ニュルンベルクから南西へ約120㎞、ドナウ川沿いにレーゲンスブルクは位置しています。
私たちが泊ったのは旧市街から離れたIbis Style Hotel Regensburgという三ツ星ホテル。伝統とか情緒とかはありませんが、使い勝手の良いホテルチェーンなので、以前も何度か利用しました。
到着したのが結構遅い時間だったので、ホテル内のレストランで晩ごはんにしました。イタリアンでしたが、ビールだけ地元のものに。
夕食後は、下見がてら軽く旧市街の散策。
翌朝7月27日、ホテルの朝食ビュッフェは値段の割にまともで満足でした。
その日は10時半からの市内観光ツアーに参加しました。
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RegensburgはRegen(雨)とBurg(山城・街)と分析されがちですが、「雨」とは縁も所縁もなく、川の名前がレーゲンであることから来ています。レーゲン川はゲルマン人にレガナ(Regana)と呼ばれていましたが、その語源はケルト語にあるのではないかと言われています。レーゲンスブルクはケルト人居住地域であったので、さもありなんです。町の最古の記述は770年のRadasponaで、ケルト語のRate(土塁)とbona(街)からなる複合語のようです。イタリア語ではRatisbonaとして今に伝わっています。
ザールブルクの記事で既に述べたように、レーゲンスブルクはローマ帝国のゲルマニア国境線の最終地点で、A.D.79年辺りからローマ帝国軍の要塞が作られ始めました。現在の地名の元になっている要塞カストラ・レギーナ(Castra Regina)はA.D.170年にマルコマンニ族(ゲルマン系部族)を追いやった後、マルクス・アウレリウス・アントニーヌス(Marcus Aurelius Antoninus)の命によって175年から建設が開始され、179年に完成したと記す碑文が現存しています。カストラ・レギーナはローマ帝国属州レティア(Raetia)の主要軍事拠点で、第三イタリー軍団約6000人が駐屯していたそうですから、相当な規模です。ザールブルク要塞にはアウクシリア(Auxilia)と呼ばれる予備部隊5-600人が駐屯し、その周辺の村に兵士の家族や商人・職人たちトータル2000人ほどが住んでいたことを鑑みれば、その差は歴然としています。
今日見られるカストラ・レギーナの痕跡はポルタ・プレトリア(Porta Praetoria)と呼ばれる表門だけです。私たちが見に行ったときは修復中で見ることができませんでしたので、写真はウィキペディアから借用します。
ここからすぐ近くのニーダーミュンスター(Document Niedermünster)という教会の地下が大規模な考古学発掘現場兼博物館となっており、ローマ時代の建物の土台や発掘物が見られるようになっていますが、私たちはケルンで似たような地下博物館を見たことがあるので、レーゲンスブルクでは割愛しました。因みにケルンの地名はコローニア・クラウディア・アーラ・アグリッピネンシウム(Colonia Claudia Ara Agrippinensium=CCAA、クラウディウス皇帝妃アグリッピーナのコロニー)に由来し、ローマ帝国属州ゲルマニア・インフェリオール(Germania Inferior)の首都であり、A.D.50年には既にローマ帝国都市権を持っていた重要都市でしたので、水道やら貴族のお屋敷やら重要遺跡がゴロゴロ出土するようなところです。
話をレーゲンスブルクに戻すと、ここは陸地に設けられた大小の要塞とシグナルリレーができるように配置された見張り塔で形成された国境防衛線の最終地点ということはすでに述べましたが、これより先はベルグラードまでドナウ川が水の国境を成していました。
ローマ帝国軍は5世紀のゲルマン民族大移動時代に要塞を放棄して霧散してしまいます。すでにA.D.500年にはアギロルフィング家というフランク族の貴族が将軍としてやってきて、以降788年までアギロルフィング家将軍たちの拠点となっていました。739年には既にボニファチウスによってレーゲンスブルクは司教区としてローマ司教直轄地とされました。
レーゲンスブルクは、ローマ時代以降ヨーロッパで初めて石の橋梁建設に挑んだ町でもありました。有名な石橋は1135-1145年の間に構築されたもので、当初350mの長さと三つの塔を有したことから、『世界8番目の不思議』と言われていたとか。残念ながら、私たちが見に行った時は例によって補修工事中でした(´;ω;`)
