散々雨に降られつつバイエルンの森からパッサウに辿り着きましたが、ホテルがインシュタットというイン川を超えた向こう岸で、狭い街中からそこに至るには橋が一本しかないという状況から当然の帰結としての大渋滞に思いっきり巻き込まれ、パッサウの第一印象は最悪なものとなってしまいました。
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パッサウはイン川(左)、ドナウ川、イルツ川(右端の一番細い川)の三つの川が合流する、ドイツ・オーストリア国境の街で、ドライフリュッセシュタット(Dreiflüssestadt、三川街)という異名もあります。イン川(左)はドナウよりも幅が広く流れが速いそうですが、水深が浅いために大型船の航行はできません。
ローマ時代もドナウ川がゲルマニアとの国境で、パッサウは数ある要塞都市の一つで、カストラ・バターヴァ(Castra Batava)と呼ばれていました。バターヴァはそこで傭兵をしていた西ゲルマン系部族バターヴィ族から来ています。そのゲルマン系部族やローマ人たちがくる以前にいわゆるラ・テーヌ文化に属するケルト人たちが住んでいた痕跡があるのですが、どうしていなくなってしまったのかは不明です。地名「パッサウ(Passau)」はこの「バターヴァ(Batava)」が変形したものです。言語学に詳しい方なら、すぐにその「変形」がグリムの法則・第二子音推移によるものと分かるかもしれませんが、普通は想像もつきませんよね。
大まかな歴史の流れはレーゲンスブルクなどと同じで、ゲルマン民族大移動時代の5世紀にローマ軍が去り、6世紀にバイエルン族が来て、その後739年にキリスト教司教が来て修道院を創設し、パッサウは司教区に。
ただしパッサウは、ニュルンベルクやレーゲンスブルクとは違って帝国自由都市にはなれず、侯爵司教区(Fürstbistum)として世俗の権力を持ち合わせた侯爵司教(Fürstbischof)に支配されました。1225年に都市権を得て、市民の力が増し、14世紀には何度も司教支配に抵抗する反乱が起きましたが、毎回不成功に終わってました。
宗教戦争がヨーロッパを席捲していた1552年に「パッサウ条約(Passauer Vertrag)」が結ばれ、違う宗派に対する寛容を取り決めた「アウクスブルクの和議(Augsburger Religionsfrieden)」に至る道を決定づけることになる近世の歴史的舞台でもあります。
1662年と1680年に大規模な火災があり、町の大部分が焼失してしまい、イタリアの建築家たちが招聘された街の再建に携わったため、イタリアンバロックやロココ様式の建物が多く、ちょっとした小路などもイタリア風のアーチがかかっていたりして、ドイツの街には珍しい雰囲気があります。
1803年の神聖ローマ帝国の帝国代表者会議主要決議(Reichsdeputationshauptschluss)によって、教会所領の「世俗化」が決定し、司教区だったパッサウはバイエルンの一都市となりましたが、もしその当時住民投票のようなものがあったら、パッサウはバイエルンよりもオーストリア・ハンガリー帝国に所属することを選んでいたかもしれない、と言う地元の人たちもいるようです。1803年からパッサウは「眠り姫の眠り」についたという感覚が支配的なようですが、バイエルンについてもオーストリアについても「端っこ」であることには変わりがなく、地理的な条件から工業化には向いていないため、どちらにせよ近代化の波には乗れなかったのではないでしょうか。
パッサウは現在人口約5万人。うち1万3000人が大学生。もし大学がなかったら、もっと落ちぶれていたかもしれません。ちなみに秋田市の姉妹都市だそうです。
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私たちが泊ったホテルはドルメオホテル・パッサウという4つ星ホテル。
赤を基調とするモダンなデザインは好みではありませんでしたし、レセプションの女性が見習いか何かだったらしく非常に不慣れでチェックインがもたついたので、「4つ星ホテルの割には…」とホテルの印象はマイナス。
お隣がEdekaというスーパーで、お向かいがバス停と「P&R(駐車&バス・電車利用)」の大きい駐車場があったので、車を止めるところに困らなかったのはプラスの印象。
取りあえずトリップアドヴァイザーを頼りに歩いて行けるレストランを探し、イン川沿いをぶらぶら歩きだしました。
