徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

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書評:藤田孝典著、『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(朝日新書)

2016年02月12日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

老後の貧困はドイツでも話題になっています。『下流老人』に相当する言葉はありませんが、両国の問題には共通するものが多いです。

藤田孝典氏は『下流老人』を「生活保護基準相当で暮らす高齢者、およびその恐れのある高齢者」と定義しています。具体的な指標として3つの「ない」、すなわち(1)収入が著しく少ない、(2)十分な貯蓄がない、(3)頼れる人がいない(社会的孤立)が挙げられています。そして、現在年収400万円の人でも将来下流老人になる危険が非常に大きいことをモデル計算で示します。この年収で20歳から60歳の40年間厚生年金保険料を払ったとしても受け取れる年金月額は約16万5千円。若くて健康な独り暮らしならこの金額でどうにかなるでしょうが、高齢者の場合は「不測の事態(特に病気)」が若い人よりも多く、年金削減などで収入が減ることはあっても増えることはないということも考慮するとかなり心もとない金額です。労働収入が月25万円だった場合の年金受給額は約13万円で、明らかに生活保護レベルです。つまり、現在の非正規はもとより正社員でも400万円以下の低賃金で働く人の老後は相当厳しいということです。これはすでに個人の問題ではなく、国の制度が『下流老人』を生み出しているので、制度の改革なしには【一億総老後崩壊】もありうる、と藤田氏は指摘しています。

解決のための提言は、生活保護などの福祉の「申請主義」を止め、アウトリーチの福祉を目指す、生活の部分補助の導入、特に住宅扶助を充実させる、などさほど真新しくないものもありましたが、面白いと思われたのが、「生活保護の保険化」という案。現在の日本では社会保障制度が正しく理解されておらず、生活保護は特に差別の対象、「スティグマ」となっているため、いっそ保険制度にしてしまえば(保険料毎月100円など象徴的な金額で)、苦しくなったら「権利として」保護を受ける、という意識シフトを実現できるのではないか、というのが筆者のアイディア。
確かに社会保障論を国民に広めるよりも、「保険料を払って、必要な時に相応のサービスを受ける」という制度の方がより多くの人にとって理解しやすく、普及するチャンスがより大きいと思われます。たとえシンボリックな保険料が十分な財源にならないことが明らかでも、「保護を受けることは恥ずかしいこと」という間違った意識を薄れさすのに適した視覚化された制度なのではないでしょうか。

最近は、貧困者や高齢者の生きる権利を否定するような政治家の発言やネット民の言動がよく見受けられ、恐ろしい世の中になったものだと義憤をおぼえずにはいられません。死んでいい人なんて一人もいないのに...!「生活保護を受けるのは甘えてる」とか「貧困になったのは自己責任」とか思いやりのない、実にすさんだ意見を匿名のネット住民ばかりか政治家まで言い出す始末。貧困が制度的に生み出されているものだということにどうして思い至ることができないのか、また保護は憲法で保障されている生存権を守るもので、施しでもないし、本人の甘えでもなく、当然の権利だという社会福祉論を露ほども知らず、弱者を攻撃し、また弱者本人もその考え方に影響されて、我慢してしまうため、餓死者まで出る始末。先進国の在り方としてそれは恥ずべきことだと私は思います。社会全体が病んでいるように思えてなりません。

ドイツはそこまですさんだ人は多くないように思いますが、それでも平均的な年収で40年間年金保険料を継続的に払った人でも、年金受給額は生活保護レベルになることは日本と同じです。いわゆる年金受給レベル(年金受給額と過去の所得額の比率)が現在の50.3%から2020年までに46%、2030年までに43%までに引き下げられることが原因です。同時に年金受給開始年齢も現在の65歳から2029年までに段階的に67歳まで引き上げられます。2006年に年金制度改革によるものですが、理由は少子化・高齢化で、将来の高齢者人口に対する労働人口の比率が小さくなることにあり、その条件下でも年金制度が機能するように修正することを目的としています。唯一の救いは会社の定年退職が年金受給開始年齢と常に一致することで、日本のように60歳で定年退職し、65歳で年金受給開始という5年間の収入空白期間が生じることがないので、少なくとも再雇用の心配をしなくてもよいということです。

私個人は今はいわゆる【勝ち組】に属しているので、年金が生活保護レベルになる心配はありませんが、親の介護や夫や自分の病気などの不測の事態で貯金が十分にできないリスクは確実にありますし、そうでなくても『貧困』は私にとって身近なテーマです。例えば私の父方の祖父はそれなりに財産を持っていたのに、友人の借金の保証人になり、結局騙されて家屋敷を手放す羽目になり、その後はずっと借家住まいでした。私の父はその手放さざるを得なかった屋敷を自分なりに取り戻そうとしたらしく、不動産ブームの波に乗って不動産業を営んでいました。マイホームも取得しました。けれど1990年代の初頭に不動産バブルが崩壊し、会社として抱えていた不動産が不良資産化し、多額の負債を負ってしまいました。不動産価格がどんどん下落し、低迷したままだったので、収入も大幅に減り、マイホームは売却。一時は夜逃げするように住所を変えたこともありました。一応年金受給開始年齢までに何とか借金は清算できたようでしたが、年金受給額は月10万円以下、貯蓄なしという明らかな『下流老人』となり果てました。「早く死んで楽になりたい」とまだ手紙を書く元気があったころはよく書いていました。介護費用分担についての家族会議を開いて間もなく、心臓発作で去年3月に他界してしまいました。
私自身も、1990年にドイツへ留学し、渡航費や6か月分くらいの生活費は自分の貯金から出しましたが、そのあとは父から仕送りを受けていました(学生ビザで働けなかったので)。バブル崩壊後はその仕送りが途絶え、日本に帰るに帰れなくなったので、学生に許されている範囲のバイトで何とか生活費を稼いでいました。ドイツの大学が無料で良かったと胸をなでおろしていたものです。学生時代もそうでしたが、就職してからも数年は不安定雇用だったり、外国人であることのハンデがあって、学歴に見合わない職についていたので、結構長い貧乏時代がありました。だから、今はどうであれ、「貧困」は身近で自分の問題として捉えていますし、どう社会制度を変えれば貧困問題を緩和できるかを常に考えてしまうのです。そして、ここ10年くらいでドイツでも日本でも貧富の差が広がり、「中流」が消えつつあることをとても危惧しています。日本では特にセーフティーネットが不十分なので、あっという間にどん底まで落ちてしまうリスクが高く、とても心配です。なので、この本を読んでもらってももらわなくてもいいですが、貧困をできるだけ多くの人に【社会の問題】として考えてもらえたらいいなと思います。