この石橋の塔のすぐ隣にあるかつてのザルツシュターデル(Salzstadel、塩倉庫)は現在世界文化遺産レーゲンスブルク・ビジターセンターとなっています。割と表面的なインフォメーションセンターで、大した収穫にはなりませんでしたが。
そのお隣にはなんと12世紀から続く、橋職人たちのためのヴルスト食堂があり、今でもレーゲンスブルクオリジナルのヴルストが食べられます。屋根の上の看板は「歴史的ヴルスト食堂(Historische Wurstküche)」とあります。
中世には、レーゲンスブルクは商業都市、特に塩の交易で栄えました。その経済的繁栄の象徴として富裕市民たちはイタリア風の住居棟をより綺麗に、より高く、と競って建てました。最盛期は13世紀。そのような住居棟がレーゲンスブルクにはトータル40件あったことが分かっています。
現存する最古の居住塔
最も美しいと言われるバンブルガートゥルム(Bamburgerturm)。1270年ごろに建てられたバンブルク家の住居塔。現在一階には『バイム・ダムプフヌーデル・ウリー』(Beim Dampfnudel-Uli)というレストランが入っています。13世紀の建物が普通に使われ続けているところがレーゲンスブルクのユネスコ世界遺産たる所以です。戦火を免れたドイツ唯一と言っていい都市です。
最も高い居住塔『金の塔』は高さ50m。現在は改装されて、学生寮として使われています。人気があるため、最長2年間しか住めないことになってるそうです。
ハイトプラッツにある『金十字(Goldenes Kreuz)』は16-19世紀の間、皇帝御用達のホテルでした。元々は二つの別々の建物だったのが、1862年に統合されて今の形になったそうです。
1663年から1803年まで、レーゲンスブルクは帝国議会の常時開催地として栄えました。帝国議会が開催された旧市庁舎は今でも残っています。現在は一階がツーリストインフォが入っており、それ以外は博物館になっています。
旧市街のお屋敷群。観光地図には載っていないので、建物の背景情報は残念ながら確認できません。
このいい位置のベンチのようなものはかつての魚市場だったところにいくつか残っている魚の処理台で、ドナウ川の水が蛇口から出るようになっていました。
聖ペトリ大聖堂(Dom St. Peter)はフランスゴシック様式を模倣して1250年に建設開始され、1525年に塔を除く部分が完成。105mの高さに及ぶとがった塔は1859-69年に取り付けられました。こちらもなんか工事中で、建物全体を見ることはできませんでした。中には入れたはずですが、宝物館がある以外は特別なものがなさそうだったので割愛しました。
オレンジの建物は聖ペトリ大聖堂のほぼ真向かいにあり、バイエルン州最大の帽子屋さんだとか。
石橋から撮った風景。向こう岸のシュタットイムホーフ地区(中州)にも少し足を踏み入れてみました。
昼食は聖ペトリ大聖堂に隣接する元司教館を改装したホテル&レストラン、ビショフスホーフ(Bischofshof)の中庭で。ここは未だに教会所有で、ビール醸造所もあります。製造されているビールの名はまんま『ビショフスホーフ』です。
豚肉とクネーデルというジャガイモを潰して牛乳か生クリームなどを入れて丸めたものとキャベツサラダ&ブロートツァイトテラー(Brotzeitteller)というハムや肉の練り物各種盛り合わせとドナウターラーという地元の暗めのパン。
食べてる最中に雨が降ってきて、ウェイトレスさんが無言でパラソルを取り去ってしまったので、やむを得ず、お皿と飲み物のグラスを持って店内に駆け込みました。パラソルはあくまでも日よけということらしいのですが、何か言ってくれても良さそうなものです。