最初に入ったメキシコ料理のレストランはうるさ過ぎて耐えられなくなったので、料理を注文する前に退散。次に見つけたのがヴェンティトレ(23)というイタンリアン。天気が持つことを祈りつつ中庭の席を取りました。イカ、エビ、サケの盛り合わせ。パッサウの白ビール(ノンアルコール)を頂きました。ちょっと、というかかなり時間がかかりましたが、美味しかったです。デザートはチョコレートアイスのような… 残念ながらなんというものだったか忘れてしまいました。
食後は、恐らく昼間には渋滞で行くのが難しいだろうと思われた、ドナウとイルツに挟まれた高台の上にあるフェステ・オーバーハウス(Veste Oberhaus)に行きました。フェステは1219年に侯爵司教ウルリヒ2世によって、すでに建っていた聖ゲオルグ教会を囲むように作られた要塞居城です。ナポレオン1世がこの要塞を対オーストリア戦の拠点にしたらしいです。要塞は一度オーストリアに投降しますが、1815年のウィーン会議後はバイエルン軍の要塞兼監獄として使用され、「バイエルンのバスティーユ」と恐れられていたとか。現在は博物館になっています。
フェステからみたパッサウの夜景
翌朝、7月29日は10時半に始まる市内観光ツアーに参加する予定だったのですが、バスを降りる場所を間違えたのと、集合場所がツーリストインフォのある旧市庁舎前ではなく、聖シュテファン大聖堂の前だったため、時間通りに集合場所に辿り着けず、断念することに。結構急いで走ったりしたので、エネルギーを使い果たしてしまいました。
集合場所だと思って行った旧市庁舎。14-15世紀に建てられた富裕市民の住宅を繋げた建物。塔はネオゴシック。
仕方がないのでドライフリュッセンエック(Dreiflüsseneck、三川角)という三つの川が合流する地点に面する岬のような公園で一休みすることにしました。イン川を背にドナウ川とその向こうに聳えるフェステ・オーバーハウスを眺めながら、「ああ、向こう側はゲルマン領だったんだあ」などとぼんやりと考えていました。因みにフェステ・オーバーハウスの大砲はこちら側(市庁舎のある側)を向いて設置されていて、実際に市街地に向けて撃たれたという話ですから、それも怖いものです。あの高台が取れないと勝てないという戦略的に重要な位置であることがよく分かります。
休憩して少し回復してからイン川沿いを歩いて聖シュテファン大聖堂に向かいました。
途中にパッサウのシンボルの一つであるシャイプリングストゥルム(Schaiblingsturm)があります。
塩貿易最盛期の時代には荷揚げされたものを収容する倉庫の機能もあったようです。数世紀の間に何度も改装・改修されてきましたが、
今の白っぽい壁は2004年の大規模改修時に塗られたものです。
費用26万ユーロをかけて、ヒーターやトイレも付けたので、住むことも可能になりましたが、壁の穴は残されました。
ツバメやコウモリが巣作りできるようにするため、だそうです。
2013年の大洪水時にかなり損傷したので、その補修工事も8万ユーロかかったと言います。随分とお金のかかる
シンボルですね。
聖シュテファン大聖堂は旧市街の最も高い所に建っています。聖シュテファンの歴史は紀元後720年まで遡りますが、戦争や火事で破壊・焼失してしまったので、現在残っているのは8世紀の修道院の回廊の一部〔中庭)、1407-1598年に建てられて、1662年と1680年の火事を生き延びた教会東部の後期ゴシック様式の部分と、火事の後1668-1693年に再建されたイタリアンバロック様式の部分だけです。この高台にローマ軍団のカストラ・バターヴァがあったので、その出土品が教会の中庭に展示されています。
イタリアンバロックの彫刻や天井のフレスコ画は完成度の高い美しさです。下のサムネイルをクリックするとオリジナルの大きさの写真が見られますので、ご堪能下さいませ。
世界一大きい教会オルガンが鎮座しています。このオルガンは5つのオルガンから成り、231の音栓と14388のパイプを備えています。地元のオルガン製作所アイゼンバルト(Eisenbarth)が1978–1984年にと1993年に製作したものとのことなので、教会ほど古くありません。
上の写真は教会の正面から撮りましたが、裏側(レジデンツプラッツ、Residenzplatz)に回るとゴシック様式の部分が見えます。中世のステンドグラスは残念ながら破壊されたままで修復されることなく、ただのガラスが嵌められています。
聖歌隊席のある丸い部分の左側に回るとゴシック様式とバロック様式の境界線がくっきりと見えます。
右側の何本も溝の入った柱のある方がゴシック、左側の平らで蒲鉾のような形の窓のある方がバロックです。
