4月は全然書けませんでした。
書こうと思ってることはあるけど、そのうちと思っているうちにウヤムヤになってしまう。
家が片づかない理由と同じだな、こりゃ。
と、いうわけで、思い立ったその時に書くのがいいようで、今日はこれ、「通りゃんせ」。
新聞土曜版の記事の感想をそのまま書きます。
この歌詞の意味、分からないことが多いのですが、新聞で紹介しているのは埼玉県川越市の三芳野神社が発祥の地という説。
この神社は江戸時代、川越城内にあり、庶民は限られた日にしかお参りを許されず、帰りには持ち出し品がないか厳重に調べられたという。
そう言われれば、歌詞の内容とピッタリ合うように思えますが、はっきりとは言えない。 歌はもっと広い範囲に伝わってるし、そんなうるさい神社にわざわざお参りしなくても別の所に行けば?という疑問も感じます。
一時期、童謡・わらべ歌にうがった解釈をすることが流行って、この「通りゃんせ」にも、口減らしのために子どもを殺害するから「帰りは怖い」のだとする説を見たことがあります。
「それはあり得ない!」と思いました。
七つといえば、昔なら子守などの労働が出来る年頃。 そこまで苦労して育てといて、何でここに来て殺さなきゃならないんですか? 生活が苦しいなら働きに出せばいいはずです。 「おしん」でも分かるように、日本も数十年前までそんな社会だったんですよ。
そもそも、いっぱしの働きが出来るまでに育ったことを神様に感謝するのが、「七つのお祝い」でしょ。
先の「うがった解釈」というのは、ことさら暗く恐ろしげなことを言って、無邪気に童謡を歌っている人たちを驚かせ、怖がらせようという感じで、私は嫌な気がしていました。 社会の不安を反映しているのでしょうか?
土曜版の記事に戻ると、他にもいくつかの解釈を紹介しています。
「帰りはこわい」は「怖い」じゃなくて「疲れる」というのは賛成できる気がするけど、関西弁に似ているというのは、関西人として大いに疑問です。
関西人からすると、これはどうも関東の響きなんですけど。
関西全体のことは分からないけど、私が育った地域では「通りゃんせ」で遊ぶことは余りありません。 同じ遊びはあったのですが、歌が違います。
歳がばれそうで嫌だけど紹介しておきましょう。
「梅と桜と合わせてみれば
梅のながれが ピンコシャンのシャン
ちょっと米搗いて トーントン
うさぎが餅搗いて トーントン」
「通りゃんせ」を使うこともたまにありましたが、借り物みたいで、なんだかよそよそしかったです。 最後に親がつないだ手を下ろしてくぐっている子をつかまえる所は、「トーントン」なら調子いいけど、「通りゃんせ~」だと、何か間延びして抜けた感じでやりにくかったです。
記事では今の子は「通りゃんせ」の遊び方を知らないとありますが、子どもに聞くと彼女らも「通りゃんせ」はしたことがないが、同じ遊び方で「ロンドン橋」ならよくあるとのこと。
これは私たちもあります。 「通りゃんせ」より頻度は高かったんじゃないかな? 「ロンド橋」となまっていました。
最後の”My Fair Lady”という箇所、谷川俊太郎さんの訳では「きれいなきれいなお姫様」となってるけど、私たちのは単純に「落~ち~ます」で終わらせてた。 この方が遊びの歌としては収まりがいいです。
歌と遊び、時代の変化を感じますね。
書こうと思ってることはあるけど、そのうちと思っているうちにウヤムヤになってしまう。
家が片づかない理由と同じだな、こりゃ。
と、いうわけで、思い立ったその時に書くのがいいようで、今日はこれ、「通りゃんせ」。
新聞土曜版の記事の感想をそのまま書きます。
この歌詞の意味、分からないことが多いのですが、新聞で紹介しているのは埼玉県川越市の三芳野神社が発祥の地という説。
この神社は江戸時代、川越城内にあり、庶民は限られた日にしかお参りを許されず、帰りには持ち出し品がないか厳重に調べられたという。
そう言われれば、歌詞の内容とピッタリ合うように思えますが、はっきりとは言えない。 歌はもっと広い範囲に伝わってるし、そんなうるさい神社にわざわざお参りしなくても別の所に行けば?という疑問も感じます。
一時期、童謡・わらべ歌にうがった解釈をすることが流行って、この「通りゃんせ」にも、口減らしのために子どもを殺害するから「帰りは怖い」のだとする説を見たことがあります。
「それはあり得ない!」と思いました。
七つといえば、昔なら子守などの労働が出来る年頃。 そこまで苦労して育てといて、何でここに来て殺さなきゃならないんですか? 生活が苦しいなら働きに出せばいいはずです。 「おしん」でも分かるように、日本も数十年前までそんな社会だったんですよ。
そもそも、いっぱしの働きが出来るまでに育ったことを神様に感謝するのが、「七つのお祝い」でしょ。
先の「うがった解釈」というのは、ことさら暗く恐ろしげなことを言って、無邪気に童謡を歌っている人たちを驚かせ、怖がらせようという感じで、私は嫌な気がしていました。 社会の不安を反映しているのでしょうか?
土曜版の記事に戻ると、他にもいくつかの解釈を紹介しています。
「帰りはこわい」は「怖い」じゃなくて「疲れる」というのは賛成できる気がするけど、関西弁に似ているというのは、関西人として大いに疑問です。
関西人からすると、これはどうも関東の響きなんですけど。
関西全体のことは分からないけど、私が育った地域では「通りゃんせ」で遊ぶことは余りありません。 同じ遊びはあったのですが、歌が違います。
歳がばれそうで嫌だけど紹介しておきましょう。
「梅と桜と合わせてみれば
梅のながれが ピンコシャンのシャン
ちょっと米搗いて トーントン
うさぎが餅搗いて トーントン」
「通りゃんせ」を使うこともたまにありましたが、借り物みたいで、なんだかよそよそしかったです。 最後に親がつないだ手を下ろしてくぐっている子をつかまえる所は、「トーントン」なら調子いいけど、「通りゃんせ~」だと、何か間延びして抜けた感じでやりにくかったです。
記事では今の子は「通りゃんせ」の遊び方を知らないとありますが、子どもに聞くと彼女らも「通りゃんせ」はしたことがないが、同じ遊び方で「ロンドン橋」ならよくあるとのこと。
これは私たちもあります。 「通りゃんせ」より頻度は高かったんじゃないかな? 「ロンド橋」となまっていました。
最後の”My Fair Lady”という箇所、谷川俊太郎さんの訳では「きれいなきれいなお姫様」となってるけど、私たちのは単純に「落~ち~ます」で終わらせてた。 この方が遊びの歌としては収まりがいいです。
歌と遊び、時代の変化を感じますね。