない。
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・はじめに
現代社会に生きる多くの人は、一度得たものをなかなか手離そうとしない。それが苦労したものであればあるほど、握りしめる力はよりいっそう強くなる。
そして人は、得たものを強く握りしめるということが、どれだけ自分を苦しめているかにも気付かない。そうやって人間は自らを窮地へ追い込んでいるのである。
手離すことは「終わり」ではない。手離すことから、すべてが「始まる」のである。
・こだわりの心から自由になる
学問にしろ仕事にしろ、人は努力して手に入れたものを手離そうとはしない。自分で手にした優越感に必死にしがみつこうとするから、それが固定観念やこだわりとなっていく。
「こだわり」というのは、妄想の中に確証を見つけようとすることから生まれる。
・人生を窮屈にするイコールの発想
多くの人たちは、恋愛にしろ、人間関係にしろ、会社関係にしろ、すべてがイコールで結ばれないと納得できない。つまり、「これだけやったのだから、これだけ見返りをよこせ」というわけである。その見返りがちょっとでも少ないと、不平不満を口にすることになる。
人間は、自分をコントロールすることはできても、他者をコントロールすることはできない。自分が「これだけの量」と思っていても、それが他者にとってどれだけの量になるかは、人それぞれまちまちである。
そうならないために必要なのが、イコールではなく「≒」、すなわち「大体でいいよ」という感覚なのである。
返ってきた量がちょっとくらい少なくても「いいよ、いいよ」と許せれば、その余裕が次への一歩を踏み出す力となり、その人の人生をより豊かなものにしてくれる。
・自分を許し、他人をも許す
あなたが誰かを許したとする。でもそれは、相手を許しているのではなく、結局のところ自分を許しているにすぎない。
・一日一回、自分の「負」を出す
「負の部分を確認したら、それをまわりの人たちに曝け出す」
曝け出したことで去っていく人がいたとしたら、その人との関係は所詮その程度のものだったということである。
・「身につける」感覚を持つ
「身につける」感覚は、「持っているけど持っていない」「あるんだけどない」くらいの塩梅がちょうどいい。鎧ではなく、絹の衣をまとっているような感覚である。
そうなるには、頭でものごとを消化してはいけない。なにごとも体で消化していく感覚を持つことが大切である。
多くの人は、「自分の中に溜め込んだものが財産である」という考え方、価値観を持っている。しかし、「身につける」感覚を保つには、情報や知識のみならず、固定観念や信念といったものも含め、それらをいつでも捨てられる状態にしておかなければならない。
人間は食べたものから必要なものだけを吸収し、余ったものは尿や便として体の外に排出する。情報や知識のみならず、価値観やプライド、権利、そういったものも食べ物同様、必要なものだけ取り入れて、余ったものは排出する感覚を持つことが大切で、それこそが「身につける」感覚なのである。
口に入れたものは全部、とっておこう、吸収しよう、利用しようというのでは欲張りすぎである。そんなことをしていたら、いつか体が壊れてしまう。
・自分で動いて「答え」を出す
書店をのぞけば、ハウツー本があふれている。多くの人が何か問題に直面するとその答えをマニュアルやハウツー本に求める。悩み事を自分で解決しようとせずに、ほかのものから安直に答えを求めようとしてしまうのである。
問題を問題のまま自分の中に抱えておくと不安になる。そんな不安な状況を打破するには、とにかく自分で動くしかない。
・劣等感は「間違った勝ち」を生む
優越感を持ちたがる人は、その対極にある劣等感もたくさん抱えている。その劣等感を隠そうと、必要以上に優越感を手に入れたがるのである。
コンプレックスというものは、長い年月をかけてその人に染みついたものであるから、簡単にその色を抜くことはできない。コンプレックスを捨てる、或いはコンプレックスから解放されるには、「なぜ自分がコンプレックスを抱えるようになったのか」その原点にまで立ち返る必要がある。
