村田紗耶香著『コンビニ人間』は第155回(2016年上半期)芥川賞受賞作品ということで一応買っておいた本です。昨夜スペイン旅行帰りで疲れていたにもかかわらず、ベッドに入ってもなかなか寝付けなかったためにこれを読みだして、面白くて一気読みしてしまいました。
芥川賞受賞作品が私の好みに合うことはあまりないような気がしますが、この作品は例外だったようです。
36歳未婚女性、古倉恵子。
大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。
これまで彼氏なし。
オープン当初からスマイルマート日色駅前店で働き続け、
変わりゆくメンバーを見送りながら、店長は8人目だ。
日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、
清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、
毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。
仕事も家庭もある同窓生たちからどんなに不思議がられても、
完璧なマニュアルの存在するコンビニこそが、
私を世界の正常な「部品」にしてくれる――。
というのが商品説明です。恐らく主人公の古倉恵子は自閉症スペクトラム障害の一種を患っているのではないかと思われます。「普通」の子供たちが悲しんだり怒ったりすることに何も感じず、かなり突拍子のない問題解決方法(例えばケンカする男の子二人を止めるためにスコップで殴ったり、女の先生を黙らせるために教室で彼女のスカートを引きずり下ろしてしまったり)を取り、叱られてもなぜそれがいけなかったのか理解することができなかったとのことで、叱られたりするのが面倒なために人を避けるようになり、「普通」を演じるために必要とあれば周りに同調して切り抜けるようになります。しかしそれも30代になって結婚もせず、就職もせずバイトという状態のままでは「普通」が演じられなくなってしまいます。そこでもとバイト仲間の男性と同棲してみることにしました。すると周囲の彼女に対する目が一変し、彼女は「こちら側の人間として扱われた」と感じるようになります。その同棲相手である白羽という男はとんでもないろくでなしで、「底辺の人間」とレッテルを張られるのにふさわしい経歴の持ち主なのですが、自分で努力することを嫌い、なんでも周囲のまたは世の中のせいにして、自分は人から干渉されたりレッテルを張られたりするのが嫌いなくせに他人には同じようにけなしたり、レッテルを張って侮蔑してみたりして自尊心を保とうとしているような人です。きっとこういう人がネットでの匿名性を利用してあちこちで的外れな罵りをしまくっているのではと思えます。
この彼と同棲し(性的関係などはなし)、より「普通っぽさ」を装うためにコンビニのバイトを止めて、彼に言われるままに就職活動をするようになるのですが、コンビニという指針というか基準を失った彼女は日常生活にかなりの支障をきたすようになります。このあたりが自閉症スペクトラム障害ではないかと疑われる部分です。
物語はあくまでも主人公の視点から描かれていますが、世間の同調圧力や異分子に対する排他性が実に細やかに描写されており、その苦しさが分かる人には非常によく分かる感じです。同調圧力をかける側、排他する側の人で、そのことに疑問を持たず、無意識でそういうことをしている人たちには共有できない感覚ではあろうと思いますが。
私自身は日本ではどちらかと言えば排他される側の異分子でしたので、主人公の気持ちや彼女と同棲することになった白羽という男の気持ちに同調できることがかなりあります。男の方はそれでも自分に甘すぎて、ろくでなし過ぎますけど。しかしこの「毒」が作品にピリッとしたスパイスを与えているのだろうと思います。
日本人のメンタリティーは同調圧力の強い排他的なムラ社会をずっと引きずっています。昔はそれがあからさまでしたが、現代では「価値観の多様性」などという幻想が蔓延っている分だけたちが悪いように思えます。誰もが自由で、だからその結果もすべて自己責任で。でも本当は選択の自由などないに等しいことが多いし、周囲の人たちと違うことをするには大変な勇気が必要であったり、勇気を出して違うこと、自分が正しいと思うことをやってみるととんでもない攻撃を実際に受けるようになるなど割と日常茶飯事です。日本人の美徳の一つとされる【和】は、その和を乱す異分子に対する攻撃性によって保たれるもので、排他性の裏返しに過ぎません。この社会メカニズムが学校という軍隊的な教育機関によって徹底的に子供たちに叩き込まれ、使い勝手の良い大量の働き手が生産されてきたのが戦後の日本の実情でした。【自主性】や【自分で考えて行動する】ことは日本社会では建前はどうあれ、実際には歓迎されることはないため、間違うことを恐れ、安心を得るためにマニュアルを求めてそれに従う生き方しかできなくなる人たちが増えることになります。しかしそれでは自分の生き方に確固たる自信など持てるわけはありません。だから違うものに対する耐性が弱く、自分の生き方が揺らがないように、いわば自分の不安を搔き消したいがために、異分子に対してより攻撃的になるのではないかと私は考えています。不安で余裕がないから、「違い」を鷹揚に受け止めたり、ましてや尊重したりするような芸当ができないわけです。今の日本は、私が日本に居た20数年前よりずっと攻撃的になっているように見受けられます。それはきっと不安で余裕がない人が増えていることの表れなのだろうと思えます。
この作品の興味深いところは、そうした現代的問題に切り込みながら、何の倫理的社会批判などを持ち出さず、結論らしい結論も出さず、テンポよくコミカルに現代の実像を描いているところなのではないでしょうか。押しつけがましさがないのがいいと思います。作者の意図がどこにあったかは分かりませんけど。