赤旗記者 谺(こだま)さんへの取材に思う
ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会会長の谺(こだま)雄二さんが11日に亡くなりました。
ハンセン病患者にたいする日本政府による「強制隔離絶滅政策」の歴史は、世界的にも異様な国家的犯罪でしたが、同時に、人間の尊厳をかけた、たたかいの歴史でもありました。谺さんは、このたたかいの先頭に立ち続けた1人です。
記者が初めてさんに会ったのは、国を断罪した画期的な熊本地裁判決(2001年5月11日)が出た後でした。
ハンセン病問題の知識がまったくなかった記者は、臆面もなく群馬県草津町の国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」に谺さんを訪ねました。
判決直後で多忙を極めていたはずなのに、「だれでも初めは知らなくて当たり前。遠慮せず、何でも聞いてくれ」。初歩の初歩から聞く私に、ねばり強く答えてくれました。
何日も谺さんの部屋に入り浸りました。体力が尽きると、その日の取材は終了。ヘトヘトになって退室する私は、別の訪問者とすれ違いました。谺さんはごく自然に、数時間前に私に話した内容を一から、ていねいに語り始めたのです。あぜんとしました。後日、谺さんは「知らせることがたたかい」といいました。
私は何の準備もせずに訪ね、谺さんを必要以上に長時間“拘束”したことを恥じました。谺さんの温かい対応は変わることがありませんでした。熊本地裁判決の前も後も終生、この「たたかい」は続きました。
かつて、「オレ自身が党。党に入って、オレは思想的に社会復帰した」と語った谺さん。人生を丸ごと奪った連中が、もっとも忌み嫌う日本共産党員として、堂々と彼らの前に立ちはだかりました。「しんぶん赤旗」日曜版は創刊以来、ずっと配達を続けました。筋金入りです。同じ党の一員であることを誇りに思います。
谺さんは「隔離状態の生活が継続し、いまだに社会復帰できないでいるわたしたちの真の姿」と書き残しています。晩年は、療養所内納骨堂の傍らに亡くなった方々の名前を刻印すること、地域とともに生きる療養所の社会化を模索していました。谺さんのことばを聞きたい。「ここを永久に残せ…土地ごと残せ」