そもそも、身の丈以上のものを求めるから、それが成し遂げられなかったときにコンプレックスが生まれてくる。しかし、人間には向上心というものがあるから、どうしても身の丈以上のものを求めたくなってしまう。
・コンプレックスを減らす方法
等身大の自分に戻れば、己の馬鹿さ加減や劣っているところなど、それまでマイナス要素としか感じられなかった部分を許せるようになる。「自分って、こうなんだよな」と認めることができれば、それまで覆い隠すことだけに必死になっていたのが、修正を加えることができるようになる。
無理矢理コンプレックスを排除したり、覆い隠したりせずに、そのコンプレックスと向き合い、認めてやるということが「自分を許す」ということである。
・プライドは「埃」のようなもの
誇りを持つにしても、社会的な制度や価値観に則った誇りではなく、自分でつくり上げた誇りを持つ方がいい。他の人に認めてもらえなくても、結果として自分が納得できることをしたのならば、それは誇りとしてもいいだろう。
そもそも誇りをたいそうなものとして考える必要はまったくない。「誇り」は「埃」のようなもの-そのくらいの認識でちょうどいい。
幾重にも覆われた殻の中で一番頑丈な殻であるプライドを脱ぎ捨てれば、人は素の状態に近づくことができる。人間は素の状態でいるのが一番気持ちいい。
世間体とか、バカに見られたくないとか、そんないらぬプライドは捨ててしまえばいいのである。
・「信念」を捨てれば自由になる
思い通りにならないから楽しい。「思い通り」とは結果である。そして、その「思い通り」の前には「思い込む」という経過が必ず存在する。
思い通りにならないと悩む人が増えているのは「思い込みやすい人」が増えた結果だということもできる。「思い込みが激しい」といわれる人はそれだけ迷いや悩みも多いだろうし、それが行き過ぎると錯覚、幻想、妄想の世界から抜け出せなくなってしまう。
・幸福は求めない
幸せというのはそもそも、求めるものではなく、与えるものなのだ。摑み取るものではなく、誰かに分けてあげるものなのである。「まわりの人を楽しませたい」「あの人の笑顔が見たい」、そんな純粋な気持ちで動ける人が、真の意味で「幸福な人」なのである。
・自分を捨てれば与えられる
得たものは必ず失う運命にある。これはこの世に存在するありとあらゆるものに共通していえることである。
著者が喪失感を感じずに生きてこられたのは、「終わりは始まり」という気持ちを常に持ち続けているからである。終わりが終わりなのは「生命の終わり」だけであって、そのほかの終わりはすべて始まりある。たとえ何かを失ったとしても、「今度得ることの始まりだ」と思っている。
失ったものを嘆いているだけでは、残された部分に気付くことはできない。失ったときこそ前を向く。それが「終わりは始まり」の第一歩となる。
・自分を捨てると新しい自分を得る
「自分を捨てる」という感覚の究極は「命を懸ける」ということである。自分のためではなく、人のために命を懸けられるか?
何か大切なものがあれば、人は「このためなら」という気持ちになれる。命を懸けるとまではいかずとも「自分の一番大切なものを捨てる」という心構えを持つことは大切である。
・手離さないと心のバランスを失う
人は、毎日の生活の中で食物を体内に取り入れ、いらなくなったものを体外へ排出している。「入れたものは出す」という行為。これはこの世に生を受けた動物として当たり前の行為である。しかし、人間は手に入れた知識や情報といったものをなかなか排出しようとしない。利益や利権、権力といったものにも、いつまでもしがみついている。
自分で獲得したあらゆるものは、手離す運命にある。
いいことも悪いこともいったん自分の中に取り入れ、消化したうえで手離していくことが大切である。自分の都合に合わせて「これは残しておこう」としがみついてしまうと、心のバランスはどんどん崩れていく。
・過去を捨てることは可能か?
「自分を捨てる」と似たような意味で「過去を捨てる」というようないい方もする。しかし、過去というのは、わざわざ捨てるようなものだろうか?
過去とは、もう終わってしまったことであって、それに対してとやかくいってもしようがない。「捨てるもなにも、すでに終わってしまったもの」でしかない。