〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

張さん、続きです。

2018-09-24 07:44:36 | 日記
遅くなりましたが、9月5日にアップした記事の続きを申し上げます。

 前回のご質問は五点でした。前回は直接答えるかたちをとりませんでしたので、ここでは簡潔に五点要約してお応えします。
⑴、条理と不条理の相違、不条理はパラレルワールドになるのか、の問題、

 〈近代小説〉において、しばしば不条理はパラレルワールドの形を取ります。というより、条理のノーマルな世界が書かれていれば、物語の展開上、その条里の世界は後方に隠れる形になっていても、それ自体は続き、他方で、不条理の世界が書かれると、それが同時存在のパラレルワールドを起こすというわけです。

⑵、近代小説=「物語+語り手の自己表出」の定義での、語り手は生身の語り手かどうか。

 生身の語り手ではありません。物語の語り手のメタレベルにあるため、その際の生身の語り手に対して、〈機能としての語り手〉として働いています。

⑶、近代小説を読むには〈第三項〉論が必要か。

 近代小説は物語論(ナラトロジー)では捉えられないと考えています。二元論では読めない、〈第三項〉の多元論を必要とすると思っています。何故なら〈近代小説〉は知覚できる対象の科学、あるいはリアリズムの領域をも物語とし、これを超えようとしているからです。

⑷、〈近代小説〉はどうして他者論を必要とするか。
これは⑶でおこたえしている。

⑸、ガブリエルの言う「意味の場」とはいかなることか。

「意味の場」とはそれぞれが要求している情況のこと、存在しているかどうかとは、それぞれの状況が決定しているのであって、認識しているかどうかではありません。

 以上、何かお役に立つでしようか。

以下は単なる蛇足、私のモノローグです。

 先ず他者問題、

 他者は人によってその定義は異なります。
 仰る通り、生きていくにはどの時代にも相手との関係が問題になります。
 が、近代が特に他者をことさら問題にするのは近代が民主主義を社会基盤にするためです。
 近代社会では、構成員一人一人の内面に自己とか自我と呼ばれる内面性が要請されることになり、そのなると、自己に対応する他者が問題になります。他者との関係で、自己が自己として現れるからです。
 『心』で言えば、主人公の「先生」は「明治の精神」を「自由と独立と己れ」と呼びます。すると、これに対応して、他者が単に相手とか他人とか呼ぶレベルでなく切迫して要請されます。これを巡って悲劇が起こります。内面・心の問題です。

 新しい実在論 
 リアリズムで捉えられるものは世界ではないのではなく、リアリズムで捉えられるものもまたもちろん、世界の一部です。捉えられるものも捉えられないのも世界の一部です。しかし、常にそれは一部、その総体であるはず世界、全体は皆目捉えられないことと共に存在しない、捉えているものを超えているとマルクス・ガブリエルは言ってます。これに私も賛同します。世界という対象は常に主体の認識対象を超えて、対象化出来ない対象、その為認識の対象ではなく、存在の対象、世界はこの世には存在しない、存在するのはその〈影〉であると田中は考えます。今のところ。ガブリエルが指す世界とは客体そのもの=〈第三項〉のようです。
 

次に大森荘蔵の言う「世界観上の真偽の分類」の問題

 例えば、眼前に目に見えているものが「蛇」であったが、よくみると「縄」だったとして、我々の通常の認識では、「縄」が客観的真実ということになるが、大森はそうではなく、その人のその時には「蛇」も真実、真実は「百面相」だというものでした。我々は先験的(アプリオリ)に客体の対象と共に、あるいはその中にあります。
その中で、自身の主体のまなざしが客体の対象を意味づけています。特に冷戦構造の時代まで、世の中は客観的現実・客観的事実が如何なるものか、その科学的根拠を問題にしてきましたが、ポストモダンの時代になり、ポスト構造主義になると、その客観的事実・現実それ自体が実体として存在しないことに気づきましたが、日本ではそこがあいまい化され、似非相対主義が蔓延、実体主義が生き残って、異性を占めています。
 それは「生活上の分類」によって、人類発生以来の造り出された世界観は生き残ってしまいました。
 大森は斥け、客体の対象の世界は主体に応じて現れるというものでありますが、同時に「生活上の分類」もまた、捨ててはいません。我々の生の場はその「生活上の分類」にあることを熟知しています。ここから何が起こるか、八月号の拙稿はこのことを書きました。


 『舞姫』の場合、一人称の〈語り手〉である太田豊太郎の独白と手記に「世界観上の真偽分類」に当たるものが 何故ないかと言えば、「地下一階」の無意識の自己を相対化できていないからです。
手記書き手は既存の主体は瓦解し、身体の自身をメタレベルで、とらえることはできませんが、識閾下には及ばず、手記全体を相対化することが出来ない、これを構造化するのが〈機能としての語り手〉です。

 この〈機能としての語り手〉は「余」の封じた識閾下と識閾との相関を極めて精密に叙述しています。すなわち、生身の語り手の「余」のパースペクティブもエリスも天方のそれも見えています。
 八月号の拙稿の図Ⅱの「地下二階」の〈語り手〉の領域にいるからこそ、生身の語り手である「余」の全生の領域、地上から「地下一階」の全生の領域が如何なるものかを語りえているのです。

 
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2 コメント

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田中実先生に (望月理子)
2018-09-24 14:54:34
田中実先生
 お礼が遅くなって申し訳ありません。韮崎での講演会、本当にありがとうございました。
また、ブログの中でもお答えくださり、ありがとうございます。
部分、部分の解釈を作品全体との有機的な関連の中で考えていきたいと思います。私の昨年度の『故郷』の授業では、そこが足りなかったと思います。今回のご講義で「私」がどんなにルントウを思っているか、ルントウへの愛に生きてきた三十年であることが、最初から最後までずっと語られていることに深く思い至りました。「私」が何者であるかが語られているということだと思いました。それが「語り、語られる関係」を読むことだと考えました。さらに、〈語り手を超えるもの〉〈機能としての語り手〉を読者が想定することによって「私」とルントウとが根底で響き合っていることが見えることに、心撃たれました。
冒頭において、「私」は、眼前の景色を前に故郷についてあれこれ悩みます。なぜそのように「私」が登場するのか。「私の覚えている故郷は、まるでこんなふうではなかった」「やはりこんなふうだったかもしれない」「自分に言い聞かせた 」「自分の心境が変わっただけだ」という逡巡が何を意味するのかを考えることから「私」という人物が、故郷のことを考え続け、相対主義的な考えの中で社会革命に命を捧げ闘っていることが、「魂をすり減らす生活」と関わって伝わってきます。「私」がどんなに故郷を、故郷の人々を思って生きてきたかが最初から、激しく語られていることを受け止めたいと考えました。
そして、母のことばから電光のようにルントウが浮かび、繰り広げられるルントウとの出会いが思い出される「私」、そういう「私」とはどのような人物であるかを考えることが重要だと思います。その後ヤンと再会し、ルントウと再会し、離郷します。そうした構成そのものからも「私」という人間、その生き方が語られていると考えて、読み深めていきたいと思います。できごとを読むのではなく、どのように語られているかを部分、部分を読んでいきながら、作品全体を有機的に考えていくと、作品全体がルントウへの愛、故郷への愛に貫かれ、あふれていると思います。だからこそ、末尾に希望の論理が語られる。それが、「主体に応じて客体が表れる」と先生がご講義の中で繰り返しお話くださったこととも重なり、「私」が相対主義の極北を生きているという読みを生むのだと思います。
また、今回、「世界観上の真偽の分類」と「生活上の分類」についても少し理解が進んだと思います。私たちが日常の生活を一応送っていられるのは「生活上の分類」があるからだと思いますが、これだけでは、人間は生きていけないのだと思います。いくら考えても絶対に届くことはできない「世界観上の真偽の分類」〈第三項〉に向かって、苦悩することが生きるということだと思います。『故郷』において「鉄の部屋」についてもっと考えることが、私にとっては、次の授業に生かす道だと思いますので勉強します。ありがとうございました。
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望月さんへ ()
2018-09-24 18:35:21
望月さん、
 書いてくださったコメントの内容、ほぼ私は満足しています。お礼を申し上げたい思いです。
 それに今月29日、丸山義昭さんの主催する長岡での講演会に御参加とのこと、驚きました。韮崎からは遠いです。
 長岡では、学会・批評界の通説を真っ向うから斥けた、志賀直哉の『城の崎にて』の〈読み方〉に関して申し上げます。そこでは志賀の一見、話らしい話もない療養の話が、実は、これが文字通り何故〈近代小説〉の神髄を抉っているのか、その秘密は魯迅の傑作、『故郷』の基底とも通底しています。そこを聴き取って頂ければ、有難く思います。
 望月さんの今回のコメントは、閏土と「私」の三十年の関わりの深さ、両者の響き合いがあるがゆえに、「私」の魂がすり減るのであり、これがこの物語の柱の一つですが、何しろ、魯迅研究の専門家の専門家、第一人者の藤井省三さんは逆に「私」は閏土のことを忘れていた、だから十年の数字の間違いも起こったと読まれていますから、私見では物語の基本的な筋も読まれていない、これを読み取ってくださり、感謝の思いが起こります。
 望月さんがお読みの通り、閏土の登場の仕方が問題です。
 銀の首飾りをした小英雄、不思議な画面を背景にするのは、実は、その裏に現在の彼がデクノボーであることを隠していることを〈機能としての語り手〉が十全に承知しています。
 「私」にとっての閏土は当初小英雄像とデクノボーとの両義であることを抱えるがゆえに、末尾、閏土の姿が消え、人間性として未熟な「私」が稀有の認識者足りえた秘密が隠されています。生身の「私」には見えず、「私」のことを「私」と語るこの〈機能として語り手〉を読まなければ、小説のドラマは全く現れません。「私」のまなざしを読めば、これは単に矛盾した収拾のつかない、宇佐美寛さんに批判されても仕方のない作品なのです。
 「私」が抱える識閾下と共に生身の「私」を捉えるのです。「私」には見えない「私」の領域を読む必要があるのです。
 読み方は根本的に、原理上変わる必要があります。
 小説は出来事を読むだけでなく、どのように読むかがまさしく問われ、〈語り―語られる〉相関関係のその構造をとらえるに留まりません。それぞれの作中人物のまなざしを相対化する必要があります。そこには語ることの虚偽をいかに孕むかが隠されています。物語論(ナラトロジー)では小説は読めない、それが〈第三項〉に関わることです。しかし、その峻別は至難を極め、知的了解の群れの予備軍が我が物顔で〈第三項〉を語り出すでしょう。
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