〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

坂本さんの感想

2019-04-08 16:33:03 | 日記
3月30日の山梨県立文学館の私の講演を聞いて下さった坂本まゆみさん(3月末まで県立高校で教師をされていました)から、メールで感想を頂きました。
私が錯綜しながら、辿り着いた地平に、既に坂本さんの生徒さんはとっくに辿り着いています。
坂本さんと生徒さんの感想に大変感銘を受けましたので、是非こちらで広く紹介したいと思います(ご本人には是非、ブログとの了解を得ています)。

田中実先生

『故郷』の「私」はルントウの内なる世界に気づきませんが、
だからこそというべきか、ルントウを支えていた「希望」をはぎ取ります。
そして、未熟な人間のまま、内側にある「鉄の部屋」の鍵を外から開ける、という先生の御論にどれほど驚かされたことか。

メロスも自分の未熟さに気づきません。
しかし、〈語り手〉は承知していながら、奇蹟の物語として、「命の行方」「命以上のもの」を語っていると、先生はおっしゃいました。

先生のご講義の中に、こういうところがありました。

「王は深い傷を負って、人間が何者であるかという、彼としてはリアリストになったつもりでいる。
そういう王とメロスの関係が、両者が元のメロスに戻るのではなくて、
王から見れば自分が今まで考えてきたことが全然通用しない世界になってきた。
セリヌンティウスもお詫びをし、メロスもお詫びをすることで、
そこをくぐって、両者が手を握り合うという姿は、
王からみると、自分の今までのものが超えられてしまっているから。
そう語っていて、最後は完結するというふうにお話は進んでいる。」と。

(生徒のレポートに、「王がいかに傷つき孤独であったか」を述べるものがありました。)

王=メロスの無意識は、奇蹟を起こすメロスによって超えられている、ということですね。

「3人の人物はひとりだった。
この小説の中にはそういう意味では他者との関係性が基本的に出てこない話になっている。
というところにこの小説が物語文学として完結することが十分可能になっている。」とも。

こう考えると、他者性を追究し、人間の内なる罪を追究するという近代小説として読むのではなく、奇蹟の物語としての行方を読むことでこの作品の価値は引き出される、
ということが説得力をもって迫ってきます。


生徒のレポート

「王の心は孤独であった。そんな心になってしまったのには何があったのだろうか。
王は「人間は私欲の塊」と言っている。ここから推測するに、王の地位に立ち、あるいは王になるまえから、家臣に、一族に、その身を利用されてきたのかもしれない。
私欲のために利用され、その中で幾度となく命の危険にあったのだろうか。
そして、一族や重臣を虐殺するような決定的な離反にでもあったのだろうか。
人質を差し出させてもなお人を信じることができない心を抱き、「疑うのが正当の心構え」と家臣や一族に教わったのだ。
しかし、メロスが約束通りに帰ってきたとき、王は初めて人に約束を守ってもらえたのかもしれない。
その感動が王の「孤独の心」を変えたのだ。
しかし、たった一回で心が変わるような感動を得るほど心が傷ついていたということだ。」



坂本さんからはさらに『走れメロス』の内容に踏み込んだ感想を頂いていますので、
それは次回の記事でご紹介します。
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