小雨の降る中見に行ったのは、ロココの内装で有名な『アルテ・カペレ(Alte Kapelle、古い礼拝堂)』と呼び慣らされている教会です。正式には「古い礼拝堂に属する聖母バジリカ(Basilika Unserer Lieben Frau zur Alten Kapelle)」と言い、その歴史は9世紀のドイツ人王ルートヴィヒ(東フランク王ルートヴィヒ2世)がある女神のための王城礼拝堂を建立したことに始まります。この建物は彼の死後荒れ果ててしまいますが、125年後にバイエルン公爵ハインリヒ4世、後の皇帝ハインリヒ2世によってより大きな王城教会として再建されました。1009年にその教会はバンベルク司教区に寄贈されました。この『飛び領土』は1803年の神聖ローマ帝国終焉の時まで維持されました。バシリカの南側のグナーデンカペレ(Gnadenkapelle、慈悲の礼拝堂)は1694年に慈悲の画が描かれ、以来聖母マリア信仰の巡礼地となっています。バシリカとグナーデンカペレは18世紀にアントン・ランデスによってロココ風に改装されました。グナーデンカペレの方はピンクを基調にしているのでそれほどキンキラした印象は受けませんが、バシリカの方は目がちかちかするほどキンキラキンです。
グナーデンカペレ
アルテ・カペレ(バシリカ)
ノイプファルキルヒェ(新教区教会)は、1519年2月のユダヤ人追放した際に破壊されたシナゴーグ及びユダヤ人居住区があった場所に建っています。酷い話ですが、残念ながら中世では珍しくない現象でした。ノイプファルキルヒェは1540年に聖母マリア教会として献堂されましたが、1542年にレーゲンスブルクが福音ルーテル派に改宗したため、『新しくできた教区教会』という意味でノイプファルキルヒェと改名されました。
レーゲンスブルク最後の夜はやはり地元料理を、ということででブランドゥル・ブロイ(Brandl Bräu)という15世紀から続くレストランで晩ごはんにしました。
ビールも地元のもの。
老舗だけど、モダン。フリーWifi完備。
前菜。「マーゲンドラツァール(Magendratzerl、「腹ごなし」のような意味)」という3種類のディップのようなものと地元のパンのセット。シュマルツ(ラードを味付けしたもの)、ネギ入りフレッシュチーズ、「オバツダ(Obatzda)」というカマンベールチーズなどのソフトチーズとパプリカ、玉ねぎ、クミンなどを混ぜたもの(らしい)。美味しいのでついつい食が進んでしまいますが、高カロリーで要注意です(笑)
ダンナの頼んだメインは「シュマンケァルテラー(Schmankerlteller)」と命名されたラム肉。あまりお気に召さなかったようです。
私のはハーブ入りニジマス。こちらはなかなか美味でした。前菜を食べ過ぎたので、こちらは食べきれませんでしたが。。。
ダンナの頼んだデザート。白ビール入りのティラミス、だそうです。アプリコットは甘煮したもので、温かいまま供されていました。
さて、レーゲンスブルクは池田理代子の名作漫画『オルフェウスの窓』の舞台になっていますが、漫画での印象だと美しくロマンチックな司教都市なのですが、実際にはそれほど美しい印象は受けませんでした。補修工事中のところが多かったのと天気が悪かったのが原因かもしれませんが。戦火を免れたため、数百年前に建てられたものが改装・改修されながら現在も使われている、という点では非常に興味深い街で、中世そのままの細い小路などは独特の魅力があるとは思います。でも、『美しくロマンチックな街』なら他にあるな、という感想を抱きました。
レーゲンスブルクといえば、トゥルン・ウント・タクシス侯爵家(Fürst von Thurn und Taxis)の居城としても知られています。とは言え、侯爵家がレーゲンスブルクに移ったのは18世紀のことで、それ以前はフランクフルト・アム・マインを拠点としていました。もともとは北イタリアのベルガモ近郊コルネッロ(Cornello)出身の貴族で、神聖ローマ帝国皇帝の命により、15世紀から郵便を司ってきました。1595年以降トゥルン・ウント・タクシス侯爵家は帝国郵便総督長(Reichsgeneralpostmeister)の地位を独占していました。1748年にアレクサンダー・フェルディナント・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯爵が皇帝代理人に任命され、帝国議会の常時開催地であるレーゲンスブルクで皇帝の代わりに議会に関する全てのコーディネートを請け負うことになったため、レーゲンスブルクに拠点を移しました。1806年に神聖ローマ帝国が崩壊し、皇帝代理人職が無くなった後も侯爵家はレーゲンスブルクに留まり、今に至っています。14世紀に建てられた聖エメラム修道院は1812年に侯爵家の手に渡り、1816年にロココ様式に改装され、侯爵家の居城・聖エメラム城となりました。一部博物館として公開されていますが、今でも侯爵家はそこに住んでいます。
次の目的地はドナウシュタウフです。