興味のある方は拡大して見比べてみて下さい。
様々な建築様式が混じっている教会は珍しくありませんが、ゴシックとバロックの組み合わせは私は今回初めて見ました。
ドームプラッツに立つ銅像はバイエルン王マクシミリアンで、ドナウに背を向け、ミュンヘンの方を向いています。前述の帝国代表者主要決議によって1803年からバイエルンの所領となったパッサウ市民たちに向けた「今後はバイエルン首都のミュンヘンの方を向いて、それに従え」というメッセージが込められているそうです。それまでパッサウはドナウ川を通商路とした貿易で栄えてきたので、どちらかと言えばドナウの方、すなわちオーストリアの方を見て生活してきたので、市民にとってはかなり強烈な方向転換だったようです。
昼休憩は大聖堂広場の教会から出て左手にあるカフェ・シュテファンスドーム(Café Stephan's Dom)で、疲れの吹っ飛ぶサマークレープ。クレープの中はラズベリーとバニラアイスがたっぷり。一人ではボリュームがあり過ぎるので、ダンナと分けて頂きました。店内には美味しそうなケーキもたくさんありましたが、何分暑かったので、ケーキと言う気分にはなれませんでした。
昼休憩の後、私は一人で市内観光ツアーに参加しましたが、ダンナは旧市庁舎の隣にあるガラス博物館に行きました。
ツアーは一人5ユーロ。旧市街の本当に狭い範囲しか歩きませんでしたが、それなりに面白かったです。洪水にまつわる話が多かったです。2013年の13m近くまで到達した洪水が記憶に新しいためでしょう。予報では9mという話だったのに一晩で一気に13m近くまで水位が上がったので、準備が全く役に立たずに甚大な被害が出たそうです。8mくらいの洪水は毎年1回はあり、そのくらいならパッサウ旧市街の住民たちはなれているらしいのですが…
下の家はヘルガッセ(Höllgasse、地獄小路)とプファッフェンガッセ(Pfaffengasse、牧師小路)の交差点に建っていて、ドナウ川岸からほんの数メートルしか離れていない低地にあります。歴史的な洪水の水位を丸い張り出し部分の二つの窓の間のところに記録してあり、2013年の水位は2階の窓が全部水没したことが分かります。サムネイルをクリックして拡大すると、その記録がよく見えるかと思います。2階の窓の半分より上の部分の記録は1954年7月10日の水位で、2013年の洪水が起こるまではそこが最高水位だったらしいですね。
パッサウの旧市街に残る中世的な小路。
下の写真は旧市庁舎の隣のガラス博物館が入っているホテル≪ヴィルダー・マン(Wilder Mann)≫の一部ですが、ドナウの方を向いて聖ニコラス像が飾ってあります。聖ニコラスは船乗りの保護聖人なので、その位置に取り付けられたとのことですが、この彫像は2013年の洪水で流されてしまい、一時行方不明になっていました。復旧作業の際に青年消防団がイルツ川合流地点近くのドナウに架かるルイポルト橋の下部の補強鉄骨に引っかかっている聖ニコラス像を発見し、泥を洗い流した後にヴィルダー・マンの所有者に返還したとのこと。プロフェッショナルな補修はされていないので、よく見れば汚れがしみとなって残っているのが分かります。
旧市庁舎からミルヒガッセ(Milchgasse、牛乳小路)を登るとイエズス会の教会聖ミカエル教会と現在はギムナジウムとして使われているかつてのイエズス会コレジオがあります。聖ミカエル教会は1677年の建立。内部の豪華な化粧しっくい細工は聖シュテファン大聖堂にも化粧しっくい細工を施したジョヴァンニ・バティスタ・カルローネと言う人の作です。
聖ミカエル教会の全体像。ウィキペディアより転載。
イン川方面の狭い小路。
レジデンツプラッツ。パッサウで最も豪華な建物に囲まれた広場。司教居城があり、その中は教区の博物館にもなっています。
新司教居城の入り口の一つでロココ風の装飾が施されています。ここから入ると、「パッサウで最も美しいロココ調の階段室」があります。
「最も美しい」と言うから期待したのですが、ちょっと期待外れでした。目が肥えすぎてるのかもしれません。
これでパッサウ観光は終了です。
ダンナの報告によるとパッサウのガラス博物館は私的な収集だけあってかなり偏りがあり、そういうのが趣味の人たちには垂涎ものがたくさん展示されているのかも知れませんが、ガラスについて体系立って学ぼうという人には不向きで、バイエルンの森・フラウエナウのガラス博物館の方が分かりやすかった、とのことです。
翌7月30日。パッサウ最後の朝食を終えて、西へ210㎞ほどのアウクスブルクへ向かいました。
アウクスブルク編